上清派と存思法

<上清派>

上清派は、「上清経」を信奉する神仙道の一派です。

上清派は、東晋時代の4Cに、茅山に住む許謐、許翽の親子が、霊媒の楊羲を通して、諸真人との交流から得たお告げによって、神仙の修行を始めたことに始まります。
そのお告げを元にして作られたのが「上清経」です。

上清派は、神々を体内などに観想する「存思法」を重視します。
「上清経」には様々な存思法が説かれいますが、その後、存思法は「大洞真経」において大成されます。

例えば、「奔二景の道」という方法は、日の五帝君と月の五帝夫人が体内に入るのを瞑想した後、天上から車駕(天子が乗る車)と九龍、十龍が彼らを迎えに来て、体内の彼らと共に天に昇る、といった瞑想をするのが存思法です。

また、上清派は、仏教の影響か、経典の読誦を重視して、それも神仙術としました。

そして、上清派は、仏教やマニ教などの終末論の影響を受けました。
近い将来に終末が訪れるが、善人は神仙境で災害を逃れて生き残り、新しく出現する太平の世で救世主の金闕後聖帝君にまみえることができる、という終末論を展開しました。
この終末論は、葛氏道や五斗米道にも影響を与えて広がりました。


<存思法>

「存思」は、神々を観想する瞑想法で、上清派が重視します。
ですが、存思を行うのは上清派だけではなく、上清派の発明でもありません。

存思は、神々を主に体内に観想するので、それらの神々は「体内神」と呼ばれます。
体内神は気を神格化して捉えたもので、天から体内に招くと観想する場合と、最初から体内にいると観想する場合があります。

体内神を観想することで、病死の原因となる体内の穢れ=気のよどみをなくして延命したり、さらには、不老長寿や昇仙ができる体とすることができると考えられました。

存思法の中でも「守一」と呼ばれるものが、最高の方法とされます。
「守一」は、五斗米道の張陵「老子想爾注」にも、「太平経」にも「抱朴子」にも説かれています。
「一」は「道(太極)」を神格化した神です。

「抱朴子」では「一」の本当の名前や姿は口伝で伝えられる秘密で、体内では居場所を変えるとされます。
「洞真経」では、「存三一」とも呼ばれ、3人で一体の神を三つの丹田に観想します。

「黄庭内景経」では、あらゆる体内神を存思することが説かれます。
例えば、両目に日月、心臓もしくは胃に両者から生まれた「真人子丹」、五臓六腑の宮殿に童子(嬰児)の姿の神、などを観想します。

「太上老君中経(老子中経)」では、18000の体内神がいると説きます。
中でも主要な神は、眉間にいる「天皇大帝(もしくは目中童子)」、左目にいる「東王父(日精)」、右目にいる「西王母(月精)」、胃にいる「子丹」、三丹田にいる「三天王」、「五蔵神」、二十四節気に対応する「二十四真人」(身体の上・中・下のそれぞれの結節にいる「八景神」)などです。


<茅山派>

南北朝(梁)時代には、天師道の陸修静の孫弟子に当たる陶弘景(456-536)が、神仙信仰の体系化を行い、教義をまとめた「真誥」を編集しました。

彼は、鬼神は七層の存在とし、それぞれに主神を当てました。
上の相の主神から、「元始天尊」、「玉晨玄皇大道君」、「金闕帝君」、「太上老君」、「九宮尚書」、そして、地上の「中茅君」、地獄の「北陰大帝」です。

また彼は、「道」の神格化である一なる神を体内に観想する「守一」を重視しました。
神は、呪符で召喚します。

陶弘景は茅山を拠点にしたので、彼の流れは上清派の流れの中でも「茅山派」と呼ばれます。
茅山派は陶弘景以前から存在していましたが、彼が大成したと言われます。

上清派の存思法は難しく、信奉者は知識人に限られ、梁末には消滅してしまいます。
陶弘景以降、上清派は、天師道に吸収されていきました。
ですが、「上清経」と存思法は、天師道に受け継がれました。
posted by morfo1 at 13:03Comment(0)中国

全真道(北宗・南宗)

金時代には、天師道が呪符を重視する御用道教となり腐敗したのに対して、「全真道」、「太一道」、「真大道」という3つの新道教が生まれました。
「太一道」は神に祈願して病気治療を行うこと、「真大道」は足るを知る生き方が中心で、両教は教義が単純すぎるため、正式に道教と認められたのは、「全真道」だけです。

全真道は王重陽(1112-1170)により始められました。
彼には、「七真人」と呼ばれる七人の高弟たちがいましたが、弟子の丘処機(丘長春、1148-1227)が天師道の基本教義を受け入れて道教化しました。

全真道は、五代時代の伝説的な仙人の呂洞賓に対する信仰をベースにして生まれました。
呂洞賓と、鍾離権の2人を奉じる内丹修行者は、五代からあり、「鍾呂金丹派」と呼ばれます。
全真道はこの流れにあって、内丹を重視し、他の道術を軽視するのが特徴です。

全真道は、この内丹の瞑想=「内修」=「真功」と、布教である「外修」=「真行」の2つを実践の柱とします。

また、この時代の潮流に同じくして、道教・儒教・仏教の「三教一家(三教一致、三教融合)」を主張しました。

全真道は、チンギス・ハンから支援を得て、元朝は丘処機の流れである「龍門派」の全真道に、北方の道教界を管理させました。

この北方の全真道は、「北宗」と呼ばれます。
特に、最も勢いのあった丘処機の派は、「竜門派」と呼ばれます。

全真道は南方にも進出しましたが、張伯端によって始まった内丹を重視する「金丹派南宗」と合流し、「南宗」と呼ばれます。
「南宗」の内丹法は、白玉蟾によって大成されます。

「北宗」の特徴は、出家道士を中心にしたもので、民衆救済を重視することで、これに対して、一方の「南宗」の特徴は、在家や遊行者を中心にしています。

そのためか、「北宗」は内丹の実践に関して、精神のコントロールの修行(性功)から始め、それを重視する「先性後命」を主張したのに対して、「南宗」は、気のコントロールの修行(命功)から始め、それを重視する「先命後性」です。

また、「北宗」は、仏教の「仏性」に対応する「明心見性」、つまり先天的な意識を重視します。
一方、「南宗」では、陰陽双修派と呼ばれる、性を利用した養精術の房中術を行う派が多いことも特徴です。

元代には、李道純や陳致虚が、この南北の流れを統合しようとし、陳は「全真道南北宗」と名乗りました。

しかし、明時代以降、全真道は衰退しました。

posted by morfo1 at 13:02Comment(0)中国

陰陽五行説

陰陽五行説は、長い歴史の中で徐々に形成されたものです。
そして、道教や儒教などの宗教の世界観の基礎理論となりました。
また、十干・十二支などと結びついて暦や方位、そして、風水などの各種占術の基礎理論にもなりました。
オリエントのヘルメス学・星辰学と同様、古代の科学に相当するようなものでしょう。


<陰陽説>

「陰陽」は、古くはBC6Cの「春秋左伝」に見られますが、これは「天の六気」である、「陰」、「陽」、「風」、「雨」、「晦」、「明」の中の2つです。
「陰」と「陽」は「日陰」と「日向」を意味するのでしょうが、「気」なので、それを抽象化した概念です。
これは自然を構成する「天の六気」であって、万物の根本原理ではありません。

一方、占いの書、「周易」の爻である「- -」、「―」は、二元的な原理ですが、本来の意味は「柔」、「剛」です。
しかし、BC1C頃の「十翼」で、爻に「陰」、「陽」が結びつけられて、これらが根源的な二原理となりました。


<五行説>

「五行」は、古くは「書経」に見られますが、「水火木金土」の順番で記され、さらに、「穀」を加えて「六府」とも表現されます。
また、「春秋左伝」では、「六材」と表現されます。
どちらも、人間の生活に必要な材料という意味であって、自然を構成する五大元素ということではありません。

戦国時代のBC4C頃、陰陽家の鄒衍により、「五行」の「相克説」が生まれました。
これは、「木→土→水→火→金→」という順番で、前者が後者に勝つという関係です。
彼は、政治を季節に合わせるべきという時令思想を「五行」に結び付けて考え、王朝交代にも当てはめました。
政治と結びつけたため、「五徳」とも表現します。

鄒衍は、季節循環を下記のように五行に配当しました。
春=木 → 夏=火→ 秋:金 → 冬:水→
「土」は季節の変わり目の「土用」です。

秦王朝が「相克説」で自身の正当性をアピールしたため、「五行説」は広まり、万物の原理と考えられるようになっていきました。

季節に配当された「五行」は、方位にも配当されるようになります。
殷時代には中央を含めた五方の神を祀る「五方信仰」があり、これとも関係があるのでしょう。

他にも、「五行」が配当されたものには、「五臓」、「五色」、「五惑星」などがあります。

・木:春 :東 :青:脾
・火:夏 :南 :赤:肺
・土:土用:中央:黄:心
・金:秋 :西 :白:肝
・水:冬 :北 :黒:腎

万物の「五行」の配当は、呂不韋(BC290-BC235)の「呂氏春秋」の「十二紀」などにまとめられました。

BC1C頃、劉向・劉歆親子により「相生説」が生まれました。
これは、「木→火→土→金→水→」という順番で、前者から後者が生じるという循環の関係です。
彼らも、王朝交代の原理に当てはめて考えました。
しかし、すでに鄒衍には「相生説」に類する説があり、劉向・劉歆親子がそれを整理して声高に唱えました。


<陰陽五行説>

鄒衍は、「陰陽説」と「五行説」を下記のように結びつけました。
これは「主運説」と言います。

・木:陽
・火:陰
・土:-
・金:陽
・水:陰

時代は流れて、北宋の周敦頤(1017-1073)は「太極図説」で、続く南宋の朱熹(1130-1200)は「太極図解」で陰陽説と五行説を結び付けて、下記のような順番で宇宙創造論を展開しました。

 太極→陰陽→五行→太極→男女→万物


<十干・十二支>

上述の「呂氏春秋」では、殷時代にはすでに存在していた「干支」にも「五行」が配当されています。

「甲乙丙丁…」の「十干」は、一カ月を3分して10日ごとの「旬」に区切り、それを十本の指で数えるものとして生まれましした。

「十干」にも五行が、下記のように配当されました。
 甲・乙=木 → 丙・丁=火 → …

また、「五行」に配当される「十干」はそれぞれ2つになりますが、前者を陽=兄、後者を陰=弟という具合に、「陰陽」を配当しました。
そのため、「十干」を「兄弟(えと)」とも表現します。

また、「十干」の循環には、植物が芽吹いて成長し種になる生命循環の意味が付けられました。
そのため、植物との比喩で「十幹」とも表現されます。

一方、「子(し)・丑(ちゅう)・寅(いん)・卯(ぼう)…」の「十二支」は、殷時代までに、木星の見える方向で、公転周期が12年なので、それに合わせて天を12分したことに由来します。
その後、木星から北斗七星の方向に変わりました。

秦漢時代に、民衆に分かりやすいように、動物が配当され、「子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)…」となりました。

「十二支」にも、植物の生長循環の意味が付けられ、「十幹」に対して「十二枝」と表現されることもあります。

「十二支」にも「五行」と「陰陽」が配当されました。

「十干」と「十二支」は組み合わされて「60干支」となりました。

「十干」は10年周期、旬(10日)、「十二支」は12年周期、12カ月、一日の時刻、方向を示しますので、それに配当された陰陽五行との関係で、様々な占いが可能となりました。
これらは象徴体系なので、魔術にも使用されたはずです。

posted by morfo1 at 08:58Comment(0)中国