神智学協会アディヤール派と分派の歴史

ブラヴァツキー夫人と神智学協会の歴史」に続く後編、ブラヴァツキー夫人亡き後の神智学協会、及び、その分派の歴史です。


<アメリカのポイント・ローマ派>

ブラヴァツキー夫人とオルコットがニューヨークを離れた後、アメリカの神智学協会はジャッジが率いていました。
夫人亡き後、彼女の「エソテリック・セクション(ES)」の外部長でもあり、ブラヴァツキー夫人派だったジャッジは、ロンドンで夫人の後を継いだベザントと組んで、インド・アディヤールにいる会長のオルコットを追い落とそうとする内紛を起こしました。

ですが、ベザントがオルコット側に寝返った結果、1895年に、ジャッジは「米国神智学協会」を設立して分離しました。
また、ジャッジは、自身がクート・フーミ大師である宣言するようになります。
これによってヨーロッパ、アメリカの各支部は、両派に分裂しました。

1896年、ジャッジは亡くなり、彼の側近だったハーグローヴを経て、無名だったキャサリン・ティングリー(1847-1929)が、ジャッジ派の主導権を握りました。

キャサリンは、協会の名称を「普遍的同胞団と神智学協会」に改名します。
その後、1898年には、カルフォルニアが人類進化の新しい中心地になるという神智学の教説に基づき、カルフォルニアのポイント=ローマに本部を移転して、ここにユートピアの建設を始めました。

キャサリンは、ポイント=ローマに、世界各地の宗教建築様式で施設を建築し、儀式的な劇を上演しました。
また、子供たちのための学校の設立し、考古学の研究を行う遺跡研究室も設立しました。

ですが、キャサリンの権威主義的姿勢への反発もあり、ロバート・クロスビーの「神智学徒ロッジ連合」、J・D・バックの「人民寺院」、クレーサーの「ブラヴァツキー連盟」、そして、やや後の1907年にはマックス・ハインデルの「アメリカ薔薇十字会」などが、ポイント=ローマ派から分離独立しました。

egrabar.jpg
*ジャッジ、ティングレー、ハインデル


<アディヤール派>

インドのアディヤールの神智学協会の本部では、アニー・ベザントが主導権を握りました。
彼女は、チャールズ・W・リードビーター(1854-1934)を気に入り、二人はタッグを組むようになります。

re6165424.jpg
*ベザント・リードビーター

リードビーターは、元イギリス国教会の牧師であり、シネットの著作をきっかけに1883に協会に入会しました。
クートフーミ大師に弟子入りの手書きを書いたことをきっかけに、インドに渡ってブラヴァツキー夫人の秘書の仕事を行いました。
1995年には、ロンドンでアニー・ベザントの信頼を得て、ヨーロッパ支部の副幹事長、副書記になりました。
彼は、古代史や原子構造、協会員の過去生などを霊視によって解明して発表するなど、透視をもとにした教義の整備に取り組みました。

ですが、ベザント、リードビーターの二人が主導するアディヤール派は、協会メンバーに自身らの教義への信奉を義務付けるようになります。
そして、1897年には、ブラヴァツキー夫人の教義のネタ元だった学者のミードも脱退します(後に「クエスト協会」設立)。
こうして、神智学協会に存在した学究サロン的側面は、なくなっていきました。

ですが、1906年に、リードビーターは、協会の少年を指導する際に、マスターベーションを強要したという告発を受けて、一時脱退します。
翌1907年には、会長職にあったオルコットが死亡し、ベザントが会長を引き継ぎました。
そして、これを機に、リードビーターは協会に復帰しました。

リードビーターは、メーソン的な儀式や位階、式服に興味を持つ人物だったため、神智学協会においても、そういった側面が膨らんでいきました。

リードビーターに反発して、1909年にイギリス支部からは、シネットが脱退して「エレウシス協会」を設立しました。


<クリシュナムルティとメシアニズム>

ブラヴァツキー夫人は、1975年までは、大師は姿を表さないし、誰も遣わさないと表明していました。
ですが、リードビーターはこれを翻し、「世界教師(キリスト)」のマイトレーヤが、20C初めに姿を現すと信じ、その器の発見と教育を始めました。
メシアニズムの背景には秘教的キリスト教、アンナ・キングススフォードの影響を指摘する人もいます。

リードビーターは、最初、ヒューバート・フォン・フークを候補者としましたが、1909年、より優秀な候補として、ジッドゥー・クリシュナムルティ(1895?-1986)を見出しました。

krishnamurti-leadbeater-besant-4.jpg
*クリシュナムルティ、リードビーター、ベザント

もともと神智学協会の中では、メシアは北米の西洋人が想定されていたのですが、クリシュナムルティは、貧しいバラモンの少年でした。

1910年からは、リードビーターがクリシュナムルティをアストラル体でクート・フーミ大師の元に連れていき、イニシエーションを行うようになったとされます。
そして、ES(エソテリック・セクション)はクリシュナムルティの準備のための組織のようになり、また、細かい位階制度が作られました。
そして、1911年には、クリシュナムルティのための世界的組織として「東方の星教団」が設立されました。


<反発と分派>

ですが、これらの運動に対して、インドのヒンドゥー教徒やパルシー教徒からも反発がありましたし、世界中の神智学協会の中にも反発がありました。

1912年にはドイツの支部の事務総長だったルドルフ・シュタイナーが、これに反対して脱退しました。
1913年には彼の弟子達が「人智学協会」を設立し、1923年にはシュタイナーが代表となる新たな組織「普遍人智学協会」が設立されました。
ドイツの神智学協会の69の支部の内、55がシュタイナー派となりました。

シュタイナーはブラヴァツキー夫人の著書に感銘を受けた後、1902年にドイツ支部に入会しました。
彼は、ブラヴァツキー夫人は、彼女の書の内的価値で評価されるべきだと考えていました。
また、彼は自身の霊視能力も使いながら、「神智学」、「アカシャ年代記」、「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」などの書を出版して、神智学思想を独自に解釈、アレンジしていました。

ベザントは、シュタイナーに関して、「東方の道」を知らないけれど、彼の「西方の道(キリスト教・薔薇十字の道)」は多くの人に役立つ、と考えていました。
ですが、彼女はシュタイナーに、神智学の教義と齟齬をきたさないようにと注意をしていたようです。

200px-Steiner_mit_Annie_Besant.jpg
*シュタイナー、ベザント



クリシュナムルティはその後、教育のためにロンドンに留学し、ブルワー・リットンの孫娘のもとで生活することになりました。

また、ベザントは、もともと社会活動家であり、インドの社会活動、教育活動に熱中しており、1898年にはセントラル・ヒンドゥー・カレッジを創設していました。
第一次大戦後には、インドの霊的守護者アガスティヤに会い、「世界の王」からの指令を受けたとして、インド自治運動に参加し、穏健派と急進独立派の間を取り持ち、1918年には国民議会議長に選出されるまでになりました。

ベザントはガンジーと政敵の関係になりましたが、もともとガンジーは神智学協会のメンバーに「パヴァガット・ギータ」を教えられ、また、ブラヴァツキー夫人の著作を読んでヒンドゥー文化の素晴らしさに目覚めたようです。

リードビーターは少年への悪戯のうわさが絶えず、1916年頃、オーストラリアに移住しました。
彼はそこで、「薔薇十字社」、「フリーメーソン共同団」、「自由カトリック協会」などの団体を次々作っていたウェッジウッドと親交を持ちました。

ですが、リードビーターは影響力を持ち続け、「シークレッド・ドクトリン」の第3版では、彼らの教義に反する箇所を数千箇所編集し、協会の目的もリードビーターの教義を信奉するものに変更しました。
1925年から30年にかけて出版されたA・E・パウエルの「神智学大要」は、アディヤール派(新神智学)の思想を体系的に記述したものです。

しかし、リードビーター、ベザント路線に反発する協会員は多く、ブラヴァツキーに戻ることを主張する運動もありました。
ポイント・ローマ派のティングレーも、アディヤール派を攻撃しました。
そして、反対派は、アディヤール派を「新神智学」と呼ぶようになりました。


1917年、ブラヴァツキー夫人の著作に触れたアリス・ベイリー(1880-1949)が、神智学協会に入会し、翌年には「ES」に入会します。
彼女は、1919年に、ジュワル・クール大師から教えを受け始めたと公言し、機関紙に発表しましたが、圧力を受けて連載は中止になりました。
それでも彼女は、1922年に、シャンバラの同胞団の組織とイニシエーションを、カルデア・ミトラ教系神智学の7光線理論と関係付けながら体系的に説く「イニシエーション」を発表しました。
そして、翌1923年には神智学協会を離れて「アーケイン・スクール」を設立し、通信教育に努めました。
さらにベイリーは、1925年には「シークレット・ドクトリン」の続編として「宇宙の火」を発表、その後も、7光線理論を基にした著作を多数出版しました。

また、1920年、ロシア出身のニコライ、エレナのレーリヒ夫婦らがモリヤ大師に教えを受け始めたと公言し、NYに「アグニ・ヨガ協会」を設立しました。
翌年には、レーリヒ夫婦はアディヤール系神智学協会に入会、「モリヤの花」を出版します。
1923年には、シャンバラを捜索するため、中央アジアに出発しました。
二人は、ゴビ砂漠ではなくアルタイ山脈にシャンバラがあると主張しました。

8001.jpg
*アリス・ベイリー、レーリッヒ夫妻


<クリシュナムルティの覚醒と否定>

1922年、クリシュナムルティは、カルフォルニアで瞑想していた時、意識喪失と身体的な激痛、痙攣と神秘的体験を経て、マイトレーヤと会う体験をしました。
そして、彼は初めて神智学のメシアニズムを信じるようになりました。
この時の彼の体験は「覚醒」、それ以降も継続される類似した体験は「進行」と呼ばれます。

1925年、クリシュナムルティは公演中、マイトレーヤの霊が彼に憑依し、クリシュナムルティはマイトレーヤのことを、「彼」でなく、「私」と話しました。
ところが、この頃からクリシュナムルティは、神智学の教義に捉われずに、自身の考えで、内面の道を説き始めます。

同年、リードビーターは「大師とその道」を出版します。
これはシャンバラ同胞団の位階組織とイニシエーションを述べた書で、アリス・ベイリーの理論を取り入れながらも、ブラヴァツキー夫人を継承してイニシエーションをアビダルマ仏教の修行体系で基礎付けている点が特徴です。

1927年には、クリシュナムルティの神智学の教義からの離脱は明らかになっていきます。
クリシュナムルティはメシアを内面化し、キリストからブッダ的存在として捉え直したようです。
さらには、それを突き抜けて、彼が見る霊的存在を「親愛なる汝」と表現し、それを「空であり花であり、すべての人間」とも表現するようになります。

ベザントの信任は下降し、オーストラリアのウェッジウッドは、クリシュナムルティに邪悪な霊が憑依したと批判しました。
それでも、この頃、神智学協会の会員は増加して、45000人に到達していました。

1929年8月、とうとうクリシュナムルティは、教団の解散を宣言し、弟子も崇拝者も受け入れないと表明しました。
この時の彼の言葉は、次のような感動的なものでした。
「真理はそこに至る道なき土地である…いかなる宗教・宗派によってもそれには到達できない…信仰は純粋に個人的な問題であり、組織はそれに関与できない…私の惟一の関心は、人々を絶対的無条件的に自由にすることである」

クリシュナムルティによると、この宣言の前にベザントに相談した時、彼女は、「私にとってあなたは世界教師です。例え、あなたがどんな決心をしようとも。私にはあなたの決心が理解できませんが、尊重しなければならなくなるでしょう」と答えたそうです。


ベザントはその後もクリシュナムルティを支えましたが、1933年亡くなりました。
その翌年にはリードビーターが、翌々年にはティングリーも亡くなりました。
こうして、神智学協会の運動を築いた大物は、次々と亡くなり、一つの時代の終焉を感じさせました。

一方、第二次大戦後、ベイリーは、キリストが自分自身で肉体で再臨することを終戦の年の1945年に決定したと表明しました。
ベイリーは、「天秤座の時代」、「ニューエイジ」という言葉を使って新しい時代が始まっているとも主張し、これは70年代西海岸のニューエイジ運動にも影響を与えました。

ベイリーは1949年に亡くなりましたが、彼女のメシアニズムは、ベンジャミン・クレームに受け継がれました。
しかし、彼も2016年に亡くなり、神智学のメシアニズムは、とうとう一つの終焉を迎えたのかもしれません。


ブラヴァツキー夫人と神智学協会の歴史

1848年にニューヨークのフォックス姉妹が死者の霊と交流できると主張したハイズヴィル事件をきっかけとして、19C後半の欧米を「スピリチュアリズム(心霊主義)」が席巻しました。
これは、霊媒による降霊術によって、死後の世界や霊魂について研究しようという運動です。

「スピリチュアリズム」の降霊は普通の死者の霊魂を対象としたもので、直接的には宗教性は希薄で、神秘主義的傾向もありませんでした。
ですが、一部では、「スピリチュアリズム」の出身者が、神秘主義思想に傾倒していくという傾向がありました。
ブラヴァツキー夫人の神智学協会も、その一つです。

神智学協会の思想は、当時の欧米人が知りえた秘教のすべてを総合しようとしたもので、近代における神智学の一大総合でした。
そして、多数の分派(シュタイナーの人智学、アリス・ベイリーなど)を生み出し、それ以降の神秘主義思想や、ポップオカルトにも絶大な影響を与えました。

また、宗教関係者以外でも、例えば、ダーウィンと並ぶ進化論の提唱者アルフレッド・ウォレス、発明家のエジソン、野球の発案者のアブナー・ダブルディー、画家のカンディンスキー、チリのノーベル文学賞受賞詩人のガブリエラ・ミストラルらも協会員として知られています。
日本では、鈴木大拙とその妻のビアトリスは協会員で、京都の自宅をロッジにしていました。
ビアトリスと、バハーイ教徒(ミトラ教の流れにあるシーア派系宗教)だった彼女の母は、神智学の日本への導入に大きな役割を果たしました。

「神智学」という言葉は、一般名詞では、神的なものを対象とする学を意味します。
固有名詞としての「(近・現代)神智学」は、広義では、ブラヴァツキー夫人の神智学協会とその分派、及び、影響を受けて同調した潮流の思想を指します。
シャンバラのマスター達から伝えられた思想という意味で、「トランスヒマヤラ・エソテリシズム」と呼ばれることもあります。

より狭義には、神智学協会の思想を指します。
最も狭義には、ブラヴァツキー夫人のいた時の神智学協会とそれを厳格に継承する思想を指し、アニー・ベザントとリードビーターのアディヤール派の思想は「新神智学」と呼んで区別することもあります。

この項では、まず、神智学協会と関連潮流の歴史について、ブラヴァツキー夫人が亡くなるまでを概説します。


<神智学協会の設立>

神智学協会の設立者の一人、ブラヴァツキー夫人(1831-1891)は、ヘレナ・ペトロヴナ・フォン・ハーンとして、ウクライナの名家-父はドイツ系貴族、母はロシア系貴族-に生まれました。

彼女は、官吏のブラヴァツキー将軍と結婚しましたが、すぐに家を出ました。
その後、ヨーロッパや世界各地を転々としたようですが、その足取りははっきりしません。
伝記が出版されていますが、その記述は信頼できません。

他人の証言がある経歴を書けば、有名な霊媒のD・D・ヒュームの助手をしたようです。
また、1850年にはカイロで心霊協会を設立しましたが、雇っていた霊媒のトリックがばれて潰れたようです。

自伝によれば、1851年にロンドンでモリヤ大師(チベットに住むというマスター)に出会い、神智学協会の設立の命を受けたとされますが、これは信じられません。
また、1856年から7年間、霊体でチベットに滞在しイニシエーションを受けたとされますが、これもほとんどありえない話です。

神智学協会設立のもう一人の主役、H・S・オルコット大佐(1832-1907)は、法律家で、ジャーナリストとして霊媒の取材をしている時、ブラヴァツキー夫人と出会いました。
そして、オルコットは、霊媒としてのブラヴァツキー夫人と一緒に活動を始めました。

gne22bae.jpg.jpg
*ブラヴァツキー夫人、オルコット

ブラヴァツキー夫人は、最初、霊媒がトリックを行っているという批判に対する反駁記事を書いていましたし、彼女が「スピリチュアリズム」のシーンから出てきたことは間違いありません。
ですが、やがて転向し、「スピリチュアリズム」の批判側に回りました。
その批判の仕方は、降霊で降りる霊魂は本当の霊魂ではなく、アストラル体の屍にすぎない、というエリファス・レヴィと同じ神智学的な論理によってです。

1875年3月、エジプトの「ルクソール同胞会」という結社のマスターから、オルコット宛に手紙が届きました。
その内容は、入団を許可することと、ブラヴァツキー夫人を援助せよ、ということでした。
この手紙は、ブラヴァツキー夫人がテレパシー的に受信したものとされますが、彼女が架空のマスターからの手書を創作した最初(?)の事件です。

架空の不可視のマスターは、西洋神秘主義の歴史では、薔薇十字団由来のアイディアですが、ブラヴァツキー夫人にはブルワー・リットンの小説の影響も指摘されています。

7月にブラヴァツキー夫人は、雑誌「心霊科学者」に寄稿しますが、これはカバラと薔薇十字主義を扱った内容で、彼女の神秘主義への転向は明確になります。

9月、夫人とオルコットの二人は、エジプト秘儀やカバラの研究家G・H・フェルトを招いて、「エジプト人が用いた比率に関する失われた正典」のテーマで講演を行いました。
その時、観客からその法則を用いて4大の霊を呼び出せることができるのかという質問があり、フェルトができると答えました。
オルコットは、その場でそれを研究する団体を設立しようと提案しました。
魔術的な降霊を調査することが目的の会だったわけです。
ですが、フェルトは、もらった準備金を持ってロンドンに逃亡してしまいます。

しかし、二人は会の設立をやめませんでした。
会の目的を、「宇宙を統治する法則についての知識を収取して広める」に変更して、「神智学協会」と命名しました。
場所はニューヨーク、会長はオルコット、通信書記がブラヴァツキー夫人です。

創設時の主要メンバーには、薔薇十字主義などオカルティズムに詳しく、英国薔薇十字会のメンバーで、高位メーソンでもある社会主義者のチャールズ・サザラン、弁護士のW・Q・ジャッジ、医療家で、新プラトン主義の研究家で、オカルティズムの文献復刻の編集を行っていたアレクサンダー・ワイルダー、オカルティズムに傾倒する霊媒のエマ・ハーディング=ブリテンらがいます。

サザランは、「神智学協会」の命名発案者であり、ブラヴァツキー夫人に様々なオカルト文献を教えた人物だと推測されます。
また、エマが霊的存在の代筆だと主張して1876年に出版した「魔法術」は、その後ブラヴァツキー夫人が出版した「アイシス・アンヴェイルド」と、アイディアや出典が重なる部分があります。

ですが、「スピリチュアリズム」の影響は、協会の内外で強く、ブラヴァツキーが「スピリチュアリズム」の批判をしたため、1876年の末には、協会の活動はほとんど停止してしまいました。

そのため、オルコットは協会の改革のため、フリーメーソン的な位階システムの導入を検討するようになりました。
ブラヴァツキー夫人も、高位メーソンであるサザランの仲介で、メーソンのインド系サット・ブハイ儀礼、エジプト系メンフィス・ミズライム儀礼の位階を取得しました。

1877年、ブラヴァツキー夫人は、最初の大著、「アイシス・アンヴェイルド(ヴェールを脱いだイシス、顕現せるイシス)」を出版します。
この書は2巻本です。
第1巻の「科学」篇は、近代科学批判と魔術を、第2巻の「神学」篇は、キリスト教以前の古代宗教をテーマにしたものです。

その内容は、雑多な事項を扱い、難解な表現で、脈絡を理解することも困難です。
ですが、エリファス・レヴィの「秘められた伝統」を継承していて、諸宗教、諸秘教文書の基盤には、太古の一つの智慧(秘密教義)があり、それはインドに発している、という後の主著「シークレット・ドクトリン」に継承される主張があります。
彼女の言う「インド」は古代のインドであり、ペルシャ、イラン、チベット、モンゴル、タタールを含む地域です。

この書は一部で評判になりましたが、協会の会員の増加にはつながりませんでした。


<インドのボンベイからアディヤールへ>

1877年、オルコットはインドの団体、「アーリア・サマージ」を知り、その代表のスワミ・ダヤーナンダ・サラスバティに手紙を出して提携関係を結びました。
そして、協会の名称も「アーリア・サマージの神智学協会」としました。

サラスワディは、「原初の永遠の宗教」を信じていて、神智学協会と方向性が一致すると考えたためです。
当時のヨーロッパの神秘主義思想家の間には、アーリア人の原初の宗教を人間の文化の根源と考える潮流(アーリアン学説)があり、ブラヴァツキー夫人とオルコットの二人も、インドに興味を持っていました。

1878年に、二人はロンドンに渡って支部を結成した後、1879年に、インドのボンベイに渡りました。
そして、9月には、機関誌「神智学の徒」を刊行します。

しかし、アーリア・サマージに神秘主義的志向が希薄であると判断し、関係を断つことにしました。
ですが、二人は、サラスバティからヨガを教わり、また、古代バラモンの書がヒマラヤの地下の洞窟に保管されていると聞かされたようです。

そして、1880年、2人はセイロンで仏教徒に改宗し、セイロンに7つの協会支部を設立します。
2人は、仏教がインドの太古の秘密教義を継承した智恵の宗教だと考えていたようです。

当時のセイロンの国教はキリスト教であり、その後、二人は仏教復興運動を展開し、多数の学校の運営なども行うようになりました。
特にオルコットは、その後もセイロンや仏教に関する運動を熱心に続けました。
オルコットは、1889年と91年に来日しましたが、それは大乗仏教と小乗仏教を統合しようという目的を持っての来日でした。


ブラヴァツキー夫人の周辺には、様々な奇跡(突然ベルの音が鳴る、薔薇の花が舞い落ちるなどなど…)が起こり、チベットのモリヤ大師からオルコットに指令の手紙が届くようになりました。
「大師(マスター、マハトマ、アデプトなどと称される)」とは、ゴビ砂漠の地下にあるシャンバラに本部を置く、神聖な同胞団のメンバーであり、彼らが太古から人類の霊的進化を助けてきたとされます。

また、協会にはインド英字紙の編集人であり、大物であるA・P・シネットが参加しました。

sinnet.jpg
*シネット

シネットはブラヴァツキー夫人にマスターへの手紙を依頼し、クート・フーミ大師からの返事とされる手紙をもらいました。
彼は哲学的なことに興味があったため、彼の質問はブラヴァツキー夫人に神智学の教義を書かせることにつながったのでしょう。

シネットはマスターからの手紙をもとにして、1881年に「オカルト・ワールド」、1883年に「エソテリック・ブッディズム」を出版し、神智学協会の思想を発表しました。
「エソテリック・ブッディズム」には、後に「シークレット・ドクトリン」で説かれるような、宇宙・人類発生論も説かれています。
ブラヴァツキー夫人は、この書の「ブッディズム」という言葉の意味を、「仏教」ではなくて、「智恵(ボディ)の教え」だと書いています。

ブラヴァツキー夫人と神智学協会は、バラモン哲学、ヒンドゥー教、仏教の思想、用語を大きく取り入れていきました。
以前の彼女らの思想は、西洋神秘主義の潮流の流行を追ったものでしたが、これ以降、その潮流の先端に躍り出て、新しい潮流を生み出すものへと進化していきました。

その一方で、協会が1878年から82年までボンベイにあった期間には、協会には多数のパルシー教徒(インド・ゾロアスター教徒)が入会しました。
彼らの中には、秘教派(ズルワン・ミトラ系のヤズダン教や孔雀派の影響を受けた者)がいて、彼らを通して、イラン・カルデア系の秘教の教えが、ブラヴァツキー夫人や神智学協会にもたらされました。
実は、夫人と協会の思想の核心には、インド思想同様に、イラン・カルデア系の思想があると言っても過言ではありません。

しかし、1882年、神智学協会は、マドラス近郊のアディヤールに本部を移します。
この移転によって、パルシーとの人的関係は薄れました。

夫人と協会は、イラン・カルデアの秘教の影響を大きく受けていながら、それを表に出しませんでした。
それは、二人が、インドをアーリア人の故郷であると考えていたことと、ボンベイのパルシー教徒との関係が薄れたことが原因でしょう。


1884年、ブラヴァツキー夫人に近い協会内部のメンバーが、夫人がトリックを使っていると告発しました。
1885年には、英国心霊研究協会がこれを調査して夫人の詐欺を認定し、神智学協会とブラヴァツキー夫人の信頼は大きく傷つきました。

オルコットは夫人に大師やトリックを使うことをやめるように諭して、二人は不仲になります。
夫人は役職を辞さざるをえなくなり、インドを離れて、ドイツ、ベルギーを経てロンドンへ移住することになりました。


<ロンドンへ>

1884年、ブラヴァツキー夫人がロンドンに移住してきた時、イギリス支部長は、神秘主義的なキリスト教界でカリスマ的存在だったアンナ・キングスフォード(1846-1888)でした。
彼女は、動物実験反対運動家、そして、幻視家としても有名でした。
ですが、キリスト教徒である彼女は、ブラヴァツキー夫人と対立し、翌年に脱退し、ゴールデンドーン設立者のマグレガー・メイザースらの協力のもと、「ヘルメス協会」を設立しました。

神智学協会とその周辺の運動は、ブラヴァツキー夫人やアンナ・キングスフォードをはじめ個性が強い大物の女性の神秘家が多数登場して牽引したところに特徴があります。
オルコットの後のインドの神智学協会を継いだアニー・ベザント、アメリカの神智学協会を独自な方向に主導したキャサリン・ティングリー、そして、神智学の後継的な教義を作ったアリス・ベイリー、シャンバラの捜索旅行をしたエレナ・レーリヒらです。

reana16565.jpg
*A・キングスフォード、A・ベザント、C・ティングリー、A・ベイリー

ロンドンに移住したブラヴァツキー夫人は、1885年、機関誌「ルシファー」を発刊し、その場を使いながら教義の発展を企てます。
また、1887年には彼女のロッジを開設し、その中に「エソテリック・セクション(ES)」を設置しました。

ブラヴァツキー夫人は、ESの会員に向けた文書で、「秘教部門の段階は見習いの段階であって、その一般的目的は実践的オカルティズム、すなわちラージャ・ヨガを学ぶために、学徒に準備させ、能力をつけることである」と書き、「パヴァガット・ギータ」や「ヨガ・スートラ」を推薦図書としています。
神智学の瞑想の理論は、「ヨガ・スートラ」によっていたようです。

また、スキャンダルを通して混乱してしまった協会に対して、「秘教部門は、全協会の救済のために取って置かれたもの」と書いています。
そして、メンバーは「人格を全く放棄」して、「同胞愛的結合を増進することにより、神智学協会全体の未来の成長を正しい方向に向けるように助けることが、この部門の目的である」と書いています。

ロンドンのブラヴァツキー夫人のロッジに参加した重要人物には、グノーシス主義やミトラス教などの古代宗教の研究家のジョージ・ロバート・ストーウ・ミード(1863-1933)がいます。
彼は、神智学協会のヨーロッパ支部の総長、そして、ESの共同秘書になり、機関誌「ルシファー」でも多数の論文、翻訳(「ヨハネの秘密の書」、「ヘルメス文書」、「スピティス・ソフィア」など)を執筆しました。
彼は、ブラヴァツキー夫人の教義上のアドバイザーだったと思われ、「シークレット・ドクトリン」の影の著者と言われることもあります。

George_Robert_Stow_Mead.002.jpg
*ミード

1888年、ブラヴァツキー夫人は、主著にして近代オカルティズム最大の聖典「シークレット・ドクトリン」を出版します。
彼女によれば、これは聖職者用の秘密の言葉「センザル語」で書かれた最古の聖典「ヅヤーンの書」の抜粋した翻訳、解説、注釈という形式の書です。
「ヅヤーン」という言葉は、サンスクリットの「ジュニャーナ」に当たる言葉で、「智恵」を意味するのだそうです。

この書の内容は、隠された原初の智慧の教え、つまり「秘密教義」の抜粋だとされ、この書によって、ブラヴァツキー夫人と神智学協会の思想が確立されました。
と同時に、原初の言葉と原初の教え、そして、それを伝える経典とマスターという、疑惑の4点セットが揃うことになりました。

「アイシス・アンヴェイルド」は、「秘密教義」から枝分かれして伝えられた各地の思想を扱ったのに対して、「シークレット・ドクトリン」は、大本の「秘密教義」そのものを扱っているのです。

「シークレット・ドクトリン」は2巻の構成で、第1巻は「宇宙発生論」、第2巻は「人類発生論」を扱っています。

さらに、第3巻、第4巻がほとんどできていて、第3巻はアデプト達の伝記に示されているオカルティズムの歴史を扱い、第4巻はありのままの生活及び理想的生活をしていく上へのオカルト哲学の影響を扱うと、予告されました。
しかし、これらは出版されることなく終わり、原稿も発見されていません。
後に第3巻がアニー・ベザントの編集で出版されましたが、これはブラヴァツキー夫人が告知していた内容とは異なる、彼女の遺稿集です。

「シークレット・ドクトリン」の実際の内容は、バラモンのヴェーダーンタ哲学、ヒンドゥー教のプラーナ文献、イラン・カルデア系のズルワン・ミトラ教神智学、カバラ、新プラトン主義、さらには、アーリアン学説やファーブル・ドリヴェらの空想的人類史などを総合し、周期的・流出的・階層的宇宙論と、進化論、転生とカルマの法則などを結び付けたものです。
そして、下降(創造)と上昇(進化)を、宇宙全体から惑星、大陸、人種にまで適用して語りました。

また、同年に出版された「神智学の鍵」では、神智学協会と教義に関してQ&A方式で説明しました。
この書では、協会の基本目的を下記の3点としています。
1 …人類の普遍的同胞団の核を作ること
2 アーリア人及び他の聖典の研究、世界の宗教及び科学の研究を増進すること…
3 …人間に潜在する精神的及び霊的な能力を研究すること

神智学協会には、固有の教義や信仰はなく、会員にそれを問わないとしていて、また、「真理に勝る宗教はない」という言葉を掲げます。
つまり、神智学協会が求める「真理」は、教義や信仰ではないということなのです。

また、ブラヴァツキー夫人は、ダーウィン派の人たちの同胞愛のなさは、唯物論的な体系の欠陥を示していると主張しています。
この書にも、アーリアン学説の影響がありますが、彼女自身が多分、スラブ系の文化の中で育ったこともあってか、彼女の後継者に比べると、人種差別的要素は多くはありません。


同年には、著名なオカルト系作家のW・B・イエイツが「ES」に加入しました。
ですが、90年、なんらかの事情でブラヴァツキー夫人が彼を追い出しました。
イエイツはその後、ゴールデンドーンに参加します。

また、1889年には、フェビアン協会員の著名な社会活動家で無神論者のアニー・ベザント(1847-1933)が、「シークレット・ドクトリン」の書評を書くためにブラヴァツキー夫人に取材をしたことをきっかけとして神智学協会に加わりました。
彼女は、すぐに「ルシファー」副編集長、ブラヴァツキー・ロッジの支部長になり、ブラヴァツキー夫人が亡くなった後には、「ES」の責任者にもなりました。

ですが、1891年、ブラヴァツキー夫人は亡くなります。


*以下、後編「神智学協会アディヤール派と分派の歴史」に続きます。


エリファス・レヴィとオカルティズム復興

19C中頃のエリファス・レヴィに始まり、その影響を受けた世紀末のパピュス、ガイタ、ペラダンらの活動は、19Cフランスのオカルティズム復興運動と呼ばれます。
この潮流は、神秘主義思想の歴史において、イリュミニズムやロマン主義と、神智学やゴールデン・ドーンの間をつなぐものです。

レヴィの時代は、一般人にも読書をする人が増え始めた時代であり、この潮流によって、かなり一般的なレベルで神秘主義思想や魔術が知られるようになりました。
神秘主義のポップ化の最初の段階と言えるかもしれません。

「オカルティズム」という言葉が使われるようになったのも、レヴィの影響です。

ですが、レヴィは形而上学的・教義的な興味を持っておらず、それらは、ブラヴァツキー夫人の近代神智学や、シュタイナーの人智学を待つ必要があります。
また、レヴィの潮流は「魔術」を中心とするものですが、彼が持っていたのは、あくまでも知的興味であり、魔術の本格的な実践は、ゴールデン・ドーンを待つ必要があります。

Eliphas_Levi.jpg


<レヴィの生涯>

エリファス・レヴィことアルフォンス=ルイ・コンスタン(1810-1875)は、神学校で神学を修め、1835年に助祭になりました。

しかし、その後、社会主義運動に傾倒し、1841年と1846年に出版した書籍によって2度投獄されます。
また、1844年、聖母マリアを通した女性の復権、女性が主導する社会主義的ユートピアを主張した「神の母」を出版し、教会と決別します。

一方、「魔術師」を発表した幼馴染の文学者アルフォンス・エスキロスとの再会や、服役中にスウェデンボルグ、アグリッパ、ルルスなどの神秘主義文献を読んだことを通して、神秘主義思想に傾倒しました。
1852年には、カバラに精通し、メシアニズムに傾倒するヘネ・ヴロンスキーと出会い、この頃からオカルティズムの研究に没頭するようになりました。
また、1854年、オカルト系小説でも有名なブルワー・リットンの招きでイギリスに旅行し、様々な神秘主義者と交流を持ちました。

1855-6年に、レヴィの最初の神秘主義の書であり、主著である「高等魔術の教理と祭儀」を出版します。
この書の出版に当たって、アルフォンス=ルイをユダヤ語風の発音にしてエリファス・レヴィを名乗りました。

その後、1860年の「魔術の歴史」、1861年の「大いなる神秘の鍵」など、魔術に関する書を多数出版します。
これらの著作によって、18Cフランス、及び、その後のヨーロッパの神秘主義思想に、大きな影響を与えました。

レヴィには弟子的存在はいましたが、彼は組織や党派を作りませんでした。
また、彼は、儀式魔術をほとんど行わず、むしろ、危険であるとして弟子にも勧めませんでした。
彼は、実践家というより理論家であり、思想家というより啓蒙家でした。


<レヴィの魔術観>

ルネサンスの神秘思想と同様に、レヴィも、「原初の伝統」、「一つの教義」があると考えました。
異なる点は、易経などの東洋思想が少し付け加えられていることで、この点は彼の時代としては普通のことです。

レヴィは、「原初の伝統」は、主に「ヘルメス文書」やグノーシス主義文献の「エノクの創世記」に記されていて、その核心はカバラであると考えました。
もちろん、学問的な文献考証・時代考証はなされていません。

レヴィのカバラは、フランスのカバリストのギヨーム・ポステルなどの影響を受けた、キリスト教カバラです。
彼は、ポステルの影響を受けつつ、タロットがカバラ思想を表現するものとして重視しました。

レヴィは、「原初の伝統」は、キリスト教が弾圧したことによって、「秘められた伝統」、つまり、「オカルティズム(隠秘学、隠秘哲学)」になったと考えました。

レヴィにとって「オカルティズム」とは、何よりも「魔術」です。
彼の魔術観は、アグリッパや薔薇十字主義に代表されるルネサンス的な魔術観(魔術=哲学=自然科学)を基本としていて、特別な魔術観を創造したわけではありません。

レヴィは、魔術の象徴体系が、類比・照応で示される真理だと言います。
魔術は、自然全体を精神の下に従属させるものであり、「意志」と「想像力」が重要なのです。

彼は、ルネサンスの魔術師と同様、「魔術」と「妖術」を区別します。
ですが、ピコやアグリッパが強調した、神的な「カバラ魔術(天使魔術)」と「天界魔術」と「自然魔術」の区別をほとんど語りません。
「高等魔術」という言葉は、レヴィ以降に広く使われるようになったのだと思いますが、彼は、神的な領域に関わる純粋な「カバラ魔術(天使魔術)」の実践についてはほとんど語りません。

それに、レヴィは、魔術の実践をほとんど行わなかったようです。
彼は、実践と意志について語りながらも、我々の実践は学問探求であって、儀式を再興しようという意図は持っていないと言いました。

彼は、降霊術としての魔術を数度行い、死者の霊魂の姿を目にしましたが、それが本当の死者の霊魂であるとは信じませんでした。
そして、「魔術の実践は危険で被害がつきまとうと信じている。このような作業が常習的になった場合には、精神的にも、肉体的にも健康が持ちこたえられないだろう。」と語り、その実践を否定しています。


<レヴィのアストラル・ライト>

レヴィは、「アストラル・ライト」という概念を重視して多用して、魔術的な世界観を説明しました。

レヴィにとって「アストラル・ライト」は、第一に、魔術が機能する媒体です。
「アストラル・ライト」は、ルネサンス魔術の「霊気(スピリトゥス)」に相当する概念でしょう。
彼はこの言葉を、「世界霊魂」、「第一物質」、「磁気」などの言葉でも言い換えます。

「磁気」とも表現しているのは、当時流行っていたメスメルの「動物磁気」を「アストラル・ライト」に相当するものと考えたということです。
逆に言えば、「アストラル・ライト」の理論には、メスメルの影響があるのでしょう。
ですが、レヴィは、「動物磁気」による治療は、魔術師の治療魔術の稚拙な形であるとしました。

「アストラル・ライト」は流体的な質料的存在で、言葉(ロゴス)によって「形態」を持ちます。
レヴィは、「形態」を、「映像」、「反射」とも言い換えます。
ルネサンス魔術では、ストア派由来の「種子的理性」、カルデア由来の「イウンクス」などの概念を使いました。
近代神智学では、「想念形態(ソート・フォーム)」と呼ばれるようになるものです。

レヴィは、さらに、次のように、「アストラル・ライト」と「形態」について説明します。

「形態」は、人間の「想像力」によって変形、創造され、それが直接、他の人間の精神に「反射」して影響を与えます。
人間の霊魂は、肉体が呼吸するように、観念を呼吸します。
そして、人間の思考は、「アストラル・ライト」に「形態」としてすべて保存されます。
人間は、自分の回りを自分の思考の「反射」に取り囲まれて、それに影響を受けるのです。

「アストラル・ライト」は、脳、心臓、性器といった部位を通して、放射と吸収されます。
あるいは、別の場所では、手と目を通して行われると言っています。

大きな次元で言えば、アダムの堕落は「アストラル・ライト」に刻まれ、イエスの贖罪によって消されたのだと言います。

レヴィは、人間は「アストラル・ライト」を見る能力を生まれながらに持っているけれど、感覚を取り除くことによってしか作動しないと言います。

魔術によって作られた「形態」は、魔術的生命を持ちます。
レヴィは、悪魔を人格的存在と見るのはマニ教の名残であって、本当は、悪魔とは道から外れた力であり、「アストラル・ライト」の中の無秩序で醜悪な「形態」だと言います。

また、レヴィは、魔術の力を働かせるためには、魔術的な「鎖」が必要だと言います。
「鎖」には3種類あって、それは「言葉」と「記号」、「接触」です。

更に、レヴィは、「アストラル・ライト」が人間の霊魂の覆いとなると言い、それを「人間的光」、「霊体(アストラル体)」と表現しました。
新プラトン主義で「輝く霊体」と表現されたものでしょう。

そして、レヴィは、降霊術で呼び出されるのは、天に戻った人間の霊魂ではなく、「アストラル・ライト」に転写された、屍としての「霊体」、でしかないと主張しました。

ちなみに、この考え方は、ブラヴァツキー夫人が心霊主義を批判する時に使いました。
レヴィは、スウェデンボルグの霊視に対しても、「アストラル・ライト」の光線と反映を区別しなかったと批判しています。

レヴィの「アストラル・ライト」の理論は、彼の独創ではありませんが、彼を通して、神智学や人智学、ゴールデン・ドーンなどの魔術理論にも影響を与えました。

彼は「霊体」を「エーテル状」と表現していて、「エーテル体」と「アストラル体」と区別していません。
伝統的には、天体層の素材が「エーテル(アイテール)」ですから、それを踏襲しています。

しかし、近代神智学以降、両者は区別され、「エーテル」はあくまでも「物質」の微細なレベルとされ、「動物磁気」も「エーテル」次元のものとされます。

近代神智学や近代魔術では、「アストラル界」は感情や欲望に対応する次元を表現しますが、「アストラル・ライト」は「アストラル界」だけでなく、それ以上の次元を広く包含する概念です。
  

<レヴィのタロット>

レヴィは、ヘルメス文書の奥義はカバラであり、タロットはその神秘を開示するもので、ソロモン王の時代から伝わるものだと主張しました。
彼は、タロットが古代エジプトのトート神(ヘルメス神)の「トートの書」であるという、クールド・ジュブランの説を信じて継承しながら、それを深めたわけです。

また、ギョーム・ポステルやト・メレ、アタナシウス・キルヒャーを典拠に、ヘブライ語の22のアルファベットを、タロットの大アルカナに割り振りました。
この割り振りは、ジュブランとは逆で、大アルカナの1からの順でしたが、「愚者」を20と21の間に入れました。
そして、それが13の教義と9の信仰を表現するとしました。

「高等魔術の教理と祭儀」は、教理篇、祭儀編ともに22章からなり、それがヘブライ語のアルファベット、タロットの大アルカナに対応する構成になっています。

また、小アルカナに関しては、4つのマークをテトラグラマトンの聖四文字などに対応(棒=ヨッド=男根、盃=へー=女陰、剣=ヴァヴ=陰茎・均衡、コイン・円環=へー=世界)させました。
そして、10の数字札は10のセフィロートに、4つの絵札は人間性の4段階(夫、婦、若者、幼児)に対応させました。


<レヴィの影響>

すでに書いたように、レヴィの魔術は、まだまだ実践的なものではありませんでした。
彼は、呼吸法を語らず、明瞭なイメージ喚起(観想)についても語らず、守護天使・守護霊についても語らず、無意識にアクセスする心理学的観点も語りません。

ですが、レヴィの影響は大きく、オカルティストでは、フランスのパピュス、ガイダ、ペラダン、神智学協会のブラヴァツキー夫人、イギリス薔薇十字団のケネス・マッケンジー、ゴールデン・ドーンのアレイスター・クロウリーなどに及びます。

また、文学者では、ボードレール、ヴィリエ・ド・リラダン、マラルメ、ランボー、アンドレ・ブルトン、ジョルジュ・バタイユらにも影響を与えました。


以下、レヴィの影響を受けて、フランス19C末のオカルティズム復興を担った3人のオカルティスト、パピュス、ガイダ、ペラダンの活動について、簡単に紹介します。

<パピュス>

パピュスことジェラール・アンコース(1865-1916)は、以下に記すように、多くの人物と交流を持ち、多数の組織に関わった活動的な人物です。

パピュスは1887年、神智学協会のフランス支部であるイシス・ロッジに入会しました。
神智学協会の会誌「ロータス」に寄稿を始めましたが、この中でパピュスというペンネームを使うようになりました。
しかし、イシス・ロッジは1年後に解散となってしまいます。

1888年、ガイタ、ペラダンと共に、「薔薇十字カバラ団」を創立します。
また、「マルティニスト会」を設立し、1891年にはグランド・マスターに就任します。

1888年、「隠秘科学の基礎理論」を出版し、オカルティズム雑誌「イニシエーション」の編集を始めます。
1889年、「ボヘミアンのタロット」を出版します。

マグレガー・メイザースとも親交を持ち、1895年、「ゴールデン・ドーン」の「アハトゥール・テンプル」に入団します。
1897年、近代錬金術・ヘルメス哲学者として著名なジョリデェ・カストロとセディールらと親交を持ち、彼らと「ヘルメス学院」を設立します。

パピュスの著書の「ボヘミアンのタロット」は、後世のタロット解釈に大きな影響を与えました。
彼のタロット理論は「宇宙の車輪」とよばれる、十字の周りを循環する宇宙論に基づいたもので、ポステルやレヴィが提唱したカバラとタロットの関係を深めました。


<ガイタとペラダン>

スタニスラス・ド・ガイタ侯爵(1861-1897)は詩人として、サール・メロダックことジョセファン・ペラダン(1858-1918)は芸術運動や作家として活躍した人物です。

ガイタはペラダンの「至高の悪徳」を読んで、ペラダンに連絡を取り、弟子、そして友人になりました。
1888年に2人は、パピュスと「薔薇十字カバラ団」を設立し、ガイタが首領に就任します。
「薔薇十字カバラ団」の位階は「学士」、「修士」、「博士」からなりました。

ペラダンは、カトリック教徒としての近代魔術を追求しようとして、1890年に「薔薇十字カバラ団」を脱退して「カトリック薔薇十字聖杯神殿教団」を設立しました。
この結社はテンプル騎士団を意識した位階制で、「侍従武官」、「騎士」、「騎士分団長」からなりました。
しかし、ガイタはペラダンを「薔薇十字思想を歪めている」と非難しました。

「カトリック薔薇十字団」は、世紀末の芸術家達のサロンとしても機能しました。
ペラダンは、1892から1896年にかけて、パリで、ギュスターヴ・モロー、ジョルジュ・ルオー、フェリシアン・ロップスなどのそうそうたる画家達が参加した「薔薇十字展」を開催しました。
ここでは、ワグナー、エリック・サティ、ペラダンの音楽作品も上演しました。