ユングによる東洋神秘主義の曲解(道教、インド哲学、仏教)

ユングは、道教、易経、ヴェーダーンタ哲学やサーンキヤ哲学といったインド哲学、仏教、チベット密教、禅などの東洋の神秘主義的思想を研究し、その影響を受けています。

ですが、それらに関する解釈は、自身の理論に引きつけたもので、ほとんど曲解というべきものでした。

このページでは、ユングが行った東洋神秘主義の曲解をまとめます。


<論文と基本姿勢>

ユングが東洋の思想や瞑想法に関して書いた、主な論文などは、下記の通りです。
講演を別にして、ユング一人で、一冊まるまる書いて発表した著作はありません。

1929年 リヒャルト・ヴィルヘルム「太乙金華宗旨」の解説
1932年 講演「クンダリニー・ヨガ」
1935年 エヴァンス・ヴェンツ訳「チベット死者の書」の序文
1936年 論文「ヨーガと西洋」
1939年 鈴木大拙「禅仏教入門」の序文
同年  エヴァンス・ヴェンツ訳「チベットの大いなる解脱の書」の註釈
1943年 論文「浄土の瞑想」
1944年 ハインリヒ・ツィンマー「インドの聖者」の編集・序文
1950年 ヴィルヘルム英訳「易経」の序文

ユングは、東洋の瞑想法を、西洋人がそのまま行うべきではないと考えました。
逆に言えば、西洋人は、ユングの開発した「能動的創造力」という「瞑想法」を行うべきだということです。

その理由の一つは、西洋人は、まず、自らの「影」と対決しなければいけないからです。

ユングは、「中国的瞑想を直接試みさせることは大変な過ちであろう。そんなことをすれば、西洋の意志と意識が問題に突き当たるのであるから、意識は無意識に対して一層強められるだけになり…」(「黄金の華に秘密」)と書いています。

同様な意味で、ユングは、インド志向だった神智学を批判しています。
「神智学の徒にならって、貧弱な身体を東洋風の華美な衣装で包み込もうとする者があれば、彼は自分自身の歴史に対して不誠実になるであろう」(「元型論」)。


<道教>

ユングは、中国学のリヒャルト・ヴィルヘルムから送られた道教の内丹の瞑想書「太乙金華宗旨(黄金の華の秘密)」を読んで、この書に、西洋の錬金術と同様のものを見出して、本格的に西洋の錬金術の研究を始めました。

ですが、西洋の錬金術が「外丹」であるのに対して、この書は「内丹」の書です。
つまり、この書がテーマにしているのは、思考を滅しながら、「気」をコントロールして、実際に不死の「気の身体」を作る瞑想法です。
無意識の心理との対面や統合を目指したものではありません。
ですが、ユングは、すべてを心理的に解釈します。

例えば、ユングは、「黄金の華の中に、あるいは一インチの空間(寸田)の中に、「金剛身」すなわち永久に朽ちることのない微細身が生まれるという観念が、形而上学的に主張されている」、「心理的事実に対する象徴的表現」と書きます。
ですが、「金剛身」とは、心理的概念でも、形而上学的概念ではなく、気を練って実際に作る「陽神」のことです。

また、この書が説く「回光」に関しても、ユングは、回転、囲い込むこと、聖域の隔離…といった心理的解釈をしますが、これはユングにとっては「マンダラ」です。
実は、ユングが「マンダラ」について初めて書いたのは、この書でです。
ですが、「回光」とは、気を身体の前後の脈にそって移動させる「小周天」と呼ばれる具体的な方法のことです。

ユングが、西洋の錬金術に見出したものは、錬金術師が化学的過程に投影した無意識ですから、この内丹書に関しても、気を練る操作に無意識を投影したのだと無理に解釈することは可能かもしれません。
ですが、ユングは、内丹の本質が、気の具体的な操作であるということそのものを理解していないでしょう。

ちなみに、ヴィルヘルムは、中国の霊魂観の「魂」を「アニムス」、「魄」を「アニマ」と訳しています。
また、ユングは内丹における「性(=心)」が「ロゴス」、「命(=気)」が「エロス」に当たると解釈しています。
これも、あまり適当とは言えないでしょう。


<インド哲学、仏教>

ユングの「自己」という概念は、インド哲学の「プルシャ」や「アートマン」から影響を受けていて、「プルシャ」や「アートマン」を「自己」であると書いています。
また、「仏陀」も「自己」の象徴であると書いています。

ユングは、それらを、「無意識」であると言います。

「インド哲学では「高次の」意識と呼ばれているが、これはじつは西洋人が「無意識」と呼ぶものと一致している」(「個性化とマンダラ」)。
「ヨーガ行者が到達するサマーディの完成、恍惚の状態は、われわれの知るかぎり無意識の状態に当たる」(「個性化とマンダラ」)。

ですが、「プルシャ」や「アートマン」は「純粋意識」と表現されるべきものであって、最初から、決して「無意識」ではありません。
ユングが「無意識」と言っているもの、「自己」と言っているものは、サーンキヤ哲学で言えば、「プルシャ」ではなく、「プラクリティ」に当ります。

ユングは、「西洋人は上へと高まろうとするのだが、インド人は、母なる自然の深みに帰ることを好むのである」(「浄土の瞑想」)と書きますが、そうとは限りません。

ユングは、「自我のない意識というものを思い浮かべることすらできない」(「個性化とマンダラ」)と書いていて、東洋思想の核心を完全否定しています。
東洋思想の多くは、まさに、「自我」のない「意識」を求めます。

また、ユングは、東洋の瞑想法は、無意識を統合するものであると考えました。

ですが、東洋の瞑想の本質は、意識的であれ無意識的であれ、思考やイメージをなくすことであり、また、その無分別な状態で「知恵」を得ることです。
「仏陀」は、「知恵」を通して「煩悩」を滅した存在であって、「自己」ではありません。
仏教の知恵は、内面の無意識に対する「知恵」ではなく、「煩悩」はそれらに対する無知、統合されざる無意識ではありません。

インド哲学は、「純粋意識」とそれ以外のものを区別する認識を求め、仏教は、諸行無常の認識を求めます。
ですが、ユングには、無意識の意識化以外に、「認識」という観点がありません。

ユングは、「意識が拡大するにつれ、意識の個々の内容は明晰さを失っていく」(「個性化とマンダラ」)と書きますが、東洋の瞑想は、集中によって明晰さを高めていきます。

東洋の諸宗教の瞑想法では、一般に、イメージにこだわらないこと、それを否定することを原則としています。
ですが、ユングの思想では、イメージと対面してそれを統合しなければいけません。

「能動的創造力」はイメージを発展させる「夢見」の技術であって、イメージを統御する意味での「瞑想法」ではありません。

このように、正反対のことが説かれるのですが、ユングはこの矛盾を、次のように言って回避します。
東洋では無意識のイメージが力を持っているので、それを否定するように説かれるけれど、西洋では無意識のイメージが単なる幻想として否定されるので、むしろ、その実在性を理解しなければいけないのだ、と。

ただ、タントラ(密教)やバクティ・ヨガには、ユング的に解釈可能な瞑想法もあると思いますが。


<チベット仏教>

「チベット死者の書」は、3つのバルド(意識の次元)を区別しながら、死の瞬間の純粋な空の状態(チカイ・バルド)から、神々などのイメージが現れ(チェニィド・バルド)、最終的に再生に至る(シドパ・バルド)過程を説いています。

1935年、ユングは、エヴァンス・ヴェンツ訳「チベット死者の書」の序文を書きました。
彼は、「チベット死者の書」が説く3つのバルトの2つに関して、次のように心理学的に解釈しています。

1 チカイ・バルド  
2 チェニィド・バルド=集合的無意識の元型的イメージの世界
3 シドパ・バルド  =フロイトの精神分析学の領域

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*チェニィド・バルドで現れる神仏のマンダラ的イメージ

ですが、ユングは、「テキストを逆に読んでいくことによって…」と書いているように、「チベット死者の書」を後ろから読んで、それが、東洋的なイニシエーションの過程、つまりは、ユングの「個性化の過程」に当たっていると解釈します。
無茶な解釈です。

1939年には、エヴァンス・ヴェンツ訳「チベットの大いなる解脱の書」の序文を書きました。
この書は、「明知」、「自己解脱」といった概念を含む、ゾクチェンの書です。
当時、ゾクチェンは、まだ西洋世界には知られていませんでしたので、この書を理解することは不可能でした。

ユングは、ゾクチェンの「自己解脱」を「自己を救い出すこと」と解釈していますが、違います。
「空」から心に現れたものが、自然に煩悩性をなくし、消滅することです。

また、「明知」に関して、「意識の解消のようなものであり、従って、無意識状態に直接近づくことであるだろう」と解釈しますが、違います。
「明知」は、基盤としての本来の心が、最初から自覚的な意識を伴っていることを表現します。


<禅>

1939年、ユングは、鈴木大拙「禅仏教入門」の序文で、「禅」について、次のように書きました。

「意識がその内容についてできるだけ空っぽになった場合、その内容は、一種の(少なくとも一時的な)無意識の状態にある」
「(無意識は)…心の全体を意識的に方向づけるために必要な一切のものを、意識の表面へもたらすのである」
「弟子の無意識の内なる本性が、師匠や公案の問いに対して応答するものが、明らかに「悟り」なのである」

つまり、禅の瞑想で、思考を停止させると、無意識の状態になり、無意識から意識に上げるにふさわしいものが意識に上がってくる、というのです。
公案の答えも、そのように答えるのだと。

禅の瞑想では、基本的に無意識の状態を目指しませんし、無意識から上がってきたものは、捨てられます。
一般に、公案の答えは、合理を超えたものを、態度や言葉で示すことです。


<東洋思想への投影>

ユングの錬金術研究は、実際の化学的変成という物理的事実でもなく、錬金術のヘルメス主義的な形而上学でもなく、錬金術師が錬金過程に投影した無意識が研究対象であり、ユングはそれを自覚していました。

それに対して、ユングが東洋思想・東洋の瞑想法に対して行った解釈は、実際の瞑想法でもなく、その形而上学でもなく、ユングがそこに投影した自分の思想であり、ユングはそれについて無自覚でした。


ユングによる西洋宗教潮流の解釈(キリスト教、グノーシス主義、錬金術)

ユングは、ミトラス秘儀、グノーシス主義、錬金術などの、ヘレニズム、西洋の秘教を研究し、それらを一つの根拠として、彼の分析心理学の理論を作り上げました。
また、彼は、西洋の思想潮流の表層にキリスト教が、深層に古代ゲルマンの宗教や秘教があると考えました。

このページでは、ユングのユダヤ・キリスト教、及び、西洋の神秘主義の解釈をまとめます。


<ゲルマンの神とキリスト教>

ユングは、作家オスカー・シュミッツ宛書簡で、
「神々はヴォータンの樫の木のように打倒され、その切り株にキリスト教が接ぎ木されました。
…ゲルマン人は今なおこの切断に苦しんでいます。
…私たちは自らの中の原始的なものへと掘り下げていかなければなりません。
…必要なものとは、つまり、神を新たに経験することです。」
と書いています。

ユングは、ユダヤ・キリスト教を文明化されたもの、キリスト教以前のゲルマン人を野蛮、と表現します。
ですが、キリスト教は残酷に押し付けられたユダヤ人の宗教であり、人を自然から、自然な本性から切り離してしまったのです。
また、ユダヤ人の宗教は、アーリア人や他の人種の宗教のように、イニシエーションによる再生のイメージを持っていないと。

ところが、ゲルマン人の無意識の層には、キリスト教以前のアーリア人の自然宗教(ヘレニズム秘儀も含む)が生きていると考えました。

ユングは、ヴォータン(オーディン)がゲルマン人の真の神であり導師であったと言いいます。
そして、彼は、ドイツにおけるナチズムの台頭について、ヴォータンが現れてきていて、この神に対して無意識のままであれば、それに憑依されてしまうけれど、それを意識化すると霊的再生が可能だと、注意を促しました。

ちなみに、ユングは、アメリカでナチズム批判をして、著作が発禁になりました。


<旧約と新約>

ユングは、生涯に渡って、ユダヤ・キリスト教の「善なる神」が、善悪の両面を持つ人間を作った意味、そして、人間イエスに受肉した意味を、心理学的に考え続けました。

ユングは、晩年の著作、「ヨブへの答え」(1952年)で、旧約の「ヨブ記」が、ユダヤ教の神観念(罰する神)がキリスト教の神観念(愛する神)へと変化する最初のポイントであったと解釈しています。

ヨブは、悪行をなしていないのに、様々な試練を受けて、罰せられ、このことを不当だと、神に訴えました。
ユングの解釈では、人間であるヨブの方が正しく、ヨブは神よりも倫理的に上位に立ったのです。
ヨブは、神を疑うような、反省的な意識を持つ存在になりましたが、一方の神は、人間よりも無意識で、意識(善なる神)と無意識(悪魔)が分離した存在でしかなかったのです。

神はこれに気付き、ショックを受け、反省して、人間に追いつくために、人間になる必要があると決意したのです。
こうして、神は、イエス・キリストとして人間に受肉して、贖罪を行いました。
これは、神自身による、神自身の無意識に対する贖罪であり、無意識の内的葛藤の意識化です。

ですが、神の人間化は、まだ、不十分なのです。
神は、まだ、純粋に善なる男性的存在であり、イエスという特殊な人間になっただけです。

ですから、イエスの後、パラクレート(聖霊)が人間に霊感を与えるという形で、普通の人間への受肉が続くのです。

「ヨブへの答え」は、1950年にカトリックが「聖母被昇天」(聖母マリアが肉体のまま昇天したとする説)を認めたことをきっかけに出版されました。
ユングは、「聖母被昇天」は、従来のキリスト教の正統教義「三位一体」に加えて、第4の「母」の神性を認める革命的なものであり、神の人間化の進展を示すものだと考えたのです。


<表層のキリスト教と深層の秘教>

キリスト教では「父/子/聖霊」の「三位一体説」が正統教義ですが、ユングは、錬金術や民衆の中には、「四位一体」があったと考えました。
第四の者は、「母」であり、極端に表現すれば「悪」であり、それは、「エロス」、「肉体」、「無意識」の原理です。

例えば、民衆の中にあった聖母信仰は、「三位一体」に欠けた第四者です。

また、ユングは、古代の女性錬金術師マリア・プロフェティサの言葉、「一は二となり、二は三となり、第三のものから第四のものとして全一なるものの生じ来るなり」を取り上げ、錬金術が「四位一体」の思想を持っていたと指摘しました。
この錬金術師が女性であることも象徴的です。

ユングは、「錬金術とは表面を支配したキリスト教に対抗する底層流のようなものである。…夢と意識の関係のようなものであって、ちょうど夢が意識面にあらわれた心の葛藤を補償するのと同じように、錬金術はキリスト教的魂における「相反するものの緊張」から生まれた「魂の」溝を埋めようとするものである」(心理学と錬金術)と書いています。

つまり、ユングは、西洋の精神潮流を、表層に意識的なキリスト教があり、深層には無意識的な錬金術のような神秘主義(オカルト)思想や、民衆的宗教があったと解釈しました。

ところが、宗教改革が、儀式や象徴を否定したことで、その深層の潮流を絶たせてしまったのです。
ユングは、「われわれはなるほど、キリスト教のシンボル体系の正統な相続人であるが、しかし、この遺産を失ってしまった」(「元型論」)、「魂に対する配慮は、プロテスタンティズムではひどいことになっている」(変容の象徴)と書いています。

また、ユングは、その後のプロテスタントの地域に、一方では、インド学が、もう一方では、神智学や人智学が盛んになったことは、それに対する補償的なものであると考えました。

ですが、原人アントロポスが壺の水を魚の口に注ぐという、新しい時代の「水瓶座」のイメージを、意識と無意識がつながった人間が現れる前兆であると考えました。


<グノーシス主義>

前のページで書いたように、1916年に、ユングは、彼の指導霊であるフィレモンが、十字軍の騎士をキリスト教からグノーシス主義へと回心させて救済する「死者への七つの説教」を、バシレイデス名義で書きました。
ここで、グノーシス主義の神アブラクサスについて「両者(神と悪魔)の上に存在し、神の上の神」、「善と悪との母なるもの」と表現しています。

グノーシス主義は、この世界を作った悪神である創造主(旧約の神)と、より高い至高神を区別します。
ユングは、フロイトが分析したのはヤーヴェ以下の世界であると考えました。
それに対して、ユングの分析心理学は、霊的な世界=女性的な無意識の世界を重視するのです。

グノーシス主義には、キリストの三重身という考え方があります。
霊・魂・体の3つの次元でキリストを考えるわけです。

肉のキリストは、無定形、無知、無思考とされます。
ユングは、これは、無意識の底に眠っている霊的で内面的な「全体的人間」の完全性=「自己」を象徴していると解釈しました。

グノーシス主義のナース派は、「蛇」がソフィアの使者であり、悪い創造主のヤルダバアドが禁止した知恵の実を、人間のために食べさせたと考えます。
ナース派にとっては、「蛇」は無意識の知恵の象徴であり、キリストと「蛇」を同一視します。

また、グノーシス主義の神話に、キリストが自分の脇腹から生み出した女を交わるという、近親相姦的なモチーフがあります。
ユングは、これを、男性が、無意識の女性像のアニマを統合する過程と解釈しました。

ユングは、著「アイオーン」(1951年)で、ヘレニズム期の共有認識では、イエス・キリストは「原人アントロポス」と同様の全体的存在=「自己」の象徴だったとしています。


<錬金術と増幅法>

ユングは、リヒャルト・ヴィルヘルムから送られた道教の内丹書「太乙金華宗旨」を読んだことをきっかけにして、研究対象をグノーシス主義から西洋の錬金術に変えました。

ユングの錬金術関連のまとまった著作は、1941年の講演「医師としてのパラケルスス」、「精神現象としてのパラケルスス」、1944年の著作「心理学と錬金術」、1946年の著作「転移の心理学」、1955-6年の著作「結合の神秘」などです。

ユングは、「実験者は自己の投影を物質の特性として体験した。しかし実際に彼が体験したのは無意識だったのである」(「心理学と錬金術」)と書いています。
彼は、錬金術師が錬金術の作業過程の中に、「集合的無意識」の「元型」を投影し、また、「個性化」を体験しながらその過程を投影したと考えました。

同時に、ユングは、「(「プラトンの四書」のように)錬金作業と哲学的、心理学的な事象との間の平行関係を示す体系が見出させるのである」、「人間の精神には物質をも変化させうる一種の魔力が内在していると考えられたからでもある」(「心理学と錬金術」)とも書いています。
つまり、錬金術師の中には、術師の精神的変容が、物質の変容を促すという魔術的な関係を意識して、それについて書いた者もいたということです。
もちろん、その根底にはヘルメス主義の万物照応の世界観があり、それは意識的に理解されている形而上学です。


「投影」を論証しようとすると、物質変成の記述の中に、実際の化学的変成とも、錬金術の形而上学ともズレた記述があった時にのみ、「投影」が類推されうるハズです。
ですが、ユングはそのような論証はしません。

ユングの方法は、「増幅法」による類推です。

分析心理学では、夢を解釈する時に、それと類似する素材を集めて理解を深めますが、彼はこれを「増幅法(拡充法)」と呼びました。
ユングが錬金術に「集合的無意識」の「投影」があることを論じる時に行ったことも、これを同じです。

つまり、物質変成の記述のモチーフと類似する、他の精神的領域のモチーフを集めたのです。
これは論証的方法ではないのではないでしょうか。

実は、ユングは、錬金術師が思想を形成する方法も、「増幅法」であり、錬金術の変成作業も、その一つの素材だったと書いています。


<錬金術と個性化の過程>

ユングは「心理学と錬金術」で、
「主として投影されたのはこの世の闇に囚えられている霊というイメージだった。換言すれば、相対的に無意識の状態に置かれている心、その状態から開放されずに苦しんでいる心、これが投影されたのである」
それゆえに、
「救済者像の投影、すなわち賢者の石とキリストとのアナロジーが、同様に、また救済の「務め」ないし、「聖なる務め」と「錬金術の業」とのアナロジーが生まれるのである」
と書いています。

つまり、錬金術の過程に「投影」されたのは、無意識の解放であり、「賢者の石」は救済者という点でキリストと同じくみなされた、ということです。

一般に、「黒化」、「白化」、「赤化」を経て「哲学者の石」を作る錬金術の作業過程を、ユングは「対立物の結合」というテーマで語ります。
これは、分析心理学が言う、「影」、「アニマ/アニムス」を統合し、「自己」を見出す「個性化の過程」と対応しています。

彼は、1946年の著作「転移の心理学」で、錬金術書「賢者の薔薇園」が掲載する10枚の挿絵の解釈を行いながら、その過程を説明しています。
それを簡単にまとめましょう。

1 メルクリウスの泉
錬金作業の根底のある秘密を描いている。
5つの星は4大元素と第5元素、四位とその一体の象徴。
水槽である「錬金術の容器」は変容が起こる場所で、円形は完全性の象徴。
「錬金術の水」=「メルクリウス」は無意識の象徴で、3つの管は・天地・地下の象徴。
4→3→2→1の過程も描かれている、などなど。

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2 王と女王
女王(ディアーナ)は男性のアニマ、王(アポロン)は女性のアニムス。
宮廷服を着ているのは、まだ、よそよそしい状態。
左手を握っているのは、良くない関係、つまり、意識と無意識が「混合(分裂しつつ同一化)」している状態。

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3 裸の真実
裸になった両者は、部分的に結合した状態、「影」とエロスの領域が意識にもたらされ、自我意識の抑圧が取り払われた状態。

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4 浴槽の水に浸かる
両者が水に浸かるのは、無意識が上昇した状態。

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5 結合
両者が交わり、翼を生やすのは、対立物の結合、「影」の統合、衝動的エネルギーが象徴活動に移された状態。

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6 死
二人が死して石棺で合体して両性具有になったのは、アニマ、アニムスとの対決による従来の自我の死。

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7 魂の上昇
幼児=霊魂の上昇は、意識水準が低下して、無意識の中に沈む状態。
6-7は「黒化」の段階。

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8 浄化
露が垂れるのは、直観が目覚めた状態、新たな誕生の前兆。
無意識への下降が上からの照明に移行する。

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9 魂の帰還
幼児=世界霊魂が降りるのは、浄化されて、肉体が復活、栄光化する状態。
意識と無意識の混合状態を脱して統合、アニマ/アニムスの統合へ。
「白化」の段階。

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10 新たな誕生
全体性、対立物の結合の状態、「哲学者の息子」、「哲学の木」、「哲学者の石」は「自己」の表現。

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ユングは、10枚で終わっているように書いていますが、実際には、この後に作業はまだまだ続くのです。
1622年に発表された「改革された哲学」の20枚シリーズの挿絵と照らし合わせると、その最初の10枚に当たることが分かります。

また、錬金術の挿絵は、化学的な物質変成過程を暗喩的に示すものです。
ユングは、錬金作業に投影された心理の分析を行ったとしています。

ですが、もし、そうであれば、まず、挿絵の意味を、それが暗喩する物質的過程に戻してから、それに心理が投影されたことを論証しなければいけません。
ですが、ユングはそれを行ってはいません。


<分析心理学と魔術>

実験化学者のルードヴィッヒ・シュタウデンマイアーが1912年に出版した「実験科学としての魔術」は、自動書記の手法などを対象にして、魔術を科学的に解明しようとした書です。
シュタウデンマイアーは、この書で、「下意識」に鍵があり、人格化が重要となると書いています。
ユングはこの書を読んでおり、ユングが「能動的創造力」を生み出すに当たって、参考にした可能性が多分にあります。

ですが、ユングは、具体的に、現実の「魔術」についてほとんど興味を持っておらず、まとまった論考も行っていません。

「赤の書」では、ユングはフィレモンに「魔術」について教えてもらっています。
ですがそれは、「理解できないもの」、「教えることができないもの」、「法則のないもの」といった、単に抽象的な議論にすぎません。
ユングは、「魔術」を無意識の非合理的な創造力、と解釈しているようです。

それにもかかわらず、ここに「魔術」というテーマをもうけたのは、ユングの分析心理学と類似した側面と、異なる側面があって、両者を比較することが、興味深いと思えるからです。

例えば、類似する部分を並べると、次にようになります。
「元型」と魔術の象徴体系、「集合的無意識」と「アストラル界」、「個性化の過程」と「イニシエーションの階梯」、「影」と「クリフォト」、「アニマ/アニムス」と「左右の柱」、「自己」と「守護霊」、「能動的創造力」と「スクライング(アストラル・プロジェクション)」、「マンダラ」と「魔法円」などです。

つまり、普遍的な象徴、人格的象徴に対する瞑想や夢見の術を通して、力や知識を受け取り、人格や能力を広げ、統合していくという点で、両者は共通しています。

一方、分析心理学と「魔術」の違いは、まず、「個性化の過程」は無理をして意識の側から促さないけれど、魔術の「イニシエーション」は、意識的に努力して行う点です。
ユングは、無理をして「元型」と対面すれば、道徳的に耐え切れないと考えました。

また、対面すべき「元型的イメージ」は、ユングにおいては、基本的には、外部から与えるものではなく、自然に、「集合的無意識」から生まれるものです。
ですが、伝統的な「魔術」においては、正しい「象徴体系」やその定形のイメージが存在し、それを勉強と瞑想によって無意識に植え付けていきます。(現代的な魔術では必ずしもそうではありませんが)

このように、一見すると、象徴的イメージと、それに対するアプローチの点で、正反対の側面があります。

ですが、ユング自身は、自分が本格的に無意識と対面する以前から、神話や秘教の勉強を行っており、彼が対面した「元型的イメージ」やヴィジョンのストーリーには、その勉強の影響があったことが明らかです。

また、ユングの患者には、ユングの理論や神話などに興味を持って勉強していた人が多く、そうでなくても、ユングは、治療の過程で、自身の理論を説明したり、神話的なイメージを例として見せることがありました。
ですから、ユングも患者も、無意識にその影響を受けていて、純粋に自然に任させていたとは言い難いのです。

それに、魔術においても、大枠は決まっていても、最終的には個々人の想像力に任される側面があります。

また、「魔術」の「イニシエーション」は、それ自身が目的ではなく、それを前提として、現実で望む変化を起すことが目的であるという側面があります。
ですが、この点でも、ユングには「シンクロニシティ(共時性)」という概念があり、通常の因果関係を越えて、心と現実が一致することがあるとします。
「シンクロニシティ」は、「集合的無意識」とつながっている時に起こりやすいとされます。

これらを考えると、両者はとてもよく似ています。
もちろん、実際に魔術として役立たせるには、分析心理学の「元型」だけでは象徴が足りませんが。

ユングの理論と問題点(個性化と能動的創造力)



前の2つのページでは、ユングが分析心理学の思想を形成することになった背景をまとめました。
このページでは、分析心理学の基本的な理論、技法、そして、問題点をまとめます。


<集合的無意識と自己>

ユングは、「無意識」を、意識によって抑圧された存在ではなく、本来的に自律的で、創造的、目的論的(未来的で潜在的)なもの、意識に対して補償的なものであると考えました。 

そして、意識的なシステムの中心である「自我」と、意識と無意識システムの全体、その中心としての「自己(本来的自己、selbst)」を区別しました。

また、「無意識」には、「個人的な無意識」のさらに深層に「集合的無意識(普遍的無意識)」があると考えました。
「集合的無意識」は、遺伝子的要因によって、先天的に継承されてきた魂の領域であって、経験や個人の記憶内容ではなく、心的な機能の様式、方向づけを与える力として作用します。

「自我」や、社会に向けた人格である「ペルソナ」のような意識的な存在、そして、個人的無意識は、「コンプレックス」として作られ、それによって成り立っています。
「自我」や「ペルソナ」を「元型」であると書いている文献を見かけることがありますが、間違いです。

それに対して、「集合的無意識」は、いくつか種類の「元型」と、それが創造する「元型的イメージ」によって構成されています。
「元型」は、神話やおとぎ話に見られる典型的なイメージの元になるもので、心の生得的な構造であり、本質をなすものです。 

「元型」自身は、認識や意識の対象となりませんが、「元型的イメージ」は「自我」と心の内面を媒介する心像として、宗教的な感情(ヌミノース)と共に体験されます。
「元型」の多くは人格化されていて、力(マナ)を持った存在なので、「マナ人格」とも呼ばれます。

ユングは、「元型」という言葉自身はユダヤのフィロンや偽ディオニュシオスが使っていると言っています。
また、聖アウグスティヌスは、「根源的イデア」という言葉を「元型」と同じ意味で使っています。
そして、聖アウグスティヌスは、それ自身を人間の精神は目にすることはできないものだと言っていて、この点で、ユングは影響を受けているようです。

「元型」の多くは人格的に表現されるので、全体としての「元型」は、一種の神々のパンテオンを構成します。


<個性化の過程>

ユングは、意識が「集合的無意識」を統合していくことで、心が分割できない一つの全体になることを、「個性化(individuation)の過程」と呼びました。

これは、患者の治療の過程にも、宗教的な求道の過程にも見出だせるものです。
ユングは、一般的に、人生の後半生において果たされるものと考えました。

「個性化の過程」は、「集合的無意識」に現れる複数の「元型」を順に意識化し、統合していく過程です。
「元型」である人格は、力を持った「マナ人格」ですが、それを統合すると、その力は「元型」から失われ、「自我」に移りがちです。

「元型」の統合は、「対立物の合一(反対物の結合)」という側面も持ちます。
ユングは、この統合・合一を進める働きを「超越的機能」と呼びました。

ユングは、「個性化の過程」は、本来、自然に進むもので、無理に進めるべきではないと考えました。
また、「元型」が表現するイメージは、無意識の自然な想像に任せるべきで、意図的なイメージを植え付けるべきではないとも考えました。

「元型」は、否定的に現れる場合と、肯定的に現れる場合があります。
特に、意識化されていない時は否定的になりがちです。

通常、「元型」は、それと認識されないままに他者に「転移(投影)」されています。
そのため、他者の本来の姿を隠してしまい、二人の関係を混乱させます。
「元型」の投影を意識化するには、自分自身の知りたくない心を知ることが必要なので、道徳的抵抗を乗り越える必要があります。

「元型」は、合理主義的な意識によって、完全に抑圧されている場合もあります。
ユングは、この状態を、「無意識の知的簒奪」と表現しています。

一方、「集合的無意識」の「元型的イメージ」と出会った場合、その「元型」と自分自身(自我)を同一化して、一種の「憑依」的状態になってしまいがちです。
この同一化を「自我のインフレーション(自我膨張)」と呼びます。
「元型」は、宗教的、神的な力を持っていますので、「自我のインフレーション」が起こると、自分自身を神のように思ってしまいます。

「元型」の統合のためには、それに同一化せず、脱同一化(対象化)する必要があります。

ちなみに、ユングは、ヘーゲルに「無意識の知的簒奪」を見て取り、ニーチェに「自我のインフレーション」を見て取りました。

「個性化の過程」における「元型」の統合は、「投影」や「自我のインフレーション」、「知的簒奪」を行わずに、客観的に「元型」を意識化することです。
それによって、「自我」と「元型」の機能の結びつきを作り、意識を成長させることです。


<元型>

ユングはそのようなまとめ方はしていませんが、以下に紹介するように、「集合的無意識」の「元型」は4層、「個性化の過程」は4段階で捉えることができます。

最初の層・段階は、「影」の統合です。
ユングは、フリーメイソンのイニシエーションと位階を意識してか、この段階を「職人試験」と表現しています。

「影」は、意識と両立し難い劣等な部分であり、意識に対して補償的な関係にあります。
意識にとっては否定的な価値を帯びた人格的存在です。

「影」は、「意地悪い同性」、「悪魔」、「怪物」、「子供」、「動物」などのイメージで現れます。
「影」は、自己中心的欲求、不安、恐怖、嫉妬、敵意、怨恨、憎悪などの心情と結びついています。

「影」には2種類があります。
個人的な「影」と「集合的影」です。
前者は個人的無意識を象徴する「元型」であり、後者は集団が共有している「影」です。
前者が「相対的悪」なら、後者は「絶対的悪」です。

文化人類学・神話学の「トリックスター」のモチーフは、後者の「集合的影」に当たります。
「影」は、シュタイナーの言う「境域の小守護霊」と似ています。


第二段階(第二層)は、「アニマ」もしくは「アニムス」です。
ユングは、この段階をフリーメイソン風に「親方試験」とも表現しています。

これは、異性像の「元型」で、男性の中には「アニマ」、女性の中には「アニムス」が存在します。
男性の無意識にある女性像である「アニマ」は、「エロス」的原理です。
一方、女性の無意識にある男性像である「アニムス」は、「ロゴス」的原理です。
ですが、必ずしも人格イメージとして表現されるとは限りません。

「赤の書」などで語られる、ユング自身のヴィジョンにおいては、「サロメ」が代表的な「アニマ」でした。

「アニマ」にも「アニムス」にも、4段階を考えることができます。

「アニマ」の4段階
1 生物学的   :旧約のイヴ
2 ロマンティック:トロイのヘレナ
3 霊的     :聖母マリア
4 叡智的    :ソフィア

1は「母」、「大地」としても表現されます。
2が狭義の「アニマ」に当たります。
この4段階は、古代後期に知られていたと、ユングが書いています。

「アニムス」の4段階
1 力
2 行為
3 言葉
4 意味

ただし、このアニムスの4段階は、ユング自身は述べておらず、彼の妻で心理学者のエマ・ユングによるものです。


第3段階(第3層)は、「老賢者」、もしくは「太母」です。

「老賢者/太母」は、「アニマ/アニムス」を統合した時に現れる「元型」で、「老賢者」は、主に、男性に、「太母」は女性に、自分の一種の理想的な姿として現れます。

ユダヤ教の「黙示文学」の「日の老いたるもの」、道教の「老子」、ニーチェの「ツァラトゥストラ」、トート神、ヘルメス・トリスメギストス、オルフェウス、ポイマンドレスなどが、「老賢者」のイメージです。
また、人格以外では、「大鷲」、「峰」などとして表現されることもあります。

「赤の書」などで語られる、ユング自身のヴィジョンにおいては、「エリヤ」や「フィレモン」が「老賢者」でした。

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*フィレモン(「赤の書」より)

インド哲学の「プラクリティ」、女神カーリーなどは、「太母」のイメージです。
人格以外では、「神の国」、「大地」、「森」、「海」、「冥府」、「月」、「庭」、「洞窟」、「泉」、「花」、「子宮」、「雌牛」、「魔女」、「竜」、「墓」、「死」、「深淵」などとしても表現されることもあります。

「太母」は、男性の現れる場合は、「影」や「アニマ」と融合していることもあります。
男性の「太母」のイメージは、母親、祖母への投影を経て「天母」になりがちで、一方、女性の場合の「太母」のイメージは、「天母」ではなく「地母」が多いと言います。

両者は、第4の存在であるとも表現されます。
男性の場合なら、自分の「自我」、自分の中の「アニマ」、アニマを投影する「女性パートナー」という3者に次いで現れる第4の存在だからです。
ユングの理論では、「4」は全体性や安定の象徴です。

また、「老賢者」と「太母」は、次の第4段階で現れる「自己」の二つの側面であると表現されることもあります。


第4段階(第4層)は、「自己(本来的自己、個我)」です。

「自己」は、意識と無意識の隠れた中心であり、自我がその中心と結びついていくと、そのイメージが現れます。

ユングは、キリスト教の「キリスト」、仏教の「仏陀」、道教の「タオ」、インド哲学の「アートマン」、「プルシャ」、グノーシス主義の「原人(アントロポス)」などが、「自己」の「元型的イメージ」であると書いています。
「幼児(児童神、永遠の少年・少女)」も、「自己」のイメージとして表現されることもあります。
また、人格以外では、「マンダラ」、錬金術の「賢者の石」、などとして表現されることもあります。

「幼児」は、それ自身が「元型」と表現されることもあります。
ユングは、第3段階で生まれた4者に続いて、「幼児」がその4者の統合の象徴として生まれ、「四位一体」が完成されると、書いています。

錬金術の「哲学者の子ども」や「ホムンクルス」、エックハルトの夢の「裸の少年」、この「幼児元型」の表現です。

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*哲学者の子ども(「改革された哲学」の挿絵より)

人格以外では、「宝石」、「花」、「金の卵」などとしても表現されます。

「赤の書」で語られるユング自身のヴィジョンでは、アイオーン的な姿をした「息子」がこれに当たります。
ユングは、この「息子」を、フィレモンがユングの魂に妊ませた子であるとも書いています。

また、ユングは、弟子のコンスタンス・ロングに、「…創造的リピドーは、個性化の過程を通して人間のなかで変容します。そして、この妊娠に似た過程の中から、聖なることもが、再生した神として現れます。…このことは他の人たちには話さないでください」、語っています。

ユングの言う「マンダラ」は、仏教やヒンドゥー教の「マンダラ」に限定された概念ではなく、中心と円や四角などの形を伴って、「全体性」を表現するイメージです。
「マンダラ」は、回転したり、中心から光線を放射状に放つ場合もあり、四角は「四位一体」を表現します。

「マンダラ」は、必ずしも「個性化の過程」の最終段階で現れるものではなく、「マンダラは魂の分裂や定位の崩壊が生じた時に決まって現れる」と書いています。
「自己」の象徴は、「マンダラ」ではなく、「マンダラ」の中心と言えるのかもしれません。

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*マンダラ(「赤の書」より)

また、「英雄」のイメージも、「個性化」の潜在的先取りとして現れることがあります。
ユングは「英雄」を変容するリピドーの象徴であるとしていて、「自己」や「自我」の象徴それ自体とは異なりますが、「英雄」は死ぬこと、母性に回帰するによって「個性化」を進む存在の象徴となります。

また、ユングは「個性化の過程」、「変容」自体も「元型」であると書くこともあります。
これは、非人格的なイメージとして、状況、場所、手段、方法などとして表現されます。
具体的には、錬金術の寓意画のシリーズ、チャクラの体系、タロットのアルカナのシリーズなどがそうだと言います。


<類型論と個性化>

ユングには、「元型(アーキタイプ)論」とは別に、性格の「類型(タイプ)論」があり、この理論も「個性化」と結びつけて考えられます。

「類型」には、まず、「内向/外向」という対立的な2つのエネルギーの向きがあります。
そして、「思考/感情」という対立的な合理的機能と、「直観/感覚」という対立的な非合理的機能があります。
人の性格はこの2×4の組み合わせで分析されます。

対立する2項の一方が意識的になり、もう一方は無意識になります。
機能の場合は、4つの内の一つが最も意識であり、その対立機能が最も無意識的になります。

無意識的な性格、機能を発達させることが、個性化の過程につながります。


<能動的創造力>

ユングが、「集合的無意識」の「元型的イメージ」と対面して、それを統合するために重視した方法が、「能動的創造力」です。

ですが、著作であまり詳細が語られません。
また、ユングの弟子も、積極的に使用していないようです。

その理由の一つは、この方法が簡単ではないことがありますが、もう一つの理由は、患者の自立を促すものだからでしょう。

バーバラ・ハナが明かしていますが、「能動的創造力は、分析を経てその人が本当に(医者からの)自立したのかどうかの試金石になる」とユングが彼女に述べたそうです。
つまり、「能動的創造力」は、精神医を必要としなくなる方法なのです。

ユングによれば、「能動的創造力」は、「意図的な集中によって生み出される一連の空想」です。
そして、「重要だと思われる空想のいずれかの断片に思いを深めていき、…その断片がはめこまれている全体の関連が見えるようになるまでその作業をつづける」(以上、「元型論」より)ことです。

具体的には、「書簡集」に、次のように書いています。

「例えば、あなたの夢にあったあの黄色い塊から始めなさい。それを熟視し、そのイメージがどう展開し、変化するのか注意深く見つめなさい。それを何かに変えようとしてはいけません。ただその自発的な変化がどうなるのか見つめなさい。」

「そして、最終的にはそのイメージの中に入っていきなさい。それがもし、話をする人物なら、その人にあなたが言わねばならないことを言いなさい。そして、また、その人物が何か言いたいのなら、それを聞きなさい。…このことにより、意識と無意識の統一体を次第に作ることなのです。これなしに個性化はありえません」

つまり、「能動的創造力」は、白昼夢や明晰夢のように、覚醒した状態で、意識と無意識のバランスを取って、自然に無意識的なイメージを自律的に展開し、それと会話する技術です。

当サイトや姉妹サイトの用語では、これは「瞑想」ではなく「夢見の技術」です。

ユングは、イメージを観察し、イメージの対象と会話し、それを記録することは重要だけれど、解釈や分析は重要ではないと書いています。

ユングの弟子のマリー・フォン・フランツは、ただイメージを動かすだけでなく、実生活の中での結論を引き出さないといけないと言います。
そして、もし、イメージの世界で約束をした場合は、必ず守らないといけないとも言います。


<分析心理学の問題>

ユングは、「集合的無意識」や「元型」が存在することを、客観的に論証できていないという批判が多くなされています。
それはその通りだと思いますし、これに関することは、この後のページでも書きます。
ですが、ここでは、分析心理学の理論上の問題点について、思いつくままに列記します。

まず、ユングの「元型論」は、内面を象徴する「元型的イメージ」の意識化を問題にしますが、イメージが持つ「認識」という機能については語りません。

イメージは、外界を体験する中で、その認識を反映して成長するものです。
ですが、ユングは、「内面」の象徴性だけを重視するため、「認識論」の観点がありません。


次に、ユングにおいては、男性と女性によって「元型」の扱いがまったく異なります。
男性の無意識には「アニマ」がありますが、女性の無意識には「アニムス」があります。
また、「老賢者」と「太母」の意味も、男性と女性では異なります。
「集合的無意識」は遺伝的なものなので、この男女の違いは先天的なものとされます。

ですが、多くの神秘主義の象徴体系の中では、男性的原理と女性的原理は普遍的な原理として立てられ、男女差を強調しません。

ユングの当時とは違って、現代では、男女の文化的アイデンティーはずっと自由で、流動的になり、男女差の多くが後天的なものという認識が広がっています。
もし、ユングが、現代にいれば、違った理論の立て方をしたかもしれません。


次に、ユングは、「(無意識は)一方ではその存在は意識以前の先史時代に根ざしており…」(「個性化とマンダラ」)と書いているように、彼の「無意識」概念は、進化論的な時間軸で古いものです。
「無意識」が未来的であるという彼の考えは、あくまでも、個人において、未成長な側面という意味です。

ユングにおいては、無意識は「体」的でもあり、「霊」的でもあり、「体」と「霊」の区別は本質的ではありません。
ですが、伝統的な神秘主義思想においては、存在のヒエラルキーは絶対的なもので、「霊・魂・体」の3分説では、「霊」と「体」は存在の次元が異なります。

ですが、ユングにある「霊」と「体」に関わる違いは、意識化の有無、「自我」との結びつきの有無だけです。

これと関係しますが、ユングの理論は、大地の霊には親近性があっても、「天使論」が欠如しているのではないでしょうか。
これは、「認識論」の欠如とも関係があるでしょう。
また、「天使論」の欠如は、次のことにつながるでしょう。


ユングが認めた主な「元型」は、「影」、「アニマ/アニムス」、「老賢者/太母」、「自己」だけです。
これらは、主に、意識と無意識(=肉体的なもの)の統合、関係の観点から認められたものだと思います。

ですが、伝統的な宗教、神秘主義思想には、他にも普遍的な象徴が多数あります。

例えば、世界的に最も普遍的な象徴体系としては、春夏秋冬、十干十二支のような、季節循環・生命循環に関わるものがあります。

また、意識や言語に関係の深いような、あるいは、人間の精神や行動の全般に関わるような、抽象的理念・観念が、多くの宗教、神秘主義思想の象徴体系となっています。

例えば、7惑星や12宮にも、抽象的観念が当てられています。
また、ゾロスター教のスプンタ・マンユが率いる6大天使「アムシャ・スプンタ」の「善思」、「正義」、「統治」、「敬虔」、「完全」、「不滅」は抽象的観念です。
ユングが研究したグノーシス主義のプトレミオス派の30アイオーンも、ほぼ抽象観念です。
こういったものは、ユングでは「元型」になりません。

人間の精神の成長、霊的成長には、こういった多数の象徴の理解が重要となります。
ユングの限られた「元型」にこだわることは、人間精神の成長に関して、一面的になるのではないでしょうか。