黄金の夜明け団の歴史2(分裂と公開)

このページでは、「黄金の夜明け団の歴史1(設立と改革)」に続いて、「黄金の夜明け団(以下GD)」の歴史の後編を簡単にまとめます。


<衰退と分裂>

1894年、マグレガーとモイナのマサース夫妻は、パリに移住し、支部としてアハトゥール・テンプルNo.7を設立しました。
ここには、フランス・オカルト界の大物、パピュスが名誉会員として参加しています。
ですが、マサースが関係を持ったフランス・オカルト界の大物は、彼以外に確認されていません。

マサースは強権的な運営を行う一方、スコットランド独立闘争にも傾倒しました。
そのため、ホーニマンや他のロンドンのメンバーとの間に、衝突が生じました。

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*モイナ、ホーニマン

ロンドンのメンバーでは、アイルランドの詩人・作家でノーベル文学書作家のW・B・イェイツ、富豪家のアニー・ホーニマン、有名舞台女優のフロレンス・ファーらが反マサースとなり、ブロディ=イネス、アラン・ベネットら魔術の本格派は親マサースの立場を取りました。
ホーニマンはマサースへの資金援助を打ち切り、マサースはホーニマンを強制退団させました。

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*イェイツ、ファー

J・W・ブロディ=イネス(1848-1923)は、ケンブリッジで法学を学んだ弁護士です。
神智学協会のスコットランド支部の実質的な指導者でもありました。
また、彼は、タットワなどの東洋思想をGDに持ち込んだ人物でもありました。
実力派の魔術師と言われていて、魔術関係の研究書は残していませんが、何冊も小説を発表しています。

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*イネス

1897年には、「黄金の夜明け団(以下GD)」の文書が馬車の中に置き忘れられる事件が起きました。
これによって、検死官をしていたウェストコットとGDの関わりが警察当局にバレてしまい、ウェストコットは退団を余儀なくされました。
マサースがウェストコットを退団に追い込んだと推測する人もいます。

ウェストコットは、団の書記、会計、認定監督など、団の運営の事務的な要を一手に引き受けていたため、彼の退団によって、GDは弱体化していきました。
ウェストコットの後任はファーでしたが、昇進試験もいい加減に運営されるようになりました。

また、ファーはGD内に秘密グループ「スフィア」を結成し、アストラル・プロジェクションを用いて「秘密の首領」と接触しようと企てました。

一方、パリのマサースは金銭に困り、位階を金で売ることになったようです。
こうしてアメリカにも、次々と支部が設立されました。

そんな中の1898年、問題児のアレイスター・クロウリー(1875-1947)がロンドンの「イシス・ウラニア」に加入しました。
彼は、団の堕落した状態に失望しましたが、魔術の実力者だったアラン・ベネット(1872-1923)の生活を支援して、彼の弟子になりました。
そして、ベネットを通してマサースを信奉するようになりました。

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*クロウリー、ベネット

「イシス・ウラニア」のメンバーは、クロウリーの性格に難があるとして、内陣への昇格を拒否しました。
ですが、クロウリーはパリのマサースを頼って、昇格を承認されました。

1899年、マサースは、「秘密の首領」のシュプレンゲルを名乗る(シュプレンゲルのメッセージを霊媒として伝えた?)詐欺師のホロス夫妻を信用して、だまされてしまいます。
そして、1900年、ホロス夫妻の言葉を信じてか、マサースはウェストコットの書簡が捏造であると告発しました。

これは団を揺るがす問題であり、ロンドンのファーらは真相調査に乗り出しました。
ですが、マサースはホロス夫妻に騙されたことに気づき、証拠を出せず、強気でつっぱねるしかありませんでした。
一方のウェストコットも、黙秘を続けて、この件は、うやむやに終わります。

マサースは、クロウリーを使って、反マサースとなった「イシス・ウラニア」の神殿を奪回しようとしましたが、失敗します。
これによって、ファー、イェイツらはマサースを除名にしました。

マサース派のクロウリーはアメリカに旅立ち、ベネットは療養のためにセイロンに行って仏教に改宗、その後ビルマで僧院生活に入りました。

また、マサースと共に除名にされたエドワード・ベリッジが、「新イシス・ウラニア」を設立し、これが後にマサース派の「A∴O∴No.1」となります。
そして、ウェストコットもなぜか、このマサース派の「新イシス・ウラニア」に参加します。

一方、「イシス・ウラニア」のメンバー達は、方向性の違いから混乱に陥ります。

そんな中、1901年9月、ホロス夫妻が少女暴行、金銭詐欺で警察に逮捕されてしまいます。
そして、彼らは勝手にGDの首領であると名乗り、この事件が新聞を騒がせました。

この事件をきっかけに、ファーを含め、多数の退団者が出てしまいます。

ホーニマンは一時復帰するも、堕落した体制を批判して、それが受け入れられず、1903年に退団しました。

1902年、残ったメンバーのイネス、R・W・フェルキン(1858-1922)らは、「黄金の夜明け」の名称はもう使えないと判断して、「暁の星(ステラ・マテューティナ)」と改名しました。

フェルキンは、医学博士でもあり、神智学協会スコットランド支部のメンバーでもありました。
フェルキンは、「秘密の首領」に連絡を取ったと宣言しており、イネスもこれを認めて、フェルキンがトップになりました。

一方、オカルト著作家のA・E・ウェイト(1857-1942)が、1903年に、GDの神殿の用具などを所持するに至り、多くのメンバーと共に「聖黄金の夜明け(独立改定儀礼)」を独立させました。

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*フェルキン、ウェイト

こうして、GDは、マサース夫妻の「A∴O∴(アルファ・オメガ)」、フェルキンの「暁の星」、ウェイトの「聖黄金の夜明け」に分裂しました。
あえて正当な後継団体を一つ選ぶとすれば、「A∴O∴」になるでしょう。

一方、クロウリーはセイロンでベネットにヨガなどを教わり、1902年、パリでこれをマサースに伝えますが、マサースは評価しませんでした。

その後、クロウリーは妻のケリーを霊媒として、守護霊エイワスから「法の書」となる教えを受けます。
そして、マサースに「A∴O∴」の首領の地位を要求するという暴挙に出ますが、もちろん、相手にされませんでした。

1907年、クロウリーは、自身の結社「A∴A∴No.1(銀の星)」を設立し、機関誌「春秋分点」を発行して団員を公募します。
そして、この機関誌で、GDの儀礼の要約を、一部改竄して公開してしまいます。

これに対して、マサースは著作権と発行差し止めを求めて告訴しました。

*クロウリーに関して別ページを参照

また、ベネットはイギリスに帰国しましたが、すでに魔術は捨てており、神智学協会の支部として仏教ロッジを創立し、これは後に独立して英国仏教協会となりました。

ちなみに、ファーも尼僧になりました。


<終焉と公開>

「暁の星」のフェルキンは、「秘密の首領」探しを継続し、1910年、ドイツでルドルフ・シュタイナーが「秘密の首領」だと確信し、彼の思想に傾倒しました。
ちょうど、シュタイナーの秘書にA・シュプレンゲルという人物もいたのです。

こうして、「暁の星」は、フェルキン=シュタイナー派と反シュタイナー派に分裂しました。

フェルキンは、その後、セカンド・オーダーの真の首領はローゼンクロイツであり、彼が近年中に再誕すると予言するに至ります。
ですが、ドイツのシュタイナー派が、フェルキンの権威が否定したため、彼の面目は潰れてしまいました。

イネスはフェルキンに愛想をつかしてか、1908年にマサースと面会して「A∴O∴」に移籍し、イネスがエジンバラで設立していた支部「アメン・ラーテンプルNo.6」も、「A∴O∴No.2」に改名しました。

イネスの弟子で本格派だったW・E・カーネギー・ディックソンは、最初、「アメン・ラーテンプル」に加入したのですが、その後、ロンドンの「イシス・ウラニア」を経て、「暁の星」のブリストル支部「ヘルメス・ロッジ」に至りました。
そのため、「ヘルメス・ロッジ」は比較的まともなGD系魔術を継承していました。

「聖黄金の夜明け」のウェイトは、儀式魔術に興味がなく、キリスト教の儀礼を導入しました。
そして、その後、彼もシュタイナーに傾倒し、団は1914年に消滅してしまいます。

1918年、マサースが亡くなり、翌年、モイナはロンドンに戻って「A∴O∴No.3」を設立しました。
ですが、モイナの元からは、2人の重要な人物、ダイアン・フォーチュンとポール・フォスター・ケースが独立しました。

ダイアン・フォーチュンことヴァイオレット・メアリー・フォース(1891-1946)は、最初、イネスの「A∴O∴No.2」に加入して、モイナの「A∴O∴No.3」に移籍しました。
フォーチュンは、「オカルト・レビュー」誌などに「A∴O∴」の秘密にふれる内容に公開してしまいました。

そして、モイナと決別し、1922年に「内光協会(当初は、内光の友愛)」を設立しました。
「内光協会」は魔術結社として初めて、通信教育制度を取り入れて、魔術の新しい時代を切り開きました。

また、「A∴O∴」のNY支部「トート・ヘルメス・テンプルNo.9」からは、同年に、ポール・フォスター・ケース(1884-1954)が脱退し、「神殿の建築者(B.O.T.A.)」を設立しました。
彼は、パリの「アハトゥール・テンプル」やイギリスの「A∴O∴」にも顔を出していた、タロットの一級の研究者です。
「B.O.T.A.」も通信教育制度を取り入れて、多数の会員を獲得しました。

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*フォーチュン、リガルディー

イスラエル・リガルディー(1907-1985)は、1928年にパリでクロウリーの秘書になり、彼のもとで魔術の勉強を行いました。

リガルディーは、「柘榴の園」(1932)、続いて、魔術の技法の紹介を含む「生命の樹」(1932)を出版しましたが、この書の件でクロウリーと喧嘩別れすることになりました。

ですが、フォーチュンはリガルディーを擁護しました。
そして、1934年に、リガルディーは、フォーチュンの紹介で「暁の星」の支部「ヘルメス・ロッジ」に招待されて加入し、ここでGD流の魔術を学びました。

その後、「我が薔薇十字団の冒険」(1936)を出版すると、秘密を漏らしたとしてクロウリーや「A∴O∴」から攻撃を受けました。

ですが、1937-40年にかけて、リガルディーは、「ヘルメス・ロッジ」で入手した文書などを元に、「黄金の夜明け」4巻本をシカゴ・アリーズ・プレスから出版し、GDの教義、儀礼体系を公開してしまいました。
これによって、GD系の結社は壊滅的な打撃を受けました。

彼は、公開に際して、「体系全体を世間一般に公表し、人類がこれを失うという事態を回避することが重要だった…またすでに団の教義は部分的かつ無責任な状態で公開されてきたという経緯もある」と書いています。

その後、リガルディーは、GDの文書の蒐集を続け、上記「全書」の増補改訂版を、69年、86年にルロウリン社から、84年にファルコンプレス社から出版し続けました。

また、1987年には、「全書」に収録されなかった、セカンド・オーダーの準公式文書の「飛翔する巻物」が、フランシス・キングによって出版されました。

また、1989年には、「暁の星」系で正当なGD系魔術を継承していた、ニュージーランドのパット・ザレウスキー夫妻が、リガルディーの勧めによって、高位位階(6=5アデプタス・メジャー以降)の文書を、「黄金の夜明け団の内陣秘密教義」として公開しました。

こうして、GD系の魔術は公開され、通信教育や書籍を通した教育によって、継承される時代になりました。
それらを担ったのは、一つには、フォーチュン、ケース、リガルディーや、その弟子たちです。
中でも、リガルディーの系統は、チック・キケロ夫妻の「黄金の夜明けヘルメス団(The Hermetic Order of the Golden Dawn)」、クリス・モナスター、デヴィッド・ジョン・グリフィンらの「黄金の夜明けヘルメス団(Hermetic Order of the Golden Dawn、「The」なし)」などが、「黄金の夜明け団」という名前を継承しています。

*フォーチュン、リガルディーとその弟子たちについては別ページを参照

黄金の夜明け団の歴史1(設立と改革)

このページでは、「黄金の夜明け団(以下GD)」の歴史を、その設立から改革まで、簡単にまとめます。

その前史も参考にしてください。


<設立>

GDの創設者のウィリアム・ウィン・ウェストコット(1828-1891)は、ロンドンの検死官として働き、切り裂きジャック事件などを担当した人物です。
彼の性格は、温厚で信頼されるタイプだったようです。

その一方で、彼は高位のフリーメイソンリーであり、英国薔薇十字協会(以下SRIA)の会員としてはウッドマンから会長の座を引き継ぎました。
また、神智学協会の会員、「ヘルメス協会」の名誉会員でもありました。

また、彼は、カバラの「形成の書」(1987)やエリファス・レヴィのタロット論「至聖所の魔術儀式」(1896)の翻訳、「ヘルメス文書集成」の刊行、「カバラ入門」(1910)などの著作も行うなど、オカルトの知識は一級でした。

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*ウェストコット

先に書いたように、ウェストコットが入手した暗合文書がGD結成のきっかけです。
この暗合文書にはメモがついており、そのメモには、この文書の暗合を解読した者は、「黄金の夜明け団」の代理人フロイライン・シュプレンゲル(魔法名サピエンス・ドミナビトゥル・アストリス)に連絡をするようにと書かれていました。

ウェストコットは、彼女と手紙でやり取りを行って、「黄金の夜明け団」の外陣の結成の許可を得たと言います。
また、この暗合文書について、ウェストコットは、知り合いの牧師でメイソンリーのA・F・Aウッドフォードが古物商から入手したなどと語っています。

この暗号文書の正体については諸説がありますが、最も興味深いのは、ラファル・T・プリンクが「黄金の夜明け団の追跡」(1987)で行った、以下のような推測です。

元になった結社は、18C初頭のフランクフルトにはあったユダヤ系メイソンのロッジ「黄金の夜明け団(Chabrath Zeher Boquer Aour)」であろう。

暗合文書には、ドイツ人ではなく、イギリス人が書いたと思われる部分があるため、この文書の作成者は、ブルワー・リットンであり、それを暗号化したのは、リットンの知人で、魔術界の有名人であったフレッド・ホックリーであろう。

別の説としては、フランシス・キング(「近代オカルト魔術の儀式」、「魔術の再生」など)による次のような推測があります。

この文書の儀式は、ドイツの「黄金薔薇十字団」関係のものであり、作者はケネス・マッケンジーであろう。
彼が、友人のホックリーが準備する結社「八人の会」のためにこの文書を作成したけれど、活動に至らなかった。
そして、それがSRIAの蔵書となり、ウェストコットがそれを発見したのであろう。

先のページに書いたように、暗合文書に付いていたメモと、シュプレンゲル嬢との書簡は、ウェストコットによる捏造である、というエリック・ハウの説が、定説のようになっています。

ですが、ジェラルド・サスターによって、ハウの論拠は弱く、確証に至らないという反論もなされています(イスラエル・リガルディー「黄金の夜明けについて何を知るべきか」に掲載、1982)。

ウェストコットがこれらを捏造したとしても、他の2人の設立メンバーには、このことを明かさなかったようです。
マサースは、後年、ウェストコットの捏造を告発していますが、シュプレンゲル嬢の存在自体は信じていたようです。


マサースは、この文書に記された儀式の内容をヴァージョンアップして、GDの外陣の儀式を作成しました。

そして、ウェストコットらが開設したロンドンのイギリス支部は、ドイツ本部と、かつてあったイギリスの支部に続く、3番目の支部神殿「イシス・ウラニア・テンプルNo.3」であるとされました。

「イシス・ウラニア・テンプルNo.3」は、「生命の樹」のセフィロートに対応する10の位階、3つのオーダーからなります。
外陣がファースト・オーダーで、これが狭義の「黄金の夜明け」であり、内陣のセカンド・オーダーは「ルビーの薔薇と金の十字架」という名称でした。
ですが、当初、内陣は名だけのものでした。

そして、サード・オーダーはドイツの「秘密の首領」で構成され、彼らはアストラル・プロジェクション(霊体離脱)によって、アストラル界で活動するとされました。


S・L・マグレガー・マサースことサミュエル・リデル・マサース(メイザースとも表記される、1854-1918)は、不動産屋の事務員として働いていましたが、GD結成当時は、無職になり、ウェストコットの元に身を寄せていました。

その後は、団員のアニー・ホーニマンに生活を支援してもらいながら、大英博物館の図書室などでオカルトの研究に励みました。
彼の性格は、かなりの変人で社会性が欠如し、また、強権的だったようです。

ですが、魔術の知識の探求とその創造力には天才的な才能があり、ウェストコットの団の運営の才能と相まって、GDを成功に導きました。

マサースも、高位メイソンリーであり、SRIA会員であり、「ヘルメス協会」の名誉会員でした。
また、17Cカバラ文献「ヴェールを脱いだカバラ」(1887)の翻訳や、中世魔術書「ソロモン王の鍵」(1889)、「術士アブラメリンの聖なる魔術の書」(1898)、「ソロモン王の小鍵」(1903)、「アルマデル奥義書」(私家版)の翻訳なども行いました。

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*マサース

また彼は、ケルト、スコットランドの伝統を志向し、スコットランドの首長の血筋を表す「マグレガー」は自称していました。

彼は大英博物館の図書室で団員の勧誘を行いましたが、そこでアンリ・ベルグソンの妹、ミナ・ベルクソン(モイナ・マサース、1865ー1928)と出会い、結婚しました。
彼女は画家であり、GDの神殿などの美術を担当して、その才能を発揮しました。

儀式魔術では、美術的要素や演劇的要素も重要ですが、美術はモイナが、演劇は舞台女優だったフロレンス・ファーがいたことが、GDにとって大きな意味を持ちました。


<マサースによる改革>

1890年、ウェストコットは、シュプレンゲル嬢が亡くなったこと、そして、すでに独自で秘密の首領とのつながりを作るための知識は提供したため、今後はドイツの結社から連絡をしないという通達の手紙を作成して、「秘密の首領」に関する問題を終わらせようとしました。

ところが、翌年、マサースが、「秘密の首領」と接触を取ったことを宣言しました。

そして、彼は、実体のなかったセカンド・オーダーの改革を始めて、GDを本格的な魔術結社に変身させました。

彼は単独の責任者となり、セカンド・オーダーの入門儀式(5=6アデプタス・マイナー儀式)を創作し、カリキュラム(知識講義文書)と8種の厳格な試験制度を導入しました。

この入門儀式は、クリスチャン・ローゼンクロイツの墓廟をモデルとした「地下納骨所」の舞台装置を使用するもので、薔薇十字思想を継承するものでした。

マサースによれば、魔術の技法は、「秘密の首領」から、アストラル・プロジェクションや霊視などの超感覚的方法で教授されました。
そして、マサースが「秘密の首領」の唯一の代理人とされました。

ウェストコットによれば、マサースにセカンド・オーダーの儀式の知識を伝えたのはヨーロッパの達人ルクス・エ・テネブリスです。

この人物が実在するかどうかについても、諸説があります。
フランシス・キングは、ベルギーのマルティニストのディエッセン(ドクター・ティルソン)だと書いています。

ウェストコットは、「秘密の首領」が彼の創作であることを明かせないため、マサースの主張を否定することができなかったようです。

イギリス・オカルト復興と黄金の夜明け団



19Cのイギリスでは、オカルティズムや魔術の復興があり、それが「英国薔薇十字協会」を経て、「黄金の夜明け団」の結成につながりました。

1888年3月1日にロンドンで設立された「黄金の夜明けヘルメス団(The Hermetic Order Of The Golden Dawn、「黄金の暁団」、「ゴールデン・ドーン」とも訳される)」は、西欧に伝わる伝統的な教義・象徴体系に基づいて、集団による儀式魔術を行う秘密結社です。

おそらくは、西欧において、初めて本格的な儀式魔術、高等魔術の実践を行った結社であり、その後の魔術や魔女術の歴史に大きな影響を与えました。

同団にはノーベル賞文学作家、有名舞台女優、オカルティズム系の著作家や作家、三流新聞を騒がせた魔術師など、多くの有名人が在籍していました。
そして、団が関係する新聞沙汰の事件などによって、その醜聞が世間レベルにまで流れて、多くの人間の知るところとなりました。

オリジナルの「黄金の夜明け団」は、すぐに分裂し、教義・実践法の暴露的な公開を経て、消滅しましたが、その後も、新たな世代によって、その伝統が復活・継承されています。

「黄金の夜明け団」の教義は伝統的の総合でしたが、実践には、新しい創造もあったと思われます。 
一言で言えば、それは、ヘルメス主義をカバラで統合し、実践においては、さらにそれを、エノク魔術で統合したものでした。

ですが、「黄金の夜明け団」は、教義にかかわる本質的な部分においては、現代的な側面がほとんどありませんでした。
そのため、「黄金の夜明け団」の影響を受けつつも、それを現代的なものに変革しようとする潮流も生まれました。



このページでは、「黄金の夜明け団(以下GD)」設立の前史としての、19Cイギリスのオカルティズムの潮流と、GDの概略の歴史について紹介します。


<イギリス魔術復興>

19Cイギリスの魔術復興は、フランシス・バレット(1770–80頃生まれる)に始まります。
1801年に彼は「魔術師」という魔術の研究書を出版し、後世に大きな影響を与えました。
この書は、玉石混交ではありましたが、アグリッパの「オカルト哲学」を継承する内容で、フランスのエリファス・レヴィ「高等魔術の教理と祭儀」にも影響を与えました。

また、バレットは、メリルボーンの自宅にて儀式魔術学校を開き、上記の書でメンバーを募集しました。
その中にはブルワー・リットンやフレッド・ホックリー等がいたとされています。

エドワード・ブルワー・リットン(1803-1873)は、政治家であり、小説家であり、オカルト研究家です。
オカルトの世界では、彼が1842年に発表した、薔薇十字をテーマとした小説「ザノーニ」で有名です。
ブラヴァツキー夫人がこの書に影響を受けたことも知られています。

リットンは、1853年に、ロンドンを訪問したエリファス・レヴィと会い、彼に降霊術の実験の場を提供しました。
また、1871年には、「英国薔薇十字協会(以下SRIA、後述)」から一方的に、名誉会員とされました。

フレッド・ホックリー(1809-1885)は、バレットの弟子であり、水晶球を使った霊視、霊との交流を得意としていました。
オカルト文献の蒐集家でもあり、多数の著作もなしています。
1870年代にSRIAに入会しました。
「黄金の夜明け」団創立の土台になった「暗号文書」は、彼の私文書の中から見付かったという説もあります。

ケネス・マッケンジー(1833-1886)は、若い頃、エリファス・レヴィに傾倒して、フランスに彼を訪問しました。
彼はジョン・ディーのエノク魔術の研究家としても知られています。
また、彼はホックリーの友人であり、ドイツ人の薔薇十字団から位階を受けたと主張していました。

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*リットン、マッケンジー

SRIAは、1867年に、ロバート・ウェントワース・リトル(1840-1878)によって設立されました。
彼は、エジンバラにあった薔薇十字協会に入会した後、SRIAを設立しました。
エジンバラの協会はスコティッシュ儀礼のメイソンだったのですが、SRIAの位階の作成にあたって、マッケンジーの助けを借りました。
SRIA は、10段階の位階を持っていましたが、これはドイツの「黄金薔薇十字団」の影響を受けたものであり、GDにも継承されました。

マッケンジーも1872年にSRIAに入会しましたが、リトルとの方向性の違いから、75年には脱会しました。
彼は、GDの創設者となるウィリアム・ウィン・ウェストコット(1828-1891)に、リトルを批判し、自分こそは本当の薔薇十字位階を持っているという手紙を書いています。

マッケンジーは、1874年にフリーメイソンの辞典「ロイヤル・メイソニック・サイクロペディア」を発表したことでも知られています。
この辞典は、様々な傍流の結社についても紹介しています。
また、彼の死後、夫人のアレクサンドリナは、GDに入会しています。

SRIAの「至高術士(最高マグス)」は、1878年にリトルからウィリアム・ロバート・ウッドマンに、そして、1891年には、ウェストコットに引き継がれました。
マッケンジーの遺稿の多くは、ウェストコットに引き継がれたと思われます。

アンナ・キングスフォード(1846-1888)は、医学博士の学位を持ち、女権論と動物実験反対の運動家としても活躍していました。
ですが、彼女は、天使や聖人の訪問を頻繁に体験するような幻視家でもあり、1882年には、神秘的キリスト教の重要人物として注目を集めるようになりました。
1883年、彼女は神智学協会のロンドン・ロッジの会長になりました。
ですが、ブラヴァツキー夫人と不仲となり、1884年には独立して「ヘルメス協会」を結成しました。

GDの創設者のウェストコットとS・L・マグレガー・マサース(1854-1918)は、「ヘルメス協会」の名誉会員であり、そこで講演を行っていました。
「ヘルメス協会」は、神智学協会と同様に、男女が平等に参加する団体でした。

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<黄金の夜明け団の歴史的概要>

GDは、高位のメイソンリーであり、SRIAに所属する3人によって、ロンドンで、1888年3月に設立されました。
主体になったのは、ウィリアム・ウィン・ウェストコットで、彼がウィリアム・ロバート・ウッドマン、S・L・マグレガー・マサースの2人を誘いました。

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*ウェストコットとマサース

当時、ウッドマンは、SRIAの会長で至高術師であり、優れたカバラ研究家だったため、団の権威付けのために担がれた、飾り的存在でした。

フリーメイソンやSRIAは男性のみの結社だったため、ウェストコットは、アンナ・キングスフォードの「ヘルメス協会」同様に、男女平等主義の結社を作ろうとしたのでしょう。

ウェストコットは、ある暗合文書を入手したのですが、それがトリテミウス式の暗合であることを見抜いて、それが魔術結社の儀式の骨格を書いたものであることを解読しました。

後に、ウェストコットは、この結社がフランクフルトの古い薔薇十字のロッジであり、ブルワー・リットンがそこで「ザノーニ」を書いた、と書いています。
そして、この結社は、ヨハン・F・フォークが率いるロンドン・ロッジを持っていたと。

先に書いたように、暗合文書に書かれた儀式の位階は、ドイツにあった「黄金薔薇十字団」、及び、SRIAの位階をほぼ継承しています。

この暗合文書の作者や結社に関しては、確かなことは分からず、様々な推測がなされていて、
リットンやホックニー、マッケンジーが関わったという説もあります。

*詳細は、次のページを参照。

この暗合文書にはメモがついており、そのメモには、この文書の暗合を解読した者は、「黄金の夜明け団」の代理人フロイライン・シュプレンゲル(魔法名サピエンス・ドミナビトゥル・アストリス)に連絡をするようにと書かれていました。
ウェストコットは、彼女と手紙でやり取りを行って、「黄金の夜明け団」の外陣の結成の許可を得ました。

このメモの作者、代理人、代理人との書簡についても、確かなことは分からず、様々な推測がなされています。

ですが、エリック・ハウが「黄金の夜明けの魔術師たち」(1972)で行った論証が、定説のようになっています。
それによれば、このメモと書簡、そして、シュプレンゲル嬢は、ウェストコットが、GDを結成(復活)するために行った捏造です。

GDが設立されたのは、キングスフォードが亡くなった一週間後です。
R・A・ギルバートは、シュプレンゲル嬢の魔術師名「サピエンス・ドミナビトゥル・アストリス」が、キングスフォードの魔法名と同じだと指摘しています。
つまり、キングスフォードがモデルだったのでしょう。


ウェストコットは、GDを魔術を愛好する男女参加の社交クラブとして設立しました。
ですが、1891年には、マサースがGDの主導権を奪い、本格的な魔術結社に改革しました。

GDの規模は、設立数年後の最盛期には、複数の支部に、団員を350人ほどかかけるまでになり、多くの有名人も参加しました。
その内、女性は1/3ほど、内陣にまで昇格したメンバーも1/3ほどでした。

有名人には、GDの主要メンバーの中だけでも、ノーベル賞文学作家のW・B・イェイツ、有名舞台女優のフロレンス・ファー、哲学者アンリ・ベルクソンの妹ミナ・ベルクソン、そして、世紀の悪徳魔術師として三流新聞を騒がせたアリウスター・クロウリーらがいました。
ウェストコットとマサースも、神秘主義文献の翻訳、著作で知られていました。

メンバーは、若い中産階級が主体で、多くのメンバーは社交クラブ以上のものを望んでいませんでした。

実際、本格的な魔術師として知られるメンバーは、マサースの他、J・W・ブロディ=イネスとその弟子のW・E・カーネギー・ディックソン、そして、早期に離脱したアラン・ベネットとその弟子で独自の体系を築いたアレイスター・クロウリーくらいです。


1897年に、ある事件をきっかけにウェストコットは脱退を余儀なくされ、GDの運営が弱体化していきました。
そして、メンバー間の内紛や、1901年の詐欺師が絡んだ醜聞事件などによって、1903年には、GDは「A∴O∴」、「暁の星」、「聖黄金の夜明け」の3つに分裂しました。

また、GDの教義や儀式が、秘密厳守の誓いを破ったメンバーによって、徐々に公開されていきました。
中でも、イスラエル・リガルディーが、1937-40年にかけて、「黄金の夜明け」4刊本で、GDの教義、儀礼体系のほとんどを公開してしまいました。
これによって、GD系の結社は壊滅的な打撃を受けました。

しかし、これによってGDの魔術は、途絶えませんでした。
ダイアン・フォーチュン、ポール・フォスター・ケース、リガルディーといった分裂以降の第2世代のメンバーや、その弟子達によって、継承され、拡大していきました。
ですが、その形は、通信教育や書籍、WEBを通したものに変化していきました。


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