中国禅の流れ2(唐代禅から宋代禅へ)

「中国禅の流れ1(北宗禅から南宗禅へ)」から続く、中国禅の流れの後編です。

このページでは、唐代禅の主流となった洪州宗の馬祖の「祖師禅」から、宋代禅の主流となった臨済宗の大慧の「看話禅」までを簡単にまとめます。


<馬祖道一と洪州宗>

洪州宗の祖である馬祖道一(709-788)の禅は、「祖師禅」と称され、唐代禅の主流となりました。
彼の師は慧能の弟子の南嶽懐譲で、その法系は、次のように受け継がれました。

慧能→南嶽懐譲→馬祖道一→百丈懐海→黄檗希運→臨済義玄

馬祖の禅の特徴は、「即心是仏」、「作用即性」、「日用即妙用」、「平常心是道」、「平常無事」などの言葉で表現されます。

「作用即性」といっても、荷沢宗のように、「体(性)」と「用」が不二であるとは説かず、「用」がそのまま「体(性)」であると説きます。

「今、見聞きし、知覚しているのが、もともと汝の本性であり、本心である」(馬祖語録)

そのため、馬祖は、日常の心身の働きから離れた「体(性)」、つまり、「心の本体」や「智恵」を説きません。
ですから、「即心是仏」の「心」は、働いている「心」です。
日常の心・行為がそのまま仏であるとして、そんな仏を「実相法身仏」とも表現します。
そして、作為のない「あるがまま」の心、生身の人間を肯定します。

「道を修めようとする作為、あるいは道に向かおうとする目的意識、それから一切がすべて汚すことである。…平常心、それがそのまま道なのである。…それは、作為なく、是非なく、取捨なく、断常なく、凡聖の対立なきものである。…行住坐臥それらすべてがそのまま道なのである」(馬祖語録)

ただ、馬祖は、いつも、そのように説いていたわけではなく、時には、まったく神会と同じように説くこともありました。

馬祖は、教えにおいては、生身の人間をそのまま指し示す「直指」を特徴とします。
例えば、相手を去り際に呼び止めて、振り返ったその行為、それを行った作為のない心を、指し示します。

また、「直指」とは逆なものが「喝」です。
「喝」は、迷いが生まれた瞬間を指し示して、大声というリアルな体験で迷いを破ります。

今、この場の人間を重視する、我々が良く知る、中国禅の姿です。

洪州宗の禅は以上のような特徴を持ちますが、そのため、見性・開悟のない、煩悩を持った心・行為を、そのまま肯定してしまうといった批判が、荷沢宗の宗密、石頭宗、宋代の圜悟など、各方面からなされました。


<宗密の洪州宗批判>

圭峰宗密(780-841)は、荷沢宗の五祖であり、華厳宗の第五祖です。
彼は、華厳教学を使いながら、荷沢宗の立場から、禅の他宗を批判しました。

禅宗は「不立文字」が特徴で、教学を持たないことが多いため、論理的に自らの立場を主張したり他派を批判することは少ないのですが、華厳教学を学び「教禅一致」を主張する宗密は例外的です。

特に注目すべきは、馬祖の洪州宗に対する批判です。

一般に、荷沢宗の禅は「如来禅」、洪州宗の禅は「祖師禅」として対比されます。
宗密は、荷沢宗の禅を「最上乗禅(如来清浄禅)」と称し、達磨がもたらした頓悟の禅であり、自性清浄心を日常で働かせる禅だと言います。

荷沢宗は「体用不二」を説きます。
馬祖の言葉の「作用即性」も、言葉の上では同じ意味です。

ですが、宗密は、「自性の本用」と対象的な「随縁の応用」を区別して、前者を荷沢宗の「用」、後者を洪州宗の「用」であるとしました。
荷沢宗の「自性の本用」は、心に備わった本来的で透明な映すという働きです。
これに対して、洪州宗の「随縁の応用」は、個々の物を対象化する煩悩性の働きだと言うのです。

つまり、洪州宗は迷いと悟りを区別せず、洪州宗の「用」は、「体」が欠如した単なる迷いでもあると批判したのです。

荷沢宗の立場からすれば、北宗は「体」のみで、洪州宗は「用」のみです。

ですが、私見を述べれば、華厳教学の「四種法界」で考えると、北宗禅は「理法界」的です。
そして、荷沢宗は「体」寄りで、神会が言うように「理事無礙法界」的です。
また、洪州宗は「用」寄りで「事事無礙法界」的ですが、「事法界」に陥る危険もあるのということではないでしょうか。

・北宗 :守一不移:体重視      :理
・荷沢宗:如来禅 :体寄り:自性の本用:理事無礙
・洪州宗:祖師禅 :用寄り:随縁の応用:事・事事無礙


<向上>

神会、宗密は、「体用不二」、「定慧不二」を説きましたが、荷沢宗の禅は、その比重はどちらかと言えば、「体」、「定」の方にありました。

洪州宗の「用」は宗密から「随縁の応用」と批判されましたが、実際は、比重を「用」の方に移したものでしょう。

その後の禅の歴史は、この比重の偏りを移し続けた歴史という見方もできます。
石頭宗が「体」寄りに戻し、さらに雲門宗は「用」寄りに戻し、という具合にです。

ですが、この比重の移動は、修行階梯を螺旋状に上昇しているとも解釈でき、「向上」とか「超越」と表現されます。

洪州宗にある「仏向上(法身向上、超仏越祖)」は「用」への上昇ですが、これは「体(仏性)」を「用」として働かせる段階です。
次に、石頭宗にある「自己向上」は「体」への上昇ですが、これは「用(自己)」が固まって「体」を欠くことを避ける段階です。
次に、雲門宗にある「向上自己向上」とでも言うべきものは「用」への上昇ですが、これは再度、「体」を欠かさずに「用」を働かせる段階です。


<大慧と宋代禅>

唐代の禅では、祖師の説法や問答の記録として語録が重視されました。
それらは、仏教用語で教義を説くのではなく、日常の中での具体的な譬えの形で表現されました。

ですが、寺院や僧が官僚化された宋時代には、禅も制度化されました。
そして、唐時代の個々の記録だった問答の中から、特に評価されたものが「古則」と呼ばれるようになり、それらが、悟りへ導く普遍的な問答である「公案」として整理されるようになりました。

そして、その「公案」を様々に論評する「文字禅」が重視されるようになりました。

ですが、唐代に具体的な意味を指し示していた「問答」における譬えの表現は、時代が変わってその意味が分からなくなるものがありました。
そのため、それらを、論理を超えた「開悟(見性)」、つまり、無分別な空の智恵へと導く、無意味な表現であると解釈するようになりました。
その超意味的な言葉は、「活句」と呼ばれます。

臨済宗の圜悟克勤(1063-1135)の講義録「碧巌録」は、「文字禅」を代表する書です。
圜悟は、洪州宗のあるがままの禅を批判して「大悟」の重要性を主張し、また、「公案」を「活句」として解釈しました。

その後、圜悟の門下の大慧宗杲(1089-1163)が、「公案」の「活句」に集中して坐禅を行う「看話禅(話頭禅)」を確立しました。
「公案」の「活句」に集中することで、「疑団」、つまり、意味を解決できない葛藤いだき、それが爆発することで「開悟」に至るのです。

「活句」による「公案」の例には、有名な「趙州無字」があります。
これは、無門慧開(1183~1260)が「無門関」の第一則として取り上げたことでも知られます。

「無字」の「公案」は、「犬に仏性があるか」という問に対する返答の「無」を、「ない」ではなく、「有無」の二元論を超える「活句」として解釈します。
それを単に「空」や「無」という概念として理解するのではなく、それへの集中を「大悟」に至るきっかけにするのです。

*「無字」の公案の瞑想の詳細は姉妹サイトの下記を参照してください。
無字の公案の瞑想(臨済宗

ちなみに、鈴木大拙や西田幾多郎らが参禅し、影響を受けたのも大慧流の「看話禅」です。

また、大慧は、曹洞宗の宏智正覚の「黙照禅」を、ただぼんやり座っているだけとして批判しました。

ですがその宏智には、「事に触れずして知り、縁に対せずして照らす…その知おのずから微なり…その照おのずから妙なり…かつて分別の思なし」という言葉があります。
これは神会や宗密に近いと感じます。


<禅宗の修行階梯>

部派仏教やインド・チベットの大乗仏教は、煩悩の理論、止観の理論に基づいて、修行の階梯を体系化しています。
ですが、禅宗は「頓悟」と「任運(あるがまま)」を説くため、煩悩を滅していく修行の階梯を体系化しません。

「頓悟漸修」の「開悟」の後の「漸修」については、「機関」や「言栓」、「向上」といった言葉でおおまかな段階が示されます。
上に書いたように、「向上」は何段階かで考えることもあります。

ですが、これらはしっかりと体系化されているとは言えず、それを進めたのは、日本の白隠です。

ちなみに、禅と同様に、「頓悟」と「任運(あるがまま)」を説くゾクチェンは、副次的な行として「開悟」までの行が整備され、「後悟」の修業階梯も体系化されています。

posted by morfo1 at 09:19Comment(0)中国

中国禅の流れ1(北宗禅から南宗禅へ)

中国禅の思想潮流を、開祖の達磨から、東山法門、そして、荷沢宗まで、簡単にまとめます。
特に、「南宗禅(荷沢宗)」の初祖である神会に重点をおいて紹介します。

神会は、従来の禅宗を「北宗」とひとまとめにしてその坐禅を批判して、ほとんど坐禅修行を否定するような「頓悟禅」を主張し、その後の禅の潮流に大きな影響を与えました。
また、「見性」、「自然知」といった概念を使って、「心の本体」に備わった「知」に気づくことが大切だと主張しました。


<達磨の二入四行論>

禅宗の開祖とされる菩提達磨(ボディ・ダルマ)は、5-6Cの人とされていますが、実在人物であるかどうかも疑われる伝説的人物です。
一般にインド人とされますが、最も古い記録では、ペルシャ生まれの胡人(サマルカンドのイラン系のソグド人)です。

達磨の禅は、弟子の曇林が語録の形でまとめた「二入四行論」で知られていますが、曇林の思想が大きく反映されているかもしれません。

「二入」というのは、「理入」と「行入」です。
「理入」は理論、「行入」は実践でその方法が4種なので「四行」と呼ばれます。

「理入」は、経典によって仏法を知り、凡夫も聖者も平等な本性を持っていることを知ることです。
そして、分別を止めて真理と一体化し、作為のない状態になることです。
達磨の弟子の曇林は、如来蔵思想の経典である「勝鬘経」の研究者だったので、如来蔵思想の影響を見ることができます。

一方、「行入」というのは、次の4つの、実践的な生き方のことです。


・報怨行 :苦を受けても、自分の過去世の悪行の報いであると考えて、他人を憎まずに、真理と一つになること
・随縁行 :「私」は無我であり、楽を受けても、過去の因縁によるものであって、縁が尽きれば終わりだと考えて、喜ばず、道に沿うこと
・無所求行:身体がある限り苦はまぬがれないと見抜き、執着をなくし、真実の道を歩むこと
・称法行 :自己が本来は清浄であると理解し、空を悟り、執着をなくし、法に従って行動し、六波羅蜜を作意なしで行うこと


達磨の「四行」は、小乗仏教の修行法である「四念処」と対比して示されたものかもしれません。
「四念処」が坐禅による瞑想修行であるのに対して、「四行」は生活中の実践法である点が、特徴的な違いです。

「二入四行論」には、在家主義を主張した「維摩経」からの引用が多くあって、生活中の実践法を説く点には、「維摩経」の影響もあるのでしょう。

また、「二入四行論」は「作為」のないことを重視します。
これは老荘思想の影響を推測できますが、ひょっとしたらゾクチェンなどと共通する西方起源の思想の影響があるのかもしれません。


<東山法門>

初期の禅者は、頭陀行(托鉢などの清貧の修行)の実践者であり、「楞伽宗」とも呼ばれました。
その後の、唐初の第四祖道信、第五祖弘忍の頃の禅の一門は、「東山法門」と呼ばれました。
法系は、次の通りです。

達磨→恵可→僧燦→道信→弘忍→神秀

「東山法門」は、天台智顗の「摩訶止観」との対決から、天台宗的な総合より、シンプルな一行を選びました。
また、禅宗は「教外別伝」と呼ばれますが、経典では、「華厳経」、「大乗起信論」、「維摩経」、「金剛般若経」などを重視し、また、華厳教学とも結びついていきました。

道信(580-651)は、「楞伽師資記」によれば、次のように語りました。
「坐禅の時は、必ず自己の意識の最初の動きに注意しなければならぬ。…すべてを知りながら、分別のとらわれを越えたところを完全な智と呼ぶ」
「(起信論の究竟覚に関して)一心の動き始めによく注意するならば、心にはもとより妄念の始めなどないのだ。…そうした心の内面を見届けることができてこそ、心は常に安住するのであり、これを絶対の目覚めと名付ける」

つまり、想念が起こる瞬間を意識することで分別にとらわれない、という教えを説いたのです。
これは、実践上の特徴的な教えであり、小さいながら、後世まで影響が続きました。

ですが、道信の禅の基本は、何か一つのものに心を集中させる「守一不移」によって、無分別な法界に同化する「一行三昧」です。
次の弘忍も、「一」の字に集中して、法界に留まる「看一字」という禅を行いました。
これらは「守心」とも表現されます。

第六祖の神秀は、分別を離れて真如に目覚めることを強調し、煩悩(塵)を払って清浄な心(鏡)を悟ることを説きました。
神秀は、その禅を「守心」ではなく「観心」と表現しました。

ちなみに、神秀の二代後の摩訶衍は、チベットに行ってインド仏教のカマラシーラと論争して負けたされます。
ただ、こういった論争には政治がからみます。


<神会の北宗批判>

神会(680-762)は、ソグド系中国人で、732年に、洛陽の大雲寺で、神秀を代表として東山法門の禅を批判して、仏教界に登場しました。
彼は、東山法門の禅をひとまとめにして神秀に代表させて「北宗禅」と呼び、それを批判して自らの立場を宣伝したのです。

神会以降、彼の系列の禅は「南宗禅」、東山法門の禅は「北宗禅」と呼ばれるようなりました。
ですが、この対立は、中唐期頃までには、なくなっていきました。

神会は、禅宗の正統な法系を次のように主張しました。

達磨→恵可→僧燦→道信→弘忍→慧能

第六祖を、神秀ではなく、自分の師である慧能(638-713)とし、「南宗」の祖として祭り上げたのです。
神会は、達磨が印可の証として恵可に袈裟を授け、現在、それを慧能が持っていると、根拠のない主張を根拠としました。

ですが、実際には、慧能がどのような禅を説いたのかは不明です。


<神会の禅思想>

神会は、達磨が「如来禅」の祖であったと主張しました。
つまり、「南宗」の禅を「如来禅」であると名付けているのです。

また、彼は、「南宗」の禅の特徴を「頓悟」とし、「北宗」は「漸悟」であるとして区別しています。

「漸悟」は、煩悩をなくしていく修行の結果、悟りを得るという考え方ですが、「頓悟」は、煩悩があっても清浄な心の本体は変わらずに存在しているので、それに気づけば良いという考え方です。
ただ、「頓悟」しても、その後、智恵を伸ばしていかなければいけないので、「頓悟漸修」となりますが。

・北宗:神秀:漸悟:煩悩を払って仏性を現す
・南宗:神会:頓悟:煩悩を払わずとも仏性は現れている

学問的には、どちらも如来蔵思想だとしても、「漸悟」は「仏性内在論」、「頓悟」は「仏性顕在論」と呼ぶことができます。

神会は、「煩悩即涅槃」を説明して、次のように語っています。
「煩悩即涅槃というのは、…去来する迷・悟の相の区別はあるが、その相の去来する場である菩提心そのものには、本来いかなる動きもない」
「菩提心」は仏性、心の本体のことです。

また、神会は、「頓悟」を、「理事無礙法界」的な認識として理解しているようで、「事と理が一つに融解するのが頓悟である」(神会語録)とも語っています。
つまり、「事」は念、分別であり、迷いがあっても、「理」である心の本体がいつも存在することに気づけば良いのです。

一方、神会は、「北宗」の禅を次のように否定しました。
「単に心を集中して禅定に入るのは、判断停止の空に落ち込むこと…」(南陽和上頓教解脱禅門直了性壇語)
「悟りの時には禅定がなく、禅定の時は悟りがない…」(同上)

つまり、単に念をなくす「定」ではなく、心の本体を見る「智恵」が必要だという批判です。

また、次のように語ります。
「定を得ようと行ずることが、そもそも妄心である…」(神会語録)
「妄心が起こらないことを戒、妄心がないことを定、心に妄がないことを知るのが慧」(南陽和上頓教解脱禅門直了性壇語)
「念の起こらぬことを坐とし、自己の本性を見るのを禅とする」(菩提達磨南宗定是非論)

つまり、作為することは妄念でしかなく、妄念をなくして、心の本体には妄念がないことを知ることが必要だという主張です。

作為的な坐禅の否定は、「ただ坐れ」という曹洞宗に近い考え方ですが、神会は、「頓悟」を主張しているので、ほとんど坐禅修行を否定します。


<自然知>

神会は、「心の本体」に、自然に「知」が備わっていることを重視します。

この「知」を、「見性」、「本知」、「自然知」などと表現しています。
「自然知」という言葉は、もともと道家の言葉で、「法華経」でも説かれます。

神会は、「知」について、次のように語っています。
「澄み切った鏡がもともと常にものを映すという、それ自らの本質的な働き(自性の照)を持つからである。同じように、人々の心はもともと清浄で、自然にすぐれた智恵の光があって、完全な涅槃の世界を照らすのである」(南陽和上問答雑徴義)
「寂静なる本体を定といい、その定から自然知が出て、寂静なる本体自身を知る、それを慧というのである」(神会語録)
「慧とはその無分別な本性が空虚でありながら無限の作用を具えているのを見ること」(同上)

「知」は、自分自身、つまり「心の本体」とそれが「知」の働きを持っていることを見る「知」なのです。

神会は、禅宗の中で初めて「見性」という言葉を打ち出しました。
「見性」とは、「心の本体」である自性に目覚めること、開悟のことですが、「自然知」と別のものではないでしょう。

また、神会は、「心の本体」が無分別な「空」に留まらずに、「知」を持って働くこと、その活動性を「無住」とも表現しました。

「心の本体」が「自然知」を持つとする神会の思想は、ゾクチェンと似ています。


<定慧・体用の不二一体>

神会は、「定と慧」、つまり、「体と用」の不二一体を説きます。
比喩的には「鏡と反映力(照)」、あるいは、「灯と光」の不二一体です。

上述した、「心の本体」は「体」、「自然知」は「用」に当たります。

中国仏教は、インド仏教にはない概念の、「体」と「用」の観点を重視します。
これは、無分別(空)と分別(念)、あるいは、密教的な用語では「非顕現」と「顕現」に当たるでしょう。

神会は、次のように語ります。
「真空を体とし、妙有を用とす」(頓悟無生般若頌)
「空虚なる体の上に知が起こって世間の諸相を善分別する、これが慧である」(神会語録)

つまり、心の本体の「空」と一体なら、「用」は「妙有」、「善分別」であり、単なる「有」、「分別」、「妄心」ではないのです。
「妙有」や「善分別」は、インド仏教の概念では、「後得知」に近いものでしょう。

・体:定:真空:無分別:心の本体:鏡:灯
・用:慧:妙有:善分別:自然知 :照:光


* また、荷沢宗の五祖の宗密は、禅の他宗を批判しましたが、この件は「中国禅の流れ2(唐代禅から宋代禅へ)」をお読みください。


<無住の保唐宗>

神秀や慧能の兄弟弟子に慧安がいます。
その法系であり、慧能にも学んだ無住を祖とするのが保唐宗です。
慧安の禅は、神秀より慧能に近かったと想像されます。

無住は四川で活動したのでチベットにも近く、保唐宗の法系には、チベット仏教ニンマ派のゾクチェンの法系と重なる師がいるようで、両者の交流を感じさせます。

無住の禅は、無分別な「無念」でいることを重視しました。

ですが、次のような説法があります。

「私の禅は…その用には動と静の区別なく、不浄と清浄の区別もなく、良い悪いの区別もない。ピチピチ(活溌溌)していて、常にすべて禅の状態である」

活きがいい魚がピチピチ跳ねる様子を「活溌溌(地)」と言いますが、この表現は、臨済など、何人かの禅師が使っています。
ですが、最も古い記録が無住のものです。


<南宗禅のバックボーン>

禅宗は達磨に始まるので、シルクロード経由、北中国発祥です。
ですが、南宗禅は、慧能も南中国(広東省)にいましたし、南中国から発祥したと言っても過言ではありません。

ですから、南宗禅には道教の影響が強く、現世肯定的なのでしょう。
道教でも、北宗に対して南宗が現世肯定的です。

また、南中国には、イスラムの居住地があって、スーフィーの行者もいました。
禅が伝える物語や、師の振る舞い方、修行法には、スーフィーのそれとそっくりなものがあります。
スーフィズムの研究家のイドリス・シャーは、禅がスーフィズムから生まれたと書いています。
そう断言するのは極端過ぎるとしても、南宗禅にはスーフィズムの影響があった可能性は高いでしょう。

posted by morfo1 at 08:52Comment(0)中国

法蔵と華厳教学

大乗仏教の代表的な経典である「華厳経」を元にして中国で生まれたのが「華厳宗」です。
そして、その教学を大成したのが法蔵です。

「華厳経」は悟りの境地を表現した経典とされ、華厳教学はそれを「四法界説」、「十玄縁起説」などで合理的、哲学的に体系化しました。
華厳教学の世界観は、「円融無礙」、「重重無尽」、「一即一切、一切即一」といった言葉でも知られています。


<華厳経>

「大方広仏華厳経(以下「華厳経」)」は、4C頃に中央アジアのシルクロード都市で、複数の経典をまとめて作られたもので、翻訳によりますが、34~45品からなります。

中でも、菩薩の修行段階を説いた「十地品」(これは単独で「十地経」として存在していました)、善財童子の求道物語を説いた「入法界品」が有名です。
他に、仏の命の現れを説いた「性起品」、 無数の蓮華蔵世界を説いた「盧遮那仏品(華蔵世界品)」などがあります。

蓮華蔵世界は、須弥山宇宙像とは異なる大乗仏教の宇宙像で、大蓮華の中に無数の香水海と世界種があり、その各々の世界種の中に多数の仏と無数の世界があるとするものです。
この蓮華蔵世界は、「華厳経」の教主である宇宙的な毘盧遮那仏が請願によって作り出したものとされます。

「華厳経」は、部分が全体を映し、部分と全体、そして部分同志が妨げ合わないという無礙な世界観で知られます。
「華厳経」では、例えば、次のように書かれています。

「蓮華蔵世界海の中においては、一々の微塵の中に一切の法界を見ることができる」(盧遮那仏品)
「菩提を求める心を発するならば、微細な世界がすなわち大世界であり…」(初発心菩提功徳品)
「菩提心を発する時、永遠の時間が一瞬に収まり…」(初発心菩提功徳品)

この世界観は、法蔵の「華厳五教章」などでは、「因陀羅網の譬え」、つまり、帝釈天の宮殿を荘厳する「因陀羅網」は、無限の結び目に宝珠がくくられていて、それぞれの宝珠が他のすべての宝珠を映し、その映された個々の宝珠の中にもまたすべての宝珠が映っている、を使って説明されます。

この華厳経の「一即一切」の世界観は、西方世界にも伝わり、新プラトン主義のプロティノスのヌースの世界の描写に影響を与えたと推測する説もあります。


<華厳宗>

「華厳経」の初の漢訳は、400年頃のブッダバトラによるものです。
その後、隋唐時代の中国で、この経典を根拠とする「華厳宗」が興隆しました。

ですが、「華厳宗」の先駆としては、世親の「十地経論」を根拠とする「地論宗」があって、唯識説と如来蔵説を研究していました。

ちなみに、日本では南都六宗の一つで、奈良の東大寺がこの宗派の寺です。

華厳宗は、天台宗と同様に、声聞、独覚、菩薩の三乗に対して「一乗」を名乗りました。
ですが、天台の「一乗」が三乗を越えた「同教」であるのに対して、華厳宗の「一乗」は三乗を内に包摂する「別教」であり、真の「一乗」であると、華厳宗は主張しました。

また、天台宗は「性具」という概念を特徴とし、一方、華厳宗は「性起」を特徴とする言われます。
「性起」は、如来蔵系の経典の「如来性起」に由来し、「如来蔵(仏性)」が個々人に顕現することを意味します。
天台宗の「性具」は凡夫の側からの見解、向上門で、禅では臨済宗が近い立場です。
それに対して、華厳宗の「性起」は仏の側からの見解、向下門で、禅では曹洞宗が近い立場です。

そして、華厳宗では、修行論に関して「三生成仏」を主張します。
始教では成仏までに三大阿僧祇劫かかると説きますが、「華厳経」は、優れた教えであるため、3回の人生で成仏できるとするものです。
最初の生では華厳の教えに出会って菩提心の種子を生み、次の生では修行を完成し、3つ目の生で成仏できるのです。


<五師>

中国華厳宗の始祖は、伝説的な人物の杜順(557-640)とされます。
彼は、「法界観門」で三種法界(三種観法)を説きました。

第二祖の智儼(602-668)は、「華厳経」の注釈書「華厳経捜玄記」や、「一乗十玄門」などを著し、華厳教学の基礎を築きました。
彼は、「華厳経」に出てくる「性起」を重要概念としました。

また、智儼は、教相判釈(経典の分類評価)として、次のような「五教判」を定めました。

1 小乗
2 初教     :般若経系・唯識系経典
3 終教     :如来蔵系経典
4 頓教     :維摩経
5 円教・同教一乗:法華経
   円教・別教一乗:華厳経

また、様々な縁起の全体である「法界縁起」を、「異体」と「同体」という概念を使いながら、「十玄門」として説きました。

次の第三祖の賢首大師法蔵(643-712)はソグド系(サマルカンドのイラン系)中国人で、華厳教学を大成しました。
著作には、教学綱要書「華厳五教章」、「華厳経」の注釈書「華厳経探玄記」、「般若心経」の注釈書「般若心経略疏」などがあります。

法蔵は、法相教学に対する華厳教学の優位を確立することを目的として、「華厳五教章」などで教学を体系化しました。
彼の思想は、主に四つの説、「三性同異義」、「縁起因門六義法」、「十玄縁起無礙法」、「六相円融義」で表現されます。
「三性同異義」のみが法蔵の独創で、他は智儼から継承して発展させたものです。

第四祖の澄観(738-839)は、起信論、三論宗、天台宗、南北禅宗(牛頭宗が中心)を学んだ後、華厳宗の門下となりました。

彼は、「法界玄鏡」などを著し、杜順の「法界観門」と法蔵の「十玄説」を統合して、三論宗の空観の観点から「四種法界説」を立てました。

また、「五教判」の「頓教」と「終教」を入れ替えて、「頓教」に禅宗を入れました。
これは、四法界説に合わせて、「頓教」=「理法界」、「終教」=「理事無礙法界」、「円教」=「事事無礙法界」とするためでしょう。
この対応だと、禅は「理法界」になるのですが、禅の真意は「理事無礙法界」にあるとしました。

また、禅の「不立文字」、「教外別伝」を批判し、禅の実践と教学の両立を主張しました。

第五祖の宗密(780-841)は、儒学、そして、南宗禅の荷沢宗で禅を学んだ後、澄観の門下となりました。
彼も、実践と教学の両立である「教禅一致」を主張し、荷沢宗の立場から洪州宗などの禅宗の他派を批判しました。


<四種法界>

華厳教学で有名な「四種法界説」は、4段階の世界の見方、境地です。
始祖の杜順が「法界観門」で三種の法界の観法を説いたことを元にして、第四祖の澄観が「法界玄鏡」で体系化したものです。

また、法蔵も「探玄記」において、四種法界や三種観法という形ではありませんが、それらに相当するものを説いています。

名称の対応は下記の通りです。

(法界観門)   (探玄記)  (法界玄鏡)
1   ―    :  ―   :事法界
2 真空第一観  :無住不二法門:理法界
3 理事無礙観第二:理事無礙門 :理事無礙法界
4 周遍含容観第三:事融相摂門 :事事無礙法界

1の「事法界」は、通常の煩悩を持つ人間が見る世界です。
分別知によって個々の事物である「事」を実体として、その個的な差異を見ます。
煩悩の世界は観法とはならないので、「法界観門」では扱われませんでした。

2の「理法界」は、無分別な空観です。
「理」は「空」による普遍、同一性を意味します。
ですが、「空」の否定性だけではなく、「縁起(依他起性)」の肯定性を合わせて含みます。

3の「理事無礙法界」は、1の「事」と2の「理」が、同時に互いを妨げない見方です。
この段階は、天台宗の認識とされます。

法蔵はこの法界を、「大乗起信論」に独特の如来蔵思想に基づいて説きました。
つまり、「理」は「真如」であり「如来蔵」であり、それが、個の世界を生み出します。
法蔵は、その「空」に留まらない「真如」の働きを「如実不空」と表現し、それが煩悩に汚染されないとしました。

「大乗起信論」では、真如の心「心真如」と無明の心「心生滅」の両方を「和合」して「阿梨耶識」と呼びます。
「理事無礙法界」は、両者が「相即相融」する世界です。

4の「事事無礙法界」は、華厳宗に独自の境地とされます。
個々(事)が現象的に自己同一性を保ちながら、一対一で互いに他を含み含まれる存在と見ます。

法蔵は、「事事無礙」という言葉は使っていませんが、「探玄記」では「事融相摂門」としてこの法界を説いています。

「事事無礙法界」の境地の理論化は、杜順の段階では、まだ、個の固有性を十分に確保できていませんでした。
法蔵が「相即相入」という概念を導入することで、個を主とする立場を説くようになりました(後述)。

「事事無礙法界」は、ライプニッツのモナド論と似ていますが、その違いは、非実体主義で認識論的であること、そして、動的な関係があることでしょう。


<法蔵の空観>

法蔵は、「般若心経略疏」で、「空」=「自」と「色」=「他」の相補的な関係から「般若心経」の「空」を解釈しました。

法蔵は、「般若心経」の四句「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」を、次の4つの場面に対応させて解釈しました。

1 第四句  :空が隠れて色が前面に出る(空の観点から色を見る)
2 第三句  :色が眠って空が前面に出る(色の観点から空を見る)
3 第一・二句:空と色が共に成立する
4 明言されず:空と色が共に眠る

第四の場面は、究極の境地で、「般若心経」には明言されず、暗示に留まっているとします。

この4つの場面は、「四種法界」とは対応はしていませんが、似たところがあります。
法蔵は、「般若心経」を強引に華厳宗の立場から解釈しています。
この解釈は、「空」も「色」も「法界」の様態して等価に考えるもので、中観派の空観とは異なり、中国的です。


<法蔵の三性説、唯識観>

法蔵が「華厳五教章」で説いた「三性同異義」は、唯識派(法相宗)の「三性説」を「起信論」の真如説に基づきながら、一元的な縁起世界の無礙を理論化したものです。

これは、「三性」のそれぞれに下記の二義があり、その一義においては三性は同じであり、もう一義において異なる、つまり、「三性」はそれぞれが不一・不異の関係があるとするものです。

・円成実性 :不変/随縁(現象世界を生む)
・依他起性 :似有(仮に存在すること)/無性
・遍計所執性:情有(迷いの心において存在)/理無(道理として存在しない)

これは、唯識派の「三性・三無性」とは構造が異なります。
また、唯識派が「三性」を遍計所執性から向上的に語るのに対して、華厳宗は円成実性から向下的に語ります。

法蔵は、これを論証するに当たって、ナーガルジュナの四句分別を使いましたが、四句否定だけでなく四句肯定も行いました。

また、法蔵は、「華厳経」に出てくる「三界唯心」を説明するに当たって、法相宗(唯識派)の「五重唯識観」を発展させて「十重唯識」としました。
これは10段階の認識の深まりに対応し、「五教判」の大乗の四教を順に進みます。

まず、客観を心に帰一させ、阿頼耶識から如来蔵へ進み、如来蔵と他の識との無礙な状態に至ります。
第7段階が「理事無礙」、第8以降が「事事無礙(事融相摂)」に相当し、「相入」、「相即」といった概念も使って説かれます。


<縁起因門六義法>

智儼は、「捜玄記」で縁起を説くにあたって、「有力」、「無力」という概念を使いました。
「有力」とはそのもの自身の因だけが結果を生じさせる力があること、「無力」とは因にその力がないので、他の縁によって結果が生じることです。

法蔵は、「華厳五教章」の「縁起因門六義法」で、これを継承し、唯識派の「種子の六義」を種子以外にも拡大して縁起を説きました。

法蔵はここで、あるものが「有力」で縁を持たず因が主力の場合と、「有力」だが因と縁がバランスを取って縁を持つ場合、そして、「無力」で縁を持ち縁が主力となる場合の3つに分けます。
そして、それぞれに無性の面と似有の面を考えて、「六義」で分析しました。

このように、華厳教学では、因と縁は互いに他を奪い合う関係にあります。
この関係は、後述する「同体・異体」、「相入」という概念とも関係します。


<十玄縁起>

現象の円融無礙な縁起の関係を、10種の観点から説いた説が「十玄縁起」です。

最初に、智儼が「一乗十玄門」で説き、法蔵が「五教章」でこれを解説し、「探玄記」で修正して深めました。
それぞれで、十玄の名称や順序は異なります。

「探玄記」の「十玄門」と、その「五教章」での対応は次の通りです。

(探玄記)   (一乗十玄門・五教章)
1 同時具足相応門 :そのまま
2 広狭自在無礙門 :7の諸蔵純雑具徳門
3 一多相容不同門 :同名で2
4 諸法相即自在門 :同名で3
5 秘密顕了倶成門 :6の秘密穏顕倶成門
6 微細相容安立門 :同名で5
7 因陀羅微細境界門:同名で4
8 託事顕法生解門 :同名で10
9 十世隔法異成門 :同名で8
10 主伴円明具徳門 :9の唯心廻転善成門

「探玄記」の順で、簡単に説明します。

1は、すべてのことが同時に起こっていることを見ます。
2は、一(狭)が一切(広)を蔵している「純」と、一切が一に蔵される「雑」の関係を見ます。
3は、一つのものが一切を包み込んでいる作用の「相入」の関係を見ます。

4は、一つのものが一切のものである「同体・異体」の「相即」の関係を見ます。
それゆえに、初発心を起こした菩薩は、すでに仏と一体になります。
5は、それぞれのものにおいて隠れているものと顕になっているものが同時に成立していることを見ます。
6は、微細なものの中に一切の作用が入り込んでそれが顕現している関係を見ます。

7は、因陀羅網の譬えのように、重重無尽に反映し合う、「相即相入」の関係を見ます。
8は、すべての事物の重重無尽の関係、個々に特徴があって他の事物を象徴的に表現していることを見ます。
「事」という言葉があるように、事事無礙を表現しています。
9は、あらゆるものが時間的に区別があっても「相即相入」して成立していることを見ます。

10は、如来蔵自性清浄心が諸法(現象)を生じさせる「性起」を見ます。
「唯心廻転善成門」は、「理事無礙」的と言われますが、如来蔵が「自性を否定して諸法を生じさせる」と書かれているため、「事事無礙」的な側面もあります。
ですが、「主伴円明具徳門」の表現はより「事事無礙」的になっています。
個々の事物は主であり他から見れば伴となる関係です。


<異体・同体、相即・相入>

智儼は「一乗十玄門」で、「異体」と「同体」を重要な概念としました。

「異体」は、個々のものが他の縁を受けて成り立つことです。
「同体」は、個々の中に他のものを含んでいて、それ自身の因で成り立つことです。
つまり、他との関係を、「異体」は外に見て、「同体」は中に見る観点です。

法蔵は、縁起を「異体/同体」の観点と「体/用」の観点を組み合わせて考えます。

・異体:外との関係:縁で成立
・同体:内での関係:因で成立

「体」、つまり、存在・基体の観点では、あるものが「有」であると見る時、他のものは必ず「空」となり、他はあるものに即し、包み込みます。
その逆の関係もあります。
つまり、あるものは他のものであり、他のものはあるものとなります。

法蔵は、この関係を「五教章」では「相即」、「探玄記」では「相是」と表現します。

また、「用」、つまり、作用の観点では、あるものが他のものを成立させている時、あるものは「有力」であり、他は「無力」となります。
「有力」というのは、力を働きかけて入り込むことで、「無力」というのは、潜在化することです。
その逆の関係もあります。
つまり、自他は互いに成り立たせています。

法蔵は、この関係を「五教章」では「相入」、「探玄記」では「相在」とも表現します。

・体:有か空か  :相即
・用:有力か無力か:相入

この「相即」、「相入」の関係は、「異体」においても、「同体」においても存在します。
「同体」の「相即」の関係については、それを「一即多」、「多即一」と表現します。
また、「相入」の関係については、「一中多」、「多中一」と表現します。

・同体の相即:一即多・多即一
・同体の相入:一中多・多中一

法蔵は、自然数の一から十までの個々の関係で「相入相即」を説きました。
これは、「華厳経」の中で説かれる「十銭の比喩」と言われるもので、智儼も解説しています。

特に、「相入」の概念は、力動的な関係を示すため、注目すべきものです。
法蔵は、これについて、「ここに現象しているのはあくまでも作用の奪い合い」と「華厳遊心法界記」で書いています。
彼は、「事事無礙(事融相摂)」を、個同志が力のせめぎあいを行っている動的な関係として見たのです。


<六相円融>

「六相円融」も、「十玄縁起」と同じく現象の円融無礙な縁起の関係を、別の観点から説いたものです。
「六相」という言葉は「華厳経」にあり、それを世親、地論宗、智儼らが説いたものを、法蔵が「五教章」で深めました。

「六相円融」は、各部分がそれぞれの特徴を保ちつつ、他と関係を持ちながら、全体をなしていることを、六相から説きます。
六相とは、「総相(全体性)」と「別相(個別性)」、「同相(一致性)」と「異相(特殊性)」、「成相(統一性)」と「壊相(独立性)」です。

法蔵は、それを具体的には、建物の部分と全体の譬えで説きました。
posted by morfo1 at 09:13Comment(0)中国