カスタネダのドン・ファン・シリーズの思想

カルロス・カスタネダとドン・ファン・シリーズ」に続くページです。
このページでは、カスタネダのドン・ファン・シリーズ(以下「シリーズ」)の思想について、いくつかのテーマを取り上げます。

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<宇宙論、人間論>

最初に、シリーズの宇宙論、人間論を簡単にまとめます。

宇宙には「光の繊維」のような「エネルギー・フィールド」があって、「イーグルの放射物」と呼ばれます。
「イーグル」は一種の神であって、意識を持った「力」であり、「無限」と呼ばれる存在です。
「光の繊維」も、意識を持った生きた存在で、振動しています。

放射物には「大きな帯」と呼ばれるまとまりが全部で40あります。
その内、意識を持つものが8つあります。
8つの中で、「有機的存在」が1つ、「非有機的存在(肉体を持たない存在)」が7つあります。

有機的な生物は、「イーグルの放射物」の一部を包み込んだ「光る球(繭、卵)」のような「エネルギー・フィールド」を持っています。
意識は、この「光る球」の中の輝きです。

「イーグル」は、生物が死んだ時に、その意識(人生体験)を吸い取ります。
つまり、宇宙(イーグル)は我々を使って自己認識するのです。
ですが、「反復(総括)」という方法によって、人生体験の記憶を再体験して複製を作り、それを食べさせることで、死を越えて意識を保ち続けることができます。

人間の「光る球」の表面には、知覚を司る「集合点」があって、これを移動させると、それに応じて、異なる意識の状態、体になり、異なる世界を知覚します。
このように、人間は本来、ミクロコスモスであって、様々な意識状態を持っています。

ですが、人間は、宇宙を旅していて地球に立ち寄った時に、「捕食者」と呼ばれる「非有機的存在」に捕まりました。
そして、「集合点」を固定され、人間の意識は、地球上の日常的な意識状態(トナール)に限定されてしまったのです。
ですが、「内的沈黙」などによって「捕食者」を追い払うことができます。

人間は、「夢見」の技術などによって、「集合点」を移動させ様々な世界を旅して、意識の全体性を獲得すると、「光る球」の内部にあるすべての「イーグルの放射物」が燃えて「内からの炎」となって、「無限」の活動的な面へ融解します。


ちなみに、第6作「イーグルの贈物」で、カスタネダは、ドン・ファン達が別の世界に旅立つ時に、空に光の線を見て、トルテカの祖神でもあるケツァルコアトルを連想しました。
ケツァルコアトルは自らを火葬して、あるいは、心臓を燃やして、天の昇る鳥蛇の神であり、金星神、神官王です。
ですが、シリーズの物語の他の部分には、ケツァルコアトルなどの神話との類似性はさほどありません。

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<盟友、観ること>

シリーズの第一作「ドン・ファンの教え」、第二作「分離したリアリティ」で、カスタネダは、メスカリト(ペヨーテ)、デヴィルズ・ウィード(ダツラ)、「小さな煙」(マジック・マッシュルーム)という3つの「力の草(幻覚性植物)」を体験しました。
そして、それぞれのスピリットと出会い、関係を築いて、受け入れられました。

メスカリトは、正しい生き方を教える保護者的存在とされるので、その性質は一般に「守護霊(ガーディアン・スピリット)」、「指導霊(ティーチング・スピリット)」と呼ばれるものに近い存在です。

デヴィルズ・ウィードと「小さな煙」は、力と助言、変身・飛翔能力を与えてくれる存在で、ドン・ファンは「盟友(ally)」と呼んでいますが、これは一般に「パワー・アニマル」や「援助霊(スピリット・ヘルパー)」と呼ばれるものに近い存在でしょう。

ドン・ファンは、デヴィルズ・ウィードは呪術的な力を与えてくれて、強力だけれど、危険で人間を歪めてしまうと言います。
ですが、「小さな煙」は、「本当の盟友」であり、「観る者」のための存在であると言います。

幻覚性植物をこのようなスピリットと見做すことが、このシリーズの特徴です。
ちなみに、マイケル・ハーナーも、複数の部族の幻覚性植物を扱うシャーマンから学んでいますが、彼は幻覚性植物をスピリットとして扱いません。

ただ、後のシリーズで明らかになりますが、「盟友」というのは、「力の植物」だけに限定されず、非日常的リアリティ(後述する「ナワール」)の一部であって、何らかの力や知識をもたらす存在です。

また、シリーズ後半では、「盟友」は「非有機的存在」の一種であって、実際には、援助者でも人格的存在でもなく、利己的な力だとされます。


ドン・ファンは、「観る(see)」という言葉を特別な意味で使います。
これは単に「見る(look)」のとは違って、「盟友」や人間の霊体などの非日常的リアリティを霊視することです。
場合によっては、日常的リアリティと非日常的リアリティの両方をその外から理解することとしても使われます。

最初は、「観る」ことは「力の草」の力を借りて行われますが、シリーズが進む中で、その力なしに「観る」ことが求められるようになります。


<しないこと、内的沈黙>

カスタネダは、「力の草」の摂取を通して、非日常的リアリティの体験をするようになりましたが、その体験を個人的な空想と見て、日常的リアリティを疑わない世界観をなかなか手放すことができませんでした。

カスタネダは、第一作の「ドン・ファンの教え」の謝辞に、メイガンと共に、ハロルド・ガーフィンケルの名前をあげています。
ちなみに、最後の第11作にも二人の名前をあげています。

社会学者のハロルド・ガーフィンケルは、1967年に「エスノメソドロジーの研究」という書を出版し、現実は相互主観的に形成されるという説を提唱しました。
ガーフィンケルは、UCLAで講義を行っていて、学生に、日常生活の会話の中で、当たり前とされる常識を疑問視するような実験をさせました。
彼は、この作業を「破れ目を作る」と表現しました。

「エスノメソドロジーの研究」が出版されたのは、物語ではドン・ファンによる修行がかなり進んでいた時期に当たりますが、第一作の「ドン・ファンの教え」が出版される前年に当たります。

ドン・ファンは、シリーズの最初から、カスタネダとの会話で、「破れ目を作る」ような話し方をしています。

第8作「内からの炎」では、ドン・ファンは、周りの人間との対話が内在化された「内側のお喋り」によって「集合点」、つまり、特定の意識の状態が固定されると語ります。
これは、ガーフィンケルの思想とほとんど同じです。

第3作「イクストランへの旅」以降、「しないこと」と総称される方法が、非日常的リアリティ(ナワールの世界)に入るための方法として、重要なテーマとなります。
「しないこと」は、日常的世界観を構成する言語的・合理的認識、社会的な人格を停止することなので、「破れ目を作る」と同じ方向を目指しています。

その中でも、日常的な言語的な認識世界を停止させることは、「世界を止める」と表現されます。
具体的な方法は、「内的対話を止める」ことであって、「内的沈黙」です。

また、瞬きしながら焦点を合わさずに何かを見ることも、「しないこと」の一種です。
また、前を見ながらも、焦点を合わさずに、前かがみで歩くことは「力の歩行」と呼ばれます。


「履歴を消す」と呼ばれる方法も、「しないこと」の一種でしょう。
一般に、「履歴」は社会的人格を定義づけるものですが、これはそれを否定する方法です。

ですが、これは単なる方法ではなく、「戦士」の道を歩むことを決断して、一種の出家をすることです。

「履歴を消す」では、従来の人間との交流を精算して、断つことになります。
友人達には、全財産を使って贈り物をしながら、彼らに関する停滞した感情や記憶、恩義を精算するのです。

「履歴を消す」ことは、日常的人格(トナール)を掃除し、整理する方法だとされます。
これには、「自尊心を捨てる」、「責任を負う」、「死を助言者にする」などの要素があります。

この出家は、「内的沈黙」を初めて体験することが、きっかけとなり、これは「破壊点」と呼ばれます。
これを経て、「内的沈黙」の核を作り、蓄積していくことが、重要な修行となります。

「内的沈黙」は、仏教的に言えば、「空」の智恵、「無分別知」に当たります。
「破壊点」は、仏教において、初めて「空」を理解する見性体験に当たり、これを経て「聖者」の段階の修行の道に至ることと似ています。


<呪術師の説明、トナールとナワール>

第4作「力の話」では、「呪術師の説明」と呼ばれる呪術師の世界観が説かれます。

中でも注目すべきは、「トナール/ナワール」や「第一の力の輪/第二の力の輪」、「第一の注意力/第二の注意力」という2項の組の説明です。

そして、「理性」、「会話」、「感覚」、「夢見」、「観ること」、「意志」、「トナール」、「ナワール」という、知覚に関わる「8つの点」が人間にあると言います。

「8つの点」は、「知覚の泡」を構成していて、生まれた時は開いていますが、徐々に閉じてしまいます。
呪術師は、これを開くことによって「全体性」を見るのです。

「第一の力の輪」、「第一の注意力(トナールの注意力)」は、「理性」、「会話」が関わり、一般人の通常の意識状態を作ります。
「第二の力の輪」、「第二の注意力(ナワールの注意力)」は、「意志」が関わり、呪術師の「高められた意識状態」を作ります。

「意志」というのは盲目的なエネルギーであり、これを目的を持って導くことが「意図」とされます。
「意図」は「無限」の活動的な側面であり、シャーマンは最後に、宇宙的な「意図」に融合することを目指すのでしょう。

「理性」は、「感覚」、「夢見」、「観ること」と間接的につながります。
一方、「意志」はこれら3つと、「トナール」、「ナワール」と直接つながっています。


「トナール」という言葉は、一般的には、日常的世界での運命を司る占星学的な動物であり、守護者です。
ですが、ドン・ファンは、まず、「社会的人格」の意味で使います。
また、「身体」だとも、「監視人」、「我々が知っているすべて」、「検問所」とも語っています。
そして、「ナワール」を抑えて、気づかせない存在だと。
つまり、我々にとっては、物質世界の日常的リアリティに関わるものです。

「ナワール」という言葉は、一般的には、「パワー・アニマル」やシャーマンを意味します。
ですが、ドン・ファンは、「社会的人格」以外の部分の意味で使います。
「力のたむろするところ」、「創造しうる唯一の部分」とも語っています。

また、シャーマンのリーダーや、リーダーだけが持つ特別な霊体の意味でも使われます。

そして、「トナール」は「島」、「ナワール」はそれを取り囲む「海」のイメージで喩えられます。

「トナール」は一つの世界の見方であり、一つの日常的リアリティですが、「ナワール」は単なるもう一つのリアリティではなく、「説明できない」、「未知」、「無限」の神秘、「意識の暗い海」なのです。

つまり、「トナール」は知覚が閉じた状態ですが、「戦士」はこれを停止させて、無限の「ナワール」へ飛び込んで行くのです。


最終作「無限の活動面」では、カスタネダがロルカ教授に心頭し、ドン・ファンの教えとの間で揺れ動いた話が出てきます。

ロルカ教授は、すべての生物、文化などが固有の「認知システム」を持っていると考えます。
そして、文化人類学が個々の文化の「認知システム」を十分に理解してそれを抽出できでいないと批判し、カスタネダに、呪術師のそれを抽出することを期待しました。

ですが、ドン・ファンは、「呪術師の説明」をそのように考えてはいけない、呪術師はそもそも別のリアリティ(宇宙のエネルギー・フィールド)を認識の対象として、それをそのまま説明していると語りました。
つまり、ドン・ファンによれば、「トナール」は個々の「認知システム」ですが、「ナワール」に関する呪術師の説明は違うのです。

ですが、カスタネダは、著書の序文などで、もう少し曖昧な、呪術師の「認知世界」という言葉を使っています。
また、「シンタックス(統語論)」という言葉も使っています。
この呪術師の「シンタックス」と思えるものについて、「強度の多様性を事実として受け取れと要求する」、「宇宙そのものは強度の遊覧車」と説明しています。


中沢新一は、シリーズが描く呪術師に関して、「「人類学的呪術師」の範疇を大きく逸脱し…東洋の神秘思想家の側に接近する」(「孤独な鳥の条件」1982)と評価しました。
「人類学的呪術師」というのは、人類学が日常的リアリティに基づいて、その非日常的リアリティの意味を解釈するような存在です。

また、ネオ・シャーマニズムのマイケル・ハーナーも、2つのリアリティを各々に認め、自分の日常的リアリティを変える必要はないと主張します。

ですが、シリーズは、日常的リアリティを一種の幻として相対化する一方、非日常的リアリティに関しても、無限の相を持った「力」として存在するものであると捉えます。

カスタネダは、このような非実体主義的哲学を持ったネオ・シャーマニズムの潮流を作ったのかもしれません。
ドン・ミゲル・ルイス、サージ・カヒリ・キングらは、おそらく、カスタネダの影響を受けているのでしょう。


<忍び寄り、反復>

「戦士」は、別のリアリティの自覚的な認識である「第二の注意力」を学びます。
「第二の注意力」という言葉は、単に主体的な注意力だけではなく、それが体験する世界をも表現します。
その中心的な技法には、「忍び寄り」、「夢見」、「意図」の3つがあります。

ドン・ファンが語る「忍び寄り」は、抽象的で多義的な概念です。

ドン・ファンは「忍び寄り」の具体的な方法としては、「不要なものは捨てる」、「戦士は戦場を選ぶ」、「単純に考えて集中する」、「恐怖を捨ててリラックスする」、「手に負えないものからは撤退する」、「時間を圧縮する」、などがあると語ります。

「忍び寄り」の本質は、「行動を体系的にコントロールすること」、あるいは、「非日常的な経験で特殊な精神状態に追い込むこと」であるとも語ります。

「忍び寄り」は「狩人」と関係します。
「狩人」は獲物を追うために、獲物の行動パタンを理解します。
逆に、猛獣に追われないためには、自身の行動パタンを固定しない必要があります。

つまり、「忍び寄り」では、思考・行動パタンを自覚すること、それを操作することが重要です。

ですが、シリーズ後半では、「忍び寄り」は、「集合点」の場所を固定する技術だとか、「非有機的存在」の世界からエネルギーを得る技術とされるようになります。


自分の人生を振り返る「総括(要約・概括)」と「反復」の2つ方法も、「忍び寄り」と関係した技法です。

「総括」は、「アルバム作り」とも表現され、人生の記憶すべき出来事を思い出して、順序立てて克明に語る(理解する)ことです。
「戦士」の道を歩む者にとって重要な節目となるような象徴的な出来事を振り返ることで、細かな出来事の流れの下に潜む大きな構造、「無限」の作用の本質を発見するのです。

一方、「反復」は、多くの体験を思い出して追体験することですが、これは、感情を吟味し、体験を整理し、再検討することにもつながります。

「反復」には、2つの方法があります。
1つ目は、出会った人の一覧表を作り、一人ずつ、現在から過去へと出来事を思い出します。
2つ目は、順番なしに心に浮かぶ順に行う方法です。
後者では、隠れた感情が現れたり、ジグソーパズルを作り上げるようなものになります。

「反復」では、「出来事を扇ぐ」と表現される呼吸法によってエネルギーを与えながら、それを再体験します。
具体的には、呼気の時に頭を右から左に動かして、記憶の風景のエネルギーを吸い込むとイメージし、吸気の時は左から右に動かして、外来のマイナスのエネルギーを放出します。

「反復」は、ゴミのような記憶を表面へ浮かび上がらせて、閉じ込められていたエネルギーを解放する方法です。
これによって、新しいものを心の中に入れることができるようになります。

「総括」や「反復」は、自由な「夢見」へ至る道です。
また、先に書いたように、「反復」は、人生体験の複製を作り、イーグルにこれをだけを吸収させることで、死を回避して、自由を得ることができるとされます。


ドン・ミゲル・ルイスは、「反復」を「棚卸し」と表現し、体験を肯定的思想で捉え直す方法として進化させました。

「反復」によってエネルギーを解放して不死に至るという思想は、煩悩をなくして涅槃に至るというインド的思想の、シャーマニズム版のように思えます。


<光の球、集合点の移動>

最初に書いたように、宇宙には「光の繊維」のようなエネルギー・フィールドがあって、その一部が「光の球」のような人間のエネルギー・フィールドになります。
「光の球」には知覚に関わる「集合点」と呼ばれる存在があります。

「集合点」を移動させると、そこに異なるエネルギー繊維が通り、それに対応する外部のエネルギー・フィールドを知覚します。
そのため、「集合点」を移動させると、それに応じて、異なる世界が知覚され、また、意識や体の外形も変化します。

左に移動させると、そこは幻想や普通の夢の領域になりますが、おそらく大きく移動させると、人間の形をなくしていきます。
下に移動させると、そこは動物の領域です。
外に移動させると、人間のかけらもない想像もつかない領域になります。

「戦士」の道の目的は、「集合点」をあらゆる場所に移動し、その知覚・意識状態を体験して、人間の「全体性」に到達することです。

注意力を発達させると、意識の輝きは表面から内部の放射物に伝達されます。
「第一の注意力」は、球の表面で輝きますが、「第二の注意力」は球の内側で複雑に輝きます。
また、全体意識を獲得した状態は「第三の注意力」と呼ばれ、球の内側にあるすべての「イーグルの放射物」を燃やして「内からの炎」が輝きます。
その状態で、意識を全開にすると、外部の放射物と融合して、「無限」へと滑り出していきます。


通常の意識の人間の「集合点」は、右肩甲骨の後ろ当たりにあります。
ですが、「高められた意識状態」では、内側に移動しますので、一見すると左側に移動するように見えます。

「集合点」の位置を固定することは、その「世界を組み立てる」と表現されます。
すると、体ごと(肉体を変換して)その世界に入っていくことができるようになります。

特別な能力を持ったシャーマンは、他人の「集合点」を打撃して「光る球」をへこませることで、一時的に内側に移動させ、「高められた意識状態」にすることができます。
ですが、この状態での体験は、記憶していることができません。

カスタネダは、一時的なこの「高められた意識状態」で、様々な体験をして、ドン・ファンから教えを受けました。
これらの教えは「左側の教え」と呼ばれ、これらを思い出すことが、ドン・ファンと別れてからの重要な課題となりました。


伝統的なトルテカ(トゥーラ、テオティワカン、マヤ)の世界観では、人間の体の中にも一種の世界樹があり、そこを「天の雫」と呼ばれるエネルギーが昇降しますが、シリーズには、そのような身体観は語られません。


<無限への飛び込み、自己の分解>

カスタネダは、ドン・ファンが去る前に、最後の課題として、「深淵への飛び込み」を行いました。

第4作「力の物語」で、カスタネダは、ドン・ファンとドン・ヘナロによって、断崖から渓谷に何度も飛び込まされました。
谷底の様子をしっかりと見ることができるかどうかが課題です。

そして、二人が去った後には、一人で飛び込みました。

この「深淵への飛び込み」は、「ナワールへの飛び込み」です。
そしてこれは、「知覚の泡を開く」ことであり、「知覚の翼を広げる」ことです。

飛び込みは、「トナール」や肉体から「ナワール」や「分身」を分離して飛び込んだと読める部分と、肉体のままに飛び込んで次元を移動したと読める部分があって、よく分かりません。

いずれにせよ、カスタネダは、飛び込むことで、「トナール」と「ナワール」を分離して、2つの意識の間を行き来したり、同時に2つの意識を体験しました。

「ナワール」の意識状態では、カスタネダは、自分の知覚や感情などがバラバラになって漂う体験をしました。
そして、自分が、それらの統合体であることを知りました。

また、最後に一人で飛び込んだ時は、肉体で飛び降りて、「集合点」の移動・固定をして、別の世界を組み立てて、この世界から脱出し、その後、再度、「集合点」を移動させて、この世界の違う場所にテレポートする形で戻ったようです。


伝統的なシャーマンは、イニシエーションの飛翔体験の時に、肉体をバラバラに解体され、再構成される体験します。
身体的要素に分解されるか、知覚的要素に分解されるかの違いはありますが、「トナール」に飛び込む体験は、このイニシエーションのヴィジョンのカスタネダ版のようです。


<夢見、意識の暗い海の旅>

「夢見」は、「第二の注意力」の3大技法の一つで、「ナワール」の究極的な用途です。
「夢見」から覚めても「第二の注意力」から離れずに、この世界で別のリアリティを認識することもできます。

「夢見」は、通常の夢を自覚する明晰夢を出発点としながら、様々な意識状態でそれに対応する世界を訪れる技法です。
「夢見」は、「意識の暗い海の旅」と呼ばれる体験へ導きます。
これは、「内的沈黙」が「無限」に従った「意図する行為」によって、異世界を旅することです。

「夢見」は、様々な場所へと「集合点」を移動させることで、一方、「忍び寄り」は「集合点」を固定させることです。
特定の場所に固定したままの状態で、目覚めることできます。


第6作「イーグルの贈物」では、カスタネダが「夢見」の初歩的な4つの手順を語ります。

1 静的な不眠 :五感は眠り、赤い掛かった光の洪水を見る
2 動的な不眠 :3次元の絵として見る
3 受動的な目撃:出来事として観察する
4 動的な活動 :自分で行動する

また、第9作「夢見の技法」では、「夢見」の上達の段階として「7つの門」があるとされ、その内の4つが語られます。

第1の門:眠る直前の感覚を自覚する
第2の門:夢の中で別の夢から目覚める
第3の門:現実の寝ている肉体の自分を見る
第4の門:夢の体で、様々な場所に行く

「第1の門」の通過では、「エネルギー体(霊体)」に眠りに落ちるのを気づくように「意図」することが重要です。

夢の中で自覚を保つためのテクニックは、まず、夢の中で、手を見ることから始めます。
次に、周りの様々なものに視線を移してはまた手に戻しを繰り返して、あらゆるところに焦点を合わせるようにします。

このように、夢の中の対象に集中したり、夢を変えることができるようになると、「集合点」を夢の場所に固定することができます。
この場所は「エネルギー体」を生み出し、強化する場所です。

「第2の門」を通ると、肉体を持たない生命である「偵察」や「非有機的存在」との対決が必要になってきます。

我々の夢の中には、「非有機的存在」が「偵察」を送ってきているのです。
普通の夢には「偵察」が多く入り込んでいるために、無意味な内容になっています。
「夢見」で夢を変えたり、「偵察」に集中することで、「偵察」を見つけることができます。

「偵察」を見つけて、それを追うという「意図」を叫ぶと、その「非有機的存在」の世界に入っていけます。
ですが、彼らは攻撃的で、また、彼らの世界に引き込まれ、閉じ込められる危険があります。
それに抗して強さを示し、様々な世界をよく調べることで、「第3の門」に至ります。

「第3の門」を通ると、「エネルギー体」を成長させることが望まれます。
これを行うには、「反復」によってエネルギーを解放して、それを「夢見」に向けることが必要です。

「エネルギー体」を成長させて、「エネルギー体」でエネルギーを見ることが課題となります。
これができるようになると、夢の中で、単なる個人の空想ではない、エネルギーを発する現実の存在を見ることができるようになります。
また、日常の中でも非日常的リアリティを観ることができるようになります。

「集合点」を移動させるには、「非有機的存在」の領域からエネルギーを得る必要があります。
これを「忍び寄る者に忍び寄る」と言い、「第3の門」の最後の課題となります。

さらには、高度な方法としては、「意識」自体を環境エネルギー的要素として使うことで、他の世界に入ることもできます。

「第4の門」を越える方法は、「第二の注意力」のなかで「意図」することです。
これを「意図の翼で飛ぶ」と呼びます。

「第4の門」で訪れる場所には3種類あって、第1には、我々の物質世界のどこか、次に、違う世界のどこか、最後に、他人の意識の中です。


伝統的なシャーマニズムでは、異世界は、天上、中間、地下の3領域からなります。
トルテカの伝統的な世界観もそうで、天上は14層、地下は9層で考えられ、それらを世界樹がつないでいます。

ですが、シリーズでは、以上のように、位置関係のない多数の世界が語られます。
マイケル・ハーナーは、カスタネダが、中間世界を出ることができなかった、と批判しました。

また、伝統的シャーマニズムでは、異世界に敵対的なスピリット以外に、友好的な守護霊(ガーディアン・スピリット)や援助霊(スピリット・ヘルパー)がいます。
ですが、ドン・ファンは、それは誤解であって、「非有機的存在」は援助してくれる人格的存在ではなく、利己的に見える力であると言います。

ただ、他のネオ・シャーマニズムと類似する点もあります。
第3作「イクストランへの旅」では、夢見の中でやってくる場所を見つけるという課題が出されます。
これは、実際に存在する場所で、カスタネダの場合は、ある丘でした。
ドン・ファンは、ここは「力」と出会い、秘密が明らかにされる場所であり、死ぬ場所であり、死ぬ前にそこで踊る場所だと言います。

それ以上に詳しい説明はしていませんが、これは、カヒリ・キングやアルベルト・ヴィロルドが言う「内なる庭」、「聖なる庭」と似た性質があるようです。
これは、自分の潜在意識と対話し、力のやり取りを行う場所です。


<捕食者>

最終作「無限の活動面」には、「捕食者」という概念が初めて出てきます。
彼らは「飛ぶ影」のように観えます。

「捕食者」は、人間の「感情」を食料とする精神的存在で、人間の中に「頭の中で喋り続ける声」、愚かな「信念体系」などを埋め込んで、人間を飼いならし、自己中心的な生き方を強います。
人間の信念体系や感情、自我意識などは、この「捕食者」に由来する「外来装置」なのです。

また、宇宙スケールでは、人間は旅の途中で立ち寄った地球で、「捕食者」に捕まったとも言います。

第9作「夢見の技法」で、「夢見」で訪れた異界への「集合点」の固定が強力だと、自分がどこから来たか忘れてしまい、その世界に捕らわれてしまうという話が説かれました
ですが、本当は、人間は地球に固定されて、本来の来た場所を忘れていしまっていたのです。

「捕食者」は、人間の「光る球」を覆う「光る上着」を食料としていて、それを食べているので、「光る上着」は、足の指の細いへりの部分だけしか残っていません。
そのへりは、意識の内省の部分であって、「捕食者」はそこにつけ込んで意識の炎を作り出してそれを食べています。

人間は「内的沈黙」によって「光る上着」を飛ぶ者の口に合わなくして、「光る球」の振動をコントロールすることで、「捕食者」は逃げ去ります。
そして、「光る上着」は成長をしてもとに戻ります。


「捕食者」の考え方は、ドン・ミゲル・ルイスが言う「パラノイア」とほぼ同じです。
ただ、ルイスには、「エネルギー・フィールド」の観点からこれについて述べませんが。

ルイスの「パラノイア」の方が初出が早いので、カスタネダがルイスの影響を受けた可能性もあるでしょう。
もちろん、二人ともトルテックのシャーマニズムを継承すると言っていますから、それが起源であると、素直に考えることもできますが。

カルロス・カスタネダとドン・ファン・シリーズ

カルロス・カスタネダ(1925-1998)は、1968年出版の第1作「ドン・ファンの教え(邦題:呪術師と私―ドン・ファンの教え)」から、1999年の第11作「無限の活動面(邦題:無限の本質-呪術師との訣別)」までの全11作のドン・ファン・シリーズ(以下「シリーズ」)で、ドン・ファンに弟子入りして継承した教えを、ストーリー形式で伝えました。

ドン・ファンは、ファン・マトゥスという名(本名ではない)のヤキ・インディアンで、メキシコのソノラ州に住み、トルテカの伝統的なシャーマンの教えを受け継ぐとされる人物です。

カスタネダの体験は驚くべきものであり、ドン・ファンの教えは深い思想を感じさせるものでした。
また、カスタネダは、この研究で人類学の博士号を取得しました。

ですが、多くの人がカスタネダの著作をフィクションであると批判したり、そう受け止めています。
カスタネダの著作が、フィクションであるという明白な証拠も、逆に、ノンフィクションであるという明白な証拠も、出されていませんが、おそらく、ほとんどがフィクションでしょう。

しかし、フィクションだったとしても、シリーズはシャーマニズムの思想の可能性を広げるものでした。
それゆえに、ヒッピーの聖典にもなり、現在に至るまで、世界的に大きな影響を与えています。

そして、人類学を学ぶ者がフィールドワークで、単に話を聞くだけでなくシャーマンなどに弟子入りして修行を体験するという流れを作り、あるいは、心理療法家や、人生の道を求める者らが、シャーマンに教えを乞うという流れを作りました。

また、1993年頃から、ドン・ファンの弟子とされるカスタネダの仲間が、その教えの一部を実際にワークショップを通して教えています。
ですから、カスタネダの著作は、単に研究や小説という領域を超えて、実践的な宗教のようになりました。

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<疑いと様々な見解>

最初に、フィクションであるという疑いに関わる事項について書きます。

カスタネダは、自身の著作の内容が本当であるという証拠を、一切出しませんでした。
彼は、この研究で博士号を取得しているにも関わらず、です。

ですが、カスタネダの著作は、一般的な事実認定に基づく判断を行うような合理的な価値観を否定し、また、自身の履歴を公開するような生き方を否定する思想を示しています。
ですから、彼はドン・ファンの哲学を実践したとも解釈できます。
ですが、単に、この思想を都合の良い言い訳に使ったのだとも解釈できます。

シリーズがフィクションであるかどうかは問題ではない、という見解を示す思想家もいます。

フランスの哲学者のドゥルーズ=ガタリは、
「カスタネダの本を呼んでいくうちに、読者にはドン・ファンというインディアンの実在が疑わしくなり、他にも多くのことが疑わしくなる。しかし、結局それは、まったくどうでもよいことだ。カスタネダの本が民俗誌学というよりは諸説の混沌とした記述であり、秘技伝授についての報告というよりは、実験の定式であるとしたら、なおさらいいのだ」(1980)
と評価しました。

ですが、博士号を取得した研究が、フィクションであるとしたら、ほんとうに彼を評価できるでしょうか?

後で記すように、彼の担当教授だけでなく、複数の人類学者が、彼の著作に対して一定の評価をしました。
その一方で、フィクションであることを暴こうとした著作を発表したジャーナリストもいます。

シリーズが進むと、日付がなくなって、いつの出来事であるのか、あやふやになります。
つまり、人類学的記録という側面が、放棄されるのです。

それ以上に問題なのは、普通に読めば、物理的にはありえない話が多数でてきます。
1974年の第4作「力の物語(邦題:未知の次元―呪術師ドン・ファンとの対話)」では、ドン・ファンとその弟子の数名のシャーマン達は、我々の物質世界ではない別の世界に旅立ちました。
さらに、10年ほど後に、その中に一人だったキャロル・ティッグス(実在する人物です)は、戻ってきたことになっています。

カスタネダも、ドン・ファンが去った後、崖から飛び降りて、途中で別の世界を経由してテレポートしてこの世界に戻ってきました。

ドン・ファンがこの物質世界を去ったとしたことで、実際のドン・ファンを探そうという試みは封じられました。
ですが、シリーズの読者は、これを信じる者に限定されることになりました。

もはや、物語としての面白さではなく、カスタネダやその仲間の神格化を狙ったように感じます。
カスタネダは、ネオ・シャーマニズムの導師というよりも、新興宗教の教祖のようになりました。


ネオ・シャーマニズムを代表するマイケル・ハーナーは、カスタネダの知人でした。
1963年、ハーナーがカルフォルニア大学バークレー校で講義をした時、カスタネダの来訪を受けて、ドン・ファンの話を聞き、何か書いた方が良いとアドバイスしました。
そして、2-3週間後に原稿を見せてもらったそうです。

また、ヤキ・インディアンがダツラ(幻覚性植物)を腹に塗り込んで使うことが本当かどうか調べてほしいと依頼しました。
カスタネダのシリーズでは、この時点で、すでにダツラを経験していたはずなのですが。

また、ハーナーは、カスタネダから一緒にドン・ファンに会いに行こうと誘われましたが、スケジュールの都合で断ったそうです。
ですが、カスタネダを通して、ドン・ファンと連絡を取っていたそうです。

ハーナーは、ドン・ファンのようなシャーマンには会ったことがない、と言っていますが、その存在は信じていました。
ですが、シリーズの後半の書で語られるドン・ファンは、カルロスが「夢見た」ものだとも言っています。

また、ハーナーは、カスタネダについて、彼は「中間世界」から抜け出したことがなく、癒しへの言及もなく、呪術師の世界にいたと批判的に評しています。

カスタネダの妻だったマーガレット・ラニヤンは、カスタネダがしょっちゅうどこかに出かけていたので、ドン・ファンにはモデルとなったインディアンがいるけれど、それを脚色したのだろう、書いています。

ヤキ・インディアンとトルテック・インディアンの血統を持つ有名なメディスン・マンのタタ・カチョーラ(Tezlkac Matorral Cachora)は、自分がドン・ファンのモデルであると語っています。
彼は、カスタネダを助けたけれど、自分のことを隠して「ドン・ファン」という架空の存在を作り上げたと。
そして、1968年以降は、カスタネダは狂ってしまったと。

ですが、実際には、カスタネダがカチョーラに会ったのは1969年のようです。
ですから、ドン・ファンにモデルがいたなら、それには多数のシャーマンがいたのでしょう。
ただ、ドン・ファンの重要な教えである「夢見」、「意図」、「忍び寄り」は、カチョーラからカスタネダが得たコンセプトであると言う人がいます。


<カスタネダの歩み>

カスタネダ本人は、自分のプロフィルに関して、当初、1935年にブラジルのサンパウロで生まれたとしていました。
ですが、「タイム誌」の調査によれば、1925年、ペルー生まれのようです。
カスタネダのペルーのある知人は、彼を嘘つきだったと証言しています。

カスタネダは、1950年にアメリカに移住し、1957年に帰化しました。
1960年、マーガレット・ラニヤンと結婚しましたが、数ヶ月で離婚します。
カスタネダは、マーガレットに会った時、イタリアで美術の勉強をしたとか、スペインで米軍に入ったとか、嘘の履歴を語ったそうです。

1959年にカスタネダはUCLAに入学し、1960年にクレメント・メイガンというカリスマ教授のシャーマニズムの講義を受けました。
インディアンにインタビューするとA評価をもらえるという評価基準があり、カスタネダはこれに成功して高い評価をもらいました。

彼の著作の物語では、1960年にドン・ファンに出会っています。
カスタネダは薬用植物に関する知識を得ることが目的でしたが、ドン・ファンは、この時、弟子として見初めたことになっています。
そして、途中で中断をはさみながら、1961年から1973年まで、ドン・ファンのもとで修行を行いました。

カスタネダは、1962年にUCLAで人類学の学士号を取得しました。
そして、1968年には、シリーズ第1作「ドン・ファンの教え」を、メイガン教授の後押しで、カルフォルニア大学出版会から人類学の学術書として出版しました。

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この書には、物語形式の報告の後に、編集者の反対を押し切って、つまらない構造分析が付けられています。
カスタネダは、人類学の方法、依って立つ世界観をパロディにしようとしたのでしょう。

この書に対して、アリゾナ大学人類学教授エドワーズ・スパイサーは、ドン・ファンはヤキ・インディアンの文化には属さないとしながらも評価しました。
また、人類学界の重要人物サー・エドマンド・リーチは、その文学的側面を評価しました。
また、元ロンドン大学人類学教授メアリー・ダグラスは、類例がなく現実性に富むとして評価しました。

これらの好意的な書評もあって、カスタネダの著作は人気を博し、1972年には、カルフォルニア大学のアーヴァイン校で講義を行いました。

そして、第3作「イクストランへの旅(邦題:呪師になる―イクストランへの旅)」(1972)では、「世界を止める」という日常的世界観を相対化する哲学的テーマがはっきりと出され、物語が深まりました。

ですが、1973年に、「タイム誌」がカスタネダのカヴァー特集をし、取材に基づいて彼の履歴が嘘であることを示したので、様々な疑惑、批判が噴出するようになりました。
ですが、カスタネダは、メイガン教授の擁護もあって、この第3作で博士号を取得します。

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ところが、カスタネダは、批判に対して反論を行わず、世間から完全な隠遁をしました。
そして、カルフォルニア州ウェストウッドに集合住宅を共同購入して、もとUCLAの人類学の学生だった仲間達とともに住み始めました。

先に書いたように、1974年の第4作「力の物語」では、ドン・ファンとその弟子の数名のシャーマン達は、1973年に我々の物質世界ではない別の世界に旅立ったことを明かしました。

1976年と1980年には、ジャーナリストのリチャード・デ・ミルが、カスタネダの書がフィクションであると告発する書を出版しました。
ですが、決定的な証拠を示したとは言えませんでした。

1985年以降、一緒に住んでいたカスタネダの仲間の二人が、カスタネダと同様の体験談を出版するようになります。
フロリンダ・ドナー「魔女の夢」(1985)、「夢見の中の存在」(1992)、タイシャ・アベラル「呪術師の十字架」(1992)です。
カスタネダは、序文で、2人がドン・ファンの弟子であると書いています。

そして、第9作「夢見の技法(邦題:夢見の技法―超意識への飛翔)」(1993)では、この2人とキャロル・ティッグスが登場し、シリーズに取り組まれました。
また、同年、この3人は、初めてワークショップを行いました。

2年後の1995年には、カスタネダと彼女らは、法人組織「クリアグリーン」を設立してワークショップを継続的に行うようになりました。

そして、1997年、異色の第10作「マジカル・パス(邦題:呪術の実践―古代メキシコ・シャーマンの知恵)」を出版して、ドン・ファン流の動的ヨガ(気功)を現代化した「テンセグリティ」を公開しました。
「クリアグリーン」で教えていたものでしょうか?

1998年、カスタネダは亡くなり、その後、フロリンダ、タイシャら5人の仲間が失踪しました。
そのうちの一人、パトリシア・リー・パルタンは、2003年にデスバレーでその白骨が発見されました。
この件に関しては、後述します。

ですが、「クリアグリーン」は、現在まで継続しています。

そして、1999年に、自伝的な最後の書「無限の活動面」が出版されました。

クリアグリーン
カスタネダの検証サイト


<物語の展開>

ハーナーが批判したように、カスタネダがドン・ファンから継承したとする教えは、一般のシャーマニズムとは違って、ヒーリングにほとんど興味を持ちません。

ドン・ファンは、自身の道を「戦士」の道、「知ある者」の道と表現し、「呪術師(ブルホ、ディアブレロ)」の道と対比しています。
ちなみに、最終作では「戦士・旅人」という併記した表現になっています。

「戦士」は「未知」と戦うという意味ですが、実際、シリーズでは多くの恐ろしい危険と遭遇します。
「旅人」は「未知(無限)」の領域を旅するという意味でしょう。

「呪術師」の道は、意志によって現実を変えるものなので、病気治療もここに含まれるのでしょう。
「知ある者」の道の目的は、意識の「全体性」を獲得して、最終的に「無限(の活動的な面)」に融合することです。


第4作「力の物語」でドン・ファンとの別れは書かれますが、その後もシリーズは続き、ドン・ファンとの出来事が振り返られます。
そして、シリーズが進むに従って、ドン・ファンの教えは、より深いものになり、その観点から再解釈されるようになりました。

物語の中では、カスタネダの理解が進んだために、これまで書けなかった教えを書けるようになったのだ、とされました。
また、その後には、「夢見」の非日常的意識状態で教えられていた教えを書くようになりました。
以前は、それらを思い出すことができなかったけれど、修行が進んでそれらを思い出せるようになったから、書けるようになったのだ、と。


第1作「ドン・ファンの教え」、第2作「分離したリアリティ(邦題:呪術の体験―分離したリアリティ)」(1971)では、幻覚性植物(力の草)を利用した非日常的リアリティの体験や、それを「観る」ことがテーマの中心となっています。

そして、空を翔んだり、カラスに変身したり、「力の草」のスピリットである「盟友」を見たりします。

ですが、第3作「イクストランへの旅」では、日常的リアリティを作る認識を停止させるという、思想的と言えるようなテーマが打ち出されます。
これは「世界を止める」と総称され、そのための様々な方法論が説かれていくようになりあす。
「力の草」もそのための、重要ではない方法の一つでしかないのです。
後に、ドン・ファンは、「力の草」を重視しない「わしのやり方は従来のやり方と違っていた」と語っています。


第4作「力の物語」では、カスタネダは「戦士」の道を歩むことを決断します。
そして、人間の霊体を「光の球」としてしっかりと「観る」ことができるようになりました。

そして、ドン・ファンから「呪術師の説明」と表現される、呪術師の世界観が説明されます。
その中で、日常的人格・リアリティに関わる「トナール」と、非日常的人格・リアリティに関わる「ナワール」という重要な対立概念が語られます。

また、カスタネダは、崖から飛び落ちる中で、「トナール」の世界に飛び込む訓練を何度もさせられます。
そして、「トナール」の中で、自己が個々の知覚にバラバラに分解される体験をしました。
カスタネダは、飛び込んだ谷底に何があるのかを見る課題、そして、一人で飛び込んで、「ナワール」を経由して現実世界に戻る課題を果たしました。

また、ドン・ファンとその弟子達は、地上世界から旅立ってしまい、ドン・ファンとの関係が終焉しました。


第5作「力の第二の環(邦題:呪術の彼方へ―力の第二の環)」(1977)、第6作「イーグルの贈り物(邦題:呪術と夢見―イーグルの贈り物)」(1981)では、それまでほとんど登場しなかったドン・ファンの弟子達が多数登場します。

そして、カスタネダはドン・ファンを継承するリーダーとして、弟子達をまとめていくことがテーマとなります。
これは、グループの人間の間で、そして、個々人の中で、様々な能力・性質の側面を統合していくというテーマでもあります。

また、仲間との会話から、彼らがドン・ファンから、「夢見」の「高められた意識」の状態で教えられたものが多数あるけれど、それが特別な意識状態であったため、覚えていないことに気づきます。
そのため、これを思い出すことが課題となることが判明し、カスタネダと仲間たちは、「夢見」を共に行うなどして、記憶を取り戻そうとします。


第7作「内からの炎(邦題:意識への回帰―内からの炎)」(1984)では、改めて、過去のドン・ファンとの体験の振り返りが行われます。

この書では、初めてタントラ(密教)的な「エネルギー・フィールド」の概念が重視されるようになり、これまでの教えがその観点から再解釈されるようになります。
これらは、「高められた意識状態」で教えられたもので、「左側の教え」と表現されます。

宇宙は「イーグルの放射物」と表現される「エネルギー・フィールド」の塊であり、人間も「光の球」などと表現される「エネルギー・フィールド」でできています。

「光の球」には知覚を司る「集合点」があって、その位置を移動させることによって、意識・身体・世界が変わると説かれます。
「集合点」を動かして、あらゆる意識、知覚、リアリティを体験して、「全体性」に到達するのが「戦士」の目的なのです。


第9作「夢見の技法(邦題:夢見の技法―超意識への飛翔)」(1993)では、高度な「夢見」の技法が語られます。

「夢見」は、通常の夜に見る夢を出発点にしながら、実在する別の世界へと旅する技術です。
「夢見」による旅は、「エネルギー体(霊体)」を成長させて、「集合点」を移動させることで行います。
これは、肉体を持たない「非有機的存在」との対決でもあり、その世界に閉じ込められる危険もあります。


最終作「無限の活動面」は、カスタネダが自分の人生を振り返ったもので、ドン・ファンが、「総括」として語ってきた方法を、著作を通して行ったものになりました。

この書では、「捕食者」と呼ばれる肉体を持たない存在が、人間のエネルギーを喰い物にして支配しているとする新しいテーマが現れます。
人間の信念体系や感情、自我意識などは、この「捕食者」に由来する「外来装置」なのです。

「捕食者」から逃れるためには、「内的沈黙」や、「エネルギー・フィールド」の振動の操作が必要とされます。

前作で、「夢見」によって「非有機的存在」の世界を訪れると、そこに捕らわれて、どこから来たか分からなくなってしまう、という危険が語られました。
ですが、この最終話では、どんでん返しが行われて、我々は、「捕食者」によって、旅の途中でこの地球に捕らわれてしまっていることが明かされます。


<イーグルの神話とカスタネダの神話>

第6作「イーグルの贈物」では、「イーグルの神話」が語られます。
ドン・ファンら代々のトルテックのシャーマン達は、「イーグルの神話」をモデルにして生き、弟子を育ててきたのです。

神的存在である「イーグル」は、最初に「ナワール(シャーマンのリーダー)」の男女のペアを作り、次に仲間を作りました。
そして、弟子を育てることを命じ、男性ナワールは弟子を自由に導き、女性ナワールはもう一つの世界に案内する役を与えました。

ドン・ファンらは、カスタネダら弟子を育て、1973年にもう一つの世界に去りました。
この世界を去ることは、「最後の旅」と呼ばれ、肉体ごと「無限」の活動的な面に溶け込むのです。

カスタネダは、ドン・ファンを継いで新しい集団の「ナワール」になりました。
ですが、次の「ナワール」になるような弟子を育てることはなかったようです。

1998年にカスタネダの死亡証明書が発行されているので、彼は肉体を残して亡くなったはずです。
カスタネダと仲間達の組織「クリアグリーン」は、カスタネダは意識を保ったまま世界を去ったが(つまり、普通の死ではなく、意図的にこの世を去った)、法的な必要性のために亡くなったと宣言された、という公式声明をウェブサイトで発表しました。
そして、カスタネダが亡くなった後、5人の仲間が失踪しました。

これは、イーグルの神話、そして、ドン・ファン達の行動を再現しようとしたものであり、シリーズの物語を現実にしようとしたものなのでしょう。

シリーズの中では、ドン・ファンは、「わしの全系統が終わろうとしている」と言い、カスタネダが「長い鎖の最後の環となる」とか、「書くことで始めたように、書くことで終わる」と予言しています。

つまり、ドン・ファンの系統のシャーマンの継承は、カスタネダが最後になって、カスタネダはその替わりに書物を残した、ということでしょう。

これが、「カスタネダの神話」なのです。


※「カスタネダのドン・ファン・シリーズの思想」に続きます。