吉田兼倶の元本宗源神道(唯一神道・吉田神道)


吉田兼倶が一代で創造した「元本宗源神道」は、「唯一神道」とも、「吉田神道」とも呼ばれます。

兼倶は、神本仏迹説の立場で伊勢神道の神観念を継承しつつも、教義面でも行法面でも、密教、道教、儒教、修験道、陰陽道から、様々なものを積極的に取り入れて、吉田神道をそれらを総合した高度に体系化された神道にしました。

兼倶は、思想の面だけでなく、政治力の点でも秀でていたため、吉田神道は、室町時代から江戸時代に至るまで、日本神道界の頂点に立つ家元の地位を保ち続けました。

日本宗教界の巨人を考えた場合、古代を代表するのが空海なら、中世は吉田兼倶でしょう。

ですが、その一方で、吉田神道の折衷主義的な点、特に真言宗を過度に取り入れている点が、後の国学者、復古神道家などから批判の対象にもなりました。

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*國學院大學のポスターの一部


<吉田兼倶の歩みと吉田神道の誕生>

吉田家は、元は卜部氏であり、その元をたどれば中臣氏です。
ただ、吉田兼倶は、天児屋命→卜部氏→吉田家という系譜を主張しています。
卜部氏は朝廷の占い、祓いを担当してきた氏族です。

9Cに後半に、中納言の藤原山陰が、春日大社の分霊を受けて、一族の守護神として祀るために京都の吉田山に吉田神社を建てました。
そして、卜部兼延が神職としてこの吉田神社を預かりました。
その後、吉田神社は官幣二十二社となり、藤原氏の氏神として発展しました。

卜部氏は平野神社を預かった平野家と吉田神社を預かった吉田家に別れました。
平野家の方は、「釈日本紀」の著者の兼方などを輩出し、「日本紀」の研究で神本仏迹説による神道説を立てました。
一方の吉田家からは、「徒然草」の兼好や、伊勢神道の立場に立った天台僧の慈遍を輩出しました

ですが、吉田神社は、応仁の乱(1467-1477)の最中の1468年に、戦火にまみれて焼失してしまいました。

吉田家の当主だった兼倶(1435-1511)は、その本格的な再建を急ぎませんでしたが、この後、吉田神社を日本一の神社とするために、信じがたいような政治力・人間力を発揮していきます。

兼倶は、1470年頃までに、「神明三元五大伝神妙経」、「三元神道三妙加持経」、「三元五大伝神録」といった基本的な教義書を書き上げ、自身の神道説を確立し、同時に斎場も作って、吉田神道の基本を作り上げました。
兼倶は、吉田神道が天児屋命から伝えられた秘伝にして真実の神道であるとしました。(詳細は後述)

また、兼倶は、まず、八代将軍、足利義政の妻の日野富子から多額の援助を得ました。
1473年には、朝廷の要路に対して戦乱の終結を祈願することを願い出て、公的な資金援助を得ました。
そして、応仁の乱が終わると、吉田家の祭儀が応仁の乱を終わらせたと吹聴しました。

当時の神祇官の制度では、「神祇伯(神祇長官)」は白川家が世襲しており、兼倶はその下の「神祇権大副(神祇次官)」でした。
ですが、1476年頃、兼倶は、「神祇管領長上」を名乗り、これを事務職トップの「神祇伯」と対等な、技能職のトップとして位置づけました。

そして、1484年に、「大元宮」を建立しました。
この「大元宮」は、春日神を祀る宮ではなく、自宅にあった斎場所「日本最上神祇斎場」を移設したもので、兼倶はこれを、神武天皇が全国の神々を祀った神社の総本社であると主張しました。

「大元宮」は、八角の殿堂に六角の後房が付いた独特の形をしていて、中央に根源神の「大元尊神」=「国常立尊」を、その周りに天照大神以下の全国の八百万の神を祀りました。

驚くべきことに、兼倶は、後土御門天皇に「大元宮」を日本第一の霊場と認めさせ、全国の神々の分霊を希望者に分け与えることができると主張しました。

また、同時期に、吉田神道の体系的な教義を問答集としてまとめた「唯一神道名法要集」と、それに次いでその普及版の「神道大意」を著しました。
「唯一神道名法要集」は、吉田神社を最初に預かった卜部兼延に仮託して著されたもので、架空の「三部神経」の注釈書とされます。

応仁の乱の後の1486年、伊勢神宮では、内外両宮の争いから、外宮が放火され炎上したため、翌年、朝廷は吉田兼倶に外宮の御神体の安否を確認するように決定しました。
ですが、外宮はこれを拒否しました。

この事件があった後、伊勢の神様が愛想を尽かして各地へ飛び去った(飛神明)という噂が流布され、各地で伊勢神宮の分社が建てられ、「今神明」と呼ばれました。

1489年、兼倶は、伊勢の御神体が吉田神社に飛来したとして、またもやこれを、天皇に認めさせることに成功しました。

兼倶は、天皇から許しを得て、「宗源宣旨」という全国の神社に高い神格を示す称号や位階を授与する権利も得ました。
吉田神道が授与する「大明神」は、神仏習合で生まれた「権現」より上とされました。

また、兼倶は、神の怒りを鎮める「鎮礼」という護符や、神の祟られる理由はない判定する「神道裁許状」を授与しました。
吉田神道は、神道界最高の権威になっていましたので、神に関わる問題の解決法として、これらの護符や書状は、大きな人気を得ました。

さらには、道教の霊符を取り入れた「神祇道霊符印」も作りました。

また、吉田神道以前には、仏式の葬祭しかなく、神職は穢れを避けるため葬祭には参加できませんでした。
ですが、兼倶は、亡くなった人を神にして祀る神式の葬祭を創造しました。
豊臣秀吉も、吉田神道によって神として豊国神社で祀られました。

ちなみに、祇園社の祭神の牛頭天王をスサノオであるとしたのも、兼倶です。

このように、吉田神道は、兼倶一代にして、神道の頂点に立つ家元として絶大なる力を持ちました。
その後、江戸幕府も、「諸社禰宜神主法度」で、全国の神職の位階を授与できる権利を吉田家に与えました。

ただ、1698年に、伊勢外宮の出口延佳が、吉田兼倶を神敵と呼び、その偽造の数々を暴いて告発したため、吉田神道の権威に陰りがさしました。
それでも、吉田神道は明治維新まで神道の家元の座を守りました。


<三教根本枝葉花実説と元本宗源神道>

兼倶は、「唯一神道名法要集」で、「三教根本枝葉花実説」を主張しました。

これは、「日本は種子を生じ、震旦(中国)は枝葉を現し、天竺(インド)は花実を開く」、つまり、仏教・儒教・道教は神道から分かれたものに過ぎず、仏教の東漸は日本の根本を明らかにするために行われた、と主張するものです。

この日本中心主義的な説は、兼倶の独創ではなく、両部神道の書「鼻帰書」や、伊勢神道の立場に立った吉田家の慈遍、「国阿上人絵伝」などにあり、その影響を受けたものです。

兼倶は、また、神を仏の本体とする「本神仏迹説」を主張しています。
そして、日本にはかつて釈迦が出現していたとも書いています。


兼倶は、神道を3種類に分けます。

1 本迹縁起物語
2 両部習合神道
3 元本宗源神道

1、2は共に「本地垂迹説」に基づく神道です。
ですが、3の「元本宗源神道」が吉田家に伝わる神道であり、これは「本神仏迹説」の立場に立ちます。

「元本宗源神道」は、藤原(中臣)氏の祖である天児屋根命が説いた原初にして真実の神道であり、その直系である吉田家だけが秘伝としてそれを受け継いでいるのです。

その本質は、「一気未分の元神」を明らかにするもの、あるいは、伊勢神道の「神道五部書」の言葉を引いて、「陰陽不測の元元、一念未生の本本」を明らかにするものとします。
兼倶の神観念は、基本的に伊勢神道のそれ、つまり、無からの流出論かつ内在神的な神観念を継承しているのです。

「元本宗源神道」の名の、
「元」とは陰陽の測り難い元の元(宇宙の根源存在)を明らかにすること、
「本」とは一念が生じる前の本の本(心の根源)を明らかにすること、
「宗」とは一気が分かれる前の元神(根源神)を明らかにすること、
「源」とは神のその光度を落とした世界の中での働き(内在神)を明らかにすること、
であるとされます。


<顕露教と隠幽教>

兼倶は、「元本宗源神道」には顕密二教、つまり、「顕露教」と「隠幽教」があり、後者が上位の教えであるとします。
これは空海の密教の考え方を神道に当てはめたものです。

「顕露教」は、天地開闢から王臣の系譜までを明らかにするものであり、「外清浄」、つまり、心身の働きの中和を保つ事を説きます。
一方、「隠幽教」は、三才の霊応、三妙の加持、三種の霊宝を明らかにするものであり、「内清浄」、つまり、心神を静かにする事を説きます。

「顕露教」の主要経典は、「三部本書」、つまり、「日本書紀」、「古事記」、「先代旧事本紀」であるとされます。
また、兼倶が書いた書に、「日本書紀神代抄」、「中臣祓抄」、「中臣祓解」があります。

一方、「隠幽教」の主要経典は、「三部神経」、つまり、「天元神変神妙経」、「地元神通神妙経」、「人元神力神妙経」であるとされます。
ですが、「三部神経」は兼倶が創作した架空の書であり、実在しませんが、「唯一神道名法要集」が、その注釈問答書であるとされます。

それぞれを「三部」としてまとめているのは、台密の「大日経」、「金剛頂経」、「蘇悉地経」の三部の考えを取り入れたものでしょう。

「顕露教」の実践では、天神・地神・人鬼の三才の礼奠を行い、祭詞は延喜式の祝詞を唱えます。
一方、「隠幽教」の実践では、天地人の三元三妙の加持(詳細後述)を行い、祭詞は「無上霊宝神道加持」と唱えます。
これらは、密教の事相(行法・修法)をアレンジして創作された、「神道加持」、「神道護摩」、「神道灌頂」などです。

・顕露教:外清浄:三部本書:延喜式の祝詞  :斎庭
・隠幽教:内清浄:三部神経:無上霊宝神道加持:斎場

「顕露教」の斎場は「斎庭」と呼ばれ、「主基殿」と「悠紀殿」があります。
一方、「隠幽教」の斎場は「斎場」と呼ばれ、「主基殿」と「悠紀殿」には、「諸源壇」と「万宗壇」があります。
この両壇には下記のような性質・対応があります。

・万宗壇:悠紀殿:金剛界:陰:天神:伊勢外宮
・諸源壇:主基殿:胎蔵界:陽:地神:伊勢内宮

「万宗壇」には、「天潜尾命」以下全32神が、「諸源壇」には、「天香鼻山命」以下全32神が配されます。

前者は、空海に仮託して書かれた両部神道の書である「麗気記」に記された、豊受皇大神の降臨供奉の神、後者は、同じく、天照皇大神の降臨供奉の神です。
後者は、もともとは「旧事紀」に記された神です。
後者には、「金剛鈎菩薩」以下、真言宗に由来する金剛菩薩などの尊格が対応させられています。


<三元三妙三行>

兼倶は、神と世界を、体・様・相の3つの観点から、「三元三妙三行」として整理しました。

まず、体として、天地人の「三元」があります。
天と地があり、人間がいるということです。
そして、天地人に、その働き(様)の「三妙」、形姿の(相)の「三行」があるのです。

用の「三妙」は、天妙・地妙・人妙ですが、「三部妙壇」、「三才九部」などとも呼ばれ、それぞれが神変/神通/神力の「三部」を持ちます。

「天妙」の神変/神通/神力は、日月/寒暖/風雨などです。
そして、「地妙」の神変/神通/神力は、草木/山沢/山河などがこれに当たります。
また、「人妙」の神変/神通/神力は、拝/読/観などがこれに当たります。

相の「三行」は、天行・地行・人行で、これらはそれぞれが五行に対応した神々に当たります。

「天行」は、五行の元気神で、火の国狭槌尊、水の豊斟渟尊などです。
「地行」は、五行の太祖神で、金の金山彦命、土の埴安命などです。
「人行」は、五行の五大輪神で、火の天合魂命、水の天三降魂命などです。

最後の五大輪神は、「旧事本紀」だけに現れる神です。

また、兼倶は、神を以下のように3種に分類しています。

・元神:日月辰の神
・託神:草木等の類
・鬼神:人心の動作に従って動くもの


<8段階の位階>

吉田神道では、密位授与が八段階で構成されます。
つまり、実践者の能力に応じて密位の授与と共に、その段階に応じた秘伝(知識と実践法)が伝授されました。

最初の4位は、顕隠の両方にあります。

・初重相伝分:浅略の位
・二重伝授分:深秘の位
・三重面授分:秘中の深秘の位
・四重口決分:秘秘中の深秘の位

三重面授分には、例えば、顕露教には「天供太祓」などが、隠幽教には「護身神法」などがあります。
また、四重口決分には、例えば、顕露教には「神拝作法・六根清浄太神宣」などが、隠幽教には「三壇行事」などがあります。

次の4位は、隠幽教のみにあります。

・初分位影像相承
・二分位光気相承
・三分位向上相承
・四分位底下相承

こういった四重の構造は、やはり真言宗から取り入れたものでしょう。


<吉田神道の行法:十八神道、三壇行事、祓>

吉田神道の行法に「十八神道」があります。
これは、行法の次第の18の構成部分とも言えますが、真言宗の仏の供養の「十八道」を意識して作られたものでしょう。
天地人のそれぞれに各六神道があるとします。

吉田神道の主要な行法は、「三壇行事」と呼ばれ、「三元十八神道行事」、「宗源神道行事」、「唯神道大護摩行事」の三つで、それぞれの次第書があります。
「三壇行事」は四重口決分の秘伝に当たります。
これらの次第は類似していますが、後者ほど、複雑になります。

「三元十八神道行事」の次第は、「鳥居作法」、「打鳴」、「護身神法」などに始まり、様々な「加持」、そして、天御中主尊から三法荒神に至るまでの「招請」・「勧請」、「神像供養」、「勧請祭文」、「中臣祓」、「結願」・「発遣」などで構成されます。

「加持」には、「三種加持(无上霊宝加持、神道加持、三元三行三妙加持)」、「六根清浄加持」、「太元一気元水加持」、「天地人神三元加持」などがあります。

「三元十八神道行事」、「宗源神道行事」の壇は中央に「太元器」と呼ばれるものを置きます。

ですが、「唯神道大護摩行事」は炉を中心に置く八角形の壇です。
そして、炉で火を焚き、その中に穀物などを投入して祈祷します。
八大龍王や、大弁才天、大黒天、辰狐大王大菩薩などの印相を行う部分もあります。


吉田神道が重視した祓いに、「六根清浄大祓」があります。
これは、兼倶が作成した神仏習合した祓いで、六根を清浄にして、神への祈願を成就させるためのものです。
仏教の六根清浄思想と、伊勢神道の祓い、修験道、五行思想などの影響を受けています。

他にも、「三科祓」があります。
これは上・中・下の3種があり、「中臣祓」を元に、世俗的な日常生活上の降伏を祈願する詞をその間に挿入して構成されています。


<言霊論>

兼倶は、「高天原」という言葉が、「神明の直語」であり、「一気発動の初言」であると言います。
そして、この「高天原(タカ・アマ・ハラ)」の三字が47言(50音)の種子であると。

これは、密教や空海の種子的言語観、阿字観を神道に取り入れようとしているのでしょう。
ですが、ここには、後の古神道の言霊論につながる霊的言語観、霊的音韻論の芽生えがあります。

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伊勢神道(度会神道)


鎌倉時代に、伊勢神宮の外宮の祠官である度会氏によって作られた神道が「伊勢神道」で、「度会神道」とも呼ばれます。

伊勢神道は、真言宗系の「両部神道」の影響を受けながらも、「神仏習合(本地垂迹説)」を否定して、神と仏を分けました。
そして、道家や儒家の神観を取り入れながらも、神学的な教義を持つ、最初の自覚的な神道思想となりました。

伊勢神道は、国常立尊などの根源神を主神とするなどの点で、その後の神道思想に大きな影響を与えました。


<伊勢神道とその背景>

伊勢神宮は皇室の氏神であり、古代には天皇以外が参ることはできませんでしたが、中世になると、武家や一般人も参るようになりました。
神仏習合によって天照大御神が日本の神の中で最高神と見なされるようになったことも、その一因です。

伊勢神宮には「外宮先祭」といって、外宮の祭儀を先に行う伝統があり、伊勢参拝も外宮から行われました。
そして、外宮は参拝上の立地にも恵まれていたため、外宮は内宮よりも経済的に潤い、勢力を拡大しました。
といっても、外宮を祀る渡会氏は、もともと伊勢国造で伊勢神宮の大神主だったのです。

度会氏は、外宮が祭る神の「豊受大御神」が、根源神である「天御中主神」や「国常立尊」などと同体であると主張しました。
つまり、「豊受大御神」は「天照大御神」より上位の神であり、それを祀る外宮が内宮より格が高いということです。

律令体制の神祇信仰は、神話的宗教です。
「記紀」において根源神は「天御中主神」と「国常立尊」ですが、両神ともほとんど活躍せず、主宰神として働いているのは、「高皇産霊尊」や「天照大御神」という後の世代の神々です。
これは、神話時代の宗教では一般的です。

伊勢神道は、「記紀」神話を書き換えて新しい神話を作ったので、その点では「中世神話」に属します。
ですが、根源神を主神とし、新しく神学的な神論を創造したので、神話時代の宗教を脱した、初めて自覚的な教義を持った神道思想であると言えます。

伊勢神道は、真言宗系の仏家神道である「両部神道」の影響を受けています。
ですが、「神仏習合」を否定し、神と仏は別の存在であるとし、最終的には、神の方が本体であるとする「神本仏迹説」を主張しました。

その神観には、大日如来を根源仏とする仏教の影響もありますが、それ以上に、「道」や「太極」を根源とする道家・儒家思想、その宇宙発生論の影響があります。

伊勢神道が神仏習合を否定した理由には、祭儀において仏教を嫌う伊勢神宮の伝統や、元寇を契機とした神国思想の盛り上がりがあります。


<伊勢神道の前史>

伊勢神道は、外宮の禰宜だった度会行忠(西河原行忠、1236-1306年)、度会家行(村松家行、1256-1351年)、度会常昌(桧垣常昌、1263-1339年)らによって作られました。

ですが、その背景には、内外両宮の大御神に関わる神仏習合説や神々習合の歴史があります。

まず、両大御神の本地仏に関する説です。

12Cの初め頃、「天照大御神」の本地は、「救世観音」と考えられていたようです。
その後、高野山で天照信仰が高まり、「大日如来」を本地とする説が生まれました。

鎌倉時代になると、東大寺と再建の時に伊勢神宮と結びついたこと、そして、「三輪流神道」によって、「大日如来」本地説が広がりました。
「三輪流神道」は、内宮を胎蔵界、外宮を金剛界に対応させました。

一方、天台宗の仏家神道である「山王神道」は、「天照大御神」の本地を「釈迦」とする説を唱えました。

また、外宮では、南の高倉山を浄土とし、「豊受大御神」の本地を「阿弥陀如来」とする説が生まれました。

次に、両大御神と根源神を同体視する説です。

平安末期頃に、外宮と関係の深い真言宗の僧が書いたと思われる両部神道の書、「中臣祓訓解」は、根源神である「大元尊神(天照太神者大日遍照尊)」が、大日如来でもあり、「国常立尊」でもあるとしました。

そして、この根源神が、伊勢両宮の大御神として顕現し、天照大御神を「日輪」、豊受大御神を「月輪」であるとする説を主張しました。
また、「豊受大御神」と「天御中主神」を同体視しました。

鎌倉時代に入って、外宮の禰宜と親交のあった神祇官人が書いたと推測される「神皇実録」は、「大元」の「国常立尊」が、「無名無状」で、「虚無」であるとしました。
そして、「天御中主神」を「水徳」ゆえに「御饌の神」であり、「豊受大御神」と同体であり、「国常立尊」の顕現であるとしました。
また、「天照大御神」は地神五代の始めの神としました。

鎌倉時代後期になると、真言宗系の僧侶が書いた「大和葛城宝山記」も、「豊受大御神」と「天御中主神」の一体説を説きました。


<度会行忠と「神道五部書」>

伊勢神道の原典は、両宮の鎮座の由来を中心に述べた「神道五部書」です。
これは度会家に伝わる古伝を、度会行忠が書き換えて、偽撰した書と推測されています。

「神道五部書」は次の五書です。

・造伊勢二所太神宮宝基本記(略して、宝基本記)
・倭姫命世記(別名、太神宮神祇本記下)
・伊勢二所皇大神御鎮座伝記(略して、御鎮座伝記)
・豊受皇大神御鎮座本記(略して、御鎮座本記)
・天照坐伊勢二所皇大神宮御鎮座次第記(略して、御鎮座次第記)

「宝基本記」→「倭姫命世記」→「御鎮座伝記」、「御鎮座本記」→「御鎮座次第記」という順で撰集されたようです。

下の三書は「神宮三部書」と呼ばれ、神官でも60歳未満は読めない秘籍とされました。
また、「神道五部書」を含む「神宮十二部書」が、門外不出の書とされました。

行忠自身の書には、「大元神一秘書」、「伊勢二所太神宮神名秘書」、「古老口実伝」があります。


「神道五部書」の特徴は、「本地垂迹説」を否定し、神と仏を区別して神道の独自性を主張したことです。
そして、今は末法の時代なので、人間の機根が衰えて神への尊敬の心が失われたために、仏が神に代わって人間を救済していると考えました。
仏の役割を認めていますが、神が仏として化身していると考えたわけではありません。

神観念に関しては、道家の哲学の影響が大きく、「老子述義」から「道」が万物を生成し育むという考えや、「河上公注老子」から内在神観を取り入れています。
また、神道を、心を修める道であるとしました。

「倭姫命世記」の「元を元として元初に入り、本を本として本心に任す」は、「神道五部書」の神観念を良く表現していますが、この言葉は、後の吉田神道にも影響を与えました。

「宝基本記」は、「国常立尊」が「天照大御神」に仮現したと説き、「天照大御神」と「豊受大御神」を次のように対比しました。

・天照大御神(内宮):日天子:火:陰:地神
・豊受大御神(外宮):月天子:水:陽:天神

「豊受大御神」を天神の始祖、「天照大御神」を地神の始祖としているので、「豊受大御神」を「天照大御神」より上位に置いたのです。

また、「御鎮座本記」では、「大元」の神である「国常立尊」が天照・豊受両大御神に顕現した、あるいは、根源神である「天御之中主」が「豊受大御神」と同体であるとしました。

以上にように、根源神や大御神に関わる記述はあいまいですが、「豊受大御神」の方が「天照大御神」よりも上位であり、より根源神の性質(水徳)を持っている、と主張しています。


<豊受大御神と根源神の同体視>

外宮の祭神である「豊受大御神」(豊宇気毘売神、止由気神、豊宇賀能売命…)は、「記紀」には登場しない、その意味では謎の神です。
「古事記」に一言、記載がありますが、これは後世の竄入と考えられています。

豊受大御神は、「止由気宮儀式帳」(804年)によれば、雄略天皇の夢に天照大御神が現れて、自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の「真奈井」にいる「御饌の神」である等由気大御神を近くに呼び寄せるように、と神託があって外宮に祀られることになりました。

また、「丹後国風土記」によれば、丹波の「真奈井」で8人の天女が水浴しているところ、老夫婦に羽衣を隠されて帰れなくなった一人の天女で、「万病に効く酒」を造って夫婦を富ませました。

これらの話がどこまで豊受大御神やその鎮座の実態を反映しているか分かりませんが、このように、「食物(ウカ)」や「水」、「酒」に関係した女神とされていました。

豊受大御神の伊勢鎮座の理由には、伊勢神宮には北辰・北斗信仰が秘されていたからだという現代の学説もあります。
これによると、天照大御神は北極星信仰と習合し、それを補佐する北斗七星の神(輔星を入れて8人の天女)として、豊受大御神が迎えられたとされます。


伊勢神道では、豊受大御神を根源神とするために、単なる「食の神」という説を否定する必要がありました。
そして、「水徳の神」という点を強調しました。
ちなみに、「徳」というのは道家では、「道」が万物を養う働きを意味します。

「記紀」神話では、以下のよう「原初の水」に植物が自生するイメージで天地開闢を語ります。

「国が稚く、脂が浮いたようで、水母(くらげ)が漂うような状態のとき、葦牙のように萌えあがる物から生成した神を…」(古事記)
「天地開闢の初め、土壌が漂っている状態は、魚が水の上に浮遊しているような伝承がある。そのとき、天地のひとつのものが生じた。形状は葦の芽のようで…」(日本書紀)

五部書の「御鎮座伝記」では、上記したような両部神道系の書の影響を受けながら、「記紀」神話をアレンジして、豊受大御神について下記のように語りました。

・大海の中に葦牙のように浮かんでいるものから天御中主神が化生した。だからその地を「豊葦原中国」と号し、この神を「豊受大御神」と言う。

・伊邪那岐・伊邪那美が大八州を生んだ後、「水」の働きが現れなかったため、天の下は飢餓状態になった。そこで二神が「八尺瓊勾玉」を空に投げたところ、それから豊受大御神が化生した。この神は「水」の働きを体現して、「命」を継ぐ作用をするので、「御饌都の神」という。

・天照大御神の伊勢鎮座の時、豊受女神は天より降臨して、一ヶ所に天照大御神と並んで鎮座した。このとき、和久産巣日神の子の「トヨウウカビメ」が「御神酒」を献上した。

つまり、「水」という属性から、豊受大御神は天御中主神と同体の根源神であり、
葦→豊葦原→豊受という連鎖から、豊受大御神を地上に豊かさを与える神であり、
「食の神」と言われるけれど、その本質は、「生命の水」の神であり、
天から伊勢に降臨した神である、としたのです。

また、一般に豊受大御神は食を天照大御神に献上する神とされますが、献上するのは「トヨウウカビメ(トヨウカノメ)」であり、豊受大御神は献上される神である、としたのです。
外宮の酒殿には、名称不明の神がいたので、これを「トヨウケビメ」として、豊受大御神と区別したのです。

また、「宝基本記」では、豊受大御神を「御饌都(食の)」ではなく「御気津(根源的な気の)」の神とします。

ちなみに、外宮では、忍穂井の御水を汲んで供えますが、この御水は度会氏の遠祖の天村雲命がもたらしたものとされます。


<度会家行と「類聚神祇本源」>

度会家行は、伊勢神道の大成者で、その体系化を進めました。
「神道五部書」の基本的性質は、鎮座由来を説く縁起書ですが、家行の書いた「類聚神祇本源」、「神祇秘抄」、「神道簡単要」などは教義書であり、特に「類聚神祇本源」の「神道玄義篇」では、彼自身の神学を語りました。

家行は、「神道五部書」と異なり、仏教書や「両部神道」の引用も積極的に行い、「伊勢神道」の普遍化を進めました。

家行は、「先代旧事記」の根源神に由来する「天讓日天狭霧国譲日国狭霧尊」を根源神とし、天御中主神(古事記の根源神)、国常立尊(日本書紀の根源神)と同体視しました。

中でも「天讓日天狭霧国譲日国狭霧尊」を一番の根源神とし、その変成神が国常立尊であり、次に天御中主神であるとしました。
そして、豊受大御神を「天讓日天狭霧国譲日国狭霧尊」と同体としました。

この「豊受大御神=天讓日天狭霧国譲日国狭霧尊」は、高天原に初めて出し神であり、過去七仏以前の神であり、「水徳の神」です。
また、いたるところに遍満する神、形・念・言の根源であり、不生不滅であるとしました。
そして、「機前(天地開闢以前)」の存在であり、「太極」であり、「混沌」です。

また、その心的な属性を、「正直」であり、「清浄」であり、「精明」であるとしました。

人間はその性を受けているので、「清浄」で「正直」に生きるべきなのです。
家行は、それを、「一心不乱」、「生を超え、死を出づる」とも表現しました。

「正直」という言葉は中国古典にありますが、道家が「無為自然」を、禅が「無心」を、本覚思想が「本覚」を理想としたように、「正直」は神道が理想とする状態なのです。

また、仏教が日本を辺土であると説いたのに対して、伊勢神道、特に家行は、日本は神国であるという神国観を強調しました。
また、仏教が、末法ゆえに人の機根は悪くなっていると説いたのに対して、人は神の性を受けているとする神胤観を主張したのです。


<度会常昌と神本仏迹説>

度会常昌は、家行より後に生まれた人物ですが、若くして、先に亡くなりました。

行忠は神と仏を別の存在とし、家行は豊受大御神の根源神化を進めて過去七仏以前の存在としましたが、二人ははっきりと、神が仏に先立つ存在であるとは主張しませんでした。

ですが、常昌は、「太神宮両宮之御事」などで、神の方が本体であり、仏がその現れとする「神本仏迹説」に当たる思想を主張しました。

これは神を重視する伊勢神道の当然の帰結なのかもしれません。

常昌と親交のあった慈遍は、後醍醐天皇の時に大僧正となった延暦寺の僧で、吉田兼好の兄弟です。
慈遍は常昌の影響を受けて、僧であったにもかかわらず、その著「旧事本紀玄義」で、釈迦如来は皇天の垂迹であるとしました。
つまり、はっきりと「神本仏迹説」を主張したのです。

また、「日本は種子芽の如し。…唐は枝葉を掌り、梵(インド)は果実を得、花は落ちて根に帰す。」と書いて、神道が仏教、儒教の元であると主張しました。
これは、吉田兼倶の「三教根本枝葉花実説」に影響を与えました。



以上のように、伊勢神道の「神本仏迹説」や、根源神として「国常立尊」や「天御中主神」を重視したこと、「正直」という心のあり方を理想としたことなどは、吉田神道を初めとした後の神道思想に影響を与えました。

また、このページでは紹介しませんでしたが、三種の神器の重視や、超古代史的皇統史観などは、南朝のイデオロギーや、超古代史的偽書にも影響を与えました。


posted by morfo1 at 08:22Comment(0)日本

本地垂迹説と三輪流神道


仏教と神道の習合である「神仏習合」は、中世から近世にかけて、約1000年間の日本の宗教の基盤です。
明治政府が「神仏分離」を強行しなければ、現在もそれは濃厚に残っていたでしょう。

このページでは、「神仏習合」の潮流と、それを理論化した「本地垂迹説」、そして、「本地垂迹説」に基づいて、いち早く体系化を行った「三輪流神道」について紹介します。

「三輪流神道」は、単に、大神神社に関係する神と仏の本地を関係づけるだけではなく、全国の神々を曼荼羅として表現したり、曼荼羅の諸尊に神々を対応づけるなどして、「本地垂迹説」に基づく神道の体系化を行いました。


<神仏習合>

古代の律令体制が崩れ、地方の豪族が私的な領主となることで「中世」が訪れます。
天皇の記紀神話の権威が弱体化し、人々が仏教による新しい救済と支配の論理を求める中で、「神仏習合」が生まれました。
また、「神仏習合」は、記紀神話を再解釈し、新しい神話に再構築する「中世神話」の幕を開けました。

一般に、「神仏習合」は、神が仏に帰依する「神身離脱」として始まり(8C)、神が仏の「鎮守」、つまり、守護神となり(8-9C)、最後に、神を仏の化身として理論化する「本地垂迹説」へと進みました(11C)。

平安末期(12C)には、「本地垂迹説」の広がりによって、神社に本地仏が比定され、神宮寺に本地仏が祀られるようになりました。

そして、鎌倉時代(13C)には、神と仏の関係を逆転させた「反本地垂迹」も生まれました。

「神祇信仰」が、穢れと物忌の制度化としての「神道」になったのは、9-10C頃です。
ですが、この穢れを嫌う神道思想は、「神仏習合」が進む中で、末法思想の影響を受け、清浄な彼岸に至ることを願う仏教の「浄土信仰」へと変化していきました。

仏教による末法思想と、日本を周辺の国(辺土)と見る思想は、神が仏の代わりに機根に劣る人々を救い、浄土に導くという信仰を促しました。
インド密教でも、末法においては、仏や菩薩よりも忿怒尊や明王といった神々の方が、人を救うのに適していると考えられていました。

平安末期から鎌倉時代に人気を博した日吉、八幡、熊野などの神々は、そのように仏教と習合し、浄土への救いを約束するような神でした。

こうして、神祇信仰における神が「祟る」存在であったのに対して、「神仏習合」の影響で、神は「怒る(罰する)」存在、あるいは、仏を代行して「救う」存在になりました。


<本地垂迹説と中世的コスモロジー>

「神仏習合」における仏と神の関係の論理化は、「本地」と「垂迹」という言葉に集約されます。
「本地」は本体で、「垂迹」は化身した姿です。

仏が神の姿になって、日本の人々を救う、という仏教側の考え方が「本地垂迹説」で、仏と神の関係を逆にしたのが「神本仏迹(反本地垂迹)説」です。

「本地」の方が上位の存在ですが、本覚思想や救済の観点からすれば、「垂迹」の方が重要だとも言えます。
「神仏習合」に基底には、「神仏同体」、「神仏平等」、「神本仏本」といった考えもあります。

ですが、「本地垂迹」の論理は、密教の、仏が菩薩や神(天・明王)に化身するとか、菩薩が神に化身するという考えに由来します。
また、日本仏教のコスモロジーでは、「本地」は時空を越えた存在であり、「垂迹」は地上の特定の地域(仏国土、此土)にいる存在であり、日本は周辺の地域(辺土)にすぎません。


「本地」、「垂迹」という表現は、もともとは、天台宗で「法華経」を分類・解釈する時の「本迹二門」から来ているのでしょう。
「法華経」の前半の14品が「迹門」で、人間として生まれた「始成正覚」の釈迦、つまり、仏の三身説で言えば「応身」に対応する部分です。
それに対して、後半の14品が「本門」で、永遠の過去から悟っていた「久遠実成」の釈迦、つまり、「法身」に対応する部分です。

ですが、論理としては、それ以上に「三輪身説」が重要です。
「三輪身説」では、仏の本体を「自性輪身」とし、仏が菩薩として顕現する姿を「正法輪身」、明王として顕現する姿を「教令輪身」としました。

「本地垂迹説」との対応言えばで、「自性輪身」と「正法輪身」が「本地身」、「教令輪身」が「垂迹身」に当たります。


「本地垂迹」は、「本地/垂迹」の二層論ですが、中世的コスモロジーを考えた場合は、「本地/垂迹/化身」という三層論が適当だという学説があります。

神か仏かではなく、時空を越えた「本地」と、日本や特定地域を担当する「垂迹」、そして、直接、地上で人々と対面する「化身」です。
興味深いことに、聖(僧)や特定の仏像もこの「化身」と見なされました。

・本地:彼岸の存在:仏、菩薩
・垂迹:此土の存在:権現、明神、天部、明王
・化身:生身の存在:仏像、聖、翁

仏(本地)の救いを得るためには、「垂迹」や「化身」という媒介が必要であり、浄土に至るには、此土の中の浄土である各領地の寺院の媒介が必要でした。
これが顕密体制と呼ばれる中世仏教の体制です。

これに対して、この媒介を否定して、個人が直接、本地である仏と結びつきうるとしたのが、従来の仏教に対する鎌倉仏教の革命的で異端的な本質です。


<三輪流神道>

「神仏習合」の「本地垂迹説」の理論化は、三輪の大神神社の神宮寺で始まりました。
この真言宗の大御輪寺を中心として神仏習合した神道は「三輪流神道」と呼ばれます。

また、真言宗と習合した神道は、金剛界と胎蔵界の両部の不二を理論的特徴とするため、総称して「両部神道」と呼ばれます。

ちなみに、ほぼ同時期に天台宗と習合して生まれた神道は、「山王神道」と呼ばれます。
「三輪流神道」も「山王神道」も、三輪の神(大物主を勧請した日吉山王権現)を天照大御神と同体視して、大日如来、あるいは、釈迦を本地とします。

また、三輪山と伊勢の神路山が修験道の本末で結ばれ、山伏が「三輪流神道」を伊勢に持ち込んで、外宮の「伊勢神道」に影響を与えたため、両者には深い関係があります。

「三輪流神道」は、慶円上人(1140-1223)に始まり、叡尊(1201-1290)によって大成されました。
慶円は「三輪流神祇灌頂私記」を著し、叡尊は「三輪大明神縁起」を著したとされています。

慶円と三輪明神が互いの教えの神髄を示し合った時、どちらもヴァム字閇塔印で示した(これを「互為灌頂」と呼ぶ)のが、「三輪流神道」の始まりとされます。

ヴァム字は、水、智恵、生命を象徴します。
閇塔印は、三つの輪が三弁宝珠の形になる手印で、即身成仏を、そして、日月星と天地人の調和を、金胎不二の曼荼羅を表現します。

叡尊は、真言律宗を興した僧ですが、大神神社の神宮寺の三輪寺を中興して「大御輪寺」にしました。

また、叡尊は、蒙古軍の退散祈祷のために、伊勢神宮に参宮して三輪明神と天照大神の同体を感得し、外宮を金剛界、内宮を胎蔵界と対応付けました。
そして、伊勢に神宮寺を創立し、両部大日如来を置いて、内外両宮の本地院としました。

「三輪流神道」では、本地の「大日如来」が、「天照大御神」に垂迹し、まず、「大三輪大明神」として、次に、「伊勢皇太神(天照大御神)」として降臨したと考えます。

つまり、「大三輪大明神(大物主・大己貴)」は、「天照大御神」と同体であり、地上においては伊勢の「天照大御神」の元となる存在なのです。


<三輪流神祇灌頂>

三輪流神道には、真言宗の灌頂を神道の立場から再構成した神祇灌頂があり、ここには、教義や修道が表現されています。

「三輪流神祇灌頂」に記された灌頂は、類似した次第が3回繰り返されますが、そのそれぞれも3重の構造となっています。
最初の灌頂を中心に、以下、簡単に紹介します。

灌頂は、最初に、三つの鳥居をくぐることで始まります。
それぞれには次のような意味があり、対応する神々がいます。

        (意味)       (対応する神々)
・第一の鳥居:天元:過去の罪過を祓う:天の五行に対応する神世七代の神
・第二の鳥居:人元:現在の罪過を祓う:人体を構成する五大に対応する天の神
・第三の鳥居:地元:未来の罪過を祓う:五行に対応する地上の神

次に、密教の灌頂と同様に覆面を被って入壇し、投華して神と結縁した後、「神の社」と呼ばれる壇を拝観します。

「神の社」には、中央に榊の木が立てられ、八咫鏡が掛けられ、両側に天叢雲剣が立てられています。
八咫鏡は表裏が天照大御神と豊受大御神を示し、後者は八坂勾玉に当たるとされます。

また、その手前には「敷曼荼羅」が敷かれ、五つの鏡が置かれています。
この「敷曼荼羅」は、以下のように三重の構造になっていて、三輪流神道のパンテオンを示します。

・中央:天照大御神
・二重:五大明神(三輪・住吉・熊野・春日・八幡)
・三重:二十四大明神(高野、稲荷、山王、熱田、白山、蔵王、諏訪、賀茂など)

そして、敷曼荼羅の上に置かれた五つの鏡は、天忍穂耳以下の地神五代を示します。

また、周りに五色の花を活けた五瓶が置いてあり、それぞれが五行、五智を象徴します。

次に、第一段階(初重)とされるのが「正覚壇」で、智水を注がれ、三種の神器を授かります。
三種の神器には、次のような意味があり、種字と対応します。

 (神器)  (種子) (意味)
・神爾(玉) :ア字 :根源の生きる
・宝剣    :ウン字:煩悩の克服
・内侍所(鏡):ヴァム字:智恵の明鏡

次に、第二段階(二重・外宮)とされるのが「麗気壇」で、神の麗気を受けてその心を体得します。
ここで、三種の神器ととれを統合する宝珠の意味、対応する神仏について以下のように明かされます。

 (神器)   (仏)   (神)
・宝珠   :舎利   :国常立尊
・鏡    :如意輪観音:天照大御神
・剣    :不動明王 :天児屋根命
・弓矢(玉):愛染明王 :武御雷神

最後に、第三段階(三重・内宮)とされるのが「岩戸大事」で、不動根本印を結び、帰命ハム字を唱え、次に、金剛合掌をして、秘歌を歌います。
この「岩戸大事」の意味は、岩戸に隠れた天照は、心の奥に隠れた如来蔵(仏)と同じであり、その仏=天照を顕現させることです。

また、二回目の灌頂の「敷曼荼羅」は、最初のものと異なり、天忍穂耳尊以下の地神五代のうちの四神と、天児屋根命など四神が描かれています。
そして、三重目の灌頂の「敷曼荼羅」は、神世七代などの八神が描かれています。

また、三回目の灌頂では、「正覚壇」の代わりに「唐櫃」があり、左手に八咫鏡(清浄心を象徴)、右手に天逆鉾(万物の創造を象徴)を持ちます。
そして、「岩戸大事」では、不動根本印の代わりに天逆鉾に対応する独股印を結び、ハム字の代わりにフーム字を唱えます。


<愛染明王曼荼羅との対応>

また、「神道灌頂清軌」には別の灌頂の次第が記されていて、愛染明王を中心にした理趣経曼荼羅十七尊と神々が、以下のように対応させられています。
この曼荼羅は、「如法愛染」によりながら金剛界曼荼羅に近づけた独自のものです。

     (仏)         (神)
・中心:愛染明王       :天照大御神
・二重:欲・触・愛・慢    :天忍穂耳以下の地神五代の四神
・三重:欲女・触女・愛女・慢女:稚産霊などの生産の神
・四重:春・夏・秋・冬    :猿田彦、住吉、稲荷、大己貴
・五重:色・声・香・味    :高皇産霊・素戔鳴・蛭児・月弓

この曼荼羅にある神々は、五穀豊穣を産む天地の自然と生産の神々です。
それが、感覚・愛欲などの現世的なものを肯定する仏教尊格と対応させられていて、一貫した思想が表現されています。

また、三つの鳥居には、下記の通りの意味づけがされています。

      (神)  (本地仏) (種字) (意味)
・一の鳥居:荒振神 :金剛界大日: ア  :心清浄
・二の鳥居:菊理姫 :胎蔵界大日:ヴァム:生命
・三の鳥居:住吉明神:不二大日 :フーム:中道
posted by morfo1 at 14:18Comment(0)日本