親鸞の自然法爾


このページでは、親鸞の思想全体ではなく、当ブログのテーマである神秘主義との接点として、「他力」を突き詰めた「絶対他力」の境地、その働きである「自然法爾」の観点から、その可能性としての解釈を行います。

阿弥陀如来の第十八願を信じて「他力」を選択することは、主体的な作為、計らいを放棄することであり、その時に現れる働きを「自然法爾」(自然な真実の働き)と呼びます。

「他力」の実践は、実際には、自然の創造性を信じて、「あるがまま」を肯定することとほとんど同じです。
「称名念仏」は易行(簡単な行法)とされますが、主体性の放棄は、実際には、日常的意識の放棄であり、決して易行ではありません。


<浄土真宗の特徴>

親鸞(1173-1263、)に始まる浄土真宗は、様々に評価されています。

真宗は、人格的な一神への信仰による救済という点で、キリスト教と似ていると言われることがあります。
それに、罪(悪人)の意識が前提にあること、神の国(仏の浄土)を目指す点でも、キリスト教と似ています。
人間の善悪の行いと関係なく救済が決まっている(決まる)という点では、カルヴィンの予定説と似ています。

また、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を書いたマックス・ウェーバーは、真宗がプロテスタンティズムと似ていると考えました。
五木寛之も、阿弥陀仏の「他力」の信仰を、市場原理の「見えざる手」を見るような信仰であると考えました。

また、人格的な一神への信仰による救済と、すべてを神にゆだねて信仰者の主体性を放棄していく点や、神仏の名を称えるという点では、インドのジャパ・ヨガを伴なうバクティ信仰と似ています。

ですが、この主体性を完全に放棄する「絶対他力」という部分に焦点を絞ると、別の側面が見えてきます。

この点からすれば、禅で言えば、「無心」や「自然知」に似ています。
道元の目的意識を放棄してただ座る「只管打坐」にも似ています。
称名念仏は「一念」で良いという考えは、頓悟禅に似ています。

また、道家の「無為自然」、修験道の「本有無作」や「自然智」、ゾクチェンの「自然解脱」や「無努力」、「任運(あるがまま)」にも似ています。

以下、この観点を中心に見ていきましょう。


<法然と親鸞>

親鸞は、法然を継承し、彼に帰依することを明言しています。
ですが、実際には、親鸞は法然と異なる部分を持っていました。
しかし、法然と異なる宗派を立てるようなことは意図しませんでした。

浄土教系の専修念仏宗でなくても、当時の旧仏教は、悪人でも救われるとか、念仏を称えることで救われると主張していました。
それらと異なる法然の特徴は、「大無量寿経」で語られる阿弥陀仏の四十八願の中の第十八願を絶対視する「選択本願念仏」です。

十八願は次のようなものです。

「たとい、われ仏となるをえんとき、十方の衆生が、至心に信楽して、わが国に生まれんと欲して、乃至十念せん。もし、生まれずんば、正覚を取らじ。ただ、五逆と正法を誹謗するものを除かん」

つまり、たとえ1回でも、10回でも、真心から信じて、浄土に生まれたいと望んだら、五逆(両親や僧の殺害など)と正法を誹謗する罪を犯した者以外は、浄土に生まれ変わって悟りを得られるように、という誓願です。

法然は、末法の時代にはすべての人間は平等に劣根一類なので、易行の称名念仏が浄土へ往生する最も優れた方法であるとしました。
そして、この「専修念仏」を主張する「浄土門」が、旧来の止観などの諸行を行う旧仏教の「聖道門」より優れているとしました。

この旧仏教を否定するかのような主張によって、「専修念仏」を主張する法然や親鸞らは弾圧を受けました。

浄土教の祖とされる源信が、臨終時の観仏(来迎の観想念仏)を重視したのに対して、法然は臨終時を重視せず、観仏ではなく称名念仏を重視しました。

法然は、「愚者になりて往生す」と語ったように、「選択本願念仏」は「他力」を重視して、「知」を放棄することを意味しました。
これは、「知(善行)」の宗教、「自力(自業自得)」の宗教としての本来の「仏教」の否定です。

親鸞も、そのような「他力」の思想を継承しています。
彼が、善悪人正機説を説いたとされる「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(歎異抄)という有名な言葉があります。
この言葉は法然の言葉という説もありますが、親鸞はこの「善人」、「悪人」という言葉を次のように考えていました。

「善人」とは、「ひとへに他力をたのむ心欠けたる」、「自力作善」の人であり、「悪人」とは、「他力をたのみたてまつる」がゆえに「もともと往生の正因」の人のことです。
つまり、「自力」か「他力」かということです。

親鸞は、主体的な善悪の判断を放棄することを主張しただけではなく、人が善と行おうが悪を行おうが、それは過去の宿業によるものであって、実際には、主体的判断によるのではないと考えていました。

ですが、親鸞は、「悪」そのものを肯定しているわけではありません。
十八願の経文が、五逆や誹謗正法を犯した者を救済対象から除外したことを受け入れていて、そういう罪人は地獄に落ちるとしています。


<絶対他力>

親鸞は、法然を継承しながら、「他力」ということをより突き詰めたので、その思想の特徴は「絶対他力」であると言われます。

称名念仏を行う時、念仏を称えようと意図しても、浄土に行きたいと意図しても、それは「自力」になってしまいます。
ですが、親鸞は、念仏を唱えることを「自力」の善根であると考えることを否定したのです。

そして、以下のように、一切の意図(計らい)のない「絶対他力」の「他力念仏」を主張しました。

「総て万の事につけて往生には賢き思を具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること常におもひ出しまゐらすべし。しかれば念仏も申され候、これ自然なり」(歎異抄)
「念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべらん、また地獄におつるべき業にてやもて存知せざるなり」(歎異抄)

また、「自力」の念仏によって浄土に行けますが、それは真の浄土(真実報土)ではなく、仮の浄土(方便化身土、仮報土)であるとして、区別をしました。

それどころか、阿弥陀仏の「本願」に対する「信」が確立すれば、その時点で、念仏をまだ称えていずとも、往生してやがて悟りに至ることが確定する(正定聚の位を得る)と考えました。

「真実信心の行人は摂取不捨の故に正定聚の位に住す。この故に臨終まつことなし、来迎たのむことなし、信心の定まるとき往生また定まるなり」(古写書簡)

また、「自力」の放棄は、僧にとっては、「僧」として「弟子」を持つ、「布教」する、という意識の解体にまで及びます。

親鸞は、賀古の教信沙弥の影響を受けているようですが、念仏者には僧の意識を放棄した(元)僧が少なからずいました。
親鸞は、次のように語っています。

「たとひ牛盗人とはいはるとも、もしは後世者、もしは善人、もしは仏法者とみゆるやうにふるまふべからず」(改邪鈔)
「それがしはまたく弟子一人も持たず、その故は弥陀の本願をたもたしむる外は何事を教えてか弟子と号せん、弥陀の本願は仏智他力の授けたまうところなり、然ればみなともの同行なり、私の弟子にあらず」(改邪鈔)


<往相・還相の回向と横超の菩提心>

大乗仏教では、「回向」ということが認められていますが、この「回向」は、自身の「功徳」を他人に回すものなので、「自業自得」というカルマの原則から外れる原理です。
阿弥陀仏の「他力」は、誓願の力を借りて、阿弥陀仏自身の功徳を「回向」して衆生に向けたものです。

阿弥陀仏の「回向」は、衆生を浄土に向かわせる「往相」においても、浄土からこの世界に戻って衆生を救済させる「還相」においても、働きます。
つまり、悟りのために浄土に行くのも、戻って衆生を救済するのも、阿弥陀仏の「他力」に任せて行うべきものなのです。

ちなみに、浄土では、念仏ではなく、止観の正行を行って悟りに至ります。

親鸞は、「自力」の放棄を主張しましたが、それでも菩提心(他者救済を目的とする菩薩の決意)を否定しませんでした。
そして、菩提心を4種(二双四重)に分けて考えました。

「竪」を旧仏教の聖道門、「横」を専修念仏の浄土門とします。
そして、「出」は段階的な道、「超」は一挙に進む道とします。
これらをかけ合わせて4種となります。

親鸞が主張するのは、「他力」の念仏によって一挙に正定聚の位を得る「横超」であり、この菩提心を「横超の金剛心」と名づけました。


<久遠実成と法身の阿弥陀仏>

通常、阿弥陀仏は仏の一人であって、「法華経」の「久遠実成」の釈迦仏や密教の大日如来のような根源的な仏ではありません。

ですが、天台宗の浄土教には阿弥陀仏を「久遠実成」の仏とする考えがありました。
晩年の親鸞はこの考えを取り入れて、阿弥陀仏は「久遠実成」の仏であり、釈迦仏はその顕現であるとしました。

「久遠実成阿弥陀仏 五濁の凡愚をあはれみて 釈迦牟尼仏としめしてぞ 迦耶城には応現する」(浄土和讃)

また、浄土真宗の教義では、阿弥陀仏は報身であって、人格と形姿を備えた存在です。
ですが、親鸞は、報身の阿弥陀仏を「無上仏(法身)」の顕現と考えて、それを知らしめる存在であると考えました。

「無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。…かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせん料(ため)なり」(古写書簡の自然法爾章、「末灯鈔」の第五通「自然法爾章」)

ここで、親鸞は、無形のものを「自然」と呼び、阿弥陀仏がそれを知らせると書いています。

このように、親鸞には、阿弥陀仏を、無形の次元と有形の次元の運動として捉える観点を持っていました。


<自然法爾>

親鸞は、86歳の時の書簡(古写書簡の「自然法爾の事」、「末灯鈔」の第五通「自然法爾章」)で、阿弥陀仏の本願力の働きを「自然法爾」と表現して、次のように書いています。

「自然といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからいにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ」
「行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ」

つまり、「自然法爾」は、善悪を判断するなどの計らいを捨てることで、受け止めることができる働きなのです。

「自然法爾」という言葉は、法然が仏願力の世界を「法爾道理」と言ったことを言い替えたものでしょう。
「法爾」という言葉は、より一般的な仏教用語では「法性」です。
また、「自然」という言葉は、「無量寿経」で浄土の荘厳の表現に使われている言葉です。

先にも引用したように、この書簡で、親鸞は、無上仏は「無形」であるので「自然」と表現し、阿弥陀仏はそれを知らせる存在であると書いています。
「自然法爾」が「無形」であるとは直接的には述べていませんが、そうであるか、それに至らせるものでしょう。


親鸞の思想は、「大無量寿経」に書かれた阿弥陀の四十八願の中の第十八願の絶対性を信じることが前提ですから、それを受け入れるには、その高いハードルを超える必要があります。

ですが、その思想の本質は、作為的な意識を捨てた時の自然なありようを信じることです。
これは、世界的に普遍性の高い思想です。

阿弥陀仏には、往相と還相の回向があるのですから、自然状態の作用にも、「無形」な悟りに向かわせる力と、「有形」に向かう「慈悲」の力があることになります。

現実の我々は、「計らい」を放棄しても、習慣化された煩悩性のものが現れることはよくあります。
ですが、仏教の一般的教義から考えると、現れるものが「無形」であれば、あるいは、「無形」になるならば、それは非煩悩性のもの、清浄な「仏性」の現れであると考えることができます。
阿弥陀仏や「自然法爾」が「無形」なものを知らしめるという作用は、この後者です。

また、後期密教やゾクチェンでは、「慈悲」を未顕現からの生成・顕現の自然な運動と解釈します。
親鸞の阿弥陀仏の還相の本願力の思想は、これと遠くはありません。

金春禅竹の翁論と六輪一露説

「猿楽と荒神と黒い翁」に続くページです。

世阿弥の娘婿であり、世阿弥の後の新しい猿楽・能楽を創造したとされる金春禅竹は、芸能者としては珍しく、形而上学的な表現でも、その哲学・宗教思想を表現しました。

このページでは、金春禅竹の翁=宿神論である「明宿集」と、芸能論であり、意識論でもある「六輪一露説」を紹介します。
「明宿集」は、翁=宿神を根源神とし、「六輪一露説」は根源からの顕現と帰還を描いています。


<金春禅竹>

金春禅竹(1405-1471)は、大和猿楽の中でも、最も由緒ある円満井座に由来する金春流の太夫です。

禅竹は、世阿弥の女婿でもあり、世阿弥が晩年に自分の芸の継承者として唯一期待をしていた人物です。
禅竹は、世阿弥に指導を仰いでいて、世阿弥から「六義」、「捨玉得花」を相伝されました。
また、世阿弥の長男の元雅も、観世流の秘伝書、「一大事の秘伝の一巻」を禅竹に見せています。

禅竹は、世阿弥の次の世代の新しい能楽を創造しました。
彼の能楽には、人間の内面を描く、重韻を多用する、龍神物を加えた、世阿弥と異なる幽玄観を持っている、などの特徴があります。

また、禅竹は、形而上学的な翁=宿神論、芸能論を著しています。
彼は、天台宗(山門)の教学に詳しく、他にも、華厳教学、禅、神道説などにも精通していたようです。
彼が記した伝書は秘伝でしたが、1915年に初公開されました。
また、翁や宿神を論じた「明宿集」は、1964年に発見され、1969年に公開されました。


<金春家の宗教>

金春家では、毎月一日には「翁面」を、十五日には「仏舎利」を、二十八日には「鬼面」を供養・礼拝していたと、「明宿集」に書かれています。

また、三宝として、「御影」、「仏舎利」、「面」が伝えられていました。
このうち、「面」と「仏舎利」は、聖徳太子から猿楽の祖である秦河勝が賜ったものとされます。
「御影」には、「明宿集」に書かれている、秦河勝が紫宸殿で翁を舞った姿が描かれていると推測されます。

禅竹は、「明宿集」で如来の三密に対応するものとして、「経巻(口密)」、「舎利(身密)」、「神明(意密)」を上げています。
これは、天台宗にあった考え方のようです。
そして、「翁」、「鬼面」を「神明(神)」に当たるとしています。

また、禅竹には、「仏舎利」と「荒神」を同一視する考えがあったようです。
その背景には、天台宗が「仏舎利」と山王を同体視する説、「荒神縁起」が「荒神」と「仏舎利」を同体視する説、春日社の仏舎利信仰などが想定されます。

そして、金春家には、三宝の面とは別に、「おそろし殿」と呼ばれる面が祀られていました。
これは太夫になった者のみが、一代に一度だけしか見ることを許されていませんでした。
この面は、大避神社縁起によれば、やはり聖徳太子から河勝が賜ったもので、龍神の天地人の三面のうちの天の面であるそうです。

・仏舎利:身密:荒神
・翁面 :意密:御影
・鬼面 :意密:おそろし殿


<明宿集>

「明宿集」は、禅竹が、国つ神や祖神の化身と考えられていた「翁」と、芸能者・被差別民の神だった「宿神」について論じた書です。

禅竹は、正体のはっきりしなかった「翁」と「宿神」を、「翁=宿神」として、それを抽象的な原理で捉えました。
そして、様々な存在がその顕現であり、その働きを宿していると考えました。
それはて、ほとんど形而上学的な「翁・宿神一元論」です。

この書は、ほとんど「翁」について書かれていて、「宿神」については別名として出てくるだけです。
そのため、この書の最初のタイトルは「明翁集」でした。
ですが、それを「明宿集」としたということは、「翁」が「宿神」であるということを重視したかったからでしょう。

最初に「明宿集」の要旨をまとめます。

「翁」は根源神であり、あらゆる存在に内在します。
星宿・日・月にもその働きであるという点から、「宿神」と呼ばれます。

「翁」には、柔和と憤怒の2相があって、「鬼面」はその一つの側面です。

また、「翁」は、法華経、阿弥陀と一体であり、「翁」の芸道は弥陀如来来迎への道であるとされます。

禅竹は、「猿楽」についても書いています。

「猿楽」とは、天照大神の岩戸を開いた時の「神楽」であり、「神」から偏を取って「申楽」と名づけたのだと。
また、釈迦が生きていた頃、祇園精舎で供養を行った時に、天魔を鎮めるために後戸で舞ったのも猿楽であると。

そして、聖徳太子が天下太平のために、秦河勝に舞わせたのが「翁舞」です。
ですが、実は、秦河勝は「翁」が仮現した姿であり、その後、秦河勝は「大荒神」になりました。

以下、もう少し詳しく見ていきましょう。


<翁と宿神>

禅竹は、最初に、「翁」が宇宙創造の始めから存在した神であるとします。
そして、その法身は大日如来であり、報身は阿弥陀如来であり、応身は釈迦牟尼であると。

また、天体にあっては無数の星、日、月、地上にあっては山河大地、森羅万象、草木や鉱物などにいたるまで、すべてが「翁」の分身の行う霊妙な働きにあずかっているとします。
そして、「翁」は、太陽・月・星宿の意味を込めて、「宿神」と呼ばれます。

このように、禅竹は、「翁」を根源神であり、すべての中で働く内在神であるとします。
これはおそらく、「荒神」が世界の最初に出現した神であるという説があったことが背景になっているのでしょう。

また、禅竹は、「宿神」を星の神としての側面を重視して捉えています。
その背景には、天台宗の星辰信仰や、山王と北斗を同体視する山王神道系の思想や、北斗の本命星と「荒神」の習合があると思われます。

本命星(その人間の運命を司る北斗七星の星の一つ)を供養しないと、次の生で「荒神」になって災いをなすけれど、供養すると宇賀神として福をもたらすとする思想が、「北斗法愚記」などに見られます。

また、「明宿集」は、「荒神」の法身・報身・応身の三身や、そして、太陽・月・星の三つの光が、「式三番」に表現されているとします。
さらに、三輪の神が「翁」と一体で、三輪の御室山が「式三番」の形であるとも書かれています。

そして、「翁」には、「柔和と憤怒」の二つの形があって、これは善悪一如の表現であるとされます。
柔和相は「本有如来」の姿で、憤怒相は愚かな人間を調伏するための鬼神の姿です。
この二相は、「鬼面」と「翁面」で表現されます。

この「翁」の二相も、「荒神」の如来荒神/忿怒荒神といった二相から影響を受けているのでしょう。

また、「翁」の姿は、立烏帽子が太陽と月を象徴し、御数珠は星座を、御檜扇は十二の月を、水干は「胞衣」を、袈裟の紫色は中道を象徴しているとします。

「胞衣」が出てくることも、「翁」が「荒神」から影響を受け、また、「宿神」が「シャグジ神」であることを表しています。


<翁の化身>

「明宿集」は、「翁」が、様々な存在として化身すると言います。

まず、「翁」は、法華経、阿弥陀如来、観音と一体です。

そのため、「翁」の芸道こそ法華経に説かれている教えであり、阿弥陀如来の来迎へのまっすぐな道であるとされます。
そして、「翁」が、鼓を打ち颯爽として鈴を振る所作は、阿弥陀如来来迎の作法であり、「キリーク・サ・サク」となる鈴の声は、阿弥陀三尊の真言を表現しているのだと。

また、「翁」は、すべての諸天・諸明王と一体であるとされます。
摩利支天は「宿神」、歓喜天は「荒神」、すなわち「翁」であり、弁才天、愛染明王、不動明王も「翁」です。

「翁」は、様々な神にも顕現し、天と地を媒介する者とされます。
住吉大明神、諏訪明神、塩竃の神(塩土翁)、春日明神、先に挙げた三輪の神などです。

「翁」が住吉大明神であるということは、和歌の神であり、戦争の神でもあるということです。
禅竹は、猿楽は「歌舞」であって、「歌」を含んでいることを強調します。

また、「翁」は、猿楽の祖の秦河勝に化身しました。
そして、河勝が「大荒神」と呼ばれたいきさつを語って、「大荒神」が胎児を包む「胞衣」の象徴(つまり、胞衣荒神)であり、「翁」のまとう襅の袖もこれを象徴していると言います。

秦河勝を「荒神」であると強調する点で、禅竹は、「翁」の「鬼面」としての側面を重視していることが分かります。

また、河勝には三人の子があり、一人は武士になり、その子孫は長谷川党になりました。
もう一人は楽人となり、その子孫は四天王寺で舞いを始めました。
もう一人は猿楽者となり、その子孫が我々の円満井座の金春大夫なのです。

春日明神は「翁」と一体ですが、「春」という字を分解すると「二大日」となり、両界曼荼羅を表現しているとします。
そして、「金春」にも「春」の字があって、春日明神と深い因縁があり、春日神社で猿楽を舞ってきたのだと。

また、「翁」は、他の様々な人間にも仮現します。

「伊勢物語」の作者である在五中将業平に化身して、深淵な性愛の道を教えたのだと。
「古今集」の歌仙として出現したときには、三人翁と言う呼び名をもって、一つの本体を三つに分裂させて現れました。
禅・教(天台教学)・律・真言などの祖師はすべて「翁」と一体であり、達磨大師、聖徳太子は「翁」の霊妙なる働きを体現していたのだと。


<翁の意識論>

「明宿集」は、「翁」を精神的な側面からも説きます。

「翁」は、父も母も未だ生まれていない未発の状態の真如(本来の面目)のことだとします。
と同時に、「翁」は、常に生起していて、その慈悲の心が「翁」なのです。

つまり、「翁」は、心の根源であり、そこから顕現でもあるのです。
「翁」は、この存在とも非存在とも思える自分の心のうちにあるのです。

そして、提婆(デーヴァダッタ)と龍女の心の本性は、生命活動を方便として用いて悟りに至る「翁」の本意を現していると言います。
つまり、煩悩を悟りへ転化するということですが、これは、本来、密教的な思想です。

また、「翁舞」を舞う時の心構えを、次のように語ります。
「無心無相の状態になって」、「宇宙を舞う日月のような気品をもって」、「障りになるものは塵一つないという状態で」舞うのだと。
「鋭い利剣のような性質をもって」舞えとも言いますが、その剣は、「一念不生の剣」なのだと。


<六輪一露説>

「六輪一露説」は、猿楽・能楽における意識・動作の生成、芸の上達の段階を論じた芸能論です。
ですが、きわめて抽象的・形而上学的であり、神秘主義的な意識論になっています。
そのため、芸能だけではなく、日常的な行動にも適用できるものです。

「六輪一露」は、天台教学やその「一心三観」、神道説、密教、華厳教学、禅など、様々な思想を取り入れています。

「六輪一露説」は、最初、1444年までに、禅竹の詞と図、そして、東大寺戒壇院の僧の志玉の注を加えたものとして作られました。
志玉は華厳教学が専門であり、彼の注は中国華厳宗の澄観の法界論に基づいて書いています。

「六輪一露説」は、その後に、一条兼良による儒教サイドからの注と、禅僧の南江宗沅の後書きをつけて、「六輪一露之記」としてまとめられました。

その後も、禅竹はこの説について書き続け、「六輪一露之記注」、「六輪一露秘注(寛正本・文正本)」などを著しました。

「六輪」は、意識や舞の生成・上達段階を表現しますが、それは未顕現から顕現し、また、未顕現に戻る6段階になっています。

そして、「一露」は、「六輪」のさらに根源、世界と心身の根源であり、それが「六輪」を貫く「利剣(鋭利な剣)」として表現されます。
「一露」は水体であり、水を根源的な存在とする世界観を示しています。

「六輪一露」は、それぞれが絵図で表現されますが、これら絵図も、密教、神道説、禅の十牛図などの図像表現の影響を受けています。


<六輪>

「六輪」とその意味、図像は以下の通りです。

 (六輪) (意味)
1 寿輪:未顕現(型がない)
2 竪輪:顕現(型が生まれる動き)の始まり
3 住輪:顕現(型)の安定
4 像輪:顕現の分化(すべての型が整う)
5 破輪:回帰の始まり(型を外した型が自由に生まれる)
6 空輪:未顕現への回帰(すべての型が可能性としてある)

*意味は善竹の言葉ではなく、当ブログ主の解釈です


*寿輪・竪輪・住輪


*像輪・破輪・空輪

禅竹は、「六輪」を、「無主無物の妙用」と書いています。
また、志玉は、「真如隨縁の万法」、「流転還滅の始終」とします。
つまり、空無からの顕現と空無への帰還です。

「六輪」の進行は、第一輪が「未顕現」であり、第二・三輪は「顕現」への動き、第四輪は「顕現」の完成、第五輪は「未顕現」への回帰の動き、そして、第六輪は最初の「未顕現」への回帰です。

天台宗の山門派に、「荒神の動」と「不動明王の不動」を対で考える思想がありました。
これで言えば、第一輪と第六輪が「不動」であり、第二論から第五輪までが「動」に当たります。

志玉の注によれば、第二から第五までの四輪は、「生・住・異・滅」の四相に当たります。

一条兼良の注によれば、「六輪」は、「乾」、「元」、「亨」、「利」、「貞」、「太極」、「一露」は「無極」に当たります。


以下、「六輪一露之記」、「六輪一露之記注」、「六輪一露秘注」の禅竹自身の言葉で「六輪」のそれぞれを見てみましょう。

第一の「寿輪」は、「歌舞幽玄の根源」、「感を成すの器」、「天地未分の形」、「阿字本不生の形」、「色心不二の幽玄」、「無為無事の位」と表現されます。

そして、「歌舞一心の妙体」であり、この円相は、「音曲の息始終円相の形」、つまり、連続的な呼吸であるとされます。

第二の「堅輪」は、「立上点」、「精神と成り」、「横竪顕れ」、「天地すでに分かれ」、「一気起こる」、「神祇の元祖」、「万物生起の始め」、「序より破に移る所」と表現されます。

そして、「舞風の幽玄の至上の感」であり、「遠白体にて、峰の桜の露に匂い、秋の夜の月の雲間に冴え上がるごとく」と譬えられます。

「神祇の元祖」と書かれているように、「荒神」や国常立尊といった根源神の出現は、ここに相当します。

第三の「住輪」は、「諸体生曲を成ずる安所」、「天は天、地は地たる形」、「万像住所の落居」、「生死涅槃ここに顕わる」、「落居し収まる妙所」と表現されます。
そして、「隠れ顕われ如意」とされます。

以上の第一輪から第三輪までの「上三輪」は「清浄」とされます。
ですが、第四、第五輪に至っても、「上三輪」を留めたままに行うべきものとされます。

また、禅竹は、上三輪を「空・仮・中」の三諦、「法・報・応」の三身、「序・破・急」の三種段、そして、「式三番」と対応づけています。


次の第四の「像輪」は、「森羅万像、この輪に治まる」、「道々品々分かれ変わり」、「品々の物まね」、「分かれては竪・住、天地人の三才となる」と表現されます。

そして、人に関しては「老・女・軍の三体より…」であり、「音曲・舞・態、その物その物になりて整え分かつも上三輪を忘れず」とされます。

「像輪」の絵図は、牛が描かれているなど、十牛図の影響があります。

第五の「破輪」は、「天地十方、無尽の異相の形を成す」、「破れども…作す」、「成住壊空、成住壊空と転ずる」と表現されます。

そして、「荒く動きはたらけど高位の閑静の姿を離れず」、「異形逆風の舞踏も儚く優しき曲味至す」、「音曲闌けて舞、異相、逆風なれど上三果の矩をおのずからこえず」なのです。

第六の「空輪」は、「無主無色の位」、「元初に帰る」、「太極」と表現されます。
そして、「老木に花残れる体」、「ただいたずらに立てりといえども、月の万水に浮かび、花の匂ひの外に薫るが如くなり」と譬えられる芸の到達点です。


<一露>

「一露」は、「六輪」の根源であり、「六輪」を貫いて存在し、「剣」で表現されます。

禅竹は、「六輪一露概抄」で、「一露は寿輪いまだあらわれざる時よりの性剣、円相根本の性体、精なり」と書いています。
また、「六輪一露之記注」では、「六輪をつなぐ精心なり」とも書いていています。
つまり、「一露」は「寿輪」が仮現する前の未顕現の未顕現であり、「六輪」の根源として常に働いているのです。

そして、禅竹は、「五音三曲集」で「万物これ水体なり」、「一露はすなはち一水の初」と書いています。
また、「六輪一露之記注」で「一露」について「天地の精主、万物出生の精魂」とも書いています。
つまり、「一水」は万物の根源存在であり、「一露」はその根源の根源なのです。

禅竹が水を根源存在とする背景には、中世の神道説があります。

記紀神話では、水の中に葦牙のような根源神が生じたとしていますが、中世神話はこの水の根源性を重視します。

「類聚神祇本源」などが、「一露」を天地の初めとし、伊勢神道は、根源神を「水徳」の存在としました。
また、「神皇実録」などが、「一水」を人間の初めとしました。

「一水」、「一露」を人間の根源とする背景には、仏教の胎生論の影響もあります。

仏教の胎生論では、「胎内五位(成長の5段階)」を説いていて、その最初が「羯羅藍位」です。
密教では、男女の赤白二水の結合に「識」が加わって、人間が誕生します。
「羯羅藍位」がこの結合水とされ、それが「露」と表現されるようになりました。
つまり、仏教の胎生論で、「一露」は心身の根源なのです。

禅竹も、「一露」を心身の根源という意味で、「精心」とも表現します。
そして、「五音三曲集」では、「阿字」から「一水」が生まれ、それから不浄な「五臓」が生まれ、それから骨・肉・皮や、息・音曲・舞や、五音・五調子が生まれるという生成論を説きました。

禅竹の胎生論の背景には、胎内から見守る神とされた「荒神」信仰も想定できます。
「荒神」は、「胞衣神」でもあり、「本命神」でもありました。


また、志玉が、「一露」を華厳教学の比喩から注釈したため、禅竹もその影響を受けました。

志玉によれば、「一露」は自性清浄心であり、「真如の一心」であり、「一露」を「一心」として解釈します。

東大寺の華厳的比喩では、「一露」自身は無色であることで、周りのすべてを映します。
その点では「鏡」と同じですが、「一露」は「水」という変幻自在な根源存在であるという点で勝ります。

禅竹も、「五音三曲集」で、「水色また空なり。映すに従ってその色を現す。その色もとどまることなし」と書いています。
そして、「一露」が「大円鏡智となる」とも。

また、善竹は、「一音、一舞、一体皆この勢力なり」とも書いています。
芸能論としては、無心であれば何でも舞える、ということになります。


<利剣>

「一露」は「利剣(鋭利な剣)」、「性剣(本質である剣)」として表現されます。

禅竹は、「一露」について、「空色の二見に落ちず、自在無礙にして、一塵もさわることなし」と書いています。
また、志玉も、「六門の有相・無相を共にはらうこと、剣の万障を払うに似たり」と書いています。

つまり、「一露」は、「六輪」としての顕現、未顕現へのこだわりを切り払う「剣」なのです。

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「一露」の「利剣」の柄の部分は金剛杵のような形をしています。
「利剣」の図像表現の背景には、密教神道説の剣の図の影響が想定できます。

例えば、両部神道系の「麗気記」の神道灌頂の「日本紀本尊」は、蓮華の上に立てられた剣で表現されます。
また、密教では、三昧耶形として描かれる剣や、文殊菩薩や不動明王の持物の剣があり、この柄は金剛杵の形です。

志玉は、「一露」の「利剣」を不動明王の利剣、文殊内証の智剣であるとしています。

「剣」と「水」を結びつける思想は、神道説にあります。
「麗気記」の注釈書「神図我私鈔」は、「宝剣」と「一水」を結びつけています。
また、「大和葛城宝山記」などの中世神話では、原初の水から生まれた葦牙が、「独股金剛杵」や「天之瓊矛」になったと語ります。
この「独股金剛杵」や「天之瓊矛」は、「利剣」に変換可能な象徴です。


*参考文献

「世阿弥 禅竹」日本思想体系
「禅竹能楽論の世界」高橋悠介

猿楽と荒神と黒い翁


日本人は、あまり体系的な概念的思考として哲学を表現してきませんでしたが、中世の芸能が日本人の哲学の最高の表現だという人もいます。

世阿弥の娘婿であり、世阿弥の後の新しい能楽を創造したとされる金春禅竹は、芸能者としては珍しく、天台教学や密教的神道説などの影響を受けて、形而上学的な表現でも、その哲学・宗教思想を表現しました。

このページでは、まず、猿楽の核心である「翁舞」の「式三番」、そこに登場する「黒い翁(黒式尉)」について紹介します。

ですが、その前に、そこに至る予備知識として、古来の重要な神である「シャグジ神」、中世の特徴的な神である「荒神」、「後戸の神」、「翁」、「宿神」について紹介します。

そして、次のページでは、金春禅竹の翁=宿神論の「明宿集」と、芸能論である「六輪一露説」を紹介します。


<シャグジ神>

現在でも日本各所で祀られていて、縄文時代まで遡れると思われる神に、「シャグジ」、「ミシャグジ」、「シュクジン」、「シュグジ」、「サクジ」などと呼ばれる神がいます。

漢字では、「守宮神」、「社宮司」、「守公神」、「宿神」、「宿地神」、「作神」、「佐久神」、「左口神」、「赤口神」、「遮軍神」、「将軍神」、「姉后神」など、様々に表記されてきました。
また、地名にもなって、上記以外に、「坂越」、「杓子」、「尺子」、「坂口」、「石神井」などがあります。

例えば、諏訪神社は古層の信仰を残していますが、その核心と言える上社前宮の御室神事で、御杖柱に降りるのは「ミシャグチ神」です。
この神は、現在にまで残る「シャグジ神」の一例です。

「シャグジ神」は、大和言葉の「サ・ク」と関係しているようです。
この言葉は、包まれていたエネルギーがその先端部が裂けることで顕れることを意味します。

裂く運動が、「サク(裂く)」であり、裂けて現れることは「サク(咲く)」です。
顕れたたものは、「サチ(幸)」であり、それが飲料であれば「サケ(酒)」となります。
顕れる場所である先端部は、「サキ(先)」であり「ザキ(崎)」、「ミ・サキ(岬)」、「サカ(坂)」、そして、「サカイ(境)」です。
時間的な先端も「サキ(先)」です。

この神は、包まれているという点では「胎児」、誕生するという点で「嬰児」のイメージを持っています。
包んでいるという側から見れば「胞衣」のイメージであり、「胞衣神」と一体です。

また、「シャグジ神」は、「地主神」、「道祖神」、「樹の神」、石棒(男根象徴)や石皿(子宮象徴)、丸石(嬰児・睾丸象徴)をご神体とする「石神」という性質も持っています。

そして、この神は、中世には、「荒神」や、芸能民・被差別民の神だった「宿神」という形になった、あるいは、習合しました。


<荒神>

中世の特徴的な神に、「荒神」や「翁」があります。
これらは、単純に神祇信仰・神道の神でもなければ、仏教の神でもなく、それらが習合する中で生まれてきました。

はっきりと形をとった寺院での「荒神信仰」は、11C初め頃、まず、箕面の真言宗の勝尾寺で起こり、箕面寺がこれに続き、その周辺の北摂津を拠点にして広まりました。
この「荒神信仰」は、仏教だけでなく、陰陽道とも交流しながら、修験者によって広められました。

「荒神」が生まれた背景には、神祇信仰の「荒魂」の観念や「怨霊信仰」があると思われます。
ですが、直接的には、仏教における障礙神の「毘那夜伽」が調伏されて護法神の「聖天」になったという仏教神話から影響を受けています。
そのため、「荒神」は、荒々しい悪神としての障礙神と、護法神(守護神)としての側面を合わせ持ちます。

また、「荒神」には、忿怒相の「三宝荒神(忿怒荒神)」だけではなく、柔和相の「如来荒神」、僧形の「小島荒神」などの相形があり、「無明即法性」を表現する神とされました。
「三宝荒神」は、一般に三宝(仏法僧)の守護神とされ、三面六臂または八面六臂の忿怒相で表現されますが、「金剛薩埵」と同体であると言われます。

護法神としての「荒神」に対しては、僧によって「荒神供」が行われました。
例えば、大伽藍を建立する時などにも、悪神・悪霊を召請して護法神にするために「荒神供」が行われていました。
一方、悪神としての「荒神」に対しては、陰陽師などが「荒神祓」を行いました。

「荒神」について説く「荒神縁起」では、「荒神」が世界の最初に出現した神であり、仏以前の「仏兄」であると語るものもあります。
つまり、「荒神」を根源神にまで高めているのです。
そして、「荒神」を知らぬ者には障礙がありますが、供養すると所願が成就します。

また、「荒神」の祈祷の時、「臍の緒」を脇壇に置いて加持を行いました。
「臍の緒」は「胞衣」の一部と考えられていましたので、「荒神」は「胞衣」とつながりが深い神であり、「シャグジ神」とも習合しているようです。

「荒神」の守護するという働きは、「シャグジ神」の胞衣が保護するという働きともつながります。
「荒神」は、胎児の時から人を守護する神なのです。

また、「シャグジ神」の「顕れる」という性質を表す大和言葉の「アラ」の部分は、「荒神」の「荒」の「アラ」と同根の言葉でしょう。
つまり、「荒魂」の「アラアラ」しいという性質は、エネルギーが「アラワ」れることと同じです。

また、大和猿楽との関係では、泊瀬川(初瀬川)の源流の泊瀬山(今の笠山)の竹林寺が、「笠荒神」の寺とされ、泊瀬山が「三宝荒神」の正体とされました。
「笠」は「荒神」の象徴であり、それは「胞衣」でもありました。

大和猿楽と関係の深い春日神社では、春日明神の本地が弁才天とする説がとなえられ、弁才天と習合していた宇賀神が「荒神」とも習合しました。
同じ藤原氏の興福寺でも、「荒神供」が月例行事として行われました。

そのため、泊瀬周辺や春日神社、興福寺と関係が深かった猿楽座にも、「荒神信仰」が大きな影響を与えたはずです。

また、「荒神」は、仏教寺院以外では、地主神、山の神、樹木神、道祖神などと習合し、これらの神が「荒神」として捉えられるようになりました。
これらの一部は、「シャグジ神」であり、「シャグジ神」が「荒神」として捉えられるようになったと言えそうです。

ちなみに、近世には、「荒神」は、「竈神」と習合して広がりました。


<後戸の神>

寺院の堂の背面にある戸を「後戸」と呼び、仏事・法会の時、位の低い僧などが出入りをします。

また、この戸のある仏壇の後方の空間、つまり「後堂」のことも「後戸」と呼ばれました。
仏の後ろ姿を見ることがタブー視されたので、この空間もタブーの空間でした。
この空間は神聖視され、母性的で暗黒の空間というイメージもありました。

この仏壇の後方には、「後戸の神」として、本尊に対する「守護神(護法神)」が祀られました。
主な守護神には、「摩多羅伸」(天台宗の常行堂)、「執金剛神」(東大寺法華堂)、「不動明王」(東寺西院御影堂)などがあり、忿怒相、戦闘神といった性質を持っています。

また、仏に供え物・常灯をともすなどを担当する下級の専門僧(承仕)も、「後戸」、あるいは「後戸方」と呼ばれました。

背後の空間としての「後戸」の神聖性は、仏教の文脈でははっきりと表現されませんでしたが、神社の後には神の本体、あるいは、本体がいる場所としての山があることが普通でした。

日本では古来、大和言葉で「オク(奥)」と呼ばれる空間観念がありました。
「奥宮」、「奥山」、「奥島(沖島)」などがそうであるように、「奥」は、生命力に溢れた神聖な場所を表現します。
この言葉は、「オウ(大、王)、「アオ(青)」、「アワ(淡、阿波、安房)」、「オキナ(翁)」、「オウナ(媼)」といった言葉とも同根だと思われます。

ですから、無意識であったとしても、「後戸」の空間は、「オク」としての神聖さを持っていたはずです。

そのため、「後戸の神」は、単に「守護神」というだけではなくて、「根源神」と見なされる可能性を持っていました。

また、忿怒の守護神という点で「後戸の神」と同じ性質を持つ「荒神」が根源神とされることがありましたし、インド後期密教でも、執金剛神のような忿怒の守護神が金剛薩埵として根源仏にまで昇格しました。


<猿楽>

「後戸猿楽」と呼ばれる猿楽・猿楽師がありました。

「猿楽」は、元は「散楽」と呼ばれていましたが、11C前半に「猿楽」と呼ばれるようになりました。

猿楽師は、東大寺などの国分寺で行われる修正会・修二会の追儺の儀式に呪師とともに参加していました。
追儺では、鬼を追う「呪師走り」が結界の儀礼として行われました。

追うのは呪師が演じる毘沙門天や龍天、そして陰陽師が演じる方相氏などですが、猿楽者は主に追われる側の鬼である障礙神の「毘那夜伽」などを演じました。
この「毘那夜伽」は「荒神」と習合しました。

また、呪師は、方堅(結界・地鎮)の儀礼を行いましたが、これには「荒神」に対する儀礼が含まれ、猿楽師はこれを受け継ぎました。

そういったいきさつもあって、猿楽師は、「荒神」を、猿楽師の祖神や、猿楽の神である「宿神」、「翁」と習合させました。

猿楽は、主に、怨霊を鎮めるために行う呪的芸能で、為政者からすれば、穢れの清めに当たり、そのため、猿楽師は「清目」とも呼ばれました。
「清目」というのは、死体の処理などを行った被差別民を呼ぶ言葉でもありました。

そして、鎌倉時代の13C後半から室町期にかけて、「後戸猿楽」が生まれました。

この時代に、大和の猿楽師が法勝寺や法成寺などの修正会といった国家的仏事・法会に参加するようになりました。
この時、猿楽師は、仏堂の後戸に席を配されて待機していたため、「後戸猿楽」、あるいは「侍猿楽」と呼ばれました。
これは、「低い」、「正統ではない」といった、否定的な意味合いをもって呼ばれたものです。

ですから、後戸の空間で猿楽を舞ったためにこの名で呼ばれたのではありません。
ただ、国家的ではない仏事・法会では、「後戸の神」のための舞いを後戸の空間で舞うことはありました。


<秦河勝と怨霊>

猿楽師の間で、その祖とされるのは、聖徳太子の寵臣だった秦河勝です。

大和猿楽の結崎座に由来する観世流の世阿弥が著した「風姿花伝」の「神儀式云」によれば、河勝は、泊瀬川(初瀬川)から三輪大神の社前に流れてきた「壺」から生まれたという伝説を持ちます。

また、河勝は、「空舟(うつぼ舟)」に乗って播磨の「坂越」に至り、人々に祟りをなしたので「大荒大明神」として祀られました。

おそらく実際には、河勝は晩年に、藤原鎌足の政略によって流罪となったのでしょう。
つまり、河勝は藤原氏によって追い落とされて「怨霊」になったのです。
そして、坂越の「大避神社」に祀られました。

猿楽師は、「怨霊」を祖としているのです。
ちなみに、世阿弥も晩年、佐渡に流されています。

世阿弥の娘婿で金春流の太夫だった金春竹禅は、河勝を「大荒神」であると書いています。
「笠荒神」の山である泊瀬山から流れる泊瀬川を流れてきた河勝は、最初から「荒神」です。そして、坂越で「怨霊」となってその姿を現したのです。

このように、猿楽師・秦氏の祖神は「荒神」と習合したのです。

河勝は、「壺」と「空舟」の中から現れました。
「壺」、「空舟」は、「笠」と同様に、象徴的に「胞衣」を象徴します。
ということは、河勝は「シャグジ神」の性質も継承しています。

河勝が流れ着いた「坂越」、「大避神社」は、どちらも「サ・ク」系の言葉を元としているので、これは「シャグジ神」の場所であり「シャグジ神社」です。


<猿楽と翁>

猿楽の核心は「翁舞」であるとされます。

「翁」は、老いた男性のことですが、中世では、神が化身として現れる時の姿とされました。

日本では、有史以前から、祖神を「翁」や「媼」の姿で表現してきました。
「記紀」では、スサノオが出雲に下った時に出会った「老夫」、「老女」が国つ神と名乗っています。
また、「塩土老翁」も海神の化身であり、国つ神に当たります。

中世において、「翁」は、最初、八幡、住吉、松尾、稲荷などの、神仏習合した国つ神の顕現した姿として現れました。
これをモデル化すれば、本地仏→垂迹神→化翁、となります。

世阿弥は、河勝の子孫が春日・日吉の神職に就いていたと書いていますが、神社で猿楽を納める猿楽師は下級の神職でした。

ですが、猿楽の「翁」は、一般的には「国つ神」であり、それを舞う猿楽師はその神主に相当する存在であると言えます。
「翁面」も、神として扱われました。

ただ、大和猿楽の「翁」は、限定すれば秦氏・猿楽師の祖神、あるいは職業的祖神である秦河勝です。

そしてそれは、「荒神」であり、「怨霊神」です。
ですから、「翁舞」は、「怨霊神」が朝廷や幕府を守護し、その天下泰平を祈願する立場から、他の怨霊を鎮めるために舞われます。


<猿楽と宿神>

猿楽を含めた芸能の神とされるのが「宿神(守宮神)」です。
猿楽の発祥の神社とされる奈良豆比古神社が祀る祖神も「宿神」です。

また、西日本の被差別民が多く祀るのも「宿神(宿地神)」です。

これらの神は、その名からして「シャグジ神」の中世的形態です。

観世流の口伝書「八帖花伝書」によれば、「宿神(守久神)」は八幡大菩薩、天照大神、春日明神の守護神、特に若宮(出現したばかりの神)を守護する神であって、その意味で父母であると記しています。

また、猿楽師が「楽屋」に入ることは人の胎内に宿ることであり、舞台に上がることは出産に当たると書きます。
「翁」を舞う時、「翁」は、「楽屋」という「胞衣」から嬰児として現れるということになります。
ここには、「シャグジ神」や「荒神」との類似した性質を見ることができます。

金春禅竹は「明宿集」で、「宿神」は「翁」であると書いています。

以上のように、猿楽師の祖神である秦河勝は、=怨霊=荒神=翁=宿神=シャグジ神 なのです。


<式三番と黒式尉>

「翁舞」は、物語を持った「能楽」とは異なります。

14Cに、亡者の供養の夢幻譚を語り歩く「勧進聖」が生まれて、彼らが行う興行型の勧進に猿楽師が参加するようになりました。
これに合わせて、庶民に向けて、亡者追善の物語の形を持つ「能楽」が生まれました。

大和の猿楽座には、「翁舞」を舞う専門の猿楽師と、一般の演能の猿楽師がいました。
「翁舞」を舞うのは、観世流では太夫のみ、金春流では宗家ではなく「年預衆」と呼ばれる呪術的芸を受け継いだ非能楽師でした。

観世流は、観阿弥の時に足利義満に気に入られて、幕府お抱えの存在になりましたが、将軍の前で翁舞を舞う時に、太夫だけというルールにしたのでしょう。

「翁舞」の核心は「式三番」です。
六十六番あったものが三番に濃縮されたものとされます。

「式三番」の原型では、「稲積翁」、「代継翁」、「父助」という三人の「翁」が舞ったようです。
「稲積翁」は最初の祖、「代継翁」は祖に次ぐ先祖、そして、「父尉(父助)」は現在の家長でしょう。

それが世阿弥の時には、「式三番」では、「翁」、「三番猿楽」、「父尉」となり、後には、「翁」、「三番叟(三番三)」、「千歳」となりました。
「稲積翁」のみが「翁」と呼ばれ、「代継翁」が「三番猿楽」、「三番叟」になり、「父助(父尉)」が「千歳」になったのでしょう。

「千歳」は、祖神ではないので、面なしで舞う若者であり、露払役です。

「三番叟」は、黒い面をつけて踊ります。
「翁」=「白い翁(白式尉)」であるのに対して、「三番叟」=「黒い翁(黒式尉)」なのです。


「式三番」は、「怨霊」を慰めて、「千秋万歳」、つまり、恒久の天下泰平を祈ります。
将軍や公家などの貴人の前で舞う場合は、現在の支配体制の天下泰平を祈ることになります。
ですが、「黒い翁」の舞いは、そこから外れます。

「式三番」では、最初の「翁の段」で、「白い翁」役が貴人に拝礼をします。
そして、「千歳」が露払い役として、四方の悪霊を鎮める舞を舞います。

この後、「白い翁」が立ち上がって舞に向かうのですが、その前に一瞬、面をつける前の「黒い翁」も立ち上がって、二人が対面します。

その後、「白い翁」は祝言を述べ、「在原や、なぞの翁ども…」と言います。

そして、「千秋万歳の喜びの舞」と言って、舞いますが、実際には、ほとんど舞いません。
次の「黒い翁」につなげているようにも思えます。

そして、「白い翁」役は面を外して再度、拝礼をして舞台を降ります。

それに続く「三番叟の段」の最初の「揉の段」では、「黒い翁」が、「私のような身分のものにも、喜びがあるなら、私のところより外へはやらない」と語って舞います。
つまり、この舞は、貴人のための舞ではありません。

「黒い翁」の舞は、「踏む」と表現される激しい舞で、「翁」、「千歳」の時は小鼓が打たれるのに対して、「黒い翁」の時は大鼓が打たれます。

その後、「千歳」が「黒い翁」に、貴人のために舞ってくれと何度か押し問答をして、鈴を渡すと、「黒い翁」はしぶしぶ了承します。
最後の「鈴の段」では、「黒い翁」が、貴人の天下泰平のために、鈴で四方の悪霊を鎮めながら舞い、拝礼をせずに舞台から降ります。


「黒い翁」の起源は、猿楽においては、追儺で追われていた鬼の「鬼面」に由来するものでしょう。
ですが、「黒い面」の起源となるのは、田楽の阿満、田男などにあります。

阿満、田男などの面の多くは、口をすぼめて曲げた、ヒョットコのような口をしています。
これは、「うそふき面」と呼ばれ、語らずに反抗を示す、あるいは、語ってもウソを語ることを意味します。

つまり、「白い翁」は祝言を述べることを本質としますが、「黒い翁」は激しい舞いを本質として、祝言を述べたとしても面従腹背であることを示します。

「白い翁」が祖神・国つ神の「和魂」だとすれば、「黒い翁」は「荒魂」です。
「荒神」となった「黒い翁」には、「守護神」の側面と、「怨霊」の側面があると考えられます。

「鈴の段」の「黒い翁」は悪霊を鎮める「守護神」ですが、「揉の段」では「怨霊」のような激しい舞を舞います。
ですが、「怨霊」なら喜びの舞を舞うというのはおかしいことです。
この「黒い翁」は、支配されて二面化される以前の、純粋な祖神なのでしょう。

「白い翁」が「黒い翁」役と対面した後に言う、「在原や、なぞの翁ども」とはどういう意味でしょう。
「在原」は、在原業平が「翁」を歌った歌か、在原滋春が「鶴亀も千歳…」と歌った歌を思い出しているのだと解釈されることが多いのですが、腹落ちしません。

「黒い翁」に対して「誰だ」と言っているとしたら、「白い翁」は自分の半身である「黒い翁」を忘れていることになります。
「白い翁」は「黒い翁」役と対面しただけで、顕現した「黒い翁」とは対面せず、二人は同時に両立しないのでしょうか。

金春禅竹は、「明宿集」で、翁面と鬼面を一体のものと書いています。
ですが、禅竹は、その「翁」の本質を、単なる祖神や守護神ではなく、根源神にまで高めました。


*「金春禅竹の翁論と六輪一露説」に続きます。


*参考文献

「黒い翁」乾武俊
「翁と河勝」梅原猛
「後戸と神仏」小田雄三
「精霊の王」中沢新一
など