山口志道と中村孝道の言霊学


国学や古神道、霊学の中で、宇宙生成論や霊魂論、「鎮魂帰神法」、「仙道」、「太占学」と並んで重要な分野が「言霊学」です。
「言霊学」は、神秘主義的言語観によって、日本の五十音や、宇宙生成を研究するものです。

このページでは、「言霊論」とは何かについて、その簡単な流れ、そして、その先駆者である山口志道と中村孝道の言霊論をまとめます。


<言霊学>

国学が古語や五十音の研究をしているうちに、秘教的な傾向を強める中で、「言霊学」が生まれました。
古神道、霊学における「言霊学」は、神秘主義的な言語観を持っています。

ですから、単に、言葉に霊が宿る、発した言葉は実現する、邪心から言葉を発すると神罰が当たるといった、「言霊信仰」、「言霊思想」ではありません。

言語を、創造力を持った宇宙論的存在、神的原理として捉えます。
宇宙生成論と言語の生成論が同時であり、一語・一音ごとに意味があり(音義説)、神の言語と人間の言語、そして、宇宙や自然の言語が同一のものであって、それらに照応関係を見出します。

このような神秘主義的言語観は、「セフィール・イエツラー」以来のカバラや、スーパー・シーア派、インドのタントリズム、密教、シュタイナーなど、世界的に存在します。

日本には、古来「言霊思想」がありますし、もう一方では、空海の言語哲学があり、密教の「阿字本不生」の思想がありました。
「声字実相義」の「五大は皆な響き有り、十界に言語を具す、六塵は悉く文字なり」という言葉も良く知られていて、存在=言語とする世界観を表現しています。

そのため、日本に「言霊学」が生まれるのは必然であったと言えます。

「言霊学」の本質は、言語=神的原理=象徴体系を研究するものです。

「言霊学」は、50音や75音の象徴体系として構築されますが、中でも母音など特別視する場合は、そこに階層が生まれます。
象徴体系の階層は、宇宙の階層説であり、宇宙生成論と一体です。
ちなみに、日本の特殊性としては、子音を表す文字がないことでしょう。

神との関係では、言霊を司る神や、言葉と神との関係を探求する神論となります。

言語には、「意味」と「音声」と「形象」があります。
「意味」面は音声との結びつきを考える音義論となり、「音声」面は音声論や音韻論となり、「形象」面は文字論(神代文字論)となります。

さらには、文学論や、記紀の真意を探る解釈学にも発展します。

「言霊」は象徴体系なので、その実践面では、成就法(イニシエーション)、占い(予言、神託)、魔術(呪言)で利用されます。
言霊の発声は密教の「口密」に対応します。

古神道では、占いは「太占(太斗麻邇)」と呼ばれ、言霊の文字(神代文字)が、「天津金木」と呼ばれる占いと結び付けられました。


<言霊学の流れ>

平田篤胤は「言霊学」の先駆者の一人です。
彼は、「真の古伝」を伝える祝詞が、本来は「神世文字」で書かれていたと推測しています。

そして、1839年の「古史本辞経―五十音義訣」で言霊宇宙論を展開しました。
篤胤は、「ウ(宇)」の音声を最初にして宇宙が生まれたとして、「宇字本不生」論を主張しました。

また、「ア・イ・ウ・エ・オ」が「初・体・用・令・助」という性質を持ち、宇宙(天地)の5つの場所と対応するとしました。
この考えは、後で述べる中村孝道の言霊論と似ていて、その影響を受けている可能性もあります。

言霊論の先駆者としてより重要なのは、篤胤とほぼ同時代人である山口志道と中村孝道です。

山口は、言霊の文字という形象面を中心にして探求し、火/水の二元論で考えました。
一方、中村孝道は、音声面を中心にして探求し、軽/重や始/終の軸で考えました。

二人の「言霊学」は、大石凝真素美や大本教の出口王仁三郎らに継承され、統合、発展されました。

また、彼らとは異なる流れの「言霊学」もあります。
川面凡児や友清歓真らです。


<山口志道>

山口志道(1765-1843)は、安房国出身で、山口家には代々「布斗麻邇御霊」という言霊秘図が祀られていました。
志道は、この図の意味を解明するために国学を30年学びましたが、得るところがありませんでした。

ですが、51歳の時に、荷田訓之から「稲荷古伝」を授かりました。
これは、荷田春満が伏見稲荷で発見したものとされます。
志道は、これが「布斗麻邇御霊」から発展したもので、その解明に役立つことを発見しました。

そして、志道は、これに基づいて、自身の「言霊学」を構築し、丹波亀山で、「水穂伝」(1834)を著しました。
また、「言霊学」について神祇伯にも講義を行うなど、その普及にも尽くしました。

「布斗麻邇御霊」には、7つの図形(原文字)が描かれ、宇宙生成論を表現しています。
以下が、それぞれの意味と、その天地創造における神々や地との対応です。
これらの意味は、後述する「稲荷古伝」の12の図形(原文字)によっています。

  (天地創造)   (意味)
1図:天之御中主神 :水の中に火が生じる
2図:産霊神    :水の中の火が動く
3図:伊邪那岐   :水の中に火・緯
4図:伊邪那美   :水の中に水・縦
5図:伊予の二名の島:水の中に火・凝(こり)・与(くむ)
6図:筑紫島    :火の中に陰陽が与
7図:大八島国   :火の中に火・凝・与・水中火・火中水

そして、最後の大八島国の図形から、原文字というべき「形神名(カタカナ)」が発生しました。
その発生の順は、「ホ」に始まり、「マ」に終わります。

志道によれば、これらと関連する宇宙生成は次のようなものです。

まず、天地初発の時に「凝(こり)」が生まれ、それが「火(父)」と「水(母)」に分かれました。
次に、この二者が結合して、再度、第二の「凝」が生まれました。

そして、「凝」の中の重く濁ったものが下降して「形」になり、軽く澄んだものが上昇して「息」になりました。

「息」からは「音(こえ)」が現れ、「五十連」の言霊になりました。
また、「音」は形をとって、原文字「形仮名」になりました。

志道は、上記のように、「火(父)」と「水(母)」の二元論で考えます。
そして、神を「火水(カミ)」と表現し、また、「息」を「水火(イキ)」、魂を「霊水火(タマシイ)」と表現しました。

志道は「息=水火」を重視します。
天の「水火(イキ)」と人間の「水火(イキ)」は同一であり、天と人間は、この「水火(イキ)」が「凝」となったものです。

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*右:布斗麻邇御霊の7図形(上から生成)、左:稲荷古伝の12図形


「稲荷古伝」には、12の図形(原文字)が描かれていました。
その意味は、次の通りです。

・ヽ:火、キ、イキ、凝…
・―:火、緯
・|:火、縦
・+:キ、凝
・ノ:水
・乀:水中火
・レ:火中水
・=:天地(上火、下水)
・‖:出入息(右水、左火)
・フ:火水
・〇:水
・□:火

そして、「稲荷古伝五十連法則」によれば、アカサタナ…の各行は、次のような意味(霊)を持ちます。

・ア:空中水霊、天を司る
・カ:睴火霊
・サ:昇水霊
・タ:水中火霊
・ナ:火水霊
・ハ:正火霊
・マ:火中水霊
・ヤ:火水霊、人を司る
・ラ:濁水霊
・ワ:水火霊、地を司る

また、ア行の霊は天を司り、ヤ行の霊は人を司り、ワ行の火霊は地を司ります。

先に書いたように、五十音の「形仮名」は順次発生し、五十音にはそれぞれに意味があります。

五十音の発生力学は複雑ですが、例えば、「ア」の発生に関しては、「ハ」から水の「イキ」が月となって左に分かれて「ア」を生んで天を形作った、とされます。


<中村孝道>

中村孝道(18C末-19C中頃)は、生没年不詳であり、出身地についても、日向説、丹波説があって確定していません。
孝道の妹の宇能が、出口王仁三郎の祖母であり、王仁三郎に言霊説を教えたと伝えられていますが、これも確認はされていません。

孝道は、言霊の研究のために京都に上りました。
門弟の五十嵐政雄によれば、1816年に京都で野山元盛から日向出身の老翁が言霊説を伝授され、同郷の孝道にも伝えられたそうです。

孝道は、「言霊或問」(1834)、「言霊聞書」(1834)、「言霊中伝」、「言霊奥伝」、「言霊真洲鏡」(口述の記録)などを著しました。
また、産霊舎を設立し、ここで言霊学を講じました。

孝道は、古事記の神代巻には表裏の解釈があり、裏の解釈が言霊の伝であると主張しました。

そして、濁音、半濁音を含む75音の言霊の関係図であり、天地人の理を映した「真洲鏡(ますみ鏡、真須鏡、真澄鏡、真寸美鏡)」というものがあったと言います。
そして、これは、古事記の神代巻には「白銅鏡」、万葉集には「真墨の鏡」と記されているものであると。

「真洲鏡」は、横5列、縦15行(5組×3字)で構成されています。
母音は「母字」とされ、子音は「父字」されます。

横5列は、「アオウエイ」の列であり、この順で生成されたことを表現します。
また、それぞれの列、語味は、下記のような意味を持ちます。

  (列の意味)(韻の場所)(音の意味)
・ア :初柱 : 喉の韻 :音顕れ出る霊
・オ :内柱 : 唇の韻 :外に起こる霊
・ウ :中柱 : 歯の韻 :動く働く霊
・エ :外柱 : 舌の韻 :内に集まる霊
・イ :留柱 : 牙の韻 :至り留まる霊

縦の5組は、それぞれに3行が配置されます。
そして、それぞれが、以下のように、人間が発音する場合の場所と、宇宙上の場所に対応を持っていて、上から順に生成されました。

 (行)   (音の場所)(宇宙上の位置)
・カ・ガ・ダ: 牙の音  :高天棚
・タ・ラ・ナ: 舌の音  :天の棚
・ハ・サ・ダ: 歯の音  :中津棚
・パ・バ・マ: 唇の音  :地の棚
・ヤ・ワ・ア: 喉の音  :根の棚

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*真洲鏡

「高天棚」は高天原、「中津棚」は中つ国、「根の棚」は根の国、「天の棚」と「地の棚」はそれぞれの中間の場所を意味するのでしょう。
これは、平田篤胤の説とほとんど同じです。

それぞれの行、それぞれの音(霊)には意味があり、その意味は「真洲鏡」上の位置に対応します。

ア、ウ、イ、サ、ス、シ、カ、ク、キの9音は、上下中間の場所にあり、「九柱」として特別な存在です。
出雲や伊勢の神殿を支える9柱と同じです。

一番上のカ行は軽く、サ行は中間、ア行は重い音(霊)です。
ア列は始まり、ウ列は中間、イ列は終わりの音(霊)です。

ここの音には意味があり、具体的には、例えば、「サ」は広がり騒ぐ霊、「カ」は光り輝く霊の意味を持ちます。

図の中心に「ス」が位置しますが、「ス」について、中へ集まる霊、天地交合し万物を生み出すと書いています。
「ますみ」も、天地の間の「ス」を見るという意味かもしれません。

ですが、孝道は、「ス」を始めとして75音が生まれたとは書いていません。


<中村孝道の秘伝としての統合>

以上のように、孝道は、言霊の「音声」面を研究し、公開された部分には、志道のような「形象」面の文字論を持ちません。
ですが、秘伝、口伝にはあったようです。

孝道は、次のように書いています。

「瑞組木倭文字は倭人が秋津島なる七十五声を、吹き出す息の形を履行、瑞々しき天津金木に組み止めて、履行の跡を記したる文字也」(古事記図式三百七十五図の内瑞組木倭文字神伝図)

「これ水穂の教へ、字といへるは古へ柴を折り草を結びて諭し給へる声の形を顕はすものにして、すなはち上古の御国の文字なり。右顕しし教へを真須鏡と唱へ、その顕はす柴を瑞組木といふ」(言霊秘伝)

つまり、七十五声の言霊が吹き出す息の形を、「天津金木」を組んで表現した「瑞組木文字(瑞茎文字)」が、日本の神代文字だったというのです。

また、「水穂の教へ」というのは、「水穂伝」を書いた志道の思想を指しているのでしょう。
孝道は、志道の言霊思想を知っていて、取り入れていたのです。

ですが、孝道自身は、具体的に「瑞組木文字」を記しませんでした。

孝道の高弟に望月幸智という人物がいて、おそらく、彼とも親しかったと思われる蘭学者に田島柳がいます。
その田島が、蘭園田翁という名前で孝道の言霊学を紹介した書「皇道真洲鏡」で、「ア・オ・ウ・エ・イ」の五声の「天津金木」による表現と、75声の「瑞組木文字」を記しています。

これを出版したのは、望月幸智の孫の望月大輔です。
望月大輔は、後に、大石凝真素美と名乗り、孝道が公開しなかった「天津金木」や「瑞組木文字(水茎文字)」についても、それを発展させて発表しました。

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*「皇道真洲鏡」より


*平田篤胤の言霊学は「平田篤胤と久延彦祭式」を参照ください。

・川面凡児の言霊学は「川面凡児の霊魂観」を参照ください。
*大石凝真素美の「言霊学」は「大石凝真素美の言霊学と天津金木学」を参照ください。

*出口王仁三郎の「言霊学」は「出口王仁三郎の思想と大本霊学」を参照ください。

posted by morfo1 at 05:27Comment(0)日本

本田親徳と鎮魂帰神法


本田親徳の霊学と一霊四魂説」から続くページです。

本田親徳は、「霊学」という表現で、古神道の神智学(宇宙論、霊魂論、行法)を体系化し、独自の行法である「鎮魂法」、「帰神法」を創造し、その後の古神道や、大本教などの新興宗教にも大きな影響を与えました。

このページでは、本田の「鎮魂法」、「帰神法」と、その継承についてまとめます。


<鎮魂法>

本田が言う「鎮魂法」と「帰神法(術)」は、基本的には別の行法です。

ただ、「鎮魂法」は、「帰神法」にとっては準備的な行法となります。
また、憑依作用に関して、能動(する・させる)側から見れば「鎮魂法」、受動(される)側から見れば「帰神法」という側面もあります。

本田流の「鎮魂法」は、「魂振り」や「魂鎮め」という言葉で理解するより、大雑把ですが、霊魂を脱魂したり、憑依したり・させたりする業と理解する方が適切です。

本田は、「鎮魂法」に「幽」の方法と「顕」の方法があると言います。

「顕」の「鎮魂法」は、宮中祭儀としての行う鎮魂祭や、十種神宝を使ったり、「一二三四五六七八九十」を唱言したりするような、呪術的行法として行うものです。

それらに対して、「幽」の「鎮魂法」が、本田流の「鎮魂法」であり、「霊を以て霊に対する」ものです。


具体的な方法は、以下のような次第です。

まず、準備として、「鎮魂石(硬く、丸く、黒い石)」に天宇受売の御霊が鎮まるように、一週間ほど祈念し、そこに神気を鎮めた(魂降れ?)後、袋に入れ、箱に収めます。

実際に修法時には、まず、「鎮魂石」を白羽二重の袋に入れた状態で、天井から目の高さに吊り下げます。
そして、正座して、「鎮魂印(両手の中・薬・小指を左を下にして掌の中に組み、人差指を伸ばして合わせ、左親指を右親指の上に載せる)」を結び、二拝二拍手をします。

次に、「鎮魂石」を半眼で凝視し、「わが霊魂が鎮魂石に鎮まる」と強い思念を数回送ります。
雑念を排除していると、自分の心の奥底の「一霊(小精神)」が現れ、忘我の統一状態に至ります。

やがて、「鎮魂石」が輝いて見えるようになると、それは天宇受売の分霊と交流している状態(魂触れ)です。
そして、自分の体が消失し(祓い)、霊魂を「鎮魂石」の中に定めている状態(魂殖ゆ)になります。

さらに、上方から光が差して神界に入り(受霊)、喜びを感じるようになります。


<帰神法>

「帰神法(帰神術)」は、大雑把に言えば、神霊を降ろして神懸りを起こし、何らかの神意を得る方法です。

本田は、「帰神法」を「神界に感合するの道」と表現しています。
そして、本田が、神界より授かった神法によって、その途絶えていた「幽斎」の方法を復活させたと書いています。

記紀では、最初の神懸りは、天之石屋戸の条で、天宇受売が自力で神懸ったもので、この時の神の名は不明です。

また、古事記の仲哀天皇の条、日本書紀の神功皇后紀には、「審神者」、「神主」、「琴師」の3人による形式化した「鎮魂法」が記載されています。

古事記では武内宿禰が、日本書紀では中臣烏賊津使臣(中臣氏の祖)が、「審神者」を務めています。
古事記では、「沙庭にいて神の命を請う」と書かれ、書紀には「審神者」という言葉が使われています。

「審神者」の役割については、「釈日本記」では、「神を審らか(つまびらか)にする者」とシンプルに表現しています。
折口信夫は、「神語を人間の言葉に通訳する役」としますが、これは本質的ではありません。

本田流では、「帰神法」を「有形/無形(顕/幽)」、「自感法/他感/神感」、懸かる神の「正/邪」、「上/中/下」で分け、全部で36法に分けます。

「自感法」は、自力で神界に行く方法ですが、これは自分の意識をなくして他人に対して発話する「神憑り」ではなく、自分の意識を保ったまま神と会話する「脱魂」に当たるようです。
石笛は吹いて、天之御中主神に至るように黙念して行います。

「神感法」は、神の都合でいきなり神憑りが起こるもので、実質的には、行法ではありません。

「他感法」が一般的に言う「帰神法」であり、「神主」が依代となり、「審神者」が石笛を吹いて、記紀の琴師の役を兼任する形で、2人で行います。
「審神者」は、神界から降ろした神霊を「神主」に転霊し、憑霊した神の正邪を判断し、邪神なら祓い、正神なら神託を請います。


具体的な次第は、次の通りです。

まず、「神主」は、「帰神印(受霊の印、中指と親指で輪を作って左右の輪を交差させて親指を接触させる)」を組み、「我霊魂は天之御中主神の御許に至る」と3回黙念します。

一方、「審神者」は、室内を霊力で祓い清め、霊体離脱して神主の身体に入って健康状態や親族先祖の状態を調査します。
そして、「審神者」は、二拍手して、正神にお懸りいただくように祈願します。
特定の神を選ぶことはせず、正神に任せます。

次に、石笛を3回吹いて、心身を浄めます。
そして、「鎮魂印」を組み、霊体離脱して霊魂が神界に行き、神気を自分の身体の上半身にまで下ろします。
これを「霊を引く」と表現します。

次に、目をつむったまま、神気を「神主」に「転霊」します。
この時、神気は光の球に見えます。
そして、「神主」に直接、神が降りることを祈願します。

これを何度も繰り返します。
すると、「神主」の身体に神気が充満し、光が増し、霊動が現れます。

ですが、やがてそれが収まったかと思うと、体が30-50cmほど真上に飛び上がります。
これを、「体を切る」と表現します。
これは一柱の神が懸かった状態で、「審神者」はこの瞬間を直前に感じます。

神が懸かると、審神の問答をして、正邪判定を行います。
これを「口を切る」と表現します。

問答では、過去・現在・未来について聞いたり、その神の功業を聞いたりして、正邪を確かめます。

また、神の「品位(上中下)」や、眷属の「三等(普通・中等・高等)」を知り、確かめます。

懸かる神は、「神主」の知識や修行の程度に依存し、一般に、最初は低い眷属が懸ります。

そして、邪霊なら祓いますが、邪霊が暴れるようなら「霊縛法」を使います。
「霊縛法」には、鎮魂力による方法、「縛る」といった言霊を発する方法、独特の「九字霊縛」など、各種の方法があります。

正神なら神託を請います。

神託が終わると、神に帰っていただき、二拍手し、印を説きます。

以上は、「顕(顕の幽、顕から幽)」の方法ですが、「幽(幽から幽)」の方法では、祝詞、拍手、拝などを行わない方法です。

このように、「帰神法」で、「審神者」は、審神だけでなく、霊魂の操作に関しても、脱魂し、憑依され、憑依させ、憑依を解くという具体に、様々なことを行います。


<本田継承者の鎮魂帰神法>

本田親徳がその霊学、鎮魂帰神法を伝えた弟子の中で、最も重要な人物は、長沢雄楯(1859-1940)です。
長沢は、出口王仁三郎や友清歓真らにそれを伝えたことで知られています。

長沢は、27歳の時に本田の門下となりました。
そして、1991(明治24)年には、稲荷講社を設立し、弟子を育成して鎮魂帰神法を広めました。

長沢は、基本的には本田流の鎮魂帰神法をそのまま継承しましたが、欧米の心霊主義・降霊術を使った説明もした点で異なります。

先に書いたように、1898(明治31)年には、上田喜三郎(後に大本教の出口王仁三郎)に、1918(大正7)年には、友清歓真に、本田霊学、鎮魂帰神法を伝えました。


大本教の資料によれば、出口王仁三郎は、上田喜三郎時代の1888(明治21)年に、丹波で本田親徳と偶然出会い、本田が上田の資質を感じて、諭したそうです。
またその後、王仁三郎が1898(明治31)年に、高熊山の洞窟で修行中、神秘体験で異玉彦(本田の神名)から鎮魂帰神法などを伝授されたそうです。

同じ頃、長沢が行った帰神法の中で、丹波の上田喜三郎を呼ぶように神示があったとされます。
そして、王仁三郎は長沢のもとを訪れ、本田霊学、鎮魂帰神法を学びました。

王仁三郎は、大正9年に、大本教の機関誌「神霊界」で鎮魂帰神法について公表しました。
彼にとっては、「鎮魂法」と「帰神法」は、「鎮魂帰神法」という一体のものです。
また、多くの場合、病気治療や除霊を目的にしたものとして使われました。

ですが、王仁三郎自身は、特に「霊界物語」以降、彼のようなシャーマン的資質の人間以外の多くの人間が、鎮魂帰神法を使うことに対して否定的な姿勢を示しました。


大本教では、心霊学者の浅野和三郎を中心にして、鎮魂帰神法は万人を神人合一に導く方法であると、大いに宣伝しました。
ですが、実際には、低級な憑依霊、守護神が現れるので、それを顕在化して、改心させたり、払ったりすることが目的とされました。

また、浅野は、鎮魂帰神法を、大本教が言う立て替え立て直しを実現させるための方法としました。

浅野は、神智学の人間から、鎮魂帰神法は世界のどこにでもあると指摘されると、大本教の鎮魂帰神法は、正神界の指命のもとに行われているので、世界で唯一正しい方法だと反論しました。


友清は、大本教を訪れた時に、浅野から「鎮魂帰神法」を受けて、天狗が懸かったと審神され、大本教に入信しました。

ですが、翌年には脱退して、静岡の長沢から本田流の正当な「鎮魂帰神法」を学び、同年に「鎮魂帰神の原理及び応用」を、翌年には「鎮魂帰神の極意」を出版して、本田の法を初公開しました。

そして、大本教に対しては、批判、反駁を行いました。
また、友清は、本田亀次という霊媒を使って、大本教本部が所持していた本田親徳の秘文「夢感」を霊視したと主張しました。

*友清歓真に関しては、別ページで取り上げる予定です。

posted by morfo1 at 06:30Comment(0)日本

本田親徳の霊学と一霊四魂説


本田親徳は、古神道の神智学(宇宙論、霊魂論、行法)を体系化し、それに対して「霊学」という言葉を初めて使いました。
また、独自の行法である「鎮魂法」、「帰神法」を創造しました。

本田親徳は、ブラヴァツキー夫人とほぼ同時代人であり、本田に始まる「霊学」は、日本の「神智学」と言うべきものとなりました。

本田の霊魂観である「一霊四魂説」や、行法である「鎮魂法」、「帰神法」は、先行となる説がない独特なもので、その後の古神道や、大本教などの新興宗教にも大きな影響を与えました。

このページでは、本田親徳の「霊学」の概要、宇宙生成論、霊魂観などを、次のページでは、「鎮魂法」、「帰神法」をまとめます。

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<歩み>

本田親徳(1822-1889)は、薩摩で大名に使えた御典医の子として生まれました。

17-8歳の時、水戸の会沢正志斎の門に入り、医学、国学など諸学を学びました。
この頃、平田篤胤の家に出入りしていましたが、後に、篤胤は古道に道教を取り入れたなどとして、篤胤の批判に回りました。

23歳の時、京都で狐憑きの少女(一説では少年)が、憑霊の状態で優れた歌を詠むという話を聞いて、それを実見し、霊的なものに対する関心を深くしました。
そして、その後、修行に励みました。

1857年、35歳の時に、「帰神法(帰神術)」、「審神者」の法、「霊縛法」などを、神から授かって、それを体得したそうです。
ですが、本田が自身の「帰神法」をしっかりと確立したのは、その10年ほど後の1967年頃です。

本田は多数の著作をなしましたが、主なものは、「難古事記」(1879/明治12)、「道の大原」、「真道問対」(1883/明治16)、「古事記神理解」(1885/明治18)などです。

1883(明治16)年には、元同藩だった静岡県知事の招きで東海・関東で活動しました。上記の「道の大原」、「真道問対」をなしたのはこの時です。

1888(明治21)年、本田は。自分の霊は岡部の神神社に鎮まると言いおき、翌年、川越で亡くなりました。

本田は、何人かの弟子に、鎮魂法・帰神法やその霊学を伝えましたが、中でも有名な弟子には、焼津の長沢雄楯がいます。
また、本田は、西郷隆盛とも知り合いで、井上円了が会いに来たこともあったようです。


<本田霊学>

平田篤胤が、仏教や儒教、道教などを日本の古道のヴァリエーションとして取り入れたのに対して、本田は、あくまでも日本の古典の記紀などの解釈をもとにした日本の古道の純粋さを求めました。

本田は、「霊学」という言葉を最初に使った人物ですが、その本質について、
「霊学は心を浄くするを以て本と為す。故に皇神、鎮魂を以て之を主と為す」(道之大原)
と書いています。

先に書いたように、本田はブラヴァツキー夫人と同時代の人間ですが、日本でブラヴァツキー夫人の神智学関係の書が初めて出版されたのは、1910年の「霊智学解説」の翻訳です。
ですから、本田は神智学をほとんど知らなかったでしょう。

本田に始まる日本の「霊学」は、後に、西洋の心霊主義や神智学の影響もあって、科学の実証的方法を主張するようになりました。
ただ、その客観性には疑問がありますが。


「神伝秘書」によれば、本田霊学は、「鎮魂」、「帰神」、「太占」の三法から構成され、それぞれに「有形」の法と「無形」の法があります。

・鎮魂法
・帰神法:神感法、自感法、他感法
・太占法:形象法、声音法、算数法

一般に「鎮魂法」と言えば、霊魂を高揚させる「魂振り」と、身体内に安定させる「魂鎮め」を意味します。
ですが、本田流の「鎮魂法」は、「幽の鎮魂法」と呼ばれ、霊魂の脱魂や憑依などの制御法という特徴があります。

「帰神法(帰神術)」は、神霊を降ろして、神懸りになって何らかの神意を得る方法です。
これには、「神感法」、「自感法」、「他感法」があります。

「鎮魂法」と「帰神法」の詳細については、別ページで紹介します。

「太占」は占いの法で、有形の法には、「形象法」、「声音法」、「算数法」があります。

「形象法」は、天地、風雲などを見て占う方法で、鹿卜、亀卜、足占、米占などがあります。
「声音法」は、雷、風などの音を聴いて占う方法で、辻占、謡占などがあります。
「算数法」は、数による占いで、数霊術などがあります。

無形の「太占」は、人間にはほとんど関係なくて、神界において行われているものです。


本田霊学は、「霊学」なので、「幽」と「顕」を区別し、「幽」を重視します。
「幽」は「霊」と「魂」、「顕」は「魄」と「体」を意味します。
また、「心」は後者に属します。

・幽:霊、魂
・顕:心、魄、体

本田は、祭祀は「幽斎」と「顕斎」を兼ね備えた祭祀であるべきとしながら、「幽斎」について次のように書いています。

「幽斎は霊を以て霊に対し、顕斎は形を以て形に対す。故に幽斎は神像宮社無くして真神を祈る。顕斎は神像宮殿有りて衆神を祭り、俗学蒙昧にして古義を知らず…」(道之大原)

つまり、「幽斎」とは、神像や宮殿は不要で、「霊を以て霊に対する」ものです。

また、本田霊学の「学則」は次のようなもので、「霊」、「力」、「体」という3つの観点から世界を認識します。

・天地の真象を観察して、真神の体を思考すべし
・万有の運化の毫差なきを以て、真神の力を思考すべし
・活物の心性を覚悟して、真神の霊魂を思考すべし


<宇宙生成論>

本田親徳の宇宙生成論は、記紀神話の解釈として語られます。

宇宙開闢、天地創造のプロセスは、「一二三…十百千萬」に対応づけて解釈されます。
また、「幽」から「顕」へ、「霊」から「力」、「体」へと進むプロセスでもあります。


まず、造化三神の、天之御中主神が「一」、高皇産霊、神皇産霊の両産霊神が「二」に当たります。
この三神については、以下のような性質があります。

・天之御中主:本体、中心力
・高皇産霊 :光 、張力 、顕の25気(ま・な・か・た・ら行、き中心)
・神皇産霊 :温 、圧力 、幽の25気(や・さ・は・わ・あ行、ひ中心)

天之御中主神は、「大精神」、「天帝」、「上帝」などとも呼ばれます。
そして、「未だ功用分れざる時を指して、本教に之を霊交(ヒト)と云う」(古事記神理解)、「始まりも終わりもない」などと表現されました。

両産霊神には、「25気」という働きを持ちますが、これは25音を生み出すものであり、この部分には本田の言霊思想が表現されています。


次に、別天津神と神世七代の最初の二代が「三」に当たり、これが「三元(柔・剛・流)」という性質を持ちます。

天之常立神と国之常立神は、「常立神」として一体と考えるので、三神になり、それぞれは以下のような性質があります。

・宇摩志阿斯訶備比古遲神:流:浮気体:動物:生魂
・常立神        :剛:凝固体:鉱物:玉留魂
・豐雲野神       :柔:融液体:植物:足魂


次に、神世七代の次の四代の八神が「四」に当たり、これが「八力(動・静・凝・解・引・弛・合・分)」という性質を持ちます。


次に、神世七代の最期の伊邪那岐神、伊邪那美神が「五」に当たります。
伊邪那岐神は、「一霊四魂」を合わせて「五」つの「霊魂」を作り、伊邪那美神は、「体」で、「五十音」が対応づけられています。

・伊邪那岐神:一霊・四魂
・伊邪那美神:体・五十音


「六」は天照大神による天の諸星の形成、「七」は大国主による地の形成が当てられます。
「八」から「萬」までは、さらなる天地の形成がなされるプロセスです。


以上のプロセスは、「幽/顕」で表現すれば以下の通りとなります。

・一~五 :幽の幽
・六~九 :幽の顕
・十百千萬:顕


また、宇宙(霊界)の構造は、以下のような階層で考えます。

・造化三神
・正神界
・従神界:天狗界、眷属界、白狐界
・妖魅界
・現世:吾霊

細かく言えば、「正神界」、「妖魅界」のそれぞれに181階級があります。

現世(地)は大国主が司ります。

また、死後、人間の霊魂は、まず、産土神に連れられて国魂の裁判を受け、国魂によって出雲大社に召出されます。
そいて、大物主によって「天の高市」というところに上げられ、そこに降りてきた天津神によって死後の位を決定され、永遠に生きるとされます。


<一霊四魂説>

本田霊学の霊魂観は、「一霊四魂説」として表現されます。

人間の霊魂の、「霊」の部分は、造化三神(大精神)の分霊であり、「小精神」、「直霊」、「一霊」などと呼ばれます。

人間の霊魂の核が至高神の分霊であるという思想は、平田篤胤の霊魂観ともほぼ同じであり、普遍的な神秘主義思想の考え方でもあります。
本田の「鎮魂法」の目的は、この人間の心の奥にある分霊を目覚めさせることです。

そして、人間の霊魂の「魂」の部分は、「荒魂」、「和魂」、「幸魂」、「奇魂」の「四魂」で構成されます。
「四魂」は、それぞれに機能があるのですが、一つの魂が過度に働くと「悪」となります。

「一霊」は「四魂」を主宰、統御し、それが「悪」となるのを防ぐ良心の働きです。

「四魂」を合わせた働きが大国主であり、人間の「四魂」は国津神からもらい受けます。
大国主は、「魄」や「体」を司る存在でもあります。


本田によれば、「四魂」の一番の特徴(不変の属性)を一つの漢字で表現すると、「和魂」は「親」、「荒魂」は「勇」、「奇魂」は「智」、「幸魂」は「愛」となります。

平田は、他にも、以下のように、「四魂」の特徴を表現しています。

(四魂)(不変)    (用)   (義)(情)
・和魂: 親 :平、修、斎、活、交:制:畏
・荒魂: 勇 :進、奮、勉、克、果:断:覚
・奇魂: 智 :巧、感、悟、覚、察:裁:恥
・幸魂: 愛 :益、育、造、生、化:割:悔

また、人間は、「五情」という生まれ持つ「心」の祓いの働きと、「五術」という生まれ持つ「体」の祓いの働きを持っています。

・五情:省、恥、悔、畏、覚
・五術:薬、浴、防、棄、避

「心」は「魂」ではなく「体」や「魄」に属しますが、上記のように「四魂」にも対応づけられています。

また、「悪」にも「五悪」があり、それらは先祖から自分に至るまでの私利私欲の所業に由来します。

・五悪:狂、逆、曲霊、悪、争


<四魂の源流>

本田霊学から離れますが、「四魂」に関して、記紀における記述の確認と、大和言葉からの解釈をしてみましょう。

「四魂」のそれぞれについては、「記紀」にもわずかながら記載されています。

「記紀」の神代で、大国主(大己貴)の国作りの時に海上からやってきた神が、大国主の「幸魂・奇魂」であると名乗って、三諸山(御諸山・三輪山)の神になりました。
ここでは、「幸魂・奇魂」は、完全に別人格の神として扱われています。

また、「記紀」の仲哀天皇、神功皇后のところでは、住吉三神(墨江大神)が自身の「荒魂」、「和魂」について語り、また、依網吾彦男垂見(?)が「和魂は玉身に服ひて寿命を守り、荒魂は先鋒と為りて帥船を導かむ」などと語っています。

ですが、霊魂が「四魂」で構成されるという考えはなく、これを主張したのは、本田が初めてでしょう。


次に、「四魂」のそれぞれの本来の意味を、大和言葉で考えてみましょう。

「ニギミタマ」は、「和魂」と表記されますが、「賑やか」の「ニギ」でもあり、「握る」の「ニギ」でもあるでしょう。
太陽神だったと思われる「饒速日命(ニギハヤヒノミコト)」や、稲穂の実りの神と思われる「瓊瓊杵尊(瓊々杵命、ニニギノミコト)」の「ニギ」です。
ですから、「ニギミタマ」には、和らか(やわらか)というだけではなく、凝縮したエネルギー溢れる霊魂という意味があったと思われます。

「アラミタマ」は、「荒魂」と表記されますが、「顕れる」の「アラ」でもあるでしょう。
ですから、「アラミタマ」には、荒々しいというだけでなく、出現する霊魂という意味があったと思われます。

「サチミタマ(サキミタマ)」は、「幸魂」と表記されますが、「先」の「サキ」であり、「裂く」や「咲く」の「サク」とも同根の言葉でしょう。
ですから、「サチミタマ」には、幸せ・豊かさをもたらすというだけでなく、先端に開く霊魂という意味があったと思われます。
そして、おそらく、この魂は、本来は「シャグジ神」を意味します。

「クシミタマ」は、「奇魂」と表記されますが、「櫛」の「クシ」でもあるでしょう。
「櫛」はシャーマンが動物の女主の髪の毛をとかして豊穣力をとりもどすための呪具です。
須佐之男の「櫛」になった櫛稲田姫命は、「クシミタマ」でしょう。
ですから、「クシミタマ」には、珍しいというだけではなく、整えて浄化する霊魂という意味があったと思われます。


*「本田親徳と鎮魂帰神法」に続きます。
posted by morfo1 at 10:22Comment(0)日本