折口信夫の「死者の書」と神道の宗教化


折口信夫の産霊信仰と鎮魂法」から続くページです。

このページでは、折口信夫が唯一完成させた小説「死者の書」と、戦後に主張した神道の宗教化、産霊神の一神教について取り上げます。

それは、折口が考えた、古代と未来をつなぎ、神道、仏教、キリスト教を総合しつつそれらを越える、普遍的な宗教とは何か、という問題です。

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<死者の書>

「死者の書」は、折口が「釈迢空」名義で、完成させた唯一の小説です。
この小説は、1939(昭和14)年に連載され、その4年後に、構成を変えて第二稿として出版されました。

また、戦後の1948(昭和23)年頃に、続篇の草稿が執筆されました。
ただ、折口の草稿には「死者の書」とだけあり、「続篇」とは書かれていません。
続篇の草稿が書かれたのは、ちょうど、折口が、神道宗教化をテーマにした講演を行っていた頃です。

「死者の書」には、折口自身の宗教観、そして、彼の日本の宗教に関する考え方が表れています。
そして、その内容は、折口が神道宗教化として、神道の新しい方向性として考えていたものとつながっているはずです。


「死者の書」は、古代的な神祇信仰が終わり、仏教(阿弥陀浄土信仰)の時代へと移行する8世紀半ばが舞台です。
この小説では、この頃の日本人の宗教心の変容を描いています。

主人公は、藤原南家の豊成の娘の郎女(中将姫)です。
彼女は、氏神の巫女(神の妻)となるべく育てられましたが、それにあきたらず、阿弥陀浄土の信仰にも傾倒するようになりました。

そして、太陽が沈む西方の二上山越えに阿弥陀仏を幻視するようになり、二上山とその麓の当麻寺まで出かけます。
郎女は、巫女でもあったので、それは恋(魂乞い)の要素を持つものでもありました。

ですがその裏側には、50年ほど前に謀反を疑われて自害に追い込まれ、二上山の山頂近くに正しい葬儀なく埋葬された滋賀津彦(大津皇子)が、復活して、郎女を魂乞う行為がありました。
滋賀津彦は、生前の最期に見た鎌足の娘の耳面刀自に思いを寄せて、この世に執心を残し、彼女に似た同氏族の子孫である郎女に魂乞いし、そのもとに訪れようとしていました。

滋賀津彦は、天若日子や隼別に重ねられて、反逆者として描かれます。
ということは、怨霊でもあり、郎女は巫女として、彼を鎮魂することが望まれます。

郎女は、蓮の糸で布を織り、そこに幻視した阿弥陀仏の姿を描きました。
彼女が描いたのは、阿弥陀仏だけでしたが、それを見たお付きの刀自達には、数千の地涌の菩薩の姿が現れました(浄土の光景を描いた当麻曼荼羅となりました)。
阿弥陀仏と菩薩達が来迎して、滋賀津彦の魂は救済されたのでしょうか。

郎女が、没する太陽を眺め、阿弥陀仏を幻視したのは、「日想観」の一種です。
「日想観」は、「観無量寿経」で説かれる観相法の第一のもので、日没に浄土を観想する方法です。
折口が若い頃に親しんだ四天王寺や天王寺の夕陽丘には、「日想観」を行って往生をしようとする習慣がありました。

一方、「死者の書」では、二上山麓の当麻の女達が、彼岸に太陽を追って歩く「野遊び」という古代的な風習の様子も書かれています。

つまり、「死者の書」では、古代的な風習、魂請い、鎮魂が、仏教的な阿弥陀浄土の信仰の観想に変換される様子が描かれています。

実は、折口が古代学として日本の古代に見ようとしていたものは、日本的なものではなく、普遍的なものなのでした。
それだからでしょうか、「死者の書」は、世界の宗教とつなげられています。

「死者の書」というタイトルは、エジプトの「死者の書」から来たものです。
出版された折口の「死者の書」には、山越し阿弥陀像、当麻曼荼羅に加えて、エジプト神話のオシリス復活の絵が添えられていました。

折口の「死者の書」には、郎女が蓮華の中から阿弥陀仏の姿が現れるヴィジョンを見る場面がありますが、ここにはオシリスの復活と共通する要素があります。
つまり、郎女による滋賀津彦の救済は、イシスによるオシリスの復活と重ねられています。

このように、「死者の書」には、日本の古代的な信仰が持つ普遍的な宗教心の変容が描かれています。

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*山越し阿弥陀像、当麻曼荼羅


<死者の書・続篇>

「死者の書・続編」は、平安時代末期の高野山が舞台となり、郎女と同じ藤原氏の左大臣頼長を主人公とする物語です。

高野山は二上山と同様に死者の山です。
それに、頼長は、四天王寺の日想院から高野山に赴いたり、高野山から二上山麓の当麻寺に行ったりするなど、「死者の書」の舞台とも結び付けられています。

続篇は、頼長が空海を復活させる(招魂する)物語として構想されたのかもしれませんが、未完のため、その部分は描かれていません。

藤原頼長は、高野山の僧から入定した空海は今でも髪が伸びていて、二十年に一度、その頭髪を切る儀式が行われているという話を聞きます。
また、「日京卜」という珍しい占いの法があるという話も。

高野の谷の一つに、空海が唐より連れ帰った鬼神の子孫とされ、「苅堂の聖」と呼ばれる下級の法師達が住んでいます。
彼らが、空海の頭髪を切る儀式の前日に、落日に向けて十文字の形に組んだ枝を投げると、そこに空海の姿が現れるので、これよって髪の長さを占うのが「日京卜」です。

頼長は、これが占いではなく、「招魂の法」であると理解します。
これは、ペルシャ人によって西域から長安に伝わった景教(ネストリウス派キリスト教)の招魂術であり、これによってキリストの姿を現して礼拝するのです。

つまり、「日京卜」の「日京」は「景教」の「景」なのです。
そして、「日」は、景教が日の神の信仰と習合していることを予期させます。


「死者の書」では、普遍性を持つ古代的なものの、新しい形への変容が描かれました。
そのテーマは続篇でも継承されているはずです。

真言密教の大日如来は太陽の仏ですし、ネストリウス派キリスト教はペルシャの太陽神信仰と習合している可能性もありますから、太陽信仰というテーマも同じです。

入定した空海と、ネストリウス派の招魂法が登場するので、死と復活というテーマも同じです。

では、折口は、なぜ、続篇を描こうとしたのでしょうか?

「死者の書」の主人公が郎女という女性であるのに対して、続篇の頼長は、学識の高い男色家です。
また、「死者の書」が参照したエジプトの宗教は、イシスという女神を重視する宗教ですが、続篇のネストリウス派キリスト教は、聖母マリアという人間の女性の神性を否定する派です。

つまり、女性原理のテーマが、男性原理、あるいは、無性原理というテーマに変わっています。

また、「死者の書」が扱う阿弥陀信仰は一神教的傾向が高い宗教ですが、続篇が扱うキリスト教は一神教であり、ネストリウス派は正統派以上に一神教的な異端です。

つまり、一神教というテーマが明確化されています。

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*自筆の続篇草稿


<藤無染と新仏教>

「死者の書」の背景を推測してみましょう。

折口が、1905(明治38)年に国学院大学に入学して上京した時、藤無染らのもとに同居しました。
藤無染は年上の僧侶で、恋人だったのではないかと推測されている人物です。

藤無染は、浄土真宗の僧侶でしたが、「新仏教」の運動の中にいました。
折口は、藤無染の思想や、彼の背景となった当時の「新仏教」運動、仏教改革運動に影響を受けたのではないかと推測されます。

「新仏教」は、仏教とキリスト教が共通の思想を持っているとして、総合的な新しい仏教を生み出そうとする傾向を持っていました。
その背景には、欧米で同様の主張をしていた思想家達の影響がありました。
鈴木大拙のアメリカの師であるポール・ケーラスもその一人であり、ケーラスやスウェデンボルグを翻訳した鈴木も、「新仏教」にとっては大きな存在でした。

また、この運動の背景の一つには、ブラバツキー夫人の神智学もありました。
藤無染は、真宗が海外の思想を学ぶために設立した西本願寺の「文学寮」で学びましたが、「文学寮」では神智学も研究されていました。

藤無染は、仏陀とキリストの伝記の共通する部分を抜き出して並べた「二聖の福音」(明治38)という書を出版しています。
彼は、この書で、ケ―ラスやアーサー・リリーの書を参考文献としてあげています。
リリーは、神智学や、そのイギリス支部長でキリスト教神秘主義者だったアンナ・キングスフォードの影響を受けた人物です。

ですが、「新仏教」を生む母体になった真宗は、やがてその運動を弾圧する側に回りました。
折口には、藤無染が、真宗などの旧仏教に対する反逆者と映っていたでしょう。
また、藤無染は、早くに亡くなりました。

ですから、藤無染は「死者の書」の滋賀津彦に重なる人物です。
つまり、「死者の書」の折口個人の背景には、折口が藤無染を復活・供養するというテーマがあるのです。

そして、新しい宗教を体現した郎女と、新しい神道を目指した折口、新しい仏教を創造した空海と、新しい仏教を目指した藤無染は、重なります。


また、折口は、メレシコーフスキーの「背教者じゆりあの」という書を絶賛していました。
この書は、ペルシャ由来の太陽神ミトラスを信仰した古代ローマの反キリスト皇帝のユリアヌスをテーマにしています。
そして、ギリシャ・ローマなどの古代の神々の復活や異教の神々を通して、キリスト教を蘇えらせることを主張しています。

つまり、太陽神を一つの焦点として、古代的多神教と一神教の統合がテーマになっています。
これは、「死者の書」のテーマとも重なります。


また、折口が読んだであろう文章に、佐伯好郎が「世界聖典外纂」に掲載した「景教」があります。
これは、正統派キリスト教とネストリウス派を対比し、その背景を、前者は地母神崇拝のエジプト神学を背景にしたアレキサンドリア派、後者はギリシャ哲学を継承したシリア派としています。

偶然かもしれませんが、これは「死者の書」とその続篇との対比に重なります。


<鈴木大拙との対決>

1948年、折口は、新仏教の導師でもあった鈴木大拙と、雑誌が企画した座談会「神道と仏教」で初めて会いました。
そして、ここで、極めて興味深い対話を行って、激烈に火花を散らしました。

ちなみに、鈴木は「日本的霊性」で、神道は霊性には触れていないとして切り捨てています。

折口は、この座談会で鈴木に、自分は真宗の家で育ったけれど、真宗には弱点があるように感じるが、真宗の弱点はどんなところにあると思うか、と問いました。

鈴木は、これに答えませんでした。

一方、鈴木は、神道には神の愛がない、神道が穢れを払うのは暴力的だが、仏教には穢れを受け入れる慈悲がある、と発言しました。

それに対して、折口は、出雲のスサノヲとオオクニヌシにおいては、暴力と苦しみが愛と喜びと一つになっていて、ここに神道の愛が存在すると応えました。

ちなみに、折口は、太陽信仰にこだわりと持っていながらも、アマテラスにはほとんど関心を示さず、スサノヲにこだわっていました。
折口の最後の詩集「近代悲傷集」も、スサノヲをモチーフに歌われています。
また、反逆者という点では原点となる存在であり、「死者の書」の「滋賀津彦」とも重なります。
(また、キリストを意識しつつ、贖罪神と愛の神としてのスサノヲを重視する点では、出口王仁三郎と共通していることが興味深いです。)

また、鈴木は、神道には教義の体系がなくていまだ宗教ではないと批判し、これまでの神道を破壊して新しい神道を作るべきではないかと発言しました。

ですが、実は、これは、折口が、当時、すでに主張していたことと同じでした。


<神道の宗教化、産霊神の一神教>

折口は、太平洋戦争の敗戦を、国家神道となった神道の神の、キリスト教に対する敗北であると捉えました。
明治以降の神社神道には、キリスト教徒が持っていたような情熱がなかったと。

そして、戦後の1947(昭和22)年から1949(昭和24)年にかけての、「神道の友人よ」、「民族教より人類教へ」、「神道宗教化の意義」、「神道の新しい方向」という講演や新聞への執筆で、神道の宗教化を主張しました。

折口は、神道には体系化された教義がなく、特に国家神道は国民道徳と結び付けられる一方、宗教的な罪障観がないことが問題であると考えました。
そのため、例えば、特攻隊を美化するようなことになってしまったと考えたのでしょう。

また、折口は、神道は多神教と考えられているけれど、「事実において日本の神を考えます時には、みな一神教的な考え方になるのです」(神道の新しい方向)と書いています。

この一神教化を考える時、折口は、戦争末期になって、神道家や官僚の中で、天照大神と天御中主神のどちらが上かという論争が起こったことを取り上げます。
そして、それが現世的な争いに過ぎなかったので、神々に背かれたのだと批判しました。

そして、折口は、本当に必要な神の実体というのは、「天照大神、或るは天御中主神、それらの神々の間に漂蕩し、棚引いている 一種の宗教的な或る性質」だと表現しました。

折口は、「霊性」という言葉を使っていませんが、この神の間に漂う流体的な神的実体というのは、「霊性」としか表現できないものでしょう。

折口は、それを「産霊神」であり、「宗教から自由なもの」であると言います。

「日本の信仰の中には…すべてに宗教から自由なものと言つていゝものゝあることです。それは、高皇産霊神、神皇産霊神と言つてゐる――、あの産霊神の信仰です」(同上)

「神道教は要するに、この高皇産霊神、神皇産霊神を中心とした宗教神の筋目の上に、更に考へを進めて行かなければなりません。」(同上)

宗教化を掲げながら宗教から自由というのも不思議ですが、折口の目指す新しい神道は、「産霊神」を中心にした、超宗教であり、超一神教なのでしょう。

キリスト教も参考にしながら、「産霊神」を最高神として自身の神道を描くということであれば、平田篤胤の思想を継承しているとも言えます。

折口が、古事記の根源神である「天御中主神」を重視しなかったのは、「天御中主神」には信仰の内容としての実態がないからです。
それに比べて、高産霊神、神産霊神は職能がはっきり分かると考えました。
「産霊神」は、前のページで書いたように、物質な肉体に霊魂を与え、その物質や肉体を育て、霊魂を育てる神です。

折口が、「産霊神」を「宗教から自由なもの」と考えたのは、おそらく、「産霊神」が人格神ではなく、非人格的な創造力という性格しか持たないからでしょう。

「民族教より人類教へ」という講演タイトルにもあるように、折口が目指した「神道教」は、単に日本の新しい宗教ということではなく、人類にとっての普遍的な新しい宗教なのでしょう。

文化人類学では、ラッファエーレ・ペッタッツォーニやヴィルヘルム・シュミットが、原初的な文化に、すでに至高神を持つ一神教的な信仰が存在することを確認していました。
この「原始一神教」と呼ばれる信仰の至高神は、例えば、北米では「グレート・スピリット」と呼ばれます。
折口は、その神を「既存神」あるいは、「至上神」と表現します。

この神は、超越神である一方、マナ的な力と一体で、万物に内在する神という側面も持っていて、神々とも共存可能です。

折口の目指した「産霊神」を中心にした「神道教」は、そのような原始一神教を継承しながら、それを宗教化するものなのでしょう。

折口は、神道学では、その教義化の準備はほとんどできていると考えていました。
そして、後は、情熱を持った宗教家の出現こそが必要だと、それを期待しました。


<欠けていた観点>

最後に、当ブログとして、折口になかった観点を書きます。

折口は、古代の鎮魂法を研究しましたが、神道宗教化において、その行法化については考えませんでした。
例えば、平田篤胤は真言密教の行法を研究して久延彦祭式を創作しましたし、本田親徳や川面凡児は鎮魂法を行法化しましたが、折口にはそのような行法という観点がありませんでした。


また、折口は、ほとんど憑霊的側面から宗教を見ましたが、例えば、平田篤胤の幽界研究を含めて神仙道や、出口王仁三郎にもあったような、脱魂的側面(単なる遊離ではなく、意図的な幽界飛翔)については関心を示しませんでした。

これは折口が、古代日本の特徴として憑霊型の巫女を取り出したからですが、さらに狩猟的な古層には脱魂型の男巫もあったはずです。
日本の歴史の中ではその潮流は、神道以外、俗流神道、民間神道としてあったのではないかと思います。

それに、折口も参照して統合を考えていたはずのユダヤ・キリスト・イスラムの一神教の預言者は脱魂型ですから、どちらかと言えば、こちらに普遍性があります。


*主要参考文献
・折口信夫全集「神道宗教篇」
・折口信夫「死者の書」、「初稿・死者の書」、「死者の書・続篇」
・安藤礼二「神々の闘争 折口信夫論」、「折口信夫」、「光の曼荼羅 日本文学論」
・中沢新一「古代から来た未来人 折口信夫」

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折口信夫の産霊信仰と鎮魂法


折口信夫は、民俗学、国文学、あるいは、神道学、古代学、芸能史学の学者であり、その総合的で独特な学問は、「折口学」とも表現されました。
彼は柳田国男と並んぶ民俗学の創始者ですが、彼にとってそれは新しい国学であり、彼は最後の国学者でもありました。

また、折口は、釈迢空と号した歌人であり、小説家でもありました。

折口の学問に対する姿勢は独特で、コカインを服用して、古代人の思考方法や世界観を体験的に理解しようとし、直観や象徴を重視して学問を行いました。

一般に、折口信夫は、神秘主義者とは言われません。
ですが、彼が論じた、「外来魂」=「たま」は、非日常的な無形のエネルギーであり、「産霊」や「鎮魂」はそれを扱う技術です。
そして、神霊を憑依させた者が語る神の言葉は、非日常的な言葉です。

この非日常的な霊魂と言葉と意味の発生を巡る折口の思想は、霊学者の観点とは異なりますが、本ブログの定義では神秘主義的なものと言えます。

このページでは、折口学全般の紹介ではなく、その霊魂観、言語観、鎮魂法、産霊信仰といったテーマについてまとめます。

そして、続くページでは、小説「死者の書」と神道宗教化について取り上げます。

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<たま>

折口信夫(1887-1953)は、日本における「霊魂」の古語を「たま」であるとしました。

「霊魂はたまであり、今所謂たましひはもと霊魂の作用である。たまは霊体であって、多くの場合露出せず、ものに内在してゐる。そう言る時、霊をつゝんでゐるものをもたまと言ふ」(霊魂・1951・昭和26)

「たま」は霊力を持った霊体で、折口は、この「たま」を「外来魂」として捉えました。
文化人類学で霊力を意味する「マナ」の英語が「external soul(外在魂)」ですが、折口はこれを「外来魂」、あるいは「威霊」と訳して自身の重要な霊魂概念としました。

「たましひは、肉体内に常在して居るものだとは思つて居なかった様である。…たましひの居る場所から、或る期間だけ、仮りに人間の体内に入り来るものとして居たので…」(原始信仰・1931・昭和6)

「たま」は、その根源においては、人格的存在ではなく、無個性な一つの力のような存在です。
そのため、自由に分割、分霊することもできます。

「霊魂そのものには、それ程はつきりと思慮記憶があるものとは、古人は思はず、霊魂を自由な状態において考へたのである」(民族史観における他界観念:1952・昭和27)

文化人類学では、「霊魂」(一定の人格性を持った)が根源存在であると考える原始宗教を「アニミズム(精霊信仰)」と呼びます。
それに対して、人格性のない霊的な力である「マナ」が根源存在であると考える原始宗教を「マナイズム(アニマティズム、ヴァイタリズム)」と呼びます。

折口の霊魂観は、「マナイズム」のようにも思えますが、純粋なそれではなく「アニミズム」寄りのものでした。

折口にとって、「たま」は、抽象的で不可視なものですが、同時に、物体的に捉えることができるものです。

また、霊学の言う四魂に関しては、「さち(幸魂)」を狩猟の能力を与える霊魂と解釈しました。
そして、「奇霊」は医療の威力を持つ霊魂です。

また、「荒魂」を戦争の威力を発する時に分離されるもので、外来魂ではない霊魂であるとしました。
そして、「和魂」は「荒魂」ができる時に相対的に現れる霊魂であるとしました。(原始信仰、霊魂)


折口によれば、「たま」は、後代に、人間から見て善いものが「神」と呼ばれるようになり、邪悪なものが「もの」と呼ばれるようになりました。(霊魂の話:1929・昭和4年)

「たま」は、外来神である「マレビト」として、定期的に共同体に来訪します。
沖縄のアカマタ・クロマタのように、「マレビト」は、もともと、鬼や獣のような異形の姿になって来訪しました。(国文学の発生 第三稿:1929・昭和4年)



「マレビト」は、土地の精霊と約束を切り替えに来るのが一番の目的でした。(春来る鬼:1931・昭和6年)


「マレビト」には、人間に土地を奪われて、人間に対して悪意を持っている野山の精霊たちを、服従を誓わせ、逆に自分たちを祝福しに来させるようにしたものもありました。(日本芸能史序説:1950・昭和25年)


一方、成熟した人間の「完成した霊魂」は、死後、「常世」に至ります。
人間の霊魂は、「他界身」としては異形の姿(獣身)をとることもあります。
アイヌや沖縄など日本の一部にはトーテミズムがあり、その場合は「他界身」は「トーテム動物」となります。
ですが、「常世」の霊魂は、最終的に無個性な男女一種類の霊魂に、あるいは、人格に限定されない霊魂に帰一します。

ところが、人間でも「未完成な霊魂」は、「常世」に至らず、山野に留まります。
彼らは、植物や石などを体(一種の他界身)にすることもあり、「精霊」と呼ばれます。
これら山野にいる雑多な邪霊は、人間をうらやみ、危害を加えることがあります。
これが日本的なアニミズムです。
(民族史観における他界観念:1952・昭和27)


<柳田国男>

折口の民俗学における師は柳田国男です。
ですが、二人の霊魂観は大きく異なると言われています。

柳田にとって根源的な霊魂は、共同体の「祖霊(祖神)」であって、共同体の内部から生まれ、共同体を守り、その自己同一性の根拠となるような存在です。

それに対して、折口にとっての根源的な霊魂は、「祖霊」ではない無個性な力であって、外来する時には異形の姿となって、共同体を活性化する存在です。
折口は、共同体を見守る「祖霊」というのは、近代以降の信仰ではないかと考えました。

「其先祖と言ふ存在は、今一つ先行する形があつた。他界にゐる祖裔関係から解放せられ、完成した霊魂であつたことである」(民族史観における他界観念)

ですが、最初期の柳田の論考である、「石神問答」(1910・明治43)では、外来する、善悪を兼ねた異形の神々を扱っていました。
そして、「「イタカ」及び「サンカ」」(1911-12・明治44-45、雑誌連載)では、漂泊の芸能者を扱っていました。
これは、ほとんど折口のテーマを同じです。

つまり、折口は、柳田がその後に否定した、あるいは、扱わなくなったテーマを継承したのです。
ですから、柳田による執拗な折口批判は、過去の自己批判でもあったのです。

柳田にはさらに古い論考があって、「幽冥談」(1905・明治38、雑誌掲載)では、天狗などの異形の者として「隠れ世」から現れる日本の神々を扱っていました。
そして、平田篤胤一派の幽冥研究を評価しています。
折口も、「先生の学の初めが、平田学に似ている」(先生の学問)と書いています。
折口が興味を持った柳田民俗学の出発点は、後の姿と大きく異なるのです。


<産霊>

折口は、「霊魂(たま)」を扱う神の技術を「産霊(むすび)」、人間の技術を「鎮魂」として捉えました。

「産霊」は、「霊魂をものの中に入れて、それが育つやうな術」です。

「生物の根本になるたまがあるが、それが理想的な形に入れられると、その物体も生命を持ち、物質も大きくなり、霊魂も亦大きく発達する。その霊(タマ)が働くことが出来、その術をむすぶと言ふのだ。…つまり、むすびの神は、其等のむすびの術を行う主たる神だ」(神道宗教化の意義:1946・昭和21)

霊魂を物質や肉体に入れると、霊魂も物質も肉体も発達して増える、つまり、生命力を与えるのが「産霊」です。
そして、それを行う神として神格化されたのが「産霊神」、つまり、「高皇産霊神」と「神皇産霊神」の神です。

この両神は、天照大神が大切なことを行う時は、必ず出現します。
そして、神も万物も、その「産霊」によって作られたものなのです。

「(産霊によって成長した)その一番完全なものが神、それから人間となつた。それの不完全な、物質的な現れの、最も著しく、強力に示したものが、国土或いは嶋だ、と古代人は考えました」(神道の新しい方向:1949・昭和24)


<鎮魂>

折口にとって、「たま(霊魂)」を扱う人間の技術全般が「鎮魂」ですが、これは複合的に考えることができる幅の広い概念です。
「鎮魂」は次のように分類することができます。

まず、「たま」を呼んで(招魂)それを体に付着してエネルギーを高めることが、「たまふり(魂触り)」です。
「魂乞い」とも呼ばれます。

そして、それを体の中に入れて遊離しないように固定することが「たましずめ(魂鎮め)」です。
また、悪霊などが体に触れて来ないように抑えつけることもこれに当たります。

また、体内の「たま」の力を増殖させることが「たまのふゆ(魂殖ゆ)」です。
それを行うのが「ふゆ(冬)」です。
「たま」は増やして分けて他人に与えることができます。

以上の「鎮魂」は、基本的に巫女などの術師が誰かに対して行う技術です。
ですが、自分で行う方法もあります。
「忌籠り」もその方法です。

また、折口は、「禊」も、水を介して何らかの霊魂を、あるいは水神や海神の霊魂を付着させる鎮魂法として解釈しました。


「鎮魂」の具体的な方法は多様で、以下に列記したようなものがあります。

本田親徳や川面凡児の鎮魂法は「行法」的な方法ですが、折口のそれは、儀式、呪術、芸能、あるいは、単に、風習や迷信のように感じられるものでしょう。
芸能に関しては、折口は、鎮魂法から生まれたものと考えています。

ですが、どのような呪術的な技術も、形式だけが残ってそれだけを見れば、そのように見えます。

まず、「舞踊(あそび)」は、霊魂を呼び出す方法です。
一定の形式で謡う「歌謡」は、その霊魂を歌に乗せて体に入れる方法です。

「反閉(四股)」、「田遊び」は、地を踏みつけることで悪霊を抑えつける方法です。

「はふり」は、体を振って霊魂を呼び入れる方法です。
「袖振り」、「領巾振り(ひれふり)」のような布を振ることは、霊魂を呼ぶ方法です。

上にもあげた「物忌み」は、布団のようなもの(も)をかぶってじっとしていることで、霊魂を呼び入れる方法です。

「鳥の遊び」、「魚の遊び」は、鳥や魚を捕まえて、それを見る、食べることで、それが持っている霊魂を体内に入れる方法です。

「花見」、「国見」は、自然を見ることで、それが持っている霊魂を呼び入れる方法です。

「国偲び(くにしのび)」は、土地を思い浮かべることで、その霊魂を呼び入れる方法です。
旅先で郷土を思い浮かべることなどがあります。

「霊合(たまあひ)」は、相手の人物を思い浮かべることで、その霊魂を呼び入れる方法です。
恋愛の「魂乞い」でも行われます。

また、宮中で行われている鎮魂法としては、以下の方法があります。

アメノウズメが行ったとされる「宇気槽撞き(宇気槽の上に乗って矛で突くこと)」は、大地の霊を呼び出し、悪霊を抑えつける方法です。

箱から服を取り出して振動させる「御衣振動」は、霊魂を呼び入れる、あるいは、増殖させる方法です。

「糸結び」は、糸で輪を作って箱に収める、あるいは、箱を糸で縛ることで、霊魂をつなぎとめる方法です。
神宝に糸を結んで、その神宝の名や呪詞を唱えながら、神宝を振動させることもあります。
この場合、霊魂を呼び入れる方法です。
伯家や橘家が伝えています。

以上の3つの方法は、「一二三四五六七八九十(ひとふたみよいつむゆななやここのたりや)」を唱えながら、同時に行います。

また、臣下から天皇などに、歌舞奏楽や食物、神宝、寿詞(よごと)を捧げることは、国魂や自分の霊魂などを、捧げて移動させる行為です。


<神語・言霊>

折口の国学院大学の卒業論文は「言語情調論」(1910・明治43)です。
「情調」とは感情を喚起する働きです。

この書で、折口は、「間接的言語」=「差別的言語」と、「直接的言語」=「包括的言語」を区別しています。
後者の「直接的言語」は象徴的言語であり、詩的言語でもあります。

折口は、その後、この象徴的言語を、神の言葉(託宣、神語、神言、祝詞、呪言…)として捉えるようになりました。
「祝言」は、神、あるいは「マレビト」が発する、土地を祝福する言葉に由来します。
また、「祝詞」、「呪言」は、土地の精霊を服従させる言葉に由来します。

そして、神が自叙伝を語る言葉が叙事詩となりました。
折口は、このような神の言葉が、文学の起源であると考えました。

詩的・呪的言語が意味を発生させるという論考から出発したという点では、折口は井筒俊彦と似ています。


折口は、古代人の思考の特徴を象徴的思考であるとして、これを「類化性能」と表現しました。

そして、折口は、「思兼神(おもひかねのかみ)」を、意味を「兼ねる」神、つまり、象徴言語の神であると考えました。

「思兼というのは、いろいろな意味を兼ねて考える、そういう言葉を拵えた神の名であった。すなわち言葉は、一語にも、いろいろな意味を兼ねたのである」(古代における言語伝承の推移)

また、折口は、創造する霊力である「産霊」が、特定の形式の言葉(台=と)に憑依することで、「言霊」が生じると考えました。
この言霊の神、呪言の守護神は「興台産霊(ことどむすび)」であり、「思兼神」はその人格神化した名であり、呪言の創製者であり、「興台産霊」の子である「天児屋命(あめのこやねのみこと)」は祝詞の神です。

むすびと言うのは、すべて物に化寓(やど)らねば、活力を顕す事の出来ぬ外来魂なので、呪言の形式で唱へられる時に、其の憑り来て其の力を完うするものであつた。興台(ことゞ)――正式には、興言台と書いたのであらう――産霊(むすび)は、後代は所謂詞霊(ことだま)と称せられて一般化したが、正しくはある方式即とを具へて行ふ詞章(こと)の憑霊と言ふことが出来る」

「こやねは興言台(ことゞ)の方式を伝へ、詞章を永遠に維持し、唱法を保有する呪言の守護神だつたらしい。此中臣の祖神と一つ神だと証明せられて来た思兼ノ神は、たかみむすびの子と伝えられるが、ことゞむすびの人格神化した名である。此神は、呪言の創製者と考へられてゐたものであらう」
(国文学の発生(第四稿)呪言から寿詞へ:1927・昭和2)

折口にとって、言葉(意味)の発生は霊魂の発生は一体で、それは「神語」であり、「言霊」を持った言葉なのです。


*主要参考文献
・折口信夫全集「古代研究」、「民俗学偏」、「神道宗教篇」
・安藤礼二「神々の闘争 折口信夫論」、「折口信夫」
・津城寛文「折口信夫の鎮魂論」

*「折口信夫の「死者の書」と神道の宗教化」に続きます。

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西田幾多郎の絶対無の哲学


初めて日本独自の哲学を生み出したと言われる西田幾多郎は、参禅によって得た「見性」体験をもとに、東洋の無の思想を西洋哲学の枠組みを使いながら哲学化しました。

西田哲学の特徴は、「無」を「一般概念(概念的一般者)」として理解し、そこからの創造を、自己限定的、相互否定的、弁証法的なものとして理論化したことでしょう。

さらにそれは、華厳教学の事事無礙の世界を、主体性を持った個人による、歴史・社会的で物質的な創造として描くものでした。

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<参禅>

西田幾多郎(1870-1945)は、石川県河北郡の出身で、第四高等中学校第一部では、欧米への禅の紹介者として有名な鈴木大拙と同級生でした。

西田は、20代後半の1897(明治30)年頃から参禅を始め、金沢、京都の何人かの禅師に師事しました。
1901(明治34)年には、金沢の洗心庵の雪門禅師に戎を受けて、寸心居士の号を授かりました。

西田は、1902(明治35)年の書簡で、「必ず成就せずんば死して瞑せざらんと欲す」と書き送っています。
また、翌年の日記では、「見性までは宗教や哲学の事を考えず」と書いています。

禅では、無分別の智を得ることを「見性」と言いますが、西田は、是が非でも「見性」を得なければ哲学はできない、と考えていたのです。
その理由は、西田が、昭和18年に送った西谷啓治宛の書簡でわかります。

「禅といふものは真に現実把握を生命とするものではないかとおもひます。私はこんなことは不可能ではあるが何とかして哲学と結合したい、これが私の三十代からの念願で御座います」

つまり、禅こそが真の現実の認識をもたらすもので、それを哲学化したかった、ということです。

西田は、1903(明治36)年になって、京都の大徳寺の廣州禅師のもとで、「無字」の公案を通ることができました。
つまり、「見性」を認められたのです。

ですが、この時、西田自身は、その実感を持てませんでした。
そのため、その後も、金沢の洗心庵の雪門禅師のもとで、数年の間、「隻手音声」の公案に取り組みました。
その後は、仕事が忙しくなってか、参禅は途絶えます。

西田は、「見性」について、晩年に以下のように書いています。

「禅宗では、見性成仏と云ふが、かゝる語は誤解せられてはならない。…自己は自己自身を見ることはできない。…見と云ふのは、自己の転換を云ふのである」(場所的論理と宗教的世界観)

つまり、西田は、真理の認識というより、自己を否定する体験であると解釈しました。


<東洋思想、仏教、日本文化>

西田は、西洋思想の特徴を「対象論理」であると考えました。
彼は、「神秘主義」という言葉を、プロティノスや否定神学のような西洋の神秘主義を指して使いますが、これらについても「対象論理」であると批判しています。

西田は、「対象論理」でない東洋の思考、「無」の思想を、西洋に匹敵するような論理として体系化することを目指しました。

ですが、東洋思想や仏教は、心ばかりを対象として、物を対象としないことが欠点だと考えました。
そして、仏教思想を科学とも結びつけようと考えました。

ちなみに、西田は、量子力学の「観測の理論」が主客分離できないことや、「不確定性原理」、「相補性」が、自身の「絶対矛盾的自己同一」(後述)と似ていると考えました。


一方、日本文化の特徴は、「物」に至ることであると考えましたが、それは論理的ではなくて、情的、実践的なものでした。

「我国文化は、…物に至るという方向にあるのではないかと思ふ…事事無礙と云ふことである」
「日本へ仏教が入って来た時、華厳とか天台とか云ふ理智的な宗教が伝えられた…それは漸々と簡素化せされ、実践化せられた」(以上、「日本文化の問題」)

ですが、その華厳や天台の教学については、自身の哲学と通じるものであると考えていました。

「(絶対矛盾的自己同一の見方に)東洋哲学の粋とも云ふべき、天台や華厳の思想に通じるものがあると思ふ」(哲学論文集第五)


<初期の哲学:純粋経験>

西田は、最初の著作「善の研究」(1911)で、「純粋経験」を唯一の実在としてすべてを説明しようとしました。

「純粋経験」は、西田によれば、「一切の思慮分別の加わる以前の経験そのままの状態。言いかえれば直接的経験の状態」です。

それは、「未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している」、「経験するというのは事実そのままに知るの意である」とも述べています。

つまり、「純粋経験」は「主客未分」の状態の「知」なのです。

「純粋経験」という言葉は、ウィリアム・ジェイムスから来ています。
西田は、ジェイムスの「宗教経験の諸相」を鈴木大拙に勧められて読み、「面白く候。よほど禅に似たる所あるように思われ候」と感想を送っています。

西田は、「純粋経験」が対象的思考によって分裂し、その後、自覚によって再統一されるまでの、意識の統一の展開過程を考えました。

1 主客未分の状態 :感覚的知覚
2 主客分裂の状態 :反省的思惟
3 自覚的統一の状態:知的直観

西田は、この過程を、
「先ず全体が含意的implicitに現れる、それよりその内容が分化発展する。而してこの分化発展が終わった時実在の実現せられ完成せられるのである」
と考えました。

西田は、最後に自覚的な統一に至った状態を神人合一としても解釈しています。

「真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである。…キリスト教ではこれを再生といい仏教ではこれを見性という」

また、西田は、「純粋経験」を展開させるものを、「意志」であり、「統一的或者」、「或無意識的統一力」であると書いています。

さらに、西田は、その「統一力」が「概念的一般性」であると書きます。

「純粋経験は体系的発展であるから、その根柢に働きつつある統一力はただちに概念の一般性そのものでなければならぬ…純粋経験の事実とはいわゆる一般的なるものが己自身を実現するのである」

このように、西田の思想には、その初めから、禅的な体験をもとにしながらも、それとはまったく異なる、ヘーゲル的とでも言える要素が結合しています。


また、その後の「自覚における直観と反省」(1917)では、3段階目の「自覚」を、「自己の内に自己を映す」こと、自己自身の直観であるとしました。


<前期の哲学1:絶対無の場所>

西田の哲学の初期から前期へは移行の特徴は、「意識」から「場所」へ、「個」から「一般(普遍)」への観点の移動であると見ることができます。

西田は、論文「場所」(1926)で、「場所」という概念を導入しました。
そして、「働くものから見るものへ」(1927)、「一般者の自覚的体系」(1930)などで「場所の理論」を構築していきました。
この「場所」の概念とともに、西田の哲学は「西田哲学」と呼ばれるものになりました。

「善の研究」では主客が「分離」した状態を自覚によって「統一」すると考えました。
ですが、「場所」の理論では、主観が客観を「包む」と考え、自覚を「包み込む」ものへと拡張していくと考えました。

上記した「自己を映す」という自覚は、自己を対象として限定する行為です。
ですが、主観である「意識する意識」は、対象化できません。
ですから、自己を対象として限定した時、常に、隠れ去ってしまうものがあるのです。
それが対象として限定されたものを「包み込む場所」です。

西田は、下記のような3段階の「場所」を考えました。

1 有の場所  :物と物が関係する場所
2 意識の野  :意識と対象が関係する場所
3 絶対無の場所:「意識の野」が拡大した極限

そして、3段階目の主客合一の状態の「場所」を、「真の無の場所」、「絶対無の場所」と表現し、「合わせ鏡」に喩えました。

ちなみに、「場所」は空間的イメージの概念ですが、西田がその後に展開した時間論では、それが「永遠の今」、「絶対的現在」として捉えられます。


<前期の哲学2:超越的述語面>

また、西田は、述語主義、普遍主義の立場から、「絶対無の場所」を「超越的述語面」として考えました。
これは、初期から存在した「一般概念」の展開という考えを体系化し、「場所」と概念的な判断との関係を明らかにしようとしたものです。

その理論的背景には、アリストテレスの「主語の論理学」と、ヘーゲルの「述語の論理学」があります。

アリストテレスは、「主語主義」の立場から、「主語(特殊)」となって「述語(一般)」とならないものを個的実体(基体)とし、「述語」は「主語」に内属するものとする論理学を作りました。
彼にとって、「一般」は抽象でしかありません。

これに対して、ヘーゲルは、「述語主義」の立場から、個物を含み、個物に内在する「具体的普遍」というものを考えて、「述語(普遍)」が「主語(特殊)」を個別化するとする論理学を作りました。
「普遍」は、個物へと発展する歴史的存在です。

これを受けて、西田も、「述語主義」の立場から、「述語」を「具体的一般者」と考えます。
そして、意識は「述語」となって「主語」にならないとし、「述語(普遍)」が「主語(個物)」を包括するとする論理学を作りました。
ですが、歴史の担い手は、「個」です。

西田は、ヘーゲルの弁証法を「過程的弁証法」、「思惟的弁証法」と呼び、これに対して、自分の弁証法を「場所的弁証法」、「行為の弁証法」と呼びます。
つまり、西田は、ヘーゲルの対象論理的な弁証法を、場所の論理の弁証法に変えたのです。

西田は、「述語」を、「主語」を包括する「述語面」として捉え、すべての「述語」を包括する「述語」として「超越的述語面」を考えました。
これが「絶対無の場所」であり、そこでこそ個体が成立するのです。

概念の包括関係で考えるということは、集合の階層を考えることになります。
「述語面」は、主語をすべて含む無限集合であり、「超越的述語面」は、すべての述語を含む、より大きな無限集合です。
つまり、「述語面」の集合の階層は、無限集合の階層です。

西田は、これをデデギントの無限論で考えようとしましたが、実際には、カントールの無限論の方が適していたはずです。


<前期の哲学3:一般者の自覚>

西田は、意識がより広い「場所」へと拡張する運動を、諸々の「一般者の自覚」の体系として語ります。
そして、3段階の「場所」は、下記のように、3段階の「一般者」の展開として考えます。

1 有の場所  :判断的一般者:知的自己 
2 意識の野  :自覚的一般者:意志的自己
3 絶対無の場所:叡智的一般者:叡智的自己→道徳的自己
→ 宗教的意識  :無の一般者 :真の自己

「判断的一般者」は主語と述語の世界、物と物の世界ですが、その限界である「述語面」の底を超越することによって「自覚的一般者」となります。

「自覚的一般者」は意識と対象の世界ですが、意識する意識へと至り、意識的自己の底を超越することで「叡智的一般者」となります。

「叡智的一般者」は、芸術的直観、つまり、創造的で実践的で自由な世界で、その極限は「無の一般者」と呼ばれます。

西田は、「叡智的一般者」が深まる中で、「道徳的自己」が現れると言います。
「道徳的自己」は善の意志を持つと同時に悪の意志も持つ矛盾的存在です。
そして、その矛盾が極まるところで自己が否定され、その底で「真の自己」が見出され、「宗教的意識」となります。


<後期の哲学:絶対矛盾的自己同一>

西田の初期・前期の哲学は、「絶対無の場所」へと至る「往相」の哲学でした。
それに対して、著「無の自覚的限定」(1932)、論文「絶対矛盾的自己同一」(1939)などの後期の哲学は、歴史的現実へ至る「還相」の哲学です。
これは、観想から実践へ、抽象から現実へ、一般から個へ、という移行でもあります。

その歴史的現実への還相は、「絶対無の自覚的限定」として生まれます。
これは、主体的に見れば、「行為的直観」によって自己形成する過程です。
そして、その時の論理構造は、「絶対矛盾的自己同一」となります。

「行為的直観」とは、「行為(作ること)」と「直観(見ること)」が同時で、例えば、画家が創造的に描く時、同時に、創造的に見ているということです。
これは、常に既存の自己の否定を通して、「行為」と「直観」が、弁証法的に互いに自己否定的に相手を創造します。

西田は、概念的な把握も、「行為的直観」的に行うべきとします。
つまり、「行為的直観」による創造が形式論理を含むことで、知識が「具体的一般者」の自己限定として生まれるのです。


西田は、このような「行為的直観」的な創造を、人間的で「歴史社会的」な生産として考えます。
そして、これを、「生物的生命的」な生産と対比します。

ですが、「行為的直観」的な創造について、西田は「でなければならない」といった表現を多用します。
ですから、これが人間の世界の現実という側面と、目指すべき状態という側面があります。


「絶対無の自覚的限定」の論理構造は、矛盾・対立・相互否定を含んだままに自己同一性を持った状態であり、これが「絶対矛盾的自己同一」と表現されます。
これは、統一されることのない動的な運動です。

「絶対矛盾的自己同一」は、「一(絶対無)」と「多(限定)」の関係でもあり、「個人」と「個人」、「個人」と「物」の関係でもあり、「行為」と「直観」、「一般」と「特殊」、「超越」と「内在」、「外」と「内」、「過去」と「未来」などの関係でもあります。
つまり、「一即多・多即一」、「超越即内在・内在即超越」…です。


<鈴木大拙と西田哲学>

西田は、郷土の同級生だった鈴木大拙と、生涯に渡って思想的な影響を与え合いました。

西田は、仏教の論理を西洋の対象論理に対抗できるような普遍的な論理として体系化しなければいけない、という考えを持っていました。
鈴木も西田の影響を受けてか、同じ問題意識を共有していました。

西田が「矛盾的自己同一」を打ち出した2年後の1941(昭和16)年に、大拙は、「禅への道」で禅の認識を論理化した「即非の論理」を打ち出しました。
そして、1944(昭和19)年の「日本的霊性」で、その詳細を論じました。

「即非の論理」は、「AはAだと云うのは、AはAではない、故にAはAである」という、「否定を媒介にして、始めて肯定に入る」禅の論理です。

西田は、自分の「矛盾的自己同一」の論理と、大拙の「即非の論理」が、ほとんど同じものであると考えていました。
そして、西田は、大拙宛の書簡で、次のように書いています。

「私は即非の般若的立場から人といふもの即ち人格を出したいとおもふのです。そしてそれを現実の歴史的世界と結合したいとおもふのです」

ですが、西田が、「絶対無の自覚的限定」を「行為的直観」と「絶対矛盾的自己同一」で考えたことは、すでに、個人を重視し(人格を出す)、社会的行為を重視する(歴史的世界と結合する)試みでした。
これは、晩年の哲学にも受け継がれます。


鈴木は、「即非の論理」を作り出すのと平行して、真宗論を書きました。
1942(昭和16)年に「浄土系思想論」を出版し、主著の「日本的霊性」でも真宗を大きく扱っています。

鈴木の真宗観は、「往生」ではなく、禅的な解釈によって、「他力」や「自然法爾」、「名号(念仏)」を評価するものです。
この鈴木の真宗観は、西田の晩年の宗教哲学に大きな影響を与えました。

西田、鈴木は真宗王国と呼ばれる北陸の地域ですから、二人の根底には、その影響があるのでしょう。


<晩年の哲学:逆対応>

西田は、1945年、亡くなる前に「場所的論理と宗教的世界観」を脱稿しました。

この書は、自身の「絶対矛盾的自己同一」の立場から、浄土教、禅、キリスト教を統一的に把握しようとしたものです。

西田は、宗教心を、対象的論理ではなく、「場所的論理」、「絶対矛盾的自己同一」の論理によってしか理解できないものであるとします。
ですから、この書は、西田哲学の「場所の論理」の最終的な形を示すものでもあります。

西田は、自己の根底において、絶対者(キリスト教と仏教の両方を扱うのでこの言葉を使います)と自己が、相互否定的に生まれる「絶対矛盾的自己同一」体験によって、宗教的回心が起こるとしました。

西田は、このあり方を「逆対応の論理」と表現します。
これは、絶対者と自己などが、互いに自己否定的に対応しあっている状態を表現します。

つまり、個人が個人として限定される極限において、個が否定、超越され、絶対者と対面します。

「個なれば個なるほど、絶対的一者に対する、即ち神に対するということができる。我々の自己が神に対するというのは、個の極限としてである」

例えば、道徳的意志は自己矛盾を含むので、その極致において道徳を否定するに至り、絶対者に対して、自己の死を自覚し、始めて自己を自覚するのです。

この時、絶対者の側から見れば、絶対者が自己を限定して個として現れるのですが、これが「逆対応(逆限定)」です。

「逆対応」は、述語主義の点からも「主語的方向と述語的方向の矛盾的自己同一」、「個物的限定即一般的限定」と説かれます。

西田は、キリスト教における「啓示」も「絶対矛盾的自己同一」、「逆対応」として理解しました。
また、禅の「見性」も同様です。

「我々の自己は、何処までも自己の底に自己を越えたものに於いて自己を有つ、自己否定に於いて自己自身を肯定するのである。かゝる矛盾的自己同一の根柢に徹することを、見性と云ふのである」

西田の真宗における阿弥陀仏(他力、自然法爾)と個人との関係も同様に解釈されます。

「親鸞聖人の義なきを義とするとか、自然法爾とかいう所に、日本精神的に現実即絶対として、絶対の否定即肯定なるものがあると思うが…」

また、西田は、鈴木の「名号の論理」も同様のものとして評価しました。
これは、念仏を唱えることは阿弥陀仏と一体になることで、それは個的主体を超えていると共に主体であり、受動的であるとともに能動的であると考えるものです。
この時、阿弥陀仏からの呼声と、阿弥陀仏への呼びかけが、同時となります。

「矛盾的自己同一的媒介は、表現による外ない。言葉による外ない。仏の絶対悲願を表すものは、名号の外にないのである」


<仏教教学、特に華厳思想との比較>

西田の述語主義的な「場所」の理論は、どこから来たのでしょうか?

西田は、プラトンが述語主義であり、「場所」という概念がプラトンの「コーラ(受容器)」とつながりがあると書いているので、それが一つの源泉かもしれません。

仏教には、「場所」と同様に空間的イメージの概念として、「法界」があります。
華厳経学の「四種法界説」は、複数の段階の「場所」を設定した西田の発想と似ています。
ただ、四法界説では、後の二法界は、還相に当たりますが。

また、仏教の修行では、外界(客観)を空じ(法無我)、内面(主観)を空じ(人無我)ます。
これらは、段階的に述語面を超越していく西田の発想と似ています。

西田は、言及していないと思いますが、仏教の「空」や「無」は、本来、述語の位置にあって、主語の実体性を否定する言葉です。
そういう意味では、絶対の述語であるとも言えます。
主語になるべきではない言葉という意味で、「場所」と「空」、「無」は同じです。

仏教における「一般」と「特殊」をめぐる論理学に相当するものは、華厳教学の「理」と「事」の理論でしょう。

また、「絶対矛盾的自己同一」は、華厳の「一即多・多即一」などと似ている部分があります。
ただ、華厳の言う「一」は「個(一部分)」ですが、西田の言う「一」は「全体(一切)」のことです。

また、西田は「大乗起信論」を読んで、「中々分らない」と日記に書いています。
ですが、「大乗起信論」の「真如」の概念は、「そのまま」の体験である「純粋経験」と似ています。

また、「本覚」の概念は、「純粋経験」の最初に存在する統一という側面と似ています。
統一が分裂し再統一に至るという流れは、「大乗起信論」では、「本覚」→「無覚」→「究竟覚」となります。


西田哲学の仏教から見た問題点としては、次のような点があります。

部派仏教や大乗の中観、唯識には、詳細な煩悩論とそれと対応する修道論がありますが、西田哲学には、哲学なので当然かもしれませんが、それらはありません。

ですが、実は、禅宗は如来蔵思想的であるため、煩悩論が欠如しています。
一方、真宗は、末法思想として、皆が平等に悪人であり、煩悩をなくすことなど不可能との立場に立つため、逆の理由で、同様の結果となります。

禅宗と真宗は、正当なインド仏教からすれば、煩悩論が欠如した致命的な仏教であり、西田哲学はそれらの影響を受けています。

そのため、還相的側面においても、煩悩のない後得的な分別と、煩悩のある妄分別の区別を明確化しません。
ですから、後期の哲学が還相的だとは言え、それは、人が「絶対無の場所」へ至った往相からのあるべき展開としての還相ではなく、単なる人間世界の現実である、往相の裏側としての還相として読めてしまいます。

これは、禅の修行で言えば、西田が往相に当たる「見性」は通りましたが、還相に当たる「仏向上」の修行に至っていないことと対応しています。

posted by morfo1 at 06:04Comment(0)日本