カロリング・ルネサンス期の最大の哲学者はアイルランド出身でフランスに移住したスコトス・エリウゲナ(815-877頃)です。
彼は偽ディオニシオス、ニュッサのグレゴリウス、マクシモス・コンフェッソルら東方の教父達の神学書ギリシャ語からラテン語に翻訳して、ギリシャ教父の思想とその背景にある新プラトン主義を西方ラテン世界に伝えました。
また、彼にとって真の宗教と真の哲学は一致するものです。
エリウゲナは、新プラトン主義哲学とキリスト教救済神話を結びつけてそれを最初に体系化しながら、独自の壮大な宇宙論的思想を構築しました。
また、彼の思想にはケルト的な自然観があるとも言われています。
エリウゲナの主著は、867年に完成した「自然の区分について」です。
エリウゲナは、神とすべての被造物を含めて「自然(フュシス)」と呼んで、それを至高の神の創造から始まって、人間の認識を通して神に帰一するに至る4段階の運動として捉えたのです。
「創造されず創造する存在」、「創造され創造する存在」、「創造され創造しない存在」、「創造されず創造しない存在」の4つです。
1 創造されず創造する存在 :第1原因としての神
2 創造され創造する存在 :イデア
3 創造され創造しない存在 :物質的自然
4 創造されず創造しない存在:目的としての神
エリウゲナは、キリスト教徒なので、流出説ではなく「無」からの創造説を支持しました。
ですが、通常の考え方とは少し違います。
彼にとって神は世界とは異なる超越的な存在なので、否定神学的に「無」と表現できるような神です。
また一方で、神は創造を基本的な性質としていて、神は世界創造によって自らを創造するような存在なので、創造以前には神も単に「無」なのです。
エリウゲナは、「あるもの」と「あらざるもの」に分けます。
彼によれば、神だけでなく、イデアも「あらざあるもの」に属します。
ですが、「あらざるもの」とは、単なる無ではなく、存在以上のものなのです。
それを、偽ディオニュシオスの言葉で「先存在」とも表現します。
また、エリウゲナは、自然を、神によって創られたものとしますが、自然は神そのものです。
神は神を自然として創ったのです。
エリウゲナにとっては、この自然の4区分は、存在論的な区分であると同時に、認識論的な区分でもありました。
人間は本来、神によってロゴスの内に神の似像としてイデア的に造られた「原人間(根源的人間)」です。
これは、普遍的人間本性であって、一なる存在です。
人間は神の似像として自由意志を与えられたのですが、これを悪用したために罪によって堕落して、性別と肉体を持つ多数で多様な存在になったのです。
また、同時に世界も汚れたものになりました。
エリウゲナにとって人間は小宇宙です。
つまり、人間は神的な世界と物質の世界の2つを媒介する「全体者(あらゆる被造物の工房)」、天使的な性質から動物的な性質まで持つ存在です。
ですが、キリスト教に従って、あくまでも人間の霊魂を一つであると考えました。
肉体もイデア的には霊魂と同時に神によって創造されたもので、霊魂と肉体を分離したものと考えなかったのです。
エリウゲナは、人間が肉体を伴って最低の段階にまで下降した現在、ここから反転、再上昇して、最終的には神に帰一すると考えました。
そして、この反転と回帰はキリストの受肉と復活によってあらかじめ実現され、示されているのです。
つまり、彼は人間の霊的な下降と上昇を、キリストを折り返し点とする宇宙論的な歴史として明確に語ったのです。
キリストの受肉は神の人間や物質との再合一であって、キリストは単なる贖罪ではなく人間を神とするために現れたのです。
人間は神のロゴス=キリストを受肉させてロゴスを認識(テオリア)することによって浄化されます。
終末には肉体ではなくが霊的身体を伴って復活します。
そして、原人間の純一性に帰一し、最終的には全自然とともに神へ、神の至福の直観へと帰一するのです。
人間や世界が単に神の似像として完成されるのではなくて、認識を通じて完全に至高神へと一体化するのです。
これは、キリスト教や新プラトン主義ではなく、原初の火に帰一する点でエンペドクレスやストア派に近いのですが、それが繰り返されず一回的なものだという点で独自なものです。
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