陰陽五行説は、長い歴史の中で徐々に形成されたものです。
そして、道教や儒教などの宗教の世界観の基礎理論となりました。
また、十干・十二支などと結びついて暦や方位、そして、風水などの各種占術の基礎理論にもなりました。
オリエントのヘルメス学・星辰学と同様、古代の科学に相当するようなものでしょう。
そして、道教や儒教などの宗教の世界観の基礎理論となりました。
また、十干・十二支などと結びついて暦や方位、そして、風水などの各種占術の基礎理論にもなりました。
オリエントのヘルメス学・星辰学と同様、古代の科学に相当するようなものでしょう。
<陰陽説>
「陰陽」は、古くはBC6Cの「春秋左伝」に見られますが、これは「天の六気」である、「陰」、「陽」、「風」、「雨」、「晦」、「明」の中の2つです。
「陰」と「陽」は「日陰」と「日向」を意味するのでしょうが、「気」なので、それを抽象化した概念です。
これは自然を構成する「天の六気」であって、万物の根本原理ではありません。
「陰」と「陽」は「日陰」と「日向」を意味するのでしょうが、「気」なので、それを抽象化した概念です。
これは自然を構成する「天の六気」であって、万物の根本原理ではありません。
一方、占いの書、「周易」の爻である「- -」、「―」は、二元的な原理ですが、本来の意味は「柔」、「剛」です。
しかし、BC1C頃の「十翼」で、爻に「陰」、「陽」が結びつけられて、これらが根源的な二原理となりました。
しかし、BC1C頃の「十翼」で、爻に「陰」、「陽」が結びつけられて、これらが根源的な二原理となりました。
<五行説>
「五行」は、古くは「書経」に見られますが、「水火木金土」の順番で記され、さらに、「穀」を加えて「六府」とも表現されます。
また、「春秋左伝」では、「六材」と表現されます。
どちらも、人間の生活に必要な材料という意味であって、自然を構成する五大元素ということではありません。
また、「春秋左伝」では、「六材」と表現されます。
どちらも、人間の生活に必要な材料という意味であって、自然を構成する五大元素ということではありません。
戦国時代のBC4C頃、陰陽家の鄒衍により、「五行」の「相克説」が生まれました。
これは、「木→土→水→火→金→」という順番で、前者が後者に勝つという関係です。
彼は、政治を季節に合わせるべきという時令思想を「五行」に結び付けて考え、王朝交代にも当てはめました。
政治と結びつけたため、「五徳」とも表現します。
これは、「木→土→水→火→金→」という順番で、前者が後者に勝つという関係です。
彼は、政治を季節に合わせるべきという時令思想を「五行」に結び付けて考え、王朝交代にも当てはめました。
政治と結びつけたため、「五徳」とも表現します。
鄒衍は、季節循環を下記のように五行に配当しました。
春=木 → 夏=火→ 秋:金 → 冬:水→
「土」は季節の変わり目の「土用」です。
春=木 → 夏=火→ 秋:金 → 冬:水→
「土」は季節の変わり目の「土用」です。
秦王朝が「相克説」で自身の正当性をアピールしたため、「五行説」は広まり、万物の原理と考えられるようになっていきました。
季節に配当された「五行」は、方位にも配当されるようになります。
殷時代には中央を含めた五方の神を祀る「五方信仰」があり、これとも関係があるのでしょう。
殷時代には中央を含めた五方の神を祀る「五方信仰」があり、これとも関係があるのでしょう。
他にも、「五行」が配当されたものには、「五臓」、「五色」、「五惑星」などがあります。
・木:春 :東 :青:脾
・火:夏 :南 :赤:肺
・土:土用:中央:黄:心
・金:秋 :西 :白:肝
・水:冬 :北 :黒:腎
・火:夏 :南 :赤:肺
・土:土用:中央:黄:心
・金:秋 :西 :白:肝
・水:冬 :北 :黒:腎
万物の「五行」の配当は、呂不韋(BC290-BC235)の「呂氏春秋」の「十二紀」などにまとめられました。
BC1C頃、劉向・劉歆親子により「相生説」が生まれました。
これは、「木→火→土→金→水→」という順番で、前者から後者が生じるという循環の関係です。
彼らも、王朝交代の原理に当てはめて考えました。
しかし、すでに鄒衍には「相生説」に類する説があり、劉向・劉歆親子がそれを整理して声高に唱えました。
これは、「木→火→土→金→水→」という順番で、前者から後者が生じるという循環の関係です。
彼らも、王朝交代の原理に当てはめて考えました。
しかし、すでに鄒衍には「相生説」に類する説があり、劉向・劉歆親子がそれを整理して声高に唱えました。
<陰陽五行説>
鄒衍は、「陰陽説」と「五行説」を下記のように結びつけました。
これは「主運説」と言います。
これは「主運説」と言います。
・木:陽
・火:陰
・土:-
・金:陽
・水:陰
・火:陰
・土:-
・金:陽
・水:陰
時代は流れて、北宋の周敦頤(1017-1073)は「太極図説」で、続く南宋の朱熹(1130-1200)は「太極図解」で陰陽説と五行説を結び付けて、下記のような順番で宇宙創造論を展開しました。
太極→陰陽→五行→太極→男女→万物
<十干・十二支>
上述の「呂氏春秋」では、殷時代にはすでに存在していた「干支」にも「五行」が配当されています。
「甲乙丙丁…」の「十干」は、一カ月を3分して10日ごとの「旬」に区切り、それを十本の指で数えるものとして生まれましした。
「十干」にも五行が、下記のように配当されました。
甲・乙=木 → 丙・丁=火 → …
甲・乙=木 → 丙・丁=火 → …
また、「五行」に配当される「十干」はそれぞれ2つになりますが、前者を陽=兄、後者を陰=弟という具合に、「陰陽」を配当しました。
そのため、「十干」を「兄弟(えと)」とも表現します。
そのため、「十干」を「兄弟(えと)」とも表現します。
また、「十干」の循環には、植物が芽吹いて成長し種になる生命循環の意味が付けられました。
そのため、植物との比喩で「十幹」とも表現されます。
そのため、植物との比喩で「十幹」とも表現されます。
一方、「子(し)・丑(ちゅう)・寅(いん)・卯(ぼう)…」の「十二支」は、殷時代までに、木星の見える方向で、公転周期が12年なので、それに合わせて天を12分したことに由来します。
その後、木星から北斗七星の方向に変わりました。
その後、木星から北斗七星の方向に変わりました。
秦漢時代に、民衆に分かりやすいように、動物が配当され、「子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)…」となりました。
「十二支」にも、植物の生長循環の意味が付けられ、「十幹」に対して「十二枝」と表現されることもあります。
「十二支」にも「五行」と「陰陽」が配当されました。
「十干」と「十二支」は組み合わされて「60干支」となりました。
「十干」は10年周期、旬(10日)、「十二支」は12年周期、12カ月、一日の時刻、方向を示しますので、それに配当された陰陽五行との関係で、様々な占いが可能となりました。
これらは象徴体系なので、魔術にも使用されたはずです。
これらは象徴体系なので、魔術にも使用されたはずです。
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