内丹の歴史

道教の養生術の中で、気のコントロールを使う瞑想的方法が「内丹」です。
「内丹」の方法は、長い歴史の中で徐々に形成されてきたもので、多数の流派、多数の方法があります。

「内丹」には、精神をコントロールする「性功」も必要で、この側面では道家や禅の影響を受けています。
気をコントロールする側面の「命功」では、インドのハタ・ヨガや密教の影響もあると思われますが、確かなことは分かりません。


<戦国時代~隋唐代>

伝説によれば、老子が、関尹子(尹文始)と王少陽の二人の弟子に仙道を伝えたと言います。
尹文始は「性功」のみを行ない、「命功」はせずとも自然に成ると説きました。
彼の流派は「文始派」と呼ばれます。
一方、王少陽は「性命双修」を説き、その方法は鍾離権に伝えられたとされます。
その影響を受けて「性命双修」を行う派は幅広く「少陽派」と呼ばれます。


戦国時代の「荘子」や「山海経」、「楚辞」には、仙人に関する記述があります。
ですが、具体的な内丹法に関しての記述が最初に現れるのは、後漢時代の魏伯陽による「周易参同契」です。

この書は、内丹を、「心の修行は黄帝老子の無為自然を基本として進めて行って最高の境地に達し、老化の過程を遡って原初の状態に変える」と表現しています。
そして、マクロコスモス(自然)とミクロコスモス(身体)の照応を基本に、八卦や五行説と結びつけて内丹の手順を記述しています。
また、人体を「外丹(煉丹術)」の「鼎炉(鍋と炉)」と見なし、精気を「薬」、神を「火候(火加減)」と表現するなど、外丹の用語を比喩的に使用して、内丹法を説明しています。


六朝時代には、上清派の「胎精中記経」のように、胎生学の「懐胎十月観」に基づく「存思法」が説かれるようになります。
「胎」を育てることを目的とする点では、この存思法と内丹は共通しており、後の内丹法に影響を与えました。

葛洪の「抱朴子」の「内篇」には、「房中術」や「行気」、「導引」などの養生法が説かれますが、本格的な内丹は説かれず、外丹を最も重視します。

南北朝時代には、「黄庭外景経」が、「太平経」の五臓神の存思法を継承しながら、元精・元気・元神が存在する黄庭へと、精・気・神を帰し、入れることの重要性を説きました。

隋代には、蘇元朗が「周易参同契」や「竜虎経」、「金碧潜通秘訣」を分かりやすく編集した「竜虎金液還丹通元訣」を著すなどして、内丹が初めて一般にも知られるようになりました。

唐代には、内丹思想は発展しましたが、まだ断片的なものが多い段階に留まっていました。
また、内丹の初歩としての「気功」は、分かりやすかったため流行しました。


<唐末から五代>

唐末から五代には、各種技法・思想の点から、内丹の定型が確立されていきます。
行法が四段階化され、また、禅からの影響も受けました。

この時代には、伝説的な仙人・隠者の鍾離権と呂洞賓(798-)を奉じる内丹派の「鍾呂金丹派」が生まれます。
この派の内丹法は、「霊宝篇」、「霊宝畢法」や、呂洞賓の弟子の施肩吾による「鍾呂伝道集」に書かれています。
その特徴は、「性命双修」、「先命後性」です。

具体的には、「陽気陰液循環相生説」といって、陰陽五行説に基づいて、天の気の循環、身体の気の循環に合わせて、内丹の行を行います。

まず、「先天の気」を根本とし、五行に対応する五臓の気の循環ルート、陰陽に対応する腎水と心火の「龍虎の交わり」を重視します。
次に、玉液(津液)と金液(肺液)による還丹(丹を沐浴させる)と煉形(全身を煉る)を行ないます。
そして、五臓の気を上丹田に上げる「五気朝元」、腎気・真気・心液を合体して脳に上げる「三花聚頂(三気朝元)」を行ないます。

呂洞賓とともに鍾離権に従事したとされる陳朴は、「陳先生内丹訣」を著しました。
彼は、九転(9段階)の修煉・精煉として内丹のプロセスを説きました。

また、「指玄編」、「無極図」を著した陳搏(871-989)も重要です。
彼の内丹法は「先性後命」で、内丹の全過程を系統的に記述し、順行すると人間が生まれ、逆行すると丹が形成されるとして、宋・元時代の内丹理論の基礎となりました。


<宗・元代>

北宋時代には、外丹に代わって内丹が仙道の養生法の主流になります。
「金丹派南宗」の内丹法が、南・北宗で展開され、両者が統合されました。


四川の成都では、「悟真篇」を著した張伯端(987-1082)が内丹を集大成し、「金丹派南宗」が生まれます。
この派は師と弟子のつながりとして存在し、教団組織はありませんでした。

「金丹派南宗」は、内丹を唯一の道とし、「周易参同契」を受け継いでいて、「性命双修」の「先命後性」が特徴です。
そして、そのプロセスは、「築基」、「煉精化気」、「煉気化神」、「煉神還虚」の4段階から構成されます。

最後の「煉神還虚」では、「明心見性」と表現される純粋な「性功」が重視されます。
「見性」は今来の心を悟るという禅で重視されるもので、禅の理論による解釈をしながら、先天の心で妄想を断つとします。


金・南宋代には、北部の北宗と南部の南宗でそれぞれに内丹法が発展しましたが、両派ともに、張伯端の内丹法を継承しています。

「北宗」の内丹法は、全真道の王重陽(1112-1170)によるものです。
その内丹法は、鍾離権、呂洞賓、劉海蟾から王重陽に伝わり、その弟子の「北七真(七真人)」へと伝わりました。
中でも丘処機の「竜門派」が勢力を伸ばしました。

「北宗」は出家道士からなり、民衆救済を重要な活動としていました。
それゆえ、房中術を行わない「清修派」で、「性功」を重視します。

禅宗の影響を受けて、「明心見性」が中心理念とし、「元神」を「真性」、「真心」などと表現し、「金丹」を「本来の真性」と捉えます。

江南を中心とした「南宗」は、「金丹派南宋」が全真道と合流し、その南宗と呼ばれるようになった流派です。
張伯端の内丹法を五祖とされる白玉蟾(1194-1229)が大成し、「快活歌」などを著しました。
「南宗」の内丹法の継承系統は下記のように考えられており、張伯端から白玉蟾までが「南五祖」呼ばれます。
鍾離権→呂洞賓→劉海蟾→張伯端→石泰→薛道光→陳楠→白玉蟾

「南宗」は、在家か遊行者の集団でしたが、白玉蟾によって勢力が広がり、教団化していきました。
房中術も行う「陰陽双修派」と、行わない「清修派」があり、後者は「性命双修」の「先命後性」です。
「南宗」の口訣は、「神は主宰者、気は作用、精は基礎」という「清修」を伝えています。


元代(13-14C)には、李道純が、宋学を取り入れながら、南北二宗を融合した「中派」を興します。
ですが、彼は内丹法を九品三乗にランク付けし、「性功」だけで「命功」も兼ねてしまう方法を、最上一乗としましたので、「北宗」の「性功」を重視する伝統にいると言えます。
「性」は主宰者、「命」は根源的エネルギーで、両者を一体とします。

また、陳致虚は、南北両宋を受け継いで統合し、「全真道南北宋」と称しました。


<明・清代>

明・清代には、いくつもの派閥が生まれましたが、「陰陽双修派」が多く、中でも「西派」、「東派」が二大流派となりました。

張三丰(1247-)は南部で活動し、三教一致と唱え、陳致虚、陳博や南宗の内丹法を継承して、「三丰派」を開きました。
彼の影響は大きく、清末には、彼を祖と仰ぐ派が17派に及びました。
李西月が編纂した「張三丰先生全集」には、「無根樹」など多数の書が収録されています。
張三丰は、会陰の陰蹻を重視し、真陽が生じる時は必ずここを通過すると言います。

陸西星(陸潜虚、1520-1606)の一派は、江蘇・浙江で勢力を持ったため、「東派」と呼ばれます。
陸西星には「玄膚論」などの著作があり、「東派」の特徴は、「陰陽双修」です。
彼は、先天の体が情欲によって破れた後には、先天の炁は体内にないので、男性は女性に求める必要があると言います。

男性の場合、先天の体は純陽の「乾」ですが、それが破れると「離」となり、先天の炁の陰が生じます。
女性の場合、先天の体は純陰の「坤」ですが、それが破れると「坎」となり、先天の炁の陽が生じます。
男性が女性から陽をもらって丹を作ることは、懐胎を意味します。
また、自分の中の薬を「内薬」と、異性の中の薬を「外薬」と表現します。

彼は、内丹法を、「性功」→「命功」→「性功」の三段階で考えました。
そして、「性功」を「玉液錬己」と表現し、「命功」を「金液煉形」と表現しました。 

李西月(李涵虚)の一派は、四川で勢力を持ったため、「西派」と呼ばれます。
「西派」は「陰陽双修派」であり、「東派」と似ていますが、より複雑化されています。
「東派」と同様、女性の陰の中の陽=精と、男性の陽の中の陰=気を交換することを重視します。
そして、内丹の「逆修返源」を「陰陽双修」に他ならないと考えます。

李西月は、伝説では、呂洞賓と張三丰に教えを受けたと言います。
著作には、「無根樹注解」、「道竅談」、「三車秘旨」、「後天串述」などがあります。


清代には、北宗の丘処機の竜門派が源流とする「伍柳派」が現れ、内丹法を隠語を使わずに分かりやすく公開しました。
「伍柳派」は、伍守陽(1574-1644)と柳華陽(1736-) を奉ずる派です。
伍守陽には「天仙正理直論」、「仙仏合宗語録」、柳華陽には「慧命経」、「金仙証論」などの著作があります。

その特徴は、基本的には「南宗丹法」を継承していますが、「北宗」なので、「性功」を重視します。
そのため、「丹道九篇」では、第一段階を「煉己還虚」と表現しています。


劉一明(1734-1822)は、「竜門派」の教義と「伍柳派」の内丹法を、発展させ、高度に哲学化しました。
その特徴は、易学と道教思想の一致を説くもので、「易道同一」と表現されます。

彼は、無形の「虚無(道)」と有形の「万物」の間の存在が「先天真一の気」であり、陰陽二気の交換で「虚無」から生じるとします。

また、「煉己築基」→「聖胎凝結」→「煉神還虚(無極復帰)」の3段階で考えます。
そして、精・気・神を煉って作った丹を「外薬」、心の本性を見る性功を「内薬」と表現するなどの特徴もあります。


<女丹>

男性と女性では生理が違うので、女性には固有の内丹法があり、これを「女丹」と呼びます。
男性の方法を「益陽」、「太陽煉陽」と呼ぶのに対して、「接陰」、「太陰煉形」と呼ぶこともあります。

男性は丹を一から作る必要がありますが、女性には生命を育む機能が始めからあるので、丹も最初から存在しているのです。
そのため、中丹田に気を戻して生理を停止させてから、中丹田で丹を成長させます。
中丹田への集中が重要で、丹の循環よりも、胎息が強調されます。

有名な女性の仙人・内丹家には、呂洞賓の弟子の何仙姑、王重陽の弟子の「七真人」の一人の孫不二がいます。

ですが、具体的な女性向けの内丹法「女丹」に関する記述が現れるのは、清代です。
最も早い時期のものは、「西王母女修正途十則」と「泥丸李祖師女宗双修宝筏」です。
前者は孫不二が沈一炳に、後者は李泥丸から沈一炳に伝えられたとさる書です。

その後は、19C初めに、傅金銓「女金丹法要」があります。
また、20C初めには、賀龍驤がコレクションした「女丹合編」が有名です。

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