ドイツ観念論と知的直観

この項目では、ドイツ観念論の哲学者の思想について、「知的直観」や「絶対的自我」と神秘主義との関連を中心にして書きます。
本ブログでは、動的・元型的な観念などに対する直観や、理性を越えた主体を、神秘主義を定義づけるものと考えていて、ドイツ観念論の思想には、それに相当するものがあると思います。

ただし、シェリングノヴァーリスは別項で扱いますので、彼らについては簡潔にまとめ、彼らの前提となったカントとフィヒテ、そして、論敵であるヘーゲルを中心にします。

ノヴァーリスは、一般にロマン主義の作家として知られますが、カント、フィヒテ、シェリングらの哲学の批判しながら形成した自らの思想を「魔術的観念論」と呼んでいます。


<ドイツ観念論とロマン主義と知的直観>

18Cの後半から19Cにかけての時代は、合理主義的な啓蒙思想、神を宇宙の法則と見なす理神論、実証的・唯物的な科学思想、デカルト的な機械論的世界観、ヒュームの懐疑論などが影響を持った時代です。

ドイツ観念論とドイツ・ロマン主義には、この時代に、神性に対する思想や形而上学がどのように成り立つかを探求したという側面があります。

カントはギリシャ哲学以来の霊的直観(叡智)である「ヌース」を否定したため、その後の観念論の哲学者は、純粋な自我に関わる「知的直観」を追求しました。
その背景には、インド思想の影響も考えられます。

当時はインド文化が紹介され始めた時代であり、1785年には「バガヴァッド・ギーター」が英訳され、1818年にはヴィルヘルム・シュレーゲルがラテン語訳を出版しました。
「バガヴァッド・ギーター」の背景には、「プルシャ」や「アートマン」などの純粋意識・純粋自我を直観するサーンキヤ哲学やヴェーダーンタ哲学があります。

ちなみに、ヴィルヘルムの弟でロマン主義思想家のフリードリヒも、インド文化・サンスクリット語の研究を行い、印欧語の祖語に当たるサンスクリット語が哲学に適した言語であると考えました。
印欧語族(白人種)に「アーリア人」という名称を付けたのは彼で、ヨーロッパ人をバラモンの子孫と考えました。

ドイツ観念論とドイツ・ロマン主義の間には、親交を通した影響関係もありました。

ヘルダーリンとシェリング、ヘーゲルは神学校の寮で同部屋であり、親交がありました。
彼らは、スピノザの汎神論に古代ギリシャ神秘哲学の「ヘンカイパン(一即全)」を見出したり、古代ギリシャの秘儀復興運動を行ったりしました。

また、シェリングは、イェーナで前期ロマン派のシュレーゲル兄弟、ノヴァーリス、ティークらと親交を持ち、ミュンヘン移住後は後期ロマン派のリッター、バーダーらと親交を持ちました。
ヤコブ・ベーメの影響は、ティーク、ノヴァーリス、バーターを経て、後期シェリングに至ります。

また、ノヴァーリスの父親はフィヒテの後見人であり、ノヴァーリスはイェーナの哲学者ニートハマーの集まりでフィヒテ、ヘルダーリンと出会い、その後、ノヴァーリスとヘルダーリンは共にフィヒテを面会に訪れています。


<カントの超越論的観念論>

イマヌエル・カント(1724-1804)は当時、霊視者として著名だったスウェデンボルグの調査を依頼され、熱心な調査を元に、1776年に「霊視者の夢(形而上学の夢によって解釈された霊視者の夢)」という書を出しました。
この書でカントは、スウェデンボルグの霊視は妄想であると書いています。

この書は、タイトルが示しているように、スウェデンボルグの霊視(感覚の夢想)と当時の形而上学(理性の夢想)を併置して両者を否定しています。

ところが複雑なのは、調査に関する書簡の中で、カントは、スウェデンボルグの千里眼事件、死者からの伝言事件などを、ほとんど否定出来ない事実として認めています。
しかし、「霊視者の夢」では、これらの事件の真偽を論評せずに、否定的な文脈に置いています。

また、書簡でも「霊視者の夢」でも、形而上学は道徳のために要請されると書いていて、「霊視者の夢」では、スウェデンボルグの思想に対して、「一滴の理性も見当たらない。それにもかかわらず、彼の著作には、理性的な慎重な吟味が似たような対象について行った結果との不思議な一致が見られる」、「私の体系と一致する」とも書いています。

つまり、カントは、超感覚的な世界に関して認識も理性による判断もできないとして否定しながらも、必要とする形而上学の道徳の点では、スウェデンボルグと一致すると考えていたのです。

そして、この書の延長上に、カントの「純粋理性批判」、「実践理性批判」が書かれます。
カントはこの二書で、まったく新しい形で形而上学を復活させることを目標として、自身の哲学を作り上げました。

カントはプラトン以来の伝統的な「叡智界」を、「物自体」と表現し直します。
これらは理性や認識の対象とならないとして、「ヌース(霊的知性・叡智・知的直観)」を否定しました。
神と合一するスピノザの「知的直観」も否定されます。

しかし、実践においては、「叡智界」を反映することができるとしました。
これは、スウェデンボルグが、地上の人間はそれと知らずに霊界と交流している、と主張したことと似ています。

カントが、真理を認識できないとして、実践においてそれ(他者、自由)を考えた点は現代的です。
特に重要なのは、「叡智界」が現象界の安定を保証しないということです。
ですが、先天的な認識の形式が決められているとし、その創造を否定したことは現代的ではありません。

カントが霊的認識を否定して以降、神秘主義思想は、それを科学的に捉えようとする潮流と、認識できないことを前提にする潮流に別れました。


<前期フィヒテ>

ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(1762-1814)は、カント哲学を受け継ぎながら、カント哲学が、認識(理論理性)と実践(実践理性)が分離している矛盾を、純粋な「自我」の実践を根底に置くことで解決しようとしました。

フィヒテの前期の主著は、1794-5年に出版された「全知識学の基礎」です。

フィヒテは、デカルトやカントとは違って、非日常的な限界のない意識から出発します。
彼は、「私」しか存在せずに、「私は私」と意識するような限界のない状態の自我の意識を「絶対的自我」と呼びます。
それは、日常的な意識の根底に存在するものです。

この「絶対的自我」は、自我を阻害する「非我」を、そして、「非我」と互いに制限しあう日常的な「有限的自我」を認めて生み出します。
外的な「自然」は、「自我」が「非我」を対象として構成したものです。

「非我」は「自我」を制限しますが、実践的な「自我」は、能動的に「非我」を制限して成長し、「非我」による制限を受けない「絶対的自我」を目指します。
その過程は弁証法であり、その体系は「知識学」と呼ばれました。 

「絶対的自我」は神ではありませんが、「有限的自我」が目的とする理念とされるので、その意味では「絶対者」たる神と同様の存在になります。

そして、フィヒテは、「自我」がこの「自我」の働きを自己直観することを「知的直観」と表現しました。


<後期フィヒテ>

フィヒテは、後期の哲学で、より宗教色、神秘主義色のあるものとなり、「自我」の成長よりも、神である「絶対者」との合一を強調するようになりました。
「絶対者」は、「自我」と「非我」の両方の根底に存在するものです。

この変化には、シェリングが、フィヒテ哲学には客観的な「自然」という観点がないと批判した影響があります。

「絶対者」は概念の否定によってのみ捉えられ、努力なしに、「愛」によって存在そのものと「合一」します。
そして、「絶対者」の智慧である「絶対知」は「知」自体を対象とする知です。
フィヒテの思想は、伝統的な神秘主義の思想と類似するところに落ち着いたのかもしれません。

ですが、フィヒテは神秘主義の直観を観想的・受動的意識とみて、神の中に主体性や自由を失うと批判しました。
フィヒテの「知的直観」が「働き」の直観であったように、彼は、神が自分の中で活動しているように生きることが必要だと言います。
そして、その合一体験を反省して、自由を生むことが重要と考えました。


<シェリング>

詳しくは別項で扱いますが、フリードリヒ・シェリング(1775-1854)は、「有限的自我」と「自然」の根底に、無差別な同一性である神としての「絶対的自我」を立てました。

この点では後期フィヒテも似ていますが、シェリングはフィヒテと違って、「絶対的自我」の創造・産出活動が無意識的なものであるとしました。

人間の「有限的自我」は、次第に自己に目覚めて「絶対者」に近づこうとしますが、永遠の努力によっても「絶対者」には到達できません。
「絶対者」は、このように否定的にしか認識できません。
ですが、ここにおいて「自我」は喪失され、有限と無限が無差別になっている状態が、シェリングにとっての「知的直観」です。

また、芸術においては、理論と実践、意識と無意識が統合されるとしました。
そして、「絶対者」を直観する「美的直観」を、客観化された「知的直観」、「叡智」の自己直観であるとして、重視しました。

そして、シェリングは、スピノザやフィヒテの「知的直観」が、「絶対者」ではなく自己を直観しただけだと批判しました。

後期のシェリングは、ヤコブ・ベーメの影響を受けて、神の根源的次元を「無底」と表現し、客観、対象とならない「絶対的主体」として考えました。
これは対象とならないので、それを把握する「知的直観」は捨てられ、「脱自」が求められます。


<ノヴァーリス>

詳しくは別項で扱いますが、ノヴァーリス(1772-1801)は、自然的な照応の世界観が失われた時代において、認識と創造が一体であり、概念とイメージが結びついた「創造的な想像力」によって、世界の意味を動的に再創造することを目指しました。

ノヴァーリスはカント以降ということを意識し、霊的認識を、客観的認識としてではなく、内面的な創造行為として捉えます。

彼にとっては、受動的な「知的直観」や「合一」、「脱自」は意味をなさず、「創造的な想像力」こそがそれに変わるものでした。

それはシェリングの「美的直観」に似たものですが、ノヴァーリスはそれを芸術に限定せず、哲学や自然科学にも求めました。


<ヘーゲルの絶対的観念論>

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831)は、大学時代に、寮で同室だったシェリングやロマン主義作家のヘルダーリンとともに、古代ギリシャの秘儀復興運動を行い、エレウシス秘儀をテーマにした詩を書くなど、神秘主義的志向を持っていました。

ヘーゲルは、シェリングの誘いでイェーナに移住する直前に、「1800年体系断片」を発表しました。
これは、シェリングの自然哲学を受けて、ヘルダーリン的な「合一」と「対立」をキーワードとして、有機的全体の合一性と多様性を統一的に把握しようとしたもので、ほとんどシェリング哲学の立場にありました。

ちなみに、ヘルダーリンは、主観と客観の合一が「知的直観」であり、その状態でのみ「存在」を語ることができると考えました。

しかし、その後、シェリングの「同一哲学」に関しては、主客、認識と存在の「同一性」は認めても、「無差別性」は拒否し、絶対者を「同一と非同一の同一」として理解しました。

そして、1807年の「精神現象学」では、ロマン主義やシェリングの「同一哲学」を批判して、独自の哲学の構築にたどり着きます。
ここで彼は、「同一性」やその「知的直観」は空虚であり、「すべての牛が黒くなる闇夜」、「区別も運動もない実体性」と批判します。

また、彼は、「パガバット・ギータ」やサーンキヤ哲学などのインドのヨーガ的な認識を、無内容、無対象、空虚への逃避として批判しており、これがシェリングやロマン主義への批判と重なります。

ヘーゲルの哲学は「概念」の運動を中心としたものです。
彼は「精神現象学」の序文の中で、「純粋概念(絶対概念)の自己運動」というアイディアは、新プラトン主義の時代なら好意的に受け入れられるだろうが、今は難しいだろうと書いています。
彼は、特にプロクロスを評価しました。

ヘーゲルは、新プラトン主義の「忘我」を「思惟」と解釈し、「一者」を「普遍概念」、「本質としての本質(自身を本質として規定する本質)」と解釈しました。
そして、新プラトン主義が、「一者」と「ヌース」を統一していないことを解決しようとしました。

ヘーゲルは「絶対者」たる神の超越性を否定し、それを有限の存在に内在する、未来に実現する可能性としてのみ認めるのが特徴です。
ですから、シェリングのように、「絶対者」から有限の存在が生じる理由が必要とされることはありません。

「絶対者」は、現実の物質世界と交流を経て、概念(理想)と対象(現実)が一致した「絶対知」として実現しますが、それを概念の自己運動という観点から考えます。

彼にとってイエス・キリストは、概念(神)が外在化して現実(イエス)となった存在であり、「対象が概念に一致する」運動です。

一方、イデアの観照としてのギリシャ的な「美しき魂」、特にアリストテレスの神である「思惟の思惟」は、「神的なもの(概念)の自己直観でもあるような自己意識」であり、「概念が対象に一致する」運動です。

しかし、後期のシェリングは、ヘーゲルの哲学を、実在の認識について語らず、思惟の関係のみ語る「消極哲学」であると批判しました。


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