ユングによる西洋宗教潮流の解釈(キリスト教、グノーシス主義、錬金術)

ユングは、ミトラス秘儀、グノーシス主義、錬金術などの、ヘレニズム、西洋の秘教を研究し、それらを一つの根拠として、彼の分析心理学の理論を作り上げました。
また、彼は、西洋の思想潮流の表層にキリスト教が、深層に古代ゲルマンの宗教や秘教があると考えました。

このページでは、ユングのユダヤ・キリスト教、及び、西洋の神秘主義の解釈をまとめます。


<ゲルマンの神とキリスト教>

ユングは、作家オスカー・シュミッツ宛書簡で、
「神々はヴォータンの樫の木のように打倒され、その切り株にキリスト教が接ぎ木されました。
…ゲルマン人は今なおこの切断に苦しんでいます。
…私たちは自らの中の原始的なものへと掘り下げていかなければなりません。
…必要なものとは、つまり、神を新たに経験することです。」
と書いています。

ユングは、ユダヤ・キリスト教を文明化されたもの、キリスト教以前のゲルマン人を野蛮、と表現します。
ですが、キリスト教は残酷に押し付けられたユダヤ人の宗教であり、人を自然から、自然な本性から切り離してしまったのです。
また、ユダヤ人の宗教は、アーリア人や他の人種の宗教のように、イニシエーションによる再生のイメージを持っていないと。

ところが、ゲルマン人の無意識の層には、キリスト教以前のアーリア人の自然宗教(ヘレニズム秘儀も含む)が生きていると考えました。

ユングは、ヴォータン(オーディン)がゲルマン人の真の神であり導師であったと言いいます。
そして、彼は、ドイツにおけるナチズムの台頭について、ヴォータンが現れてきていて、この神に対して無意識のままであれば、それに憑依されてしまうけれど、それを意識化すると霊的再生が可能だと、注意を促しました。

ちなみに、ユングは、アメリカでナチズム批判をして、著作が発禁になりました。


<旧約と新約>

ユングは、生涯に渡って、ユダヤ・キリスト教の「善なる神」が、善悪の両面を持つ人間を作った意味、そして、人間イエスに受肉した意味を、心理学的に考え続けました。

ユングは、晩年の著作、「ヨブへの答え」(1952年)で、旧約の「ヨブ記」が、ユダヤ教の神観念(罰する神)がキリスト教の神観念(愛する神)へと変化する最初のポイントであったと解釈しています。

ヨブは、悪行をなしていないのに、様々な試練を受けて、罰せられ、このことを不当だと、神に訴えました。
ユングの解釈では、人間であるヨブの方が正しく、ヨブは神よりも倫理的に上位に立ったのです。
ヨブは、神を疑うような、反省的な意識を持つ存在になりましたが、一方の神は、人間よりも無意識で、意識(善なる神)と無意識(悪魔)が分離した存在でしかなかったのです。

神はこれに気付き、ショックを受け、反省して、人間に追いつくために、人間になる必要があると決意したのです。
こうして、神は、イエス・キリストとして人間に受肉して、贖罪を行いました。
これは、神自身による、神自身の無意識に対する贖罪であり、無意識の内的葛藤の意識化です。

ですが、神の人間化は、まだ、不十分なのです。
神は、まだ、純粋に善なる男性的存在であり、イエスという特殊な人間になっただけです。

ですから、イエスの後、パラクレート(聖霊)が人間に霊感を与えるという形で、普通の人間への受肉が続くのです。

「ヨブへの答え」は、1950年にカトリックが「聖母被昇天」(聖母マリアが肉体のまま昇天したとする説)を認めたことをきっかけに出版されました。
ユングは、「聖母被昇天」は、従来のキリスト教の正統教義「三位一体」に加えて、第4の「母」の神性を認める革命的なものであり、神の人間化の進展を示すものだと考えたのです。


<表層のキリスト教と深層の秘教>

キリスト教では「父/子/聖霊」の「三位一体説」が正統教義ですが、ユングは、錬金術や民衆の中には、「四位一体」があったと考えました。
第四の者は、「母」であり、極端に表現すれば「悪」であり、それは、「エロス」、「肉体」、「無意識」の原理です。

例えば、民衆の中にあった聖母信仰は、「三位一体」に欠けた第四者です。

また、ユングは、古代の女性錬金術師マリア・プロフェティサの言葉、「一は二となり、二は三となり、第三のものから第四のものとして全一なるものの生じ来るなり」を取り上げ、錬金術が「四位一体」の思想を持っていたと指摘しました。
この錬金術師が女性であることも象徴的です。

ユングは、「錬金術とは表面を支配したキリスト教に対抗する底層流のようなものである。…夢と意識の関係のようなものであって、ちょうど夢が意識面にあらわれた心の葛藤を補償するのと同じように、錬金術はキリスト教的魂における「相反するものの緊張」から生まれた「魂の」溝を埋めようとするものである」(心理学と錬金術)と書いています。

つまり、ユングは、西洋の精神潮流を、表層に意識的なキリスト教があり、深層には無意識的な錬金術のような神秘主義(オカルト)思想や、民衆的宗教があったと解釈しました。

ところが、宗教改革が、儀式や象徴を否定したことで、その深層の潮流を絶たせてしまったのです。
ユングは、「われわれはなるほど、キリスト教のシンボル体系の正統な相続人であるが、しかし、この遺産を失ってしまった」(「元型論」)、「魂に対する配慮は、プロテスタンティズムではひどいことになっている」(変容の象徴)と書いています。

また、ユングは、その後のプロテスタントの地域に、一方では、インド学が、もう一方では、神智学や人智学が盛んになったことは、それに対する補償的なものであると考えました。

ですが、原人アントロポスが壺の水を魚の口に注ぐという、新しい時代の「水瓶座」のイメージを、意識と無意識がつながった人間が現れる前兆であると考えました。


<グノーシス主義>

前のページで書いたように、1916年に、ユングは、彼の指導霊であるフィレモンが、十字軍の騎士をキリスト教からグノーシス主義へと回心させて救済する「死者への七つの説教」を、バシレイデス名義で書きました。
ここで、グノーシス主義の神アブラクサスについて「両者(神と悪魔)の上に存在し、神の上の神」、「善と悪との母なるもの」と表現しています。

グノーシス主義は、この世界を作った悪神である創造主(旧約の神)と、より高い至高神を区別します。
ユングは、フロイトが分析したのはヤーヴェ以下の世界であると考えました。
それに対して、ユングの分析心理学は、霊的な世界=女性的な無意識の世界を重視するのです。

グノーシス主義には、キリストの三重身という考え方があります。
霊・魂・体の3つの次元でキリストを考えるわけです。

肉のキリストは、無定形、無知、無思考とされます。
ユングは、これは、無意識の底に眠っている霊的で内面的な「全体的人間」の完全性=「自己」を象徴していると解釈しました。

グノーシス主義のナース派は、「蛇」がソフィアの使者であり、悪い創造主のヤルダバアドが禁止した知恵の実を、人間のために食べさせたと考えます。
ナース派にとっては、「蛇」は無意識の知恵の象徴であり、キリストと「蛇」を同一視します。

また、グノーシス主義の神話に、キリストが自分の脇腹から生み出した女を交わるという、近親相姦的なモチーフがあります。
ユングは、これを、男性が、無意識の女性像のアニマを統合する過程と解釈しました。

ユングは、著「アイオーン」(1951年)で、ヘレニズム期の共有認識では、イエス・キリストは「原人アントロポス」と同様の全体的存在=「自己」の象徴だったとしています。


<錬金術と増幅法>

ユングは、リヒャルト・ヴィルヘルムから送られた道教の内丹書「太乙金華宗旨」を読んだことをきっかけにして、研究対象をグノーシス主義から西洋の錬金術に変えました。

ユングの錬金術関連のまとまった著作は、1941年の講演「医師としてのパラケルスス」、「精神現象としてのパラケルスス」、1944年の著作「心理学と錬金術」、1946年の著作「転移の心理学」、1955-6年の著作「結合の神秘」などです。

ユングは、「実験者は自己の投影を物質の特性として体験した。しかし実際に彼が体験したのは無意識だったのである」(「心理学と錬金術」)と書いています。
彼は、錬金術師が錬金術の作業過程の中に、「集合的無意識」の「元型」を投影し、また、「個性化」を体験しながらその過程を投影したと考えました。

同時に、ユングは、「(「プラトンの四書」のように)錬金作業と哲学的、心理学的な事象との間の平行関係を示す体系が見出させるのである」、「人間の精神には物質をも変化させうる一種の魔力が内在していると考えられたからでもある」(「心理学と錬金術」)とも書いています。
つまり、錬金術師の中には、術師の精神的変容が、物質の変容を促すという魔術的な関係を意識して、それについて書いた者もいたということです。
もちろん、その根底にはヘルメス主義の万物照応の世界観があり、それは意識的に理解されている形而上学です。


「投影」を論証しようとすると、物質変成の記述の中に、実際の化学的変成とも、錬金術の形而上学ともズレた記述があった時にのみ、「投影」が類推されうるハズです。
ですが、ユングはそのような論証はしません。

ユングの方法は、「増幅法」による類推です。

分析心理学では、夢を解釈する時に、それと類似する素材を集めて理解を深めますが、彼はこれを「増幅法(拡充法)」と呼びました。
ユングが錬金術に「集合的無意識」の「投影」があることを論じる時に行ったことも、これを同じです。

つまり、物質変成の記述のモチーフと類似する、他の精神的領域のモチーフを集めたのです。
これは論証的方法ではないのではないでしょうか。

実は、ユングは、錬金術師が思想を形成する方法も、「増幅法」であり、錬金術の変成作業も、その一つの素材だったと書いています。


<錬金術と個性化の過程>

ユングは「心理学と錬金術」で、
「主として投影されたのはこの世の闇に囚えられている霊というイメージだった。換言すれば、相対的に無意識の状態に置かれている心、その状態から開放されずに苦しんでいる心、これが投影されたのである」
それゆえに、
「救済者像の投影、すなわち賢者の石とキリストとのアナロジーが、同様に、また救済の「務め」ないし、「聖なる務め」と「錬金術の業」とのアナロジーが生まれるのである」
と書いています。

つまり、錬金術の過程に「投影」されたのは、無意識の解放であり、「賢者の石」は救済者という点でキリストと同じくみなされた、ということです。

一般に、「黒化」、「白化」、「赤化」を経て「哲学者の石」を作る錬金術の作業過程を、ユングは「対立物の結合」というテーマで語ります。
これは、分析心理学が言う、「影」、「アニマ/アニムス」を統合し、「自己」を見出す「個性化の過程」と対応しています。

彼は、1946年の著作「転移の心理学」で、錬金術書「賢者の薔薇園」が掲載する10枚の挿絵の解釈を行いながら、その過程を説明しています。
それを簡単にまとめましょう。

1 メルクリウスの泉
錬金作業の根底のある秘密を描いている。
5つの星は4大元素と第5元素、四位とその一体の象徴。
水槽である「錬金術の容器」は変容が起こる場所で、円形は完全性の象徴。
「錬金術の水」=「メルクリウス」は無意識の象徴で、3つの管は・天地・地下の象徴。
4→3→2→1の過程も描かれている、などなど。

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2 王と女王
女王(ディアーナ)は男性のアニマ、王(アポロン)は女性のアニムス。
宮廷服を着ているのは、まだ、よそよそしい状態。
左手を握っているのは、良くない関係、つまり、意識と無意識が「混合(分裂しつつ同一化)」している状態。

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3 裸の真実
裸になった両者は、部分的に結合した状態、「影」とエロスの領域が意識にもたらされ、自我意識の抑圧が取り払われた状態。

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4 浴槽の水に浸かる
両者が水に浸かるのは、無意識が上昇した状態。

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5 結合
両者が交わり、翼を生やすのは、対立物の結合、「影」の統合、衝動的エネルギーが象徴活動に移された状態。

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6 死
二人が死して石棺で合体して両性具有になったのは、アニマ、アニムスとの対決による従来の自我の死。

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7 魂の上昇
幼児=霊魂の上昇は、意識水準が低下して、無意識の中に沈む状態。
6-7は「黒化」の段階。

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8 浄化
露が垂れるのは、直観が目覚めた状態、新たな誕生の前兆。
無意識への下降が上からの照明に移行する。

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9 魂の帰還
幼児=世界霊魂が降りるのは、浄化されて、肉体が復活、栄光化する状態。
意識と無意識の混合状態を脱して統合、アニマ/アニムスの統合へ。
「白化」の段階。

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10 新たな誕生
全体性、対立物の結合の状態、「哲学者の息子」、「哲学の木」、「哲学者の石」は「自己」の表現。

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ユングは、10枚で終わっているように書いていますが、実際には、この後に作業はまだまだ続くのです。
1622年に発表された「改革された哲学」の20枚シリーズの挿絵と照らし合わせると、その最初の10枚に当たることが分かります。

また、錬金術の挿絵は、化学的な物質変成過程を暗喩的に示すものです。
ユングは、錬金作業に投影された心理の分析を行ったとしています。

ですが、もし、そうであれば、まず、挿絵の意味を、それが暗喩する物質的過程に戻してから、それに心理が投影されたことを論証しなければいけません。
ですが、ユングはそれを行ってはいません。


<分析心理学と魔術>

実験化学者のルードヴィッヒ・シュタウデンマイアーが1912年に出版した「実験科学としての魔術」は、自動書記の手法などを対象にして、魔術を科学的に解明しようとした書です。
シュタウデンマイアーは、この書で、「下意識」に鍵があり、人格化が重要となると書いています。
ユングはこの書を読んでおり、ユングが「能動的創造力」を生み出すに当たって、参考にした可能性が多分にあります。

ですが、ユングは、具体的に、現実の「魔術」についてほとんど興味を持っておらず、まとまった論考も行っていません。

「赤の書」では、ユングはフィレモンに「魔術」について教えてもらっています。
ですがそれは、「理解できないもの」、「教えることができないもの」、「法則のないもの」といった、単に抽象的な議論にすぎません。
ユングは、「魔術」を無意識の非合理的な創造力、と解釈しているようです。

それにもかかわらず、ここに「魔術」というテーマをもうけたのは、ユングの分析心理学と類似した側面と、異なる側面があって、両者を比較することが、興味深いと思えるからです。

例えば、類似する部分を並べると、次にようになります。
「元型」と魔術の象徴体系、「集合的無意識」と「アストラル界」、「個性化の過程」と「イニシエーションの階梯」、「影」と「クリフォト」、「アニマ/アニムス」と「左右の柱」、「自己」と「守護霊」、「能動的創造力」と「スクライング(アストラル・プロジェクション)」、「マンダラ」と「魔法円」などです。

つまり、普遍的な象徴、人格的象徴に対する瞑想や夢見の術を通して、力や知識を受け取り、人格や能力を広げ、統合していくという点で、両者は共通しています。

一方、分析心理学と「魔術」の違いは、まず、「個性化の過程」は無理をして意識の側から促さないけれど、魔術の「イニシエーション」は、意識的に努力して行う点です。
ユングは、無理をして「元型」と対面すれば、道徳的に耐え切れないと考えました。

また、対面すべき「元型的イメージ」は、ユングにおいては、基本的には、外部から与えるものではなく、自然に、「集合的無意識」から生まれるものです。
ですが、伝統的な「魔術」においては、正しい「象徴体系」やその定形のイメージが存在し、それを勉強と瞑想によって無意識に植え付けていきます。(現代的な魔術では必ずしもそうではありませんが)

このように、一見すると、象徴的イメージと、それに対するアプローチの点で、正反対の側面があります。

ですが、ユング自身は、自分が本格的に無意識と対面する以前から、神話や秘教の勉強を行っており、彼が対面した「元型的イメージ」やヴィジョンのストーリーには、その勉強の影響があったことが明らかです。

また、ユングの患者には、ユングの理論や神話などに興味を持って勉強していた人が多く、そうでなくても、ユングは、治療の過程で、自身の理論を説明したり、神話的なイメージを例として見せることがありました。
ですから、ユングも患者も、無意識にその影響を受けていて、純粋に自然に任させていたとは言い難いのです。

それに、魔術においても、大枠は決まっていても、最終的には個々人の想像力に任される側面があります。

また、「魔術」の「イニシエーション」は、それ自身が目的ではなく、それを前提として、現実で望む変化を起すことが目的であるという側面があります。
ですが、この点でも、ユングには「シンクロニシティ(共時性)」という概念があり、通常の因果関係を越えて、心と現実が一致することがあるとします。
「シンクロニシティ」は、「集合的無意識」とつながっている時に起こりやすいとされます。

これらを考えると、両者はとてもよく似ています。
もちろん、実際に魔術として役立たせるには、分析心理学の「元型」だけでは象徴が足りませんが。

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