一般に、鈴木大拙は、アメリカや日本で、禅の紹介を行った人物として知られています。
ですが、彼は、禅だけではなく、真宗、そして、キリスト教神秘主義のスウェデンボルグ、エックハルトなども論じましたし、晩年には「神秘主義」というタイトルの書で、それらを結びつけて論じました。
大拙が「禅」として語る思想も、「真宗」として、あるいは「大乗仏教」として、「日本的霊性」として語る思想も、ほとんど同じです。
それは、「東方仏教」とも呼ばれ、キリスト教神秘主義や老子などとも通底するものでした。
それは、「東方仏教」とも呼ばれ、キリスト教神秘主義や老子などとも通底するものでした。
また、大拙も妻のビアトリスも神智学協会委員であり、京都の自宅は神智学協会のロッジでした。
この項では、大拙の初期の仏教観を示す「大乗仏教概論」、そして、晩年の思想を示す「神秘主義」を中心に、彼の「東方仏教」、それが持つ普遍主義をテーマについてまとめます。
<見性体験と渡米>
鈴木大拙(本名は貞太郎、1870-1966)は、金沢出身で、第四高等中学校時代の同級生には、日本を代表する哲学者の西田幾太郎がいて、彼とは生涯、思想的な影響を与え合った親友でした。
第四高等中学校を中退した後、もう一度勉強したいと思い、1891年に東京専門学校に、次いで1892年に東京帝国大学文科大学哲学科専科に入学し、へーゲルとカントを学びました。
同時に、大拙は、1891年頃から鎌倉の円覚寺で今北洪水、続いて釈宗演に参禅しました。
洪川からは「隻手音声」、宗演から「趙州無字」の公案を与えられました。
洪川からは「隻手音声」、宗演から「趙州無字」の公案を与えられました。
そして、1894年には、宗演から「大拙」という居士号をもらいました。
居士号というのは在家ということで、大拙は出家したことはなく、また、学者でもなく、寺院とアカデミズムの外で活動しました。
居士号というのは在家ということで、大拙は出家したことはなく、また、学者でもなく、寺院とアカデミズムの外で活動しました。
1896年、大拙は、見性体験を得て、無字の公案を突破しました。
といっても、これは白隠の公案体系の第一段階に過ぎません。
といっても、これは白隠の公案体系の第一段階に過ぎません。
大拙の師の宗演は、臨済宗の優れた禅師ですが、伝統の枠に留まることなく、セイロンで上座部を学んだり、海外に講演に赴くような僧でした。
1893年には、シカゴ万博の世界宗教会議で講演し、これを機に禅が始めて欧米で知られるようになりました。
この時、英訳を担当したのは、大拙です。
宗教会議には、アメリカのポール・ケーラスという人物が、「科学的宗教」の代表として参加していました。
彼は、科学的研究の拡張で真理を探求すべきこと、特に仏教に期待していると訴えました。
そのため、彼と宗演ら日本の仏教団との間に交流が生まれました。
彼は、科学的研究の拡張で真理を探求すべきこと、特に仏教に期待していると訴えました。
そのため、彼と宗演ら日本の仏教団との間に交流が生まれました。
そして、1895年に、大拙は、ポール・ケーラスの「仏陀の福音」を日本語に訳しました。
その後、ポーラスは宗演に、「老子」の翻訳の協力者を求め、宗演は大拙を推薦しました。
この時、大拙は、「仏教を刷新するために、霊的な仏教を求めている」と紹介しました。
そして、1897年、大拙は、シカゴのケーラスの元に渡り、オープン・コート社で翻訳者として活動を始めました。
この時、大拙は、「仏教を刷新するために、霊的な仏教を求めている」と紹介しました。
そして、1897年、大拙は、シカゴのケーラスの元に渡り、オープン・コート社で翻訳者として活動を始めました。
1898年、大拙は、アメリカで、「ひじ外の曲がらず」という公案の一句を読んで、ある種の悟り、合点を得ました。
大拙は、西洋哲学で問題とされていた自由と必然の関係を、自分の禅の体験にひきつけて解決することに悩んでいたのですが、不自由であってもそれが、自由即必然であるという理解に達したのです。
大拙は、西洋哲学で問題とされていた自由と必然の関係を、自分の禅の体験にひきつけて解決することに悩んでいたのですが、不自由であってもそれが、自由即必然であるという理解に達したのです。
ただ、この公案の「ひじ外に曲がらず」の本来の意味は、単に「しょせん人は身内を庇うものだ」という意味なのですが、日本では「あるがまま」を意味すると誤解されていて、大拙の理解もその意味に沿ったものです。
<大乗仏教概論>
大拙が、アメリカで最初に英訳したのは、「老子道徳経」です。
大拙は、老子の思想を仏教と類似する思想であると考えて、晩年に至るまで重視しました。
大拙は、老子の思想を仏教と類似する思想であると考えて、晩年に至るまで重視しました。
続いて、1900年に、「大乗起信論」を英訳しました。
大拙は、「大乗起信論」が、BC1C頃のインドの馬鳴の作であり、大乗仏教の最初の概論書であると理解していました。
実際は、後世に中国で作られたものであり、中国的な如来蔵思想を表現した書なのですが。
大拙は、晩年に至るまでこの書を、大乗仏教にとっても自身にとっても重要な書であると考えていました。
大拙は、「大乗起信論」が、BC1C頃のインドの馬鳴の作であり、大乗仏教の最初の概論書であると理解していました。
実際は、後世に中国で作られたものであり、中国的な如来蔵思想を表現した書なのですが。
大拙は、晩年に至るまでこの書を、大乗仏教にとっても自身にとっても重要な書であると考えていました。
大拙は、「大乗起信論」の核となる概念の「真如」を、「Suchness(あるがまま)」と訳しました。
そして、「如来蔵(=心)」が、バラモン哲学の「ブラフマン」と近く、その3つの側面である「体」、「相」、「用」が、スピノザの「実体」、「属性」、「様態」に近いとも書いています。
そして、「如来蔵(=心)」が、バラモン哲学の「ブラフマン」と近く、その3つの側面である「体」、「相」、「用」が、スピノザの「実体」、「属性」、「様態」に近いとも書いています。
1907年に、大拙は、初めて鈴木大拙(Daisetz Teitaro Suzuki)名義で、「大乗仏教概論」を英文で著しました。
西洋には、大乗仏教は小乗仏教(パーリ語経典)の堕落したものであるという理解もあったので、その誤解を解き、大乗仏教を称賛することを意図した書だったのでしょう。
大拙の大乗仏教観は、「大乗起信論」をベースにしたもので、中国・日本的な如来蔵思想の仏教です。
大拙のそれは、自由意志と愛を持った絶対存在(真如・法身)が、宇宙を生み出しつつそこに内在し、個々人の中で活動する、というかなり汎神論的に表現されたもので、大乗仏教の概論としては偏っています。
大拙のそれは、自由意志と愛を持った絶対存在(真如・法身)が、宇宙を生み出しつつそこに内在し、個々人の中で活動する、というかなり汎神論的に表現されたもので、大乗仏教の概論としては偏っています。
ですが、この大乗仏教観は、必ずしも大拙独自のものとは言えません。
これは、世界宗教会議で日本団が配ったパンフレットを書いた黒田真洞や、講演した宗演の大乗仏教観を下敷きにしています。
つまり、当時の日本の仏教団が、世界に訴えようとした大乗仏教観の延長に、「大乗仏教概論」がありました。
これは、世界宗教会議で日本団が配ったパンフレットを書いた黒田真洞や、講演した宗演の大乗仏教観を下敷きにしています。
つまり、当時の日本の仏教団が、世界に訴えようとした大乗仏教観の延長に、「大乗仏教概論」がありました。
「大乗仏教概論」では、「大乗起信論」を根拠に、「真如」と「法身」を大乗仏教の最高概念として紹介します。
また、「如来蔵」を、個別化した「真如」であると同時に、「宇宙的如来蔵」という言葉を使って個別性を越えたものとして、矛盾した表現をしています。
そして、「阿頼耶識(アーラヤ識)」は、その「如来蔵」が個別化したものであるとも書きます。
そして、「阿頼耶識(アーラヤ識)」は、その「如来蔵」が個別化したものであるとも書きます。
そして、「如来蔵」は「全宇宙的な無明と真如の結合体」であり、「阿頼耶識」は「欲望(煩悩)と智慧(菩提)から生まれるもの」だと。
また、「阿頼耶識」は、「サーンキヤで言うところの純粋精神と根本物質を統合したものに相当」するとも書いています。
また、「阿頼耶識」は、「サーンキヤで言うところの純粋精神と根本物質を統合したものに相当」するとも書いています。
そして、「法身」については、「個別現象の背後にある究極の実在」、「宇宙は法身そのものの現れ」、「仏教における神」、「歴史的人物性から切り離されて、最高の真理、実在と同一視される」などと表現しています。
一方、「業」に関しては、「ショーペンハウアーが言うところの意志」に相当するとも書いています。
また、大拙は、「法身」が、「知」、「愛」、「意志」という3つの側面を持つと書きます。
後述しますが、ここには、スウェデンボルグの影響もあるようです。
後述しますが、ここには、スウェデンボルグの影響もあるようです。
「愛(love (and compassion))」は「慈悲」の訳語で、キリスト教に寄せているのかもしれません。
「意志」については、大拙の独創的解釈と言うべきものですが、彼はこれが「自由意志」であって、「本願力」と呼ばれると書きます。
また、仏教の「三身説」を、キリスト教の「三位一体説」と対照させて、「法身」=神性、「報身」=天上の栄光を持つキリストもしくは聖霊、「応身」=肉体としてのキリスト、としています。
ちなみに、「三身説」と「三位一体説」の関係は、ケーラスが先に論じています。
ちなみに、「三身説」と「三位一体説」の関係は、ケーラスが先に論じています。
また、大拙は、大乗仏教徒は、キリスト以外にも、ソクラテス、マホメット…などなどが仏陀であると考える、と書いています。
<普遍主義と東方仏教>
大拙の「大乗仏教概論」に対して、ベルギーの著名な仏教学者ルイ・ド・ラ・ヴァレー・プサンが、批判的な書評を書きました。
大拙の説く大乗仏教は、大乗仏教の多様性を考慮せず、自身の特異な汎神論を大乗仏教として述べたものである。
そして、それは、ヴェーダーンタ哲学やドイツ哲学に染まったものであり、タントリズムの原理を認める真言宗の視点が影響している。
また、サンスクリットの理解に間違いがあると。
そして、それは、ヴェーダーンタ哲学やドイツ哲学に染まったものであり、タントリズムの原理を認める真言宗の視点が影響している。
また、サンスクリットの理解に間違いがあると。
大拙は、密教についてはほとんど書いていませんし、評価もしていないと思いますので、自身の思想が密教だと書かれて、どう思ったでしょうか?
この大御所による批判のためか、大拙は、その後、「大乗仏教概論」の再版も翻訳も許しませんでした。
また、大拙は、これ以降、「大乗仏教」というくくりで論じることはほとんどなくなり、「禅」や「真宗」といったくくりで論じるようになります。
また、大拙は、これ以降、「大乗仏教」というくくりで論じることはほとんどなくなり、「禅」や「真宗」といったくくりで論じるようになります。
ですが、大拙は、仏教の解釈や紹介についても、仏教の未来についても、普遍主義的な志向を持ち続けました。
大拙は、「大乗仏教概論」で、大乗仏教は「その本来の視野を拡大した仏教なのであり、別の宗教的・哲学的信念を同化する…」と書いていて、大乗仏教が普遍主義ないし、折衷主義的に拡大してきたものだという認識を示しています。
また、大拙は、「大乗起信論」の注や「大乗仏教概論」で、仏教をキリスト教やヴェーダーンタ哲学や西洋哲学と比較しながら紹介しています。
実は、大拙は、「大乗仏教概論」の出版をさかのぼる1904年に、ウィリアム・ジェイムズの「宗教経験の諸相」を読んでその影響を受けています。
彼は、この書が、自分の最初の見性体験を、そのまま描いていると感じ、西田にもこの書を推薦しました。
彼は、この書が、自分の最初の見性体験を、そのまま描いていると感じ、西田にもこの書を推薦しました。
ジェイムズは、この書で、キリスト教神秘主義、イスラム教神秘主義、ヒンドゥー教のヨガ、禅、神智学協会のブラヴァツキー夫人が書いた仏教経典「沈黙の声」などを同時に取り上げています。
また、大拙は、イギリスに行った時に、仏教経典の翻訳に興味を持っていたスウェデンボルグ協会から接触を受けました。
その関係で、大拙は、スウェデンボルグを読んで、彼の思想が大乗仏教と似ていると感じていました。
その関係で、大拙は、スウェデンボルグを読んで、彼の思想が大乗仏教と似ていると感じていました。
もちろん、ヴィヴェーカーナンダが世界宗教会議で、ヴェーダーンタ哲学を中心にした普遍的宗教を語っていたことも知っていたでしょう。
それに、ケーラスにも、仏教を普遍主義的に捉え直す思想がありました。
それに、ケーラスにも、仏教を普遍主義的に捉え直す思想がありました。
ですから、様々な宗教、神秘主義を普遍的な観点から同列で捉えるという視点を、大拙も持つようになっていて、「大乗仏教概論」でも、そのような表現の意図を持っていたのでしょう。
また、実は、「大乗仏教概論」の序文で、大拙は、ひなえめながら、「南方(小乗)仏教」/「北方(大乗)仏教」という従来の仏教の二分類に対して、浄土教などを特徴とする「東方仏教」を加えた三分類を主張していました。
実際、大拙が説いている大乗仏教は、「東方仏教」なのです。
大拙の大乗仏教観はプサンに批判されましたが、大拙は、自身の如来蔵的な「東方仏教」、そして、それを他の神秘主義的思想とつなげて普遍化しようという意図を、生涯、変えませんでした。
大拙は仏教学者ではなく、宗教思想家なのです。
大拙は、1908年に帰国し、アメリカのヴェーダーンタ協会で出会っていたビアトリス・アースキン・レーンと結婚しました。
そして、1921年には、大谷大学内に「東方仏教徒協会」を設立し、妻と二人で英文雑誌「イースタン・ブッディスト」を発行しました。
二人は「東方仏教」というコンセプトを共有し、それを重視していたのです。
二人は「東方仏教」というコンセプトを共有し、それを重視していたのです。
ビアトリスは神智学協会員であり、二人は京都の自宅を、神智学協会の京都ロッジ「大乗ロッジ」としていました。
大拙が神智学に大きな興味を持っていたとは思いませんが、後に神智学協会のインドの本部を訪れた時、会員となっています。
大拙が神智学に大きな興味を持っていたとは思いませんが、後に神智学協会のインドの本部を訪れた時、会員となっています。
ブラヴァツキーは、密教思想に関する知識を持ってはいなかったと思いますが、神智学を「エソテリック・ブッディズム」と称したことがあります。
大拙は、近代的インテリだったため、密教に興味を持たなかったようですが、ビアトリスは当然、密教の研究も行ったようです。
大拙は、近代的インテリだったため、密教に興味を持たなかったようですが、ビアトリスは当然、密教の研究も行ったようです。
<スウェデンボルグ>
大拙は、1910年から1915年にかけて、スウェデンボルグの翻訳、紹介に尽くします。
直接的には、スウェデンボルグ協会から翻訳を依頼されたからですが、スウェデンボルグの思想が仏教(東方仏教)と似ていると考えていたから、受けたのでしょう。
直接的には、スウェデンボルグ協会から翻訳を依頼されたからですが、スウェデンボルグの思想が仏教(東方仏教)と似ていると考えていたから、受けたのでしょう。
大拙は、「スウェデンボルグ」(1913)で次のように書いています。
「大に仏教に似たり。我を捨てて神性の動くままに進退すべきことを説くところ、真の救済は信と行との融和一致にあること、神性は、智と愛との化現なること…」
「大に仏教に似たり。我を捨てて神性の動くままに進退すべきことを説くところ、真の救済は信と行との融和一致にあること、神性は、智と愛との化現なること…」
また、大拙は、スウェデンボルグの説く霊界の太陽たる主は、仏教の「法身」に当たると言います。
大拙は、スウェデンボルグの説く霊界は、華厳経が説く法界や、浄土系経典が説く浄土の描写と似ていると考えたのでしょう。
大拙は、スウェデンボルグの説く霊界は、華厳経が説く法界や、浄土系経典が説く浄土の描写と似ていると考えたのでしょう。
大拙の弟子の証言によれば、先に書いたように、「大乗仏教概論」で「法身」の3側面を「愛」、「知」、「意志」としたことには、スウェデンボルグの影響もあるようです。
スウェデンボルグは、神の「愛」と「知」を重視していて、大拙はスウェデンボルグの「神知と神愛」を翻訳しています。
大拙は、この2つを仏教の「大悲」と「大智」に対応すると考えました。
また、スウェデンボルグは、「意志」も重視し、「意志」は「愛」を含む概念でした。
大拙は、この2つを仏教の「大悲」と「大智」に対応すると考えました。
また、スウェデンボルグは、「意志」も重視し、「意志」は「愛」を含む概念でした。
大拙は、スウェデンボルグの神への愛を、「霊性」と訳しました。
大拙は、晩年まで「霊性」という言葉を重視して使い続けましたが、この言葉は、スウェエンボルグの翻訳で多用した言葉です。
大拙の「霊性」という言葉には、スウェデンボルグの影響もあり、宗教を超えた文脈にあります。
大拙は、晩年まで「霊性」という言葉を重視して使い続けましたが、この言葉は、スウェエンボルグの翻訳で多用した言葉です。
大拙の「霊性」という言葉には、スウェデンボルグの影響もあり、宗教を超えた文脈にあります。
ちなみに、大拙がこの時点で意識していたかどうか分かりませんが、「霊性」という言葉は、古くは、大拙も評価した中国華厳宗の宗密が、禅、華厳、道教、儒教を統合する中で使っています。
大拙は、ここにキリスト教を付け加えたことになります。
大拙は、ここにキリスト教を付け加えたことになります。
<神秘主義、エックハルト>
大拙は、晩年の1957年に英文で出版した「神秘主義―キリスト教と仏教」で、改めて、仏教とキリスト教神秘主義を、統合的に論じました。
つまり、大拙の基本的な仏教観、そして、それを他の宗教とつなげようとする意図は、晩年まで変わらなかったのです。
この書は、禅、真宗とエックハルトを主要な対象とし、また、「神秘主義」という言葉を前面に出しています。
これまで、このように「神秘主義」という言葉を肯定的に使って強調することはなかったのですが。
これまで、このように「神秘主義」という言葉を肯定的に使って強調することはなかったのですが。
ただ、その後に出版した「東方的な見方」(1963)では、「「神秘」なるものは東洋的考えにはないのだ。何もかも露堂々であり、浄裸々である」とも書いています。
つまり、東洋においては、「神秘」は秘されていないというわけです。
つまり、東洋においては、「神秘」は秘されていないというわけです。
大拙によれば、エックハルトと仏教の共通点は、次のようなものです。
神を「無」、「沈黙」、「砂漠」、「静けさ」といった否定的・寂静的な表現で表したこと、神と自己の内面を通した一体化を語ったこと、そのためには物質的・現象的なものから「離脱」する必要があること、などです。
神を「無」、「沈黙」、「砂漠」、「静けさ」といった否定的・寂静的な表現で表したこと、神と自己の内面を通した一体化を語ったこと、そのためには物質的・現象的なものから「離脱」する必要があること、などです。
例えば、大拙は次のように書いています。
「エックハルトの名もなき無なる神は仏教の言葉で言えば万物の実体なきこと、移り行くものに捉われぬ心、すべての渇愛の止滅に当たる」
大拙は、エックハルトが使う「isticheit」という言葉を、「あるがまま」と訳し、それが「いかなる言葉も表現し得ぬ」と書きます。
そして、大拙は、エックハルトが、自己が神と合一しても、自己を失わないと主張したこと、「神性」と「神」とを区別して、後者を前者の「働き」の面として説いたことを評価しました。
また、大拙は、エックハルトを老子と結びつけて紹介したレイモンド・B・プレイクニーの解釈にも影響を受けていて、エックハルトの「無」を老子の「無」とも結びつけています。
ブレイクニーは、エックハルトの「砂漠」を「母胎」と表現していて、これは、「如来蔵」とも通じています。
ブレイクニーは、エックハルトの「砂漠」を「母胎」と表現していて、これは、「如来蔵」とも通じています。
また、この書で興味深いのは、仏教の「渇愛」に関する解釈です。
大拙は次のように書きます。
「渇愛こそは宇宙の創造主なのだ。創造主であるからして、渇愛こそ個性化の原理なのである」
「渇愛は…われらの存在そのものなのだ」
「後期の仏教徒達は、…渇愛こそ…あらゆる生類の幸せのために必要なるものである、と強く主張したのである」
「渇愛は…われらの存在そのものなのだ」
「後期の仏教徒達は、…渇愛こそ…あらゆる生類の幸せのために必要なるものである、と強く主張したのである」
本来の仏教教義からは離れた、宇宙論的で、かつ、極めて現世肯定的、煩悩肯定的な思想です。
*大拙の禅と真宗の解釈に関しては、「大拙の日本的霊性と即非の論理」に続きます。
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