出口王仁三郎は、日本の近代を代表する宗教家であり、各種の霊学を総合しながら、教派神道との合流地点で実践的に活躍した人物です。
彼は、開祖の出口ナオと並んで、大本(大本教、皇道大本)の二大教祖の一人として知られています。
王仁三郎は、民衆的宗教だった大本に、国学、霊学(本田霊学)、言霊学(中村・山口・大石凝言霊学)などに基づく教義・教学を持ち込みました。
ですが、彼は、学者や審神者の資質に加えて、自らシャーマンの資質も合わせ持ちました。
また、マスメディアを利用した広報などの教団の運営や、歌、書画、陶芸などの芸術にも才能を発揮しました。
王仁三郎の生涯は、国家(国家神道)との戦いであると共に、大本主流派(直派)との戦いでもありました。
このページでは、出口王仁三郎と大本の歴史について、王仁三郎の霊学的側面や大本の教義に関わる側面を中心にしてまとめます。
長くなりますので、前後編に分けます。
このページでは、主に、大本の二大教祖だった出口ナオと出口王仁三郎の二人の霊統(厳の御霊/瑞の御霊)が、結合・対立していた時代を扱います。
そして、その後を扱った「出口王仁三郎と大本の歴史2(伊都能売の霊統)」に続きます。
ただ、以下の事項の中には、王仁三郎や大本自身の資料によってしか確認できないものも多くあります。
<高熊山での神秘体験>
1871(明治4)年、出口王仁三郎こと上田喜三郎(1871-1948、以下、王仁三郎と表記)は、丹波の貧しい農家の長男として生まれました。
絵師円山応挙を先祖に持つ家系でした。
祖母は、「言霊学」の創始者の中村孝道の妹で、王仁三郎は、少年時代に祖母からそういった知識を教わって育ちました。
1888(明治21)年、王仁三郎は丹波の梨木峠で「霊学」の創始者の本田親徳と偶然出会い、神道家として国のために尽くすようにと諭されたとされます。
1890(明治23)年、王仁三郎は国学者の岡田唯平に師事し、和歌を中心に、音楽、踊りといった芸術・芸能の重要性を学びました。
1892(明治25)年、王仁三郎は、小幡神社に夜ひそかに参籠して神教を請うていると、「異霊彦命(ことたまひこのみこと)」という神霊から「三大学則」などを教えらました。
この「異霊彦命」というのは、本田親徳の神霊であることを、後に知ったとされます。
1898(明治31)年、王仁三郎は、ヤクザに半殺しの目に合わされ、その夜寝ていると、部屋に五色の光の玉が体の中に飛び入りました。
そして、天狗(後に木花咲耶姫命の眷属の芙容仙人とされます)に誘われて肉体が高熊山の洞窟にテレポートし、そこで一週間の神秘体験をしました。
この時、王仁三郎は、霊体離脱して、過去・現在・未来、神界・幽霊の秘密を知りました。
これは、後に「霊界物語」として明かされます。
また、この時、王仁三郎は、異霊彦命から、自分が世の救主となるために降されたのだと、その使命を伝えられたとされます。
王仁三郎は、帰宅後も、身心の硬直状態が数日間続きました。
その後、王仁三郎は、透視能力や病気治療の能力を発揮し、「穴太の喜楽天狗」と呼ばれるようになりました。
王仁三郎の高熊山の洞窟での体験は、当時の神仙道のパタンに沿っていますが、いわゆるシャーマンの召命体験、異界飛翔体験の典型でもあります。
後に王仁三郎は、自分のこの時の体験を、大本の始まりと主張するようになりました。
<本田霊学、大石凝言霊学の伝授>
高熊山で神秘体験をした後、その同じ年に、王仁三郎の元に、本田親徳の弟子の長沢雄楯の稲荷講社の結社員が訪れて、長沢に会いに来るように誘いました。
王仁三郎は、静岡の長沢を訪れ、彼から本田霊学を学びました。
また、長沢の審神によって、王仁三郎に懸かっている神霊は、須佐之男尊の分霊の「小松林命」であるとされました。
さらに、本田の遺言(丹波から訪れる青年によって神の道が開かれる)に従って、長沢の母から、本田の奥義書と鎮魂石、石笛を譲られました。
同年、何度目かの静岡訪問の帰りの汽車の中で、偶然、言霊学の大家である大石凝真素美と出会いました。
その後、彼から言霊学を伝授され、また、一緒に琵琶湖に行き、湖面に現れる水茎文字を見せられました。
おそらく、王仁三郎は、言霊学以外にも、日本に弥勒菩薩が下生するとか、世界の艮である日本(琵琶湖近く)で最初の人間が生まれた、といった大石凝の思想を聞いて、その影響も受けたのではないでしょうか。
後に、王仁三郎は、大本の機関誌「神霊界」に、本田や大石凝の作品を掲載しています。
<出口ナオ>
1892(明治25)年、綾部の出口直(1836-1918、以下、ナオと表記)に、最初の神懸かりが起こり、文盲のはずの彼女の自動筆記(お筆先)が始まりました。
ナオに懸かった神は、「艮の金神」と名乗り、「三千世界の立替え」によって、「艮の金神の世(水晶の世、松の世)」をもたらすと語りました。
これは後に、「みろくの世」と呼ばれるようになります。
ちなみに、この年は辰年でしたが、辰年は古くから革命の年とされていました。
ナオの父親は大工であって、ナオの家族は、鬼門(艮)の習俗に深く親しんでいたハズです。
一般に、「金神」は陰陽道の方違えの祟り神ですが、巡回して特定の方位を持ちません。
ですが、祇園の祭神である牛頭天王の関連神話にも「金神」がいて、こちらは鬼門の方位が関係します。
大本に先立って金光教が、「金神」を方違えの祟り神から、内面の信を重視する天地の根源神・親神へと、大きく「金神」の性質を変革しました。
ナオは、それに天理教の「立替え」の革命思想を組み合わせながら、「金神」を世直しの神へと変革しました。
つまり、自身が被っている苦難の理由を、金光教は方違えから内面の信の問題へと変革し、大本は世の問題へと変革したのです。
また、綾部の北の大江町には、鬼伝説があります。
これは、大和朝廷が土着の土蜘蛛の「クガミミ」を征伐したことがもとになっているようです。
この「クガミミ」は、綾部の元藩主だった九鬼(クカミ)家につながっているという説もあります。
大本のお筆先にも「九鬼大隅守との因縁」という言葉が出てきます。
九鬼家は、鬼門の神を祀ってきたようです。
また、「九鬼文献」の「鬼門祝詞」は「宇志採羅根真(うしとらこんしん)大神」という神を讃えていますが、これが大本以前に書かれたものであるかどうかは、確認できません。
ナオに現れた「艮の金神」の背景には、土蜘蛛系の綾部における反大和朝廷(反国家神道)的思想があるのかもしれません。
また、「みろくの世」という言葉は、一般には、仏教の弥勒菩薩の下生と結びつけられます。
ですが、「みろくの世」という言葉を広めたのは、鹿島のみろく信仰や富士講であって、これらは系統的には、仏教ではなく、中国の弥勒教や、さらに遡ればイラン系のミトラ教になります。
さて、最初は狂気や狐憑きを疑われたナオですが、病気治療や予言によって、徐々に信者が集まり出しました。
すると、金光教が彼女を取り込もうと近づいてきて、1894(明治27)年には、ナオは金光教会の傘下に入ります。
ですが、金光教がナオの神に興味を持っていなかったため、1897(明治30)年、金光教から独立しました。
こうして、ナオは、自分に懸かった神を理解してくれる人物を求めていました。
<王仁三郎の大本教入り>
1898(明治31)年、王仁三郎は、小松林命から「一日も早く西北の方をさして行け、お前の来るのを待っている人がいる」と告げられ、出口ナオと出会ったとされます。
一方、ナオのお筆先にも、「この神をさばけるお方は東から来るぞよ」と出ていました。
二人の最初の出会いでは、互いに相手を確信することがありませんでした。
ですが、翌年の1899(明治32年)、王仁三郎は大本に参加し、「金明霊学会」を設立、九鬼家の九曜紋家紋を引用して「十曜神紋」を定めました。
そして、王仁三郎は、ナオについた神を審神して、「国武彦命」、後に「国常立尊」としました。
王仁三郎は、後に、「国常立尊(大国常立尊)」=「天之御中主」=「大元霊」=「伊都能売」とします。
これは、「国常立尊」=「天之御中主」=「大元神」=「豊受大神」とする伊勢神道と似ています。
伊勢神道は、外宮の「豊受大神」を祀る度会氏が創造したものですが、度会氏はもともと「豊受大神」ととともに丹波(元伊勢)から伊勢に移住したとされます。
王仁三郎は、「伊都能売」と「豊受大神」を同体視しています。
また、大本は、後に、元伊勢に関わる神業を何度か行っていて、背景に伊勢神道の影響があるかもしれません。
また、お筆先では、ナオと王仁三郎の関係について、ナオが「変性男子(肉体は女性だが魂は男性)」、王仁三郎が「変性女子(肉体は男性だが魂は女性)」とされました。
この言葉は本来、仏教用語ですので、王仁三郎はこれを嫌い、前者を「瑞の御霊」、後者を「厳の御霊」としました。
・ナオ :変性男子:厳(火)の御霊:艮の金神=国常立尊
・王仁三郎:変性女子:瑞(水)の御霊:小松林命=須佐之男尊
このように、初期の大本教の基本構造は、ナオと王仁三郎が持つ、対照的な二系統の霊統を合体させたものとされました。
「厳/瑞」の二元論は、「火/水」の二元論でもあり、ここには言霊学の創始者の一人、山口志道の説の影響もあるでしょう。
「火水」と書いて「カミ」と読むのも同様です。
また、伊勢神道にも、「天照=火/豊受=水」という二元論がありました。
翌年の1900(明治33)年、王仁三郎は末女のすみこ(澄子)と結婚し、お筆先の指示によって「おにざぶろう(「王仁三郎」表記は本人による)」と改名しました。
先に書いたように、これには綾部・九鬼の「鬼」伝説が背景にあるのでしょう。
大本ではナオと王仁三郎の二人を教祖としましたが、その地位、呼称は、ナオが「教主」、「開祖」であり、王仁三郎は「教主輔」、「聖師」でした。
教団内の多くはナオ派であり、彼らは王仁三郎をあくまでも補佐的役割と考えていました。
王仁三郎は、このナオを主とするナオ派と戦っていくことになります。
王仁三郎は、教団の運営に能力を発揮しましたから、二人の体制は、シャーマン的女性と政治力のある男子という、日本古来のヒメヒコ体制に似ているという側面もありました。
<神業と火水の戦い>
同年、二人は、神業として、大本の艮方向にある舞鶴沖の「男嶋・女嶋開き(沓島・冠島開き)」を行いました。
これは、「艮の金神」を世に出すためのものです。
男嶋・女嶋は、籠神社の海の奥宮で、冠島には天火明神を祀る老人島神社があり、ここから「ミタマ石」を綾部に持ち帰りました。
籠神社は元伊勢で、境外末社には豊受大神を祀る真名井神社があります。
この地方は、もともと海部氏の領域で、その祖神の「天火明神(アメノホアカリノカミ)」は、「天照大御神(アマテラス)」以前の男性の太陽神「アマテル」と同体です。
また、王仁三郎は、「霊界物語」で「天照皇大御神」と「天照大神」を区別して、前者を「大国常立尊」に近い存在としています。
「艮の金神」の背景には、火明、豊受、「元天照」、「元国常立尊」らの記憶があって複雑に結びついているのかもしれません。
1901(明治34)年、ナオと王仁三郎は、4月に「元伊勢の御用」、7月「出雲火の御用」と呼ばれる神事を行いました。
「元伊勢の御用」は、大江町の元伊勢とされる皇大神社から、天照大神の霊としての、清水を綾部に持ち帰るものです。
一方の「出雲火の御用」は、出雲大社から、須佐之男の霊としての神火、土、清水を綾部に持ち帰るものです。
「出雲火の御用」の帰路の時点から、「火水の戦い」と呼ばれる、ナオに懸かった天照大神と王仁三郎に懸かった須佐之男命の戦いが始まりました。
・ナオ :厳(火)の御霊:元伊勢の御用:天照大神
・王仁三郎:瑞(水)の御霊:出雲火の御用:須佐之男
そして、10月には、ナオが王仁三郎の態度に怒り、天照大神の「天の岩戸籠もり」を再現するように、弥仙山籠もり(神社の社殿に)を行いました。
ナオ(お筆先)の考えでは、王仁三郎(=小松林命=須佐之男尊の分霊)の役割は、立替えのために、まず、天の岩戸を閉める役であり、これは悪役なのです。
1903(明治36)年には、「弥仙山岩戸開き」が行われて、「火水の戦い」が終わりました。
そして、王仁三郎に懸かる神は、「艮の金神」と対になる「坤の金神」に代わりました。
「坤」は裏鬼門です。
そして、後の1916(大正5)年には、大本の坤方向にある播州沖の「神島開き」と呼ばれる、「坤の金神」を世に出すための神事を行いました。
これは「男嶋・女嶋開き」と対になる神業です。
・ナオ :艮の金神:国常立尊:男嶋・女嶋開き
・王仁三郎:坤の金神:豊雲野尊:神島開き
<弥勒の神>
当時の宗教団体は、教派として国家に公認された団体は、文部省の管理下で、決められたルールに従って運営していました。
ですが、非公認の場合は、警察や内務省から目をつけられて、圧力を受けていました。
1906(明治39)年、王仁三郎は、大本を合法団体にする方法を探るために、一旦、綾部を離れました。
そして、まず、京都で府庁の神職の資格を得て、半年の間、神社の神職を経験しました。
その後、王仁三郎は、御嶽教に入り、1908(明治41)年には、大阪大教会長に抜擢されて、教団運営を学びました。
その後、綾部に戻ると、神道を研究する「大日本修斎会」を設立して、月刊誌「大本講習」などで儀式の講習を行いました。
この時に打ち出した「三大学則」は本田霊学のものでした。(詳細は別ページ参照)
1911(明治44)年、大本教は、出雲大社教の傘下に入りました。
出雲大社教は、出雲大社の国造千家尊福が天津神中心の国家神道に反発して作った教派神道の一派です。
反国家神道という点で大本と共通しますが、出雲は須佐之男系なので、ナオよりも王仁三郎色が強く反映したと言えるのかもしれません。
1916(大正5)年に、大本教は「皇道大本」と改名しました。
この名は、近代日本が政教分離を原則とし、国家神道を宗教ではないとしたのに対して、祭政一致・神政復古を掲げたものだと言えます。
この年は、先に書いたように、「神島開き」によって「坤の金神」を出現させましたが、神島渡島は3度行われました。
この年も辰年です。
10月に行われたその3度目に、ナオが初めて参加したのですが、この時、ナオのお筆先に、王仁三郎に懸かる神が、「弥勒の神」=「天の御先祖さま」の御霊であると出て、ナオは仰天しました。
「弥勒さまの霊はみな神島へ落ちておられて、坤の金神どの、須佐之男命と小松林の霊が弥勒の神の御霊で…弥勒さまが根本の天のご先祖さまであるぞよ。国常立尊は地の先祖であるぞよ」
つまり、王仁三郎に懸かる「須佐之男命」、「坤の金神」は、単に「天照大神」、「艮の金神」と対になる神ではなく、その上の「天の根源神」の現れでもあったということでしょう。
これは、王仁三郎がナオの上位に位置づけられたことになります。
ナオ :艮の金神:地の先祖=国常立尊
王仁三郎:弥勒の神:天の先祖=大国常立尊
お筆先によれば、ナオに懸かった神は、「国常立尊」であると同時に、「稚姫君命」でもありました。
後に、王仁三郎は、ナオの御霊を「稚姫君命」であるとして、「稚姫君命」を通して「国常立尊」の言葉が伝えられたのだとしました。
<大本神諭>
1917(大正6)年、王仁三郎は、機関誌「神霊界」を創刊しました。
そこで、王仁三郎は、ナオのお筆先を「取捨按配」して、それに漢字をあてて編集し、「おほもとしんゆ(大本神諭)」として公開しました。
例えば、お筆先に現れた「たてかえ」は、「大本神諭」では「立替え立直し」と表現されました。
ちなみに、後の「霊界物語」では「三五(おおもと)神諭」と表記されるものになり、「立替え立直し」は「天の岩戸開き」という表現になります。
「三」は「誓約(うけい)」で生まれた三女神であり、「みつ」=「瑞」です。
一方の「五」は五男神であり、「いつ」=「厳」です。
ずれにせよ、「大本神諭」は、二人の合作と見做すべきものです。
*「出口王仁三郎と大本の歴史2(伊都能売の霊統)」に続きます。
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