中国のミトラ教(明教・白蓮教)

中国では、ミトラ教系の諸宗教が多様に展開しました。
明教(マニ教)や弥勒信仰の影響を受けて多数生まれた民間宗教の多くは、革命的思想を持っていたため、各王朝で弾圧され、秘密結社化しました。
清朝も、危険な宗教結社を総称して「白蓮教」と名付けて弾圧しました。

当ブログでは、東條真人氏の見解を参照して、ミトラ神、及びその影響下で生じた神を主神とする宗教、信仰を総称して、広義に「ミトラ教」と表現しています。
そして、その中国での展開も、同様に「弥勒教」と表現します。
「ミトラ教」、「弥勒教」は分析概念として抽象して初めて見える運動体です。



<ミトラ教>

まず、前提として、「ミトラ教」について復習的にまとめます。

ゾロアスター教は実質的にはアフラマズダを主神とするので「マズダ教」であると言えます。
一方、マニ教は実質的にはミトラ神を主神するので「ミトラ教」の一種であると言えます。

ミトラ教は伝統的なイランの宗教であり、マズダ教はイラン東部に新興した改革派でした。
両宗教潮流はその後も、長く、敵対的関係にあります。

マズダ教は民族宗教でイラン人以外に布教しないのに対して、ミトラ教は世界宗教となりました。
この関係は、ユダヤ教とキリスト教、ヒンドゥー教と仏教の関係に似ています。

ですが、キリスト教、仏教、イスラム教が帝国の国教となった世界宗教であるのに対して、ミトラ教は帝国の国教にはほとんどならず、むしろ弾圧されて、諸帝国を超えて全ユーラシアに渡って広がった宗教であり、「超世界宗教」と呼ぶべき宗教です。

また、ミトラ教は、神格に固有名詞を使わず、各地の神の名前を使ったり、各地の宗教に入り込む形で、時代、地域によって様々に形を変えてきました。
実際、ミトラ教は、ユダヤ、キリスト、イスラム、仏教、ヒンドゥー教、道教にも大きな影響を与えた宗教です。

また、ミトラ教はカルデアの占星学と結びついて、ユーラシアの神智学の原型となりました。
ミトラ教には秘教という側面が大きくありませんが、人間の魂の深層に神性が眠っているというグノーシス的な人間観を持っているため、秘教性を秘めています。

ミトラス教、マニ教は、ミトラ教の代表的な形ですが、中国におけるミトラ教である弥勒教(白蓮教)は、信者数で言えば、それを上回ります。

ミトラ神は、光、太陽、契約、友愛、軍神、終末の救世主、星座の主宰者、死後審判の神、少年神、岩(洞窟)からの誕生、牛の供犠、岩を射て泉を湧かせる、などを特徴とする神です。

ミトラ神の各地での呼び名は、インド、ミタンニで「ミトラ」、古代イランのアヴェスタ語で「ミスラ」、ギリシャ語で「ミトラス」、パファビー語で「ミフル」、ソグド、カシミール、クルドで「ミール」、バクトリアで「ミイロ」などです。

また、ユダヤ教の「メタトロン」、仏教の「マイトレーヤ(弥勒)」、マニ教の「マニ」、ボン教の「ミーウォ」という語も、「ミトラ」の変形と思われます。

そして、オルフェウス教の「エロス=ファーネス」、「ヨハネ黙示録」の「キリスト」、イスラム教シーア派の「アル・マフディー」、ヒンドゥー教の「カルキ」、道教の「金闕聖後帝君」などの神格も、ミトラ神が原型でしょう。


<弥勒信仰・布袋信仰>

中国の弥勒教の核心は、救世主としての弥勒の下生信仰です。
ですが、中国の弥勒は、「マイトレーヤ」と「ミトラ」の習合神です。

仏教の「マイトレーヤ(弥勒菩薩)」は、紀元前後、パルティア、バクトリアのミトラ信仰の影響で、イラン東部からインド北部で生まれました。

弥勒菩薩が修行している兜率天に往生したいという「上生信仰」と、未来に弥勒仏が地上に現れて人々を救うという「下生信仰」があります。

シルクロード都市(西域)でも、中国、朝鮮、日本でも、この仏教化した弥勒菩薩信仰と、仏教化していないミトラ神の信仰が併存していました。
中国には、ソグド人を通して、マニ教だけでなく、多様なミトラ神の信仰がもたらされたと思われます。

そのため、ミトラ神の方も「弥勒」と呼ばれるようにもなり、各地、各時代に、互いに影響を与えあうことで、両神格が複雑な歴史を重ねることになりました。

中国では北魏時代に弥勒信仰が興隆し、552年が末法の始まる年とされました。
そして、5-6Cに、「法滅尽経」、「普賢菩薩説証明経」などの偽経によって、弥勒信仰が末法思想と結びつき、弥勒は、軍勢を率いて魔物を退治する、イラン的・非仏教的な存在となりました。
仏教の弥勒信仰には導入されていなかった末法思想が、中国でミトラ教から結びついたものでしょう。
弥勒信仰は、「下生信仰」を中心に、仏教から離れて、他の宗教と結びつき、民衆の革命思想となっていきました。

また、弥勒信仰は布袋信仰と結びつきました。
布袋は、唐末の明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされる伝説的な仏僧です。
布袋が死の間際に残した偈文の内容が、弥勒の化身が世に現れても誰も気付かない、というものだったため、布袋は弥勒菩薩の化身だったという伝聞が広まりました。

そして、布袋は、釈迦の裏仏(後戸の神)や、白蓮教徒の守り神になりました。

また、布袋は禅僧だったとされるようになり、禅宗とも結びつきました。

禅の「十牛図」の最後に描かれているのは、どう見ても布袋であり、この意味は、修行者が最後に弥勒菩薩に出会うことを意味します。

イランにはミトラに托鉢僧が出会う物語や絵があります。
「十牛図」では、真の自己が牛として描かれますが、牛はミトラ神の属性と一致しますし、ミトラ教には、心の奥にある明性を呼び起こす教えがあります。
「十牛図」には、禅だけでなく、ミトラ教の求道物語の影響があるのでしょう。


<明教>

唐代に王朝によって保護されて広がった西方起源の宗教を「三夷教」と呼びます。
「景教(ゾロアスター教)」、「景教(ネストリウス派キリスト教)」、「明教(マニ教)」です。

マニ教は、唐時代の694年に中国に伝来し、「明教」、「摩尼教」、「末尼教」、「二宗教」と表記されました。
則天武后が官寺として長安城に明教の寺院の大雲寺を建立したのですが、これは、明教を国教としていたウイグルとの関係を良好に保つためと言われています。
また、中国では、明教がもたらした占星学や暦が魅力的でした。

明教を中国に伝えたミフル・オルムズド(密烏没斯)は、則天武后に「二宗経」を献上しました。
「二宗」というのは、明暗二元論という意味です。
明教は、漢訳に当たって、仏教用語を多数転用しました。
明教では、ミトラを「古仏弥勒」や「天真弥勒」、最高神ズルワンを「明尊」、悪の最高神アーリマンを「魔王」などと表現しました。

ですが、843年に武宗によって明教が、また、845年の会昌の廃仏では仏教のみならず三夷教も禁教とされました。
そのため、明教の司祭は、福建省の泉州に逃れて、この地で布教を行いました。

それ以降、明教は変質し、秘密結社化、民衆化、多様化して拡大していきました。
そして、民衆の不満を革命思想として表現してまとめる役割を果たし、何度も反乱を起こしました。

その一方で、明教自身は道教化を企てて、北宋時代の1019年には、「道蔵」に明教経典も掲載され、明教は正式に道教の一派になりました。
その後も道教化を進めて、12Cの前半には明教の寺は完全に道観になりました。


<白蓮教の歴史>

「白蓮教」は、清朝が革命思想を持つ一連の民間宗教結社を総称して禁教としたものです。
ですから、この名前には、体制側からは危険な邪教という意味が含まれます。

弥勒下生信仰を核として、多数の宗教・信仰を折衷しているのが特徴です。
当ブログでは、「明教」、「白蓮教」を含んで、ミトラ教の系列の宗教を広義に「弥勒教」と総称します。

白蓮教は、南宋代に天台宗系の慈昭子元によって、浄土教系の念仏結社の「白蓮宗」に、弥勒下生と終末救世思想を結びつけることで生まれたとされます。
そして、元代には、民衆宗教の代表というべき宗教に成長しました。

廬山東林寺の普度が「廬山蓮宗宝鑑」10巻を著し、大都に上京して白蓮教義の宣布に努めたため、布教の公認を得ましたが、その後すぐに、再度、禁教とされました。
韓山童が教主になると、自分は宋の徽宗皇帝の子孫だと宣言し、元朝を倒して宋の復興を主張しました。

明の創始者の朱元璋は、白蓮教徒として、白蓮教が起こした「紅巾の乱」(1351-1366)に参加して元を倒しました。
「明」という国名は、ミトラの「光の国」から命名されたという説もあります。
ですが、朱元璋が皇帝となると、一転して白蓮教を弾圧したため、秘密結社化しました

白蓮教は、清代には乾隆帝の時に勢力を盛り返し、新教団が次々誕生し、各地山東省、四川省などで反乱を起こしました。
行政府は、信仰の内容に関わらず、取り締まるべき逸脱した民間宗教結社をまとめて「白蓮教」と呼んで、弾圧しました。

代表的な宗教結社には、「八卦教」、「西天大乗教」、「西大乗教」、「東大乗教」、「大乗円頓教」、「混元教」、「三陽教」、「黄天道」、「一貫道」などがあります。

そのため白蓮教は秘密結社化し、乾隆帝が嘉慶帝に皇位を譲ると、1796年には「白蓮教徒の乱」が起こりました。
白蓮教徒たちは弥勒下生を唱え、死ねば来世にて幸福が訪れるとの考えから命を惜しまずに戦いました。


<弥勒教(白蓮教)の思想>

弥勒教(白蓮教)では、ミトラ神を、「白仏」、「白仏明王」、「白弥勒」、「弥勒明王」、「聖弥勒観音」などと表現します(以下、「弥勒」と表記)。
弥勒は、世が乱れた時に救世主として現れ、人々を救い、神秘の都に導きます。

また、ミトラ神は12正座の主宰者なので、北極星信仰と習合して「妙見大菩薩」とも表現されます。
「妙見菩薩」は「すべてを見張る」というミトラの属性を翻訳したもので、北斗七星を使って天地を動かし、人間の心身を作ります。

弥勒には、根源神ズルワン=ミトラとしての「古仏弥勒」の姿と、終末の救世主(未来仏)としての「弥勒仏」の姿と、現在の世で化身となって教えを説く「無為祖師」の姿と、その童子形の「弥勒童神(聖弥勒観音)」の姿があります。

また、ソフィア(アナーヒター)は、白衣観音、西王母、碧霞元君が習合して、「無極聖母(無生老母)」と呼ばれるようになりました。
弥勒教の特徴は、根源女神としての「無極聖母」を重視することです。
「無極聖母」は、弥勒に救世を依頼する存在です。


現代末から明代にかけて、ミトラ教神話が中国化した弥勒教の神話が成立しました。
明代末に成立した、無為金丹教の教典「九蓮宝巻」は、次のような神話を説きます。

「古仏弥勒」が宇宙を創造し、時間を分けて、過去・現在・未来の「三陽」とした。
「三陽」は三面一仏(定光仏・釈迦仏・弥勒仏)が管理する。
「古仏弥勒」は9億6千万の光の子(明性)をこの世に下ろし、男女を分けた。
すると、彼らは欲に染まってしまった。

「無極聖母」は明性達を救い出して、西天浄土に連れ帰るように「古仏弥勒」に頼み、「白蓮の教え」、金丹術を記した聖なる経典を渡した。

「古仏弥勒」は何度も転生して、善男善女を西天浄土に送り届け、仏教・儒教・道教を作り上げた。
現在の化身である「無為祖師」は、「皇極金丹大道」教えを説いて人々を導いている。
「皇極の劫」の世の終わりには、三災が世界を破壊することになるが、その前に弥勒仏が現れ、真の宗教を打ち立てて西天浄土への道を作り出す。


また、「弥勒教」は、民衆的である一方、実践においては、仏教の時輪タントラのヨガと称するものや、道教の全真教の内丹法などの、秘教的な修行も取り入れたようです。

posted by morfo1 at 09:27Comment(0)中国

中国禅の流れ2(唐代禅から宋代禅へ)

「中国禅の流れ1(北宗禅から南宗禅へ)」から続く、中国禅の流れの後編です。

このページでは、唐代禅の主流となった洪州宗の馬祖の「祖師禅」から、宋代禅の主流となった臨済宗の大慧の「看話禅」までを簡単にまとめます。


<馬祖道一と洪州宗>

洪州宗の祖である馬祖道一(709-788)の禅は、「祖師禅」と称され、唐代禅の主流となりました。
彼の師は慧能の弟子の南嶽懐譲で、その法系は、次のように受け継がれました。

慧能→南嶽懐譲→馬祖道一→百丈懐海→黄檗希運→臨済義玄

馬祖の禅の特徴は、「即心是仏」、「作用即性」、「日用即妙用」、「平常心是道」、「平常無事」などの言葉で表現されます。

「作用即性」といっても、荷沢宗のように、「体(性)」と「用」が不二であるとは説かず、「用」がそのまま「体(性)」であると説きます。

「今、見聞きし、知覚しているのが、もともと汝の本性であり、本心である」(馬祖語録)

そのため、馬祖は、日常の心身の働きから離れた「体(性)」、つまり、「心の本体」や「智恵」を説きません。
ですから、「即心是仏」の「心」は、働いている「心」です。
日常の心・行為がそのまま仏であるとして、そんな仏を「実相法身仏」とも表現します。
そして、作為のない「あるがまま」の心、生身の人間を肯定します。

「道を修めようとする作為、あるいは道に向かおうとする目的意識、それから一切がすべて汚すことである。…平常心、それがそのまま道なのである。…それは、作為なく、是非なく、取捨なく、断常なく、凡聖の対立なきものである。…行住坐臥それらすべてがそのまま道なのである」(馬祖語録)

ただ、馬祖は、いつも、そのように説いていたわけではなく、時には、まったく神会と同じように説くこともありました。

馬祖は、教えにおいては、生身の人間をそのまま指し示す「直指」を特徴とします。
例えば、相手を去り際に呼び止めて、振り返ったその行為、それを行った作為のない心を、指し示します。

また、「直指」とは逆なものが「喝」です。
「喝」は、迷いが生まれた瞬間を指し示して、大声というリアルな体験で迷いを破ります。

今、この場の人間を重視する、我々が良く知る、中国禅の姿です。

洪州宗の禅は以上のような特徴を持ちますが、そのため、見性・開悟のない、煩悩を持った心・行為を、そのまま肯定してしまうといった批判が、荷沢宗の宗密、石頭宗、宋代の圜悟など、各方面からなされました。


<宗密の洪州宗批判>

圭峰宗密(780-841)は、荷沢宗の五祖であり、華厳宗の第五祖です。
彼は、華厳教学を使いながら、荷沢宗の立場から、禅の他宗を批判しました。

禅宗は「不立文字」が特徴で、教学を持たないことが多いため、論理的に自らの立場を主張したり他派を批判することは少ないのですが、華厳教学を学び「教禅一致」を主張する宗密は例外的です。

特に注目すべきは、馬祖の洪州宗に対する批判です。

一般に、荷沢宗の禅は「如来禅」、洪州宗の禅は「祖師禅」として対比されます。
宗密は、荷沢宗の禅を「最上乗禅(如来清浄禅)」と称し、達磨がもたらした頓悟の禅であり、自性清浄心を日常で働かせる禅だと言います。

荷沢宗は「体用不二」を説きます。
馬祖の言葉の「作用即性」も、言葉の上では同じ意味です。

ですが、宗密は、「自性の本用」と対象的な「随縁の応用」を区別して、前者を荷沢宗の「用」、後者を洪州宗の「用」であるとしました。
荷沢宗の「自性の本用」は、心に備わった本来的で透明な映すという働きです。
これに対して、洪州宗の「随縁の応用」は、個々の物を対象化する煩悩性の働きだと言うのです。

つまり、洪州宗は迷いと悟りを区別せず、洪州宗の「用」は、「体」が欠如した単なる迷いでもあると批判したのです。

荷沢宗の立場からすれば、北宗は「体」のみで、洪州宗は「用」のみです。

ですが、私見を述べれば、華厳教学の「四種法界」で考えると、北宗禅は「理法界」的です。
そして、荷沢宗は「体」寄りで、神会が言うように「理事無礙法界」的です。
また、洪州宗は「用」寄りで「事事無礙法界」的ですが、「事法界」に陥る危険もあるのということではないでしょうか。

・北宗 :守一不移:体重視      :理
・荷沢宗:如来禅 :体寄り:自性の本用:理事無礙
・洪州宗:祖師禅 :用寄り:随縁の応用:事・事事無礙


<向上>

神会、宗密は、「体用不二」、「定慧不二」を説きましたが、荷沢宗の禅は、その比重はどちらかと言えば、「体」、「定」の方にありました。

洪州宗の「用」は宗密から「随縁の応用」と批判されましたが、実際は、比重を「用」の方に移したものでしょう。

その後の禅の歴史は、この比重の偏りを移し続けた歴史という見方もできます。
石頭宗が「体」寄りに戻し、さらに雲門宗は「用」寄りに戻し、という具合にです。

ですが、この比重の移動は、修行階梯を螺旋状に上昇しているとも解釈でき、「向上」とか「超越」と表現されます。

洪州宗にある「仏向上(法身向上、超仏越祖)」は「用」への上昇ですが、これは「体(仏性)」を「用」として働かせる段階です。
次に、石頭宗にある「自己向上」は「体」への上昇ですが、これは「用(自己)」が固まって「体」を欠くことを避ける段階です。
次に、雲門宗にある「向上自己向上」とでも言うべきものは「用」への上昇ですが、これは再度、「体」を欠かさずに「用」を働かせる段階です。


<大慧と宋代禅>

唐代の禅では、祖師の説法や問答の記録として語録が重視されました。
それらは、仏教用語で教義を説くのではなく、日常の中での具体的な譬えの形で表現されました。

ですが、寺院や僧が官僚化された宋時代には、禅も制度化されました。
そして、唐時代の個々の記録だった問答の中から、特に評価されたものが「古則」と呼ばれるようになり、それらが、悟りへ導く普遍的な問答である「公案」として整理されるようになりました。

そして、その「公案」を様々に論評する「文字禅」が重視されるようになりました。

ですが、唐代に具体的な意味を指し示していた「問答」における譬えの表現は、時代が変わってその意味が分からなくなるものがありました。
そのため、それらを、論理を超えた「開悟(見性)」、つまり、無分別な空の智恵へと導く、無意味な表現であると解釈するようになりました。
その超意味的な言葉は、「活句」と呼ばれます。

臨済宗の圜悟克勤(1063-1135)の講義録「碧巌録」は、「文字禅」を代表する書です。
圜悟は、洪州宗のあるがままの禅を批判して「大悟」の重要性を主張し、また、「公案」を「活句」として解釈しました。

その後、圜悟の門下の大慧宗杲(1089-1163)が、「公案」の「活句」に集中して坐禅を行う「看話禅(話頭禅)」を確立しました。
「公案」の「活句」に集中することで、「疑団」、つまり、意味を解決できない葛藤いだき、それが爆発することで「開悟」に至るのです。

「活句」による「公案」の例には、有名な「趙州無字」があります。
これは、無門慧開(1183~1260)が「無門関」の第一則として取り上げたことでも知られます。

「無字」の「公案」は、「犬に仏性があるか」という問に対する返答の「無」を、「ない」ではなく、「有無」の二元論を超える「活句」として解釈します。
それを単に「空」や「無」という概念として理解するのではなく、それへの集中を「大悟」に至るきっかけにするのです。

*「無字」の公案の瞑想の詳細は姉妹サイトの下記を参照してください。
無字の公案の瞑想(臨済宗

ちなみに、鈴木大拙や西田幾多郎らが参禅し、影響を受けたのも大慧流の「看話禅」です。

また、大慧は、曹洞宗の宏智正覚の「黙照禅」を、ただぼんやり座っているだけとして批判しました。

ですがその宏智には、「事に触れずして知り、縁に対せずして照らす…その知おのずから微なり…その照おのずから妙なり…かつて分別の思なし」という言葉があります。
これは神会や宗密に近いと感じます。


<禅宗の修行階梯>

部派仏教やインド・チベットの大乗仏教は、煩悩の理論、止観の理論に基づいて、修行の階梯を体系化しています。
ですが、禅宗は「頓悟」と「任運(あるがまま)」を説くため、煩悩を滅していく修行の階梯を体系化しません。

「頓悟漸修」の「開悟」の後の「漸修」については、「機関」や「言栓」、「向上」といった言葉でおおまかな段階が示されます。
上に書いたように、「向上」は何段階かで考えることもあります。

ですが、これらはしっかりと体系化されているとは言えず、それを進めたのは、日本の白隠です。

ちなみに、禅と同様に、「頓悟」と「任運(あるがまま)」を説くゾクチェンは、副次的な行として「開悟」までの行が整備され、「後悟」の修業階梯も体系化されています。

posted by morfo1 at 09:19Comment(0)中国

中国禅の流れ1(北宗禅から南宗禅へ)

中国禅の思想潮流を、開祖の達磨から、東山法門、そして、荷沢宗まで、簡単にまとめます。
特に、「南宗禅(荷沢宗)」の初祖である神会に重点をおいて紹介します。

神会は、従来の禅宗を「北宗」とひとまとめにしてその坐禅を批判して、ほとんど坐禅修行を否定するような「頓悟禅」を主張し、その後の禅の潮流に大きな影響を与えました。
また、「見性」、「自然知」といった概念を使って、「心の本体」に備わった「知」に気づくことが大切だと主張しました。


<達磨の二入四行論>

禅宗の開祖とされる菩提達磨(ボディ・ダルマ)は、5-6Cの人とされていますが、実在人物であるかどうかも疑われる伝説的人物です。
一般にインド人とされますが、最も古い記録では、ペルシャ生まれの胡人(サマルカンドのイラン系のソグド人)です。

達磨の禅は、弟子の曇林が語録の形でまとめた「二入四行論」で知られていますが、曇林の思想が大きく反映されているかもしれません。

「二入」というのは、「理入」と「行入」です。
「理入」は理論、「行入」は実践でその方法が4種なので「四行」と呼ばれます。

「理入」は、経典によって仏法を知り、凡夫も聖者も平等な本性を持っていることを知ることです。
そして、分別を止めて真理と一体化し、作為のない状態になることです。
達磨の弟子の曇林は、如来蔵思想の経典である「勝鬘経」の研究者だったので、如来蔵思想の影響を見ることができます。

一方、「行入」というのは、次の4つの、実践的な生き方のことです。


・報怨行 :苦を受けても、自分の過去世の悪行の報いであると考えて、他人を憎まずに、真理と一つになること
・随縁行 :「私」は無我であり、楽を受けても、過去の因縁によるものであって、縁が尽きれば終わりだと考えて、喜ばず、道に沿うこと
・無所求行:身体がある限り苦はまぬがれないと見抜き、執着をなくし、真実の道を歩むこと
・称法行 :自己が本来は清浄であると理解し、空を悟り、執着をなくし、法に従って行動し、六波羅蜜を作意なしで行うこと


達磨の「四行」は、小乗仏教の修行法である「四念処」と対比して示されたものかもしれません。
「四念処」が坐禅による瞑想修行であるのに対して、「四行」は生活中の実践法である点が、特徴的な違いです。

「二入四行論」には、在家主義を主張した「維摩経」からの引用が多くあって、生活中の実践法を説く点には、「維摩経」の影響もあるのでしょう。

また、「二入四行論」は「作為」のないことを重視します。
これは老荘思想の影響を推測できますが、ひょっとしたらゾクチェンなどと共通する西方起源の思想の影響があるのかもしれません。


<東山法門>

初期の禅者は、頭陀行(托鉢などの清貧の修行)の実践者であり、「楞伽宗」とも呼ばれました。
その後の、唐初の第四祖道信、第五祖弘忍の頃の禅の一門は、「東山法門」と呼ばれました。
法系は、次の通りです。

達磨→恵可→僧燦→道信→弘忍→神秀

「東山法門」は、天台智顗の「摩訶止観」との対決から、天台宗的な総合より、シンプルな一行を選びました。
また、禅宗は「教外別伝」と呼ばれますが、経典では、「華厳経」、「大乗起信論」、「維摩経」、「金剛般若経」などを重視し、また、華厳教学とも結びついていきました。

道信(580-651)は、「楞伽師資記」によれば、次のように語りました。
「坐禅の時は、必ず自己の意識の最初の動きに注意しなければならぬ。…すべてを知りながら、分別のとらわれを越えたところを完全な智と呼ぶ」
「(起信論の究竟覚に関して)一心の動き始めによく注意するならば、心にはもとより妄念の始めなどないのだ。…そうした心の内面を見届けることができてこそ、心は常に安住するのであり、これを絶対の目覚めと名付ける」

つまり、想念が起こる瞬間を意識することで分別にとらわれない、という教えを説いたのです。
これは、実践上の特徴的な教えであり、小さいながら、後世まで影響が続きました。

ですが、道信の禅の基本は、何か一つのものに心を集中させる「守一不移」によって、無分別な法界に同化する「一行三昧」です。
次の弘忍も、「一」の字に集中して、法界に留まる「看一字」という禅を行いました。
これらは「守心」とも表現されます。

第六祖の神秀は、分別を離れて真如に目覚めることを強調し、煩悩(塵)を払って清浄な心(鏡)を悟ることを説きました。
神秀は、その禅を「守心」ではなく「観心」と表現しました。

ちなみに、神秀の二代後の摩訶衍は、チベットに行ってインド仏教のカマラシーラと論争して負けたされます。
ただ、こういった論争には政治がからみます。


<神会の北宗批判>

神会(680-762)は、ソグド系中国人で、732年に、洛陽の大雲寺で、神秀を代表として東山法門の禅を批判して、仏教界に登場しました。
彼は、東山法門の禅をひとまとめにして神秀に代表させて「北宗禅」と呼び、それを批判して自らの立場を宣伝したのです。

神会以降、彼の系列の禅は「南宗禅」、東山法門の禅は「北宗禅」と呼ばれるようなりました。
ですが、この対立は、中唐期頃までには、なくなっていきました。

神会は、禅宗の正統な法系を次のように主張しました。

達磨→恵可→僧燦→道信→弘忍→慧能

第六祖を、神秀ではなく、自分の師である慧能(638-713)とし、「南宗」の祖として祭り上げたのです。
神会は、達磨が印可の証として恵可に袈裟を授け、現在、それを慧能が持っていると、根拠のない主張を根拠としました。

ですが、実際には、慧能がどのような禅を説いたのかは不明です。


<神会の禅思想>

神会は、達磨が「如来禅」の祖であったと主張しました。
つまり、「南宗」の禅を「如来禅」であると名付けているのです。

また、彼は、「南宗」の禅の特徴を「頓悟」とし、「北宗」は「漸悟」であるとして区別しています。

「漸悟」は、煩悩をなくしていく修行の結果、悟りを得るという考え方ですが、「頓悟」は、煩悩があっても清浄な心の本体は変わらずに存在しているので、それに気づけば良いという考え方です。
ただ、「頓悟」しても、その後、智恵を伸ばしていかなければいけないので、「頓悟漸修」となりますが。

・北宗:神秀:漸悟:煩悩を払って仏性を現す
・南宗:神会:頓悟:煩悩を払わずとも仏性は現れている

学問的には、どちらも如来蔵思想だとしても、「漸悟」は「仏性内在論」、「頓悟」は「仏性顕在論」と呼ぶことができます。

神会は、「煩悩即涅槃」を説明して、次のように語っています。
「煩悩即涅槃というのは、…去来する迷・悟の相の区別はあるが、その相の去来する場である菩提心そのものには、本来いかなる動きもない」
「菩提心」は仏性、心の本体のことです。

また、神会は、「頓悟」を、「理事無礙法界」的な認識として理解しているようで、「事と理が一つに融解するのが頓悟である」(神会語録)とも語っています。
つまり、「事」は念、分別であり、迷いがあっても、「理」である心の本体がいつも存在することに気づけば良いのです。

一方、神会は、「北宗」の禅を次のように否定しました。
「単に心を集中して禅定に入るのは、判断停止の空に落ち込むこと…」(南陽和上頓教解脱禅門直了性壇語)
「悟りの時には禅定がなく、禅定の時は悟りがない…」(同上)

つまり、単に念をなくす「定」ではなく、心の本体を見る「智恵」が必要だという批判です。

また、次のように語ります。
「定を得ようと行ずることが、そもそも妄心である…」(神会語録)
「妄心が起こらないことを戒、妄心がないことを定、心に妄がないことを知るのが慧」(南陽和上頓教解脱禅門直了性壇語)
「念の起こらぬことを坐とし、自己の本性を見るのを禅とする」(菩提達磨南宗定是非論)

つまり、作為することは妄念でしかなく、妄念をなくして、心の本体には妄念がないことを知ることが必要だという主張です。

作為的な坐禅の否定は、「ただ坐れ」という曹洞宗に近い考え方ですが、神会は、「頓悟」を主張しているので、ほとんど坐禅修行を否定します。


<自然知>

神会は、「心の本体」に、自然に「知」が備わっていることを重視します。

この「知」を、「見性」、「本知」、「自然知」などと表現しています。
「自然知」という言葉は、もともと道家の言葉で、「法華経」でも説かれます。

神会は、「知」について、次のように語っています。
「澄み切った鏡がもともと常にものを映すという、それ自らの本質的な働き(自性の照)を持つからである。同じように、人々の心はもともと清浄で、自然にすぐれた智恵の光があって、完全な涅槃の世界を照らすのである」(南陽和上問答雑徴義)
「寂静なる本体を定といい、その定から自然知が出て、寂静なる本体自身を知る、それを慧というのである」(神会語録)
「慧とはその無分別な本性が空虚でありながら無限の作用を具えているのを見ること」(同上)

「知」は、自分自身、つまり「心の本体」とそれが「知」の働きを持っていることを見る「知」なのです。

神会は、禅宗の中で初めて「見性」という言葉を打ち出しました。
「見性」とは、「心の本体」である自性に目覚めること、開悟のことですが、「自然知」と別のものではないでしょう。

また、神会は、「心の本体」が無分別な「空」に留まらずに、「知」を持って働くこと、その活動性を「無住」とも表現しました。

「心の本体」が「自然知」を持つとする神会の思想は、ゾクチェンと似ています。


<定慧・体用の不二一体>

神会は、「定と慧」、つまり、「体と用」の不二一体を説きます。
比喩的には「鏡と反映力(照)」、あるいは、「灯と光」の不二一体です。

上述した、「心の本体」は「体」、「自然知」は「用」に当たります。

中国仏教は、インド仏教にはない概念の、「体」と「用」の観点を重視します。
これは、無分別(空)と分別(念)、あるいは、密教的な用語では「非顕現」と「顕現」に当たるでしょう。

神会は、次のように語ります。
「真空を体とし、妙有を用とす」(頓悟無生般若頌)
「空虚なる体の上に知が起こって世間の諸相を善分別する、これが慧である」(神会語録)

つまり、心の本体の「空」と一体なら、「用」は「妙有」、「善分別」であり、単なる「有」、「分別」、「妄心」ではないのです。
「妙有」や「善分別」は、インド仏教の概念では、「後得知」に近いものでしょう。

・体:定:真空:無分別:心の本体:鏡:灯
・用:慧:妙有:善分別:自然知 :照:光


* また、荷沢宗の五祖の宗密は、禅の他宗を批判しましたが、この件は「中国禅の流れ2(唐代禅から宋代禅へ)」をお読みください。


<無住の保唐宗>

神秀や慧能の兄弟弟子に慧安がいます。
その法系であり、慧能にも学んだ無住を祖とするのが保唐宗です。
慧安の禅は、神秀より慧能に近かったと想像されます。

無住は四川で活動したのでチベットにも近く、保唐宗の法系には、チベット仏教ニンマ派のゾクチェンの法系と重なる師がいるようで、両者の交流を感じさせます。

無住の禅は、無分別な「無念」でいることを重視しました。

ですが、次のような説法があります。

「私の禅は…その用には動と静の区別なく、不浄と清浄の区別もなく、良い悪いの区別もない。ピチピチ(活溌溌)していて、常にすべて禅の状態である」

活きがいい魚がピチピチ跳ねる様子を「活溌溌(地)」と言いますが、この表現は、臨済など、何人かの禅師が使っています。
ですが、最も古い記録が無住のものです。


<南宗禅のバックボーン>

禅宗は達磨に始まるので、シルクロード経由、北中国発祥です。
ですが、南宗禅は、慧能も南中国(広東省)にいましたし、南中国から発祥したと言っても過言ではありません。

ですから、南宗禅には道教の影響が強く、現世肯定的なのでしょう。
道教でも、北宗に対して南宗が現世肯定的です。

また、南中国には、イスラムの居住地があって、スーフィーの行者もいました。
禅が伝える物語や、師の振る舞い方、修行法には、スーフィーのそれとそっくりなものがあります。
スーフィズムの研究家のイドリス・シャーは、禅がスーフィズムから生まれたと書いています。
そう断言するのは極端過ぎるとしても、南宗禅にはスーフィズムの影響があった可能性は高いでしょう。

posted by morfo1 at 08:52Comment(0)中国