現代物理・現代数学と神秘主義思想のアナロジー2


量子論、量子重力理論、絶対数学などを扱った「現代物理・現代数学と神秘主義思想のアナロジー1」から続くページです。

このページでは、現代物理の宇宙論、現代数学の圏論、諸学の統一と、神秘主義思想の類似性について、思いつくままに書きます。


<宇宙論:始まりと終わり>

現代物理の宇宙論では、宇宙が膨張していることを前提として、宇宙の始まりと終わりに関して多数のモデルが提案されています。
それぞれは、伝統的な宗教・神秘主義の宇宙論と似たところがあります。

ホーキングらの量子宇宙論(無境界仮説)は、「虚時間」から宇宙が生まれたと考えます。
これは、「無」としか表現できないもの、あるいは、「無限時間神(ズルワン)」から宇宙が生まれたという神秘主義思想の宇宙論と似ています。

また、超弦理論の宇宙論では、その原初の虚時空間で、「弦」が回転しながら振動していたと考えますが、これは原初の深淵の海で泳ぐ蛇、という神話のイメージと似ています。

宇宙の終わりについては諸説がありますが、もとの状態にまで収縮する「ビッグクランチ説」は、神秘主義的な宇宙論が説く原初的存在への「帰還」に似ています。

収縮の後、再爆発(ビッグバウンス)を繰り返すとする「サイクリック宇宙論」は、量子重力理論でも提唱されていますが、これは、カルデア系の周期的宇宙論に似ています。

ただ、エントロピーの増大という一方向的な時間が貫いているので、同じことの繰り返しではありません。
超弦理論では、膨張が繰り返される度にその大きさが膨れていき、やがて収縮しなくなるというモデルも提案されています。
これは宇宙が周期ごとに物質次元へと下降する近代神智学の宇宙論と似ています。


<宇宙論:相転移>

ジョージ・ガモフらによって提唱された「ビッグバン説(火の玉宇宙論)」(1984)や、その前段階としてアラン・グース、佐藤勝彦、アンドレイ・リンデらによって提唱された「インフレーション宇宙論」(1980-82)などの膨張宇宙論は、何段階にもわたる物質の「相転移」の歴史を語ります。

「相転移」というのは、例えば、気体が温度(エネルギー)を失うことで、液体になり、固体になるように、物質の状態が変わることです。

これは、神秘主義思想、例えば、新プラトン主義的な「流出論(発出論)」などが語ってきた、多層的な宇宙が創造されるプロセスと似ています。


オリエント・ヨーロッパの宇宙論では、最も階層が低い地上(月下界)は「四大元素」で出来ていて、その上の天球世界は「アイテール」で出来ているとしました。

四大元素の「風」、「水」、「土」は、現代の物理・化学で言えば、気体、液体、固体に当たるでしょう。
そして、「火」は分子の組成が変わる化学変化の状態、「アイテール」は分子が陽イオンと電子に別れたプラズマの状態です。

神秘主義思想は、天球世界より上位の世界の階層についても語りますが、現代宇宙論でも、宇宙の始まりに遡るに従って、エネルギーの高い状態の物質の多数の段階の「相転移」を語ります。

まず、素粒子の状態が、「レプトン/反レプトン」状態と、その前の「ハドロン/反ハドロン」状態。
さらにその前の、クォークの状態である「クォーク・グルーオン・プラズマ」状態。
その前の、4つの基本的な力(電磁気力、弱い相互作用、強い相互作用、重力)が順次統一されていく状態が、「統一力(電弱力)」の状態、その前の「大統一力(電核力)」の状態、その前で最初の「超大統一力」の状態です。


宇宙が指数関数的に膨張する「インフレーション」は、「大統一力」の状態になった後に起こりました。
これが始まる時点では、通常の意味での物質はまだ存在せず、「インフレーション」は「真空エネルギー」によって起こりました(この時の温度は絶対零度です)。

「インフレーション」が終わった後に物質が生まれて、「真空エネルギー」が物質の熱のエネルギーに変換され、いわゆる「火の玉宇宙」の膨張が始まりました。

この宇宙創造が、物質以前の真空エネルギーから物質に至ることは、神秘主義の宇宙創造論で、霊的世界が創造されてから物質世界が創造されたとすることに似ています。
あるいは、無形の質料の創造の後で、それが形相を獲得することに似ています。

また、我々の宇宙の長い歴史の中で、真空の場のエネルギーは不変ですが、物質の熱エネルギーは減少し続けます。
現在の時間は、ちょうど物質エネルギー密度が真空エネルギー密度を下回った時期に当たります。
つまり、主要なエネルギーが、物質から真空へと反転したところなのです。

これは、近代神智学の宇宙論的時間論において、現在がちょうど下降から上昇への折り返しを越えた時点に当たると考えることと似ています。


<善と悪:光と重力>

このテーマでは、さらに強引なアナロジーで考えます。

人を地に貼りつかせる「重力」や、変化を拒む「慣性」は、「束縛」や「不自由」の象徴となりますが、伝統的な世界観では、これらは「悪」の原理です。
ただ、神秘主義思想では、「悪」を「絶対悪」ではなく、条件によってそういう側面を持つという「相対悪」として捉えることが多いのですが。

一方、「光」は、神的、天使的なもの、自由やエネルギーの象徴であり、「善」の原理です。
光は、物理的にも、質量を持たないので直接「重力」の影響を受けず、宇宙最高速で移動し、また、物質から放射されてそのエネルギーを示します。

現代物理の宇宙論では、「重力」は4つの力が未分化だった超大統一力から最初に分離した力です。
そして、その後すぐに、ヒッグズ場によって「慣性」や「質量」が生まれて、物質が「重力」の影響を受けるようになりました。
一方、「光」は「重力」と分かれた大統一力から生まれます。

この最初の力の分離は、原初神から善神(天使)と悪神(堕天使)が別れた神話を思い起こさせます。


また、エントロピック重力理論(エリック・ヴァーリンデ、2010)は、「重力」を「エントロピー」的な現象であると考えます。
物体の位置に関する情報量の変化によって生じるエントロピー的な力なのです。
この理論には批判もありますが、他の研究でも「重力」と「エントロピー」の関連が指示されています。

「エントロピー」とは「乱雑さ」であり、その増大が「熱死」と表現されるように、「死」の原理であり、伝統的価値観では一種の「悪」の原理です。

全体として「エントロピー」が増大することで、局所系の「エントロピー」が減少して構造や生命が生まれるので、「必要悪」のようなものかもしれませんが。

とは言え、同じ「悪」の原理である「重力」と「エントロピー」が、現代物理でも結びつけられるのは不思議です。


<ホログラフィック原理とアカシック・レコード>

フアン・マルダセナの「ホログラフィック原理(ゲージ重力対応、1997)」によれば、ある次元の時空の重力を含む理論が、その一次元低い時空の重力を含まない場の理論と等価(双対)であるとされます。
具体的には、ある3次元空間の物理は、それを取り囲む境界面の重力をふくまない物理と等価なのです。

宇宙の場合は、宇宙のはてである事象的地平面に宇宙内のすべての情報があるということです。

ミトラ教から神智学や人智学に継承された考え方よれば、宇宙の外殻(天球面)にその宇宙の歴史のすべてが記録されています。
これは「アカシック・レコード」と呼ばれる領域で、アストラルライトの形態の世界と形態を超えた世界の境界にあるとされます。

「アカシック・レコード」は過去の情報、ホログラフィー理論では現在の情報ですが、どちらも宇宙を取り囲む平面に全情報があるとする点で、不思議に共通します。


<現代数学とカバラの抽象性>

現代数学は、経験的世界や実証性から離れ、抽象的世界の中で、自由に創造されるものとなりました。
現代数学は、理論の抽象化、一般化を進めることで伝統的数学を包括しますが、この抽象化のはてに、数も量も図形もなくなる世界に至っています。

ほとんど経験世界と無関係に抽象的に創造された数学理論が、後に物理学で使われることがあります。

例えば、非ユークリッド幾何学は、一般相対性理論の定式化に使われました。
虚数はデカルトが実在性を否定して名付けた数ですが、シュレディンガー方程式に使われました。

フォン・ノイマンは、ヒルベルトの無限次元空間を拡張し、量子力学をこの無限次元複素ヒルベルト空間で定式化(1932)しました。
ノイマンは、抽象的な数学空間の中で、粒子性と波動性、ハイゼンベルグの無限行列方程式とシュレディンガーの2階微分方程式を統合したと言えます。


大まかに言って、近代合理主義、近代科学はギリシャ、ヨーロッパ的な思考の枠組みで作られています。
ですが、現代数学、現代物理の多くの創造はユダヤ人によって行われました。
そこには、おそらくユダヤ思想の特徴が反映されているでしょう。

現代数学の抽象性は、ユダヤ神秘主義のカバラの抽象性と似ています。

カバラでは、セフィロートや数、アルファベットを表象として高度に抽象化された意味を、組み合わせたり、入れ替えたり、数値化して計算したりします。
諸象徴を統合して作られたセフィロート体系の構造は、非常に抽象的なもので、経験世界にあるものではなく、経験世界からの一次的な抽象でも生まれません。
ですが、どのような経験世界の事項、事項の関係をも説明することもできますし、魔術を介して経験世界で実理化することもできます。

現代数学は、カントールの無限論(無限に階層があることも論証しました)以来の「無限」の可能性を展開する中で生まれました。
カバラも、「アイン」、「アイン・ソフ」、「アイン・ソフ・オール」という「無限」の階層を前提として展開されます。

これらの特徴の多くは、カバラに固有なものではなく、例えば、密教のマンダラ的体系にもありますが、西洋においてその特徴を最もよく持っていたのはカバラでしょう。


<圏論と諸学の統合>

神智学、哲学、自然科学、数学などの諸分野がそれぞれに分離したのは、ルネサンスより後の時代で、それ以前は、諸学の大統一が当たり前でした。

神智学の大統一は、様々な時代、場所で試みられてきました。
中世インドの「カーラチャクラ・タントラ」や、近代のブラヴァツキー夫人の神智学、ニュー・エイジ時代のケン・ウィルバーの「インテグラル理論」などがそうでしょう。
これらは、それなりに諸学の大統一理論を目指して言いました。

現代数学、現代物理からも、諸学の大統一の動きが生まれています。


量子力学は、古典力学を包括する一般理論であることから、ミクロを対象としていない領域でも、量子力学を取り入れた一般化が研究されています。

「量子認知科学」は、量子論的な数理モデルを用いて心理学などの実験結果を説明します。
人間には、古典的な合理性とは異なる種類の、量子論的な合理性があると考えられています。

他にも、確率変数の値があらかじめ確定していない「量子確率論」、主語と述語がエンタングルメントする(量子のように絡み合う)ことを表現する「量子言語学」などがあります。


また、物理学で理論の大統一が目指されているように、数学でも数学の諸分野の大統一を目指す「ラングランズ・プログラム」が研究されています。
これは物理学の大統一とも関連しています。

一方、数学の諸分野の統一を下から、つまり、数学基礎論として支えているのが「圏論」の発展です。
圏論は、集合論に変わって数学諸分野を基礎づけるだけではなく、科学や哲学などの諸学の基礎論として、諸学を大統一する理論になりつつあります。
上記した諸学の量子化でも圏論が利用されます。

圏論は、量子力学の公理化を行っていて「圏論的量子力学」と呼ばれます。
これは、情報物理学の一形態です。

統一理論の一つでもある「量子情報理論」は、量子情報が宇宙を構成する最も基本的な要素と考えます。
そして、宇宙の物理プロセスを量子コンピュータの量子計算と同じものとみなします。
これは、宇宙を知性と考える神秘主義哲学の考え方と似ています。


圏論は、異なる領域の数学ごと、異なる科学ごとに多元的な圏を扱います。
集合論と違って、圏論は最初から本質的に「マルチバース(多宇宙)」的です。

これは、物理学においては、超弦理論が、多数の異なる物理法則を持った宇宙が存在していると考えるマルチバース説と似ています。
宇宙のインフレーションで発生している無数の泡宇宙のそれぞれで、物理法則(方程式の解)が異なるのではないかと考えるのです(ランドスケープ理論)。

また、これは、チベット仏教の多体系主義とも似ています。
インド密教では、異なるマンダラ宇宙を説く様々な体系の経典が作られ、最後に「カーラチャクラ・タントラ」がすべての諸体系を統一した一つの体系を作りました。
ですが、チベット仏教の各宗派は、諸体系をそれぞれに認めて多体系的統合を行いました。
つまり、チベット仏教は、マルチバース的です。


<圏論の思想>

圏論は、集合論やブルバキ流構造主義とは異なり、実体を前提とせず、世界を出来事の連鎖として捉え、関係の構造のみを扱います。
ですから、哲学的には非実体主義、関係主義、プロセス(出来事)主義の思想です。

その意味では、仏教的な「空」と「縁起」の世界観、特に「空」と「有」と「仮」を対等に見てその関係を扱う天台教学の考え方と似ています。


抽象性の高い数学や論理学は、諸学で使われる共通の学です。
圏論は、「数学の数学」と表現されることもあり、諸学基礎論となるのは、圏論が思考の構造を抽象する、いわば「思考の思考」だからでしょう。

これは、シュタイナーが言う思考自身を対象とした「純粋思考」に似ています。


圏論の基本要素は、「点(対象)」とそれらをつなぐ「矢印(射)」です。
これは、物理学で、ループ量子重力理論が、宇宙の根源を「点(ノード)」と「線(リンク)」で考えることと似ています。
また、「表象(概念、イメージ)」と「連想」からなる思考の基本的な働きとも似ています。

圏論は、圏と圏との間の関係も扱います。
圏がアナロジーを扱うとしたら、これは「アナロジーのアナロジー」であるとも言われます。

圏論では、圏と圏の間の射を「関手」、関手と関手の間の射を「自然変換」と呼びます。
圏論では、圏や射を対象として「高次元圏」をいくらでも考えることができます。
高次元圏論は、より抽象的、一般的で、下位を基礎づけるものとなりえます。
また、高次の圏の概念は、意識の問題に関わるかもしれないと言う人もいます。

圏論の階層性は、神秘主義の万物が照応する象徴体系的宇宙論における階層性と似ています。
象徴体系的宇宙論は、諸領域の知識体系(圏)の事物(対象)の間の照応(射)を語ります。

諸体系(例えば、地上の金属の体系、人間の身体部位の体系、天球の惑星の体系、セフィロートのような観念の体系、神仏のパンテオン的体系など)の間には階層の違いがあって、下位の諸体系の関係は、上位の体系内、体系間の関係の結果とされます。
最上位の根源的な象徴体系は、諸体系間の「アナロジーのアナロジー」を働かせるものであり、それ自身は地上に存在しない、抽象的存在そのものです。

(試論)
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現代物理・現代数学と神秘主義思想のアナロジー1


このページでは、現代物理の様々な理論、宇宙論、及び、一部の現代数学と、「永遠の哲学」とも称される神秘主義思想の世界観との類似性をテーマとして、思いつくままにいくつかの事項を扱います。

例えば、両者の間には、古典的な論理の基本法則が否定される、物質的現象の背後が語られる、波動を根源的存在とする、多数の階層性が語られる、非局所的な関係性が語られる、抽象的な関係を扱って諸学を統合する、などの類似性が見られます。

ただ、このページで扱っているのは、あくまでも素朴に感じる大まかな類似性です。
ですが、類似性が生まれる理由を考えれば、両者の成り立ちの枠組に類似性があることを、あげることができるかもしれません。

それは、どれもが非日常的な世界(現代物理なら超ミクロ、超高温、超重力、宇宙的スケール…、現代数学なら経験世界から遠い抽象的世界、神秘主義なら変性意識が体験する世界)の認識によって、日常的世界の認識を拡張して包括するものである、ということです。


このページでは、現代物理の量子力学、量子場理論、量子重力理論、ホログラフィック原理、絶対数学などを扱います。

そして、宇宙論、圏論、諸学の統一を扱う「現代物理・現代数学と神秘主義思想のアナロジー2」に続きます。


<相補性:波動かつ粒子>

古典的な論理の基本には、「同一律」(AはAである)、「矛盾律」(Aは非Aではない)、「排中律」(Aか非Aかのどちらかである)の3つの法則があります。
ですが、神秘主義思想では、これらを否定する論理を使う場合があります。

例えば、大乗仏教の論理であるナーガルジュナのテトラレンマ(四句否定)は、「Aでない」かつ「非Aでない」かつ「Aかつ非Aではない」かつ「Aでもなく非Aでもない、でもない」です。

プロティノス、華厳経には、すべての部分が他を映すという思想がありますが、これは「Aは非Aである」、「A(部分)は全体である」という論理です。

量子力学でも、3つの基本律や分配律をはみ出た論理が使われます。


古典力学では、「粒子性」と「波動性」は、物質の運動における最も基本的な対立概念です。

ですが、アインシュタインは、光量子仮説(1905)で、それまで波動だと思われていた光に、粒子として側面があることを提唱しました。
その後、ド・ブロイは、波動方程式とともに「物質波」(1924)という概念を提案し、光以外の物質も「粒子」と「波動」の両方の性質を持つことを示しました。

ニール・ボーアはこれを、古典力学の矛盾する2つの概念が合い補う「相補性」(1927)として解釈しました。
一方、ヴェルナー・ハイゼンベルグは、古典力学の表現はもはや使えず、どちらでも表現できるという意味で「二重性」として解釈しました。

どちらにせよ、これは「Aであり非Aである」ということになり、古典論理学の基本律が否定されます。


また、ハイゼンベルグは、素粒子の「位置」と「運動量」の(正準共役な)2つの物理量を同時に“測定する”ことはできない(誤差の積が下限を持つ)という「不確定性原理」(1927)を発見しました。
彼は、物質存在そのものについて物理学は語れないと考えて、「不確定性原理」を認識論的に考えました。
この、観測結果以前の物質については語れないというハイゼンベルグの「行列力学」の考え方は、「量子力学」の標準的な考え方になりました。

一方、ボーアは、「不確定性原理」を、2つの物理量が同時に確定した“値を持つ”ことはない、という実在に関する原理として存在論的に考えました。

そして、ボーアは、この2つの(正準共役な)物理量の関係も「相補的」であるとしました。
観測の仕方が、どちらの物理量が実在であるかを決めるのですが、これは「様相解釈(文脈解釈)」と呼ばれます。

「不確定性原理」においても、古典的な実在観、論理は成り立ちません。

そのため、量子力学に対応した形式論理である「量子論理学」や、量子力学に対応した実在観とそれを数学的に表現する「量子集合論」が生まれました。

「量子論理学」は、基本3律は守っていますが、分配律が成り立たない無限多値論理です。
「量子集合論」は、物理量を「量子集合論」の実数に対応させ、観測の文脈に依存せずに定義できるようにしました。


量子力学の世界観・物質観は、西洋近代の合理的なそれでは理解できないため、ボーアもハイゼンベルグも、タオイズムなどの東洋思想の世界観に注目していました。

ボーアは「相補性」を表すシンボルとしてタオ・マークを使っていましたし、「我々は仏陀や老子がかつて(2600年以上も前に)直面した認識論的問題に立ち返り…」と語っています。

ハイゼンベルクは、「過去数十年の間に、日本の物理学者たちが物理学全体の発展に大きく貢献してくることができたのは、東洋哲学(仏教や老荘思想)と量子力学が、根本的に似ているからだと思う」と語っています。
湯川秀樹が老荘思想に傾倒していたことも知られています。

後述するシュレディンガーも、ヴェーダーンタ哲学に傾倒し、「西洋科学には東洋思想の輸血が必要である」と語りました。


<波動関数:粒子と場>

エルヴィン・シュレディンガーがド・ブロイの波動方程式を発展させた「シュレディンガー方程式」(1926)は、量子力学の最も中心となる方程式の一つです。
これは、物質の位置や運動量に変わって「波動関数」の時間変化を表現するもので、物質を粒子ではなく完全に「波動」として表現しています。

そして、マックス・ボルンが、この方程式の波動の絶対値の2乗が表現しているのは、ある状態にあった粒子がその後にどこに移動している可能性があるかを示す量(確率振幅・遷移振幅)であるという「確率解釈」を提唱しました(1926)。

シュレディンガーは、波動関数の波動を、実在する波であると考えていたのですが、ボルンは実在しない計算上のものと考えて、これが標準的な考え方になりました。

ですが、光子を二重スリットを通して干渉パターンを作る実験から、1つの光子が複数の経路を同時に通るにもかかわらず、観測するとそれが一つになることが分かっています。

ですから、「波動関数」の表現する「確率」は、単に、未来に観測される遷移の確率を示すのではなく、従来の存在概念に収まらない存在の仕方そのものを示しているはずです。
観測前の物質は、どこかに「ある」でも「ない」でもなく、粒子という観点から見れば「確率」で表現されるような形で同時に様々な場所に広がって存在しているのです。
ですが、観測するとどこかに局所化されます。

つまり、「量子力学」の考える物質(量子)には2つの状態があります。

一つは、「波動関数」とシュレディンガーの方程式が表現する、観測以前の物質の状態です。
これは、非局所的、連続的、因果的な状態で、多数の確率の波動の「重ね合わせ」(コヒーレント、スーパーポジション)の状態です。
つまり、AかつBかつ…という可能なすべてが同時に起こっていて、互いに影響を与えあっている状態です。

もう一つは、観測(マクロな系との相互作用)によって物理量が一つに確定し、数えられる離散的な粒子になった状態です。
つまり、AまたはBまたは…のいずれかの一つだけが偶然に確定した状態です。
正統派であるコペンハーゲン解釈は、これを観測によって「波動関数」の確率波が非因果的(偶然)に「収束」したと解釈します。
この過程についても、語れません。


この2つの状態は、神秘主義思想が語る、霊的・原因的世界と物質世界との関係と似ています。
例えば、近代神智学の言葉で説明すると、アストラル界やメンタル界には、相反するような多様な思念形態が実在し、物質界に直接的に影響を及ぼしますが、少なくとも物質世界から見れば、どれがどのように現実化するかは偶然的です。

また、仏教の法界と現象界の関係にも似ています。
仏が見る真実は、「縁起」の世界、つまり、一つの必然的な因果関係ではなく、多数の偶然的な相互関係によって成り立つ、「重ね合わせ」に似た世界です。
そして、それは、「有」でも「無」でもない「空」の世界ですが、凡夫の日常では「有」もしくは「無」の世界になります。


<統一場理論:波動としての場>

ポール・ディラックが、電磁場を量子化した(1927)ことが「量子場理論(場の量子論)」の始まりです。
量子場理論は、古典力学では別の実在だった「場(空間の性質)」と「粒子」を、「量子場」として統合しました。
波動関数が表現するのは、「場」の値になりました。

量子場理論では、「場」は、多数の確率の波動が重なってその値が変化する存在です。
「素粒子」は「場」の励起した状態で、確率波の振動が定常化した正弦波になって、局所的な波束と見なせるようになった存在です。
また、物質が存在しない真空状態でも、「場」は一定のエネルギーを持っていて、あらゆる振動数を持つ電磁波が重なり合って存在します。

量子場理論では、場の状態を表現する波動関数としての波と、場の状態が伝わっていく波の2種類の波が存在します。

このように、量子場理論は、存在を波動的な「場」の一元論にしました。


量子場に電磁力以外の3つの力を統一するのが「統一場理論」です。
弱い相互作用を統一したのが「電弱統一理論」、さらに、強い相互作用も大統一するのが「量子色力学」、さらに、重力も超大統一するのが「量子重力理論」です。
(現在では、基本的な4つの力以外にも多数の力が存在すると予想されています。)

量子重力理論の一つである「超弦理論」は、物質の最小構成要素を、従来のように0次元の「点粒子」ではなく、1次元の「弦(ひも)」の振動であると考えます。
もちろん、これらは確率的に広がった存在です。

そして、「素粒子」の違いとして見えているものは、「弦」の振動の違いになります。
「弦」は、単に振動するだけではなく、回転、伸縮、開閉、分割・合体といった運動をします。

また、超弦理論は、時空を10次元、あるいは、11次元で考えるので、4次元時空に存在する「弦」は、内部に余剰次元を持ち、その次元でも振動していて、それが素粒子に多様性の原因となります。

つまり、超弦理論では、存在は、高次元における様々な「弦」の振動なのです。


以上のような現代物理の波動的世界観は、例えば、インドのタントリズム(密教)のそれと似ています。

タントリズムでは、宇宙(霊的世界や物質世界)は周波数の異なる波動(マントラ)でできていて、ヤントラやマンダラの階層はこれを表現します。

日常的な言語は周波数の低い波動であり、マントラの言語はより高い周波数の波動です。
もちろん、これは音声としての空気の波動ではなく、意味の次元の話です。
実践的にも、マントラは音声として発話するレベルと、発話されないレベルがあります。

これは、物理学で、海の波や音のように物質を媒体とする波と、電磁波のような場の波、さらには、波動関数が表現するような確率の波や、超弦理論の剰余次元の波など、波動にも様々な違いがあることと似ています。

また、粒子的現象の世界を生み出す「場」は、密教的な「空」に似ています。
つまり、仏教で言えば、粒子的世界観を残す量子力学の矛盾的な表現は顕教的ですが、波動的な量子場理論は密教的です。


<絶対数学と根>

黒川信重の提唱している「絶対数学」は、量子場理論に適合する新しい数学となる可能性があります。
また、「絶対数学」は、神秘主義思想の考え方とも似ています。

「絶対数学」は、環や群より基本的で、演算を積だけにした「モノイド(単圏)」の数学であり、中でも最も単純な「一元体(1だけの体)」上の数学です。

黒川は、「絶対数学」の「数(絶対数)」は「根」(一元体が根に当たる)を持つ数であり、従来の数学はこの「根」を見逃してきたと書いています。
これは、量子場理論が、古典力学が見逃してきた、「粒子」の「根」である「場」を扱っていることと似ています。

また、「絶対数学」の「点(絶対点)」は広がりを持っていて、これは量子が広がりを持っていることと似ています。
黒川は、「絶対空間論」が量子重力理論の空間を記述する可能性に期待しています。

また、黒川は、「絶対点」がライプニッツの「モナド」に当たるとも書いています。 
中沢新一は、「絶対数学」の数論が、中国華厳宗の法蔵が「華厳五教章」で論じた数論と似たものであると書いています。
「絶対数」や「絶対点」は、華厳教学の理事無碍的な「一」に近いということです。


<量子もつれと縁起>

量子論では、量子同士が相互作用することで「量子もつれ(エンタングルメント)」が生まれると考えます。
もつれた量子同士は、遠距離にあっても、一方が観測などによって確率波が収束して物理量が確定すると、即座にもう一方もそれに対応して物理量が確定します。

「量子もつれ」は、局所性が厳密には成立せず、距離の離れた存在が時間を越えてつながっていることを意味します。

また、量子重力理論によれば、「量子もつれ」が「空間」を創発します。
宇宙は「量子もつれ」によって出来ていて、「量子もつれ」はエントロピーと同様、時間とともに増大し続けます。

「量子もつれ」は、無時間的な相互関係なので、仏教的に表現すれば「縁起」です。
また、神秘主義思想が宇宙全体を一つの生命としてみなすように、宇宙は自身の結びつきを深めていきます。


*宇宙論、圏論、諸学の統一を扱う「現代物理・現代数学と神秘主義思想のアナロジー2」に続きます。

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欧米新仏教とインド新仏教


このページでは、20C後半から現れた仏教の新しい形態である、「欧米新仏教」と「インド新仏教」について簡単に紹介します。
中心とするのは「欧米新仏教」とその背景です。

ただ、「欧米新仏教」と「インド新仏教」は、どちらも当サイトでの呼称です。
「欧米新仏教」とは少し意味は違いますが、類似した言葉としては、アメリカには「ナイトスタンド・ブッディズム」という呼称もあります。

「インド新仏教」は、一般には「インド仏教復興運動」と呼ばれます。

両者には共通した側面もありますが、まったく異なるものです。


<欧米新仏教の特徴>

20世紀後半くらいから、欧米では、仏教が独特な受容をされ、新しい運動体になっています。
はっきりと一つの性質を持ったものではなく、多様な運動ですが、新しい仏教の世界的な潮流として捉えることもできます。

仏教史の観点から見れば、仏教が新しい形に変化・進化していると言っても良いでしょう。
大きな見方をすれば、原始仏教、部派仏教、大乗仏教、密教に継ぐ新しい形態とも見なせます。

別ページで紹介した「ネオ・オリエンタリズム」の一潮流とも言えます。

「欧米新仏教」の最大の特徴は、広く一般人(在家仏教徒や仏教に関心のある人)が瞑想を行うことです。
これは、長い仏教の歴史の中でも稀なことです。

また、仏教は一種の心理療法としても受け止められていて、これら仏教の瞑想法を取り入れた心理療法が生まれました。

「欧米新仏教」は、東南アジアの上座部仏教のヴィパッサナー瞑想と、日本やベトナムの禅宗の座禅と、チベット仏教の後期密教やゾクチェン、マハー・ムドラーなどの瞑想法などをバックボーンとしてます。

「欧米新仏教」は、教団仏教・寺院仏教ではなく、旧来の寺院組織とは距離を置く傾向があり、超宗派的です。
供養や儀礼を中心にした葬式仏教、儀式仏教でもありません。

拠点は特定の宗派の寺院ではなく、瞑想センターです。
アメリカには少なくとも1000以上の瞑想センターがあり、その一割以上が超宗派です。

アメリカの仏教徒は 約300万人ですが、仏教に大きな影響を受けた人は 約2500万人という調査があります。
特定の組織に属さずに、日常生活の中で仏教を勉強している人達を指して「ナイトスタンド・ブッディスト」と呼ぶこともあります。
仏教に関心を持つ層は、かなり知的なレベルの高い傾向があり、女性も多いのです。

「欧米新仏教」の指導者は、アジアから来た僧侶であったり、アジアの僧侶に学んだ欧米人です。
ですから、もともとは何らかのアジアの宗派と結びつきがあります。
ですが、多くは意図的にそれから距離を置き、独自の思想・組織・活動形態を持つに至ります。

指導者は出家していないことが多く、また、師の権威を絶対化しない傾向があります。

そして、死後にあまり関心がなく、出家主義ではなく、この世での自由な生き方を求めます。
社会運動にも積極的で「エンゲージド・ブッディズム」と呼ばれることもあります。

経済的には、布施よりも会費や参加費が基盤になります。
インターネットの活用も多く、「ヴァーチャル・サンガ」と呼ばれることもあります。

思想的には、初期仏教の基本思想に重点を置いて、現代的解釈で各派の思想が抽出される傾向があります。

瞑想法では、気づき(マインドフルネス)瞑想を中心に各派の修行法が折衷されます。
指導者も勉強している人も、特定の宗派にも、特定のセンターにも、依存せず、複数の宗派(上座部仏教、チベット仏教、禅宗)などの修行法を勉強する傾向があります。

以下、上記の3つの宗派・瞑想法が「欧米新仏教」に与えた影響について説明します。


<上座部のヴィパッサナー瞑想>

上座部の正式な瞑想法は、アビダルマ哲学や『清浄道論』に基礎をおいた複雑なもので、なかなか一般人が実践できるものではありません。
ですが、50年ほど前にミャンマーで、誰でも行えるように簡略化した瞑想法が作られ、「改革派」の潮流が生まれました。
マハーシ・サヤドーや、レディー・サヤドーの3代目の弟子でインド人のS.N.ゴエンカらが作った新しい「ヴィパッサナー瞑想」です。

この簡略化された「ヴィパッサナー瞑想」の広がりによって、出家者が在家の瞑想指導を行うことが当たり前になりつつあります。
これは、上座部の伝統の中では新しい出来事です。

この種の瞑想は、欧米では「マインドフルネス・メディテーション」、「インサイト・メディテーション」、日本では「気づき瞑想」と呼ばれ、現在、欧米、アジア諸国を中心に、世界的に猛烈な勢いで広まっています。
カウンセリングや心理療法とも親近性が強く、様々な交流があります。

アメリカでの最初の大きなきっかけになったのは、タイで仏教に出会い、インドでゴエンカの指導を受けたジョセフ・ゴールドスタインと、タイでアチャン・チャー(タイ有数の森林僧院であるワット・パー・ポンの設立者)に従事して僧侶になったジャック・コーンフィールドが、2人で設立したマサチューセッツの「インサイト・メディテーション・ソサイエティー」です。

コーンフィールドはその後、カルフォルニアに「スピリット・ロック・メディテーション・センター」を設立します。

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前者が『入出息念経』や『四念処経』をベースにした伝統的な指導スタイルなのに対して、後者は心理療法なども取り入れた総合的なプログラムを行いました。
彼らは上座部の組織や信仰・思想とは距離を置き、新しい運動体(欧米新仏教)となっていきました。 

禅が日本人禅師など、チベット系仏教が亡命チベット僧侶らの直接指導とカリスマ性の元に始まったのに対して、ヴィパッサナー瞑想は、欧米人が海外から持ち帰って流行させたものであるという特徴があります。

また、スリランカの僧侶バンテ・ヘーネポラ・グナラタナは、ウェストバージニア州の森林に僧院と瞑想センター、バーワナー・ソサエティを設立して、一般に向けても指導を行い、影響を与えました。


<禅宗と座禅>

日本の禅が欧米で人気なのは日本人も良く知るところです。


ニューエイジのネオ・オリエンタリズムとネオ・シャーマニズム」で紹介したように、「禅仏教のエッセイ」シリーズなどの著作で知られる鈴木大拙、「サンフランシスコ禅センター」などを設立した鈴木俊隆、「ロサンゼルス禅センター」などを設立した前角博優などが、アメリカやヨーロッパに大きな影響を与えました。

彼らは日本の臨済宗や曹洞宗と距離を置いた活動をしたことが特徴です。

前角の弟子でアメリカ人のローリ大道は、「ゼン・マウンテンモナストリー(山川教団)」を設立し、新しい禅宗を作っています。
「十牛図」に対応した10階梯を設けるなど、独自の組織化された僧院を創設し、在家者にも出家者用修行を指導し、学問研鑽も行っています。
また、彼は亡命チベット僧のチョギャム・トゥルンパの影響も受けています。

しかし、欧米では日本の禅だけではなく、ベトナム、台湾、韓国の禅も注目されています。
これらの国の禅は臨済宗系の禅宗ですが、日本と違って総合仏教的な性質が強く、日本ほど座禅にこだわりません。

ベトナムの禅は、「ニューエイジのネオ・オリエンタリズムとネオ・シャーマニズム」で紹介したティク・ナット・ハンの欧米での活躍によって、知られるようになりました。
彼は、ダライ・ラマと並んで世界的に有名な仏教僧です。
アメリカには彼の禅センターが200ほどあります。

彼の禅は「行動する仏教(エンゲージド・ブッディズム)」として知られていますが、これは、必ずしも社会運動をするということではなく、仏教や瞑想を日常社会の中で生かすこと、日常の行為を瞑想的に行うことを重視しています。


思想や瞑想法は折衷的で、上座部的なシンプルなヴィパッサナー瞑想に、大乗的な慈悲の心、禅宗的な現世肯定の思想が組み合わさっています。
例えば、五戒を現代的に解釈し、それを瞑想するといった方法もあります。
「生命に敬意を払う」、「寛容になる」、「性的責任を果たす」、「深く耳を傾け愛をこめて話す」、「意識的な消費をする」などです。

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<ゾクチェン、マハー・ムドラー>

1950年の中国の侵攻によりチベットの仏教僧たちは、インド、ネパール、欧米などに亡命して、チベット仏教は新たな時代を迎えました。
ダライ・ラマやチベット仏教の各宗派は、亡命先で伝統宗派に基づいた活動もしています。


ですが、チョギャム・トゥルンパ、タルタン・トゥルク、ナムカイ・ノルブなど、独自の活動をしている亡命チベット僧達もいて、彼らの活動の方が「欧米新仏教」のバックボーンになっています。



彼らが説いた「ゾクチェン」や「マハー・ムドラー」は、高度に発達した仏教思想で、欧米では仏教の研究者にすら知られていなかった、未知の思想でした。

「マハー・ムドラー」をアメリカに紹介したチョギャム・トゥルンパは、生け花、茶道、医術、武道などにも興味を示し、無宗教・超宗教なアプローチを行いました。

「ゾクチェン」をアメリカに紹介したタルタン・トゥルクは、チベット仏教の伝統に即した活動をするだけではなく、現代的で総合的なアプローチで「ヒューマン・ディヴェロップメント・トレーニング・プログラム」も行い、ニューエイジ系の学者が参加しました。

彼らは、伝統的な枠組みで、伝統的な仏教用語で伝えるのではなく、仏教を対象化して、抽象的に捉え直して、西洋人に向けて、新しい表現で新しい言葉で説きました。

ナムカイ・ノルブは、イタリアの高名な仏教学者のトゥッチに招かれてナポリ大学で学者としての研究を行う一方、ゾクチェンの瞑想指導を行い、その組織は世界に広がっています。
彼の書籍は日本でも多数翻訳されていますが、学者でもあることから、ゾクチェンと仏教の他の思想との違いや、歴史についても、分かりやすく説明してくれます。

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<心理療法への影響>

仏教やその瞑想法は、現在の欧米諸国では、一種の心理療法として受け止められているという側面があります。
実際、釈迦の思想は、苦しみの原因を究明して取り除く方法を示すという、医学的発想に近いものでしょう。

仏教が影響を与えた現代心理療法には、「マインドフルネス認知療法」、「マインドフルネス心理療法」、「マインドフルネス・ストレス低減法」、カウンセリングの「ロジャーズ派(クライアント中心療法)」などがあります。

間違った認識を改めることで、鬱などの治療を行うのが「認知療法」ですが、これに瞑想的な技法を利用するのが、「マインドフルネス認知療法」です。
無意識に行っている認識の間違いを自覚して修正する、という点は仏教と共通します。
ただ、「マインドフルネス認知療法」は、常識的な判断に沿って認識を改めると点で、仏教とは異なります。

これに対して、鬱などが直るのは、間違った認識を改めるからではなくて、認識や感情を、客観的に自覚して、それを受け入れ、それと距離を置くからだと考えるのが、「マインドフルネス心理療法」です。
ヴィパッサナー(マインドフルネス)瞑想は、自覚のための方法として利用できます。
また、認識や感情と自分を同一視せず、距離を置くという意識のあり方は、仏教の無我観と共通するところがあります。
ただ、価値判断をしない点は仏教と異なります。

「マインドフルネス・ストレス軽減法」は、禅やヴィパッサナー瞑想、ハタ・ヨガなどの影響を受けたジョン・カバットジンによって作られました。
これは、心理療法ではなくて行動医学の一つで、その名の通り、マインドフルネス瞑想を用いてストレスを減らします。
日常のすべてを自覚することによって自我のあり方そのものを変えることで、結果的にストレス症状が癒されます。
その技法はほとんどマハーシ式、ゴエンカ式のヴィパッサナー(サティ)瞑想そのままです。
目的意識を持たずにただ坐れと言う道元の「只管打坐」からの影響もあるようです。

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「治療」よりも「自己実現」を目指す「人間性心理療法」に属する「ロジャーズ派(クライアント中心療法)」のセラピストの多くも、それぞれに仏教を取り入れようとしています。
ロジャーズ派は、原則としてすべての判断や感情に対して肯定的で、それを表現し、発展させるので、仏教の中でも、あるがまま瞑想に近いでしょう。
親仏教派では、クライアントもカウンセラーも、自我の外に出て空虚な状態になることを重視します。
これは仏教の無我観に近づくもので、ここに至っては、ロジャーズ派は「人間性心理療法」を越えて「トランスパーソナル心理療法」に近づいていきます。

ロジャーズ派のセラピストでニューエイジ系の論客の一人でもあったジョン・ウェルウッドについては、「トランス・パーソナル心理学」でも紹介しました。
彼は、「空」を心理学的に心的なプロセスにおける、多数の層として捉え直しました。
通常の、言葉やイメージなどの「形」を対象化した意識に対して、その「形」の「背景」となる心のプロセス、意味を発生させる場を掘り下げていきました。



<インド新仏教>

「インド新仏教(インド仏教復興運動)」は、原始仏教回帰(ファンダメンタリズム)という点で、「欧米新仏教」と共通する側面を持っているので、付記します。

一般に仏教は、非言語的認識を重視するので、当サイトではこの点で神秘主義として扱っています。
ですが、「インド新仏教」はこの傾向をほとんど持っておらず、「欧米新仏教」のバックボーンでもありません。

 日本ではあまり知られていませんが、インドではここ数十年の間に仏教徒が急増しています。
これほど短期間に急激に多数の仏教改宗者が出たことは、インドの歴史上でも始めてではないでしょうか。

 「インド新仏教」は、アウトカーストの指導者、ビームラーオ・アンベードカル(1891-1956)に始まります。
彼は政治家としては、カースト制度の廃止の消極的だったガンディーを批判し、1949年には、法務大臣として、不可触民制度の廃止を謳うインド新憲法の制定に寄与しました。
また、彼は、ヒンドゥー教が差別の根源であると考え、仏教の傾倒しました。
1954年にはインド仏教徒協会を設立、1956年には、自身が仏教徒に改宗し、50万ほどのアウトカーストの民衆が彼に続いて改宗しました。


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その後、日本人の佐々井秀嶺(1935-)が引き継いで発展させ、インド仏教のトップとして信者(一説では1億人を超えるという)を束ねています。
カースト差別からの解放という、インドにおける仏教本来の役割が、20世紀になって復活したことで、大きな社会運動になっています。

アンベードカルの死の翌年、その著「ブッダとそのダンマ」が刊行されました。
彼のインド新仏教の思想は、この著に表現されています。
それは、近代主義的な立場から徹底的に合理的に解釈された仏教で、神秘主義的側面は皆無です。

死後の輪廻も、魂の存在も認めません。
人が死ぬと肉体の四大に分解されますが、四大がまた結合するして肉体になることが再生です。
霊魂は再生せず、再生した新しい肉体は別人です。

また、涅槃とは、身心の止滅ではなく、八正道による煩悩のない正しい生活です。
現世における人間の幸せを目指しています。
カルマは一つの人生の中での法則なのです。

つまり、釈迦の教説は道徳であり、瞑想より社会的な実践を重視します。

ですが、佐々井秀嶺は、真言宗で得度した日本の大乗仏教の出身であり、タイで上座部の修行もしているので、アンベードカルに比較すると、いくぶん折衷的になっているのではないでしょうか。
佐々井は、「新仏教」という名前を否定する一方、「極大乗」という言葉も使っています。
佐々井にとっては、アウトカーストの民衆救済こそが重要であり、教義にこだわることは本末転倒なのでしょう。

インドでは仏教は途絶えていたので、伝統的な寺院組織はありませんでした。
インド新仏教は、スリランカの上座部や日本の仏教との交流がありましたが、思想的に大きな隔たりがあり、事実上まったく新しい道を歩みつつあります。

実際、内外の上座部や大乗仏教から、数々の批判がなされています。
ですが、「インド新仏教」の方が釈迦の本来の思想に近い部分もあります。

「インド新仏教」は、原始仏教回帰運動(ファンダメンタリズム)です。
これは世界的な仏教の傾向の一つです。
例えば、ネパールのシャカ族の仏教は、伝統的にハイブリッドですが、ファンダメンタリズム的な回帰運動もあるようです。




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