日本の弥勒信仰(弥勒菩薩と弥勒神)

このページでは、日本における弥勒菩薩、ミトラ神(弥勒神)の信仰を、通史的にまとめます。

仏教の弥勒菩薩(マイトレーヤ)の信仰は、イランのミトラ神の信仰の影響で生まれました。
ミトラ神は、マニ教、ミトラス教などのイラン系諸宗教の主神であり、ゾロアスター教(マズダ教)にも登場します。

シルクロード都市(西域)でも、中国、朝鮮、日本でも、仏教化した弥勒菩薩信仰と、仏教化していないミトラ神信仰が併存し、互いに習合しながら、各地の宗教とも習合、土着化し、時代ごとに変容してきました。

当ブログでは、ゴードン学派などの世界的な潮流を受けた東條真人氏の見解を参照して、ミトラ神、及びその影響下で生じた神を主神とする宗教、信仰を総称して、広義に「ミトラ教」と表現しています。
そして、その中国での展開も、同様に「弥勒教」と表現します。
「ミトラ教」、「弥勒教」は分析概念として抽象して初めて見える巨大な運動体です。

日本の弥勒信仰には神秘主義的傾向は少ないですが、東西ユーラシアを席巻したミトラ神の東端におけるその姿は、重層的な歴史を感じさせるものです。



<ミトラ神と弥勒菩薩の基礎知識>

まず、ミトラ神と弥勒菩薩の基礎知識をまとめます。

ミトラ(ミスラ)神は、インド・イラン神話、古インド・イラン文化の2大主神(ミトラ/ヴァルナ、アパム・ナパート)の一つです。
その後の歴史の中では、3柱神(ミトラ/マズダ/アナーヒター)の1神にもなりました。

イラン系のゾロアスター教、ズルワン主義、ミトラス教、マニ教、ミール派イスラム教、孔雀派、天使教などで主神、もしくは、重要な神とされてきました。

広義でのミトラ教、ミトラ神信仰は、ユーラシア最大の宗教運動であり、諸帝国を超えて広がった超世界宗教であるという捉え方も可能です。
ですが、各地、各時代の宗教と習合し、神格はその地の神の呼び名が使用されたので、全体として捉えにくい宗教運動です。

また、その終末の救世主や太陽神などとしての姿や、3柱神という論理は、他宗教にも大きな影響を与えました。

ユダヤ教ではメタトロンとなり、キリスト教ではヨハネ黙示録の白馬で現れるキリストとなり、イスラム教ではアル・マフディーや「時の主」となり、ヒンドゥー教ではシャンバラ王カルキとなり、仏教では弥勒菩薩やシャンバラ王ラウドラチャクリンとなり、道教では金闕聖後帝君となりました。

ミトラ神の本来的な性質は、光、契約、友愛の神です。

他にも多数の側面、顕現(化身)を持ちます。
根源神である両性具有のズルワン、十二星座の支配者、太陽神、聖牛の供犠者、冥界の審判者、児童神、現在の世の教師、終末の救世主などです。


弥勒菩薩(マイトレーヤ)は、ミトラ神の未来の救世主という属性を大乗仏教が取り入れて生まれた菩薩でしょう。
紀元前後、パルティア、バクトリアのミトラ信仰の影響で、イラン東部からインド北部で生まれました。

弥勒菩薩が修行している兜率天に往生したいという一種の浄土思想である「上生信仰」と、未来に弥勒仏が地上に現れて人々を救うという「下生信仰」があります。

イラン系の宇宙論では、文化は周期的に堕落して預言者が現れますが、仏教はこれを「末法思想」という形で取り入れて、弥勒菩薩の「下生信仰」と結びつきました。
「末法思想」は「終末論」とは似て非なる思想です。

弥勒菩薩は釈迦の時代の次の時代の教主であり、「未来仏」と呼ばれます。
部派仏教では5億7千6百万年後、大乗仏教では56億7千万年後に現れます。


<中国での変容>

中国には、主にイラン系ソグド人を通して、仏教の弥勒信仰とともに、マニ教(明教)、ゾロアスター教(景教)、その他の多様なミトラ神の信仰がもたらされたと思われます。

中国側では、これらの諸宗教がはっきりと区別されていませんでした。
ミトラ神には様々な呼び名がつけられましたが、「弥勒」もその一つです。
「明教(マニ教)」では、ミトラ神を「天真弥勒」などと表現しました。

中国では、ミトラ教系の終末論思想と、弥勒菩薩の下生信仰が結びつき、戦闘的で革命的な弥勒信仰が民衆の間に広まったことが一つの特徴です。

「白蓮教」は、弥勒菩薩の下生信仰と終末論的な弥勒神信仰が習合して生まれた民間宗教結社の総称です。
「白蓮教」では、ミトラ神を、「白仏明王」、「弥勒明王」などと表現しました。
これは軍神的側面が強調された表現です。

また、ミトラ神の根源神ズルワンとしての側面は「古仏弥勒」、十二星座の主宰者としての姿は「妙見菩薩」、現在の世で化身となって教えを説く姿は「無為祖師」、その童子形は「弥勒童神(聖弥勒観音)」、終末の救世主としての姿は「弥勒仏」などと呼ばれました。

「妙見菩薩」は、中国の北辰・北斗信仰とミトラ神が習合した神を、仏教が天部として取り入れた尊格で、日本にも招来されました。
「妙見」という名は、「万の目を持ち、すべてを見渡す者」というミトラの尊称に由来します。

また、密教占星術も、カルデア=イラン系占星術の大きな影響を受けていて、日曜を示す「蜜」は太陽神としてのミトラのことです。

中国では、弥勒信仰は、禅宗の僧だった布袋の信仰とも習合しました。
ちなみに、十牛図の最後の図は、布袋=弥勒に会うことがゴールになっています。
布袋としての弥勒には、福神としての性質が表現されています。


<飛鳥時代の弥勒信仰>

飛鳥朝の時に、中国北朝・高句麗・新羅系統の弥勒信仰と、中国南朝・百済系統の弥勒信仰が伝わりました。
前者は秦氏や聖徳太子に、後者は蘇我氏に伝わりました。

秦氏の氏寺の広隆寺には、聖徳太子から賜った(622)とされる、有名な半跏思惟の弥勒像があります。

聖徳太子は、そもそもその実在すら疑われるような伝説的人物ですが、聖徳太子を日本仏教の教主(法王)、救世観音とする「太子信仰」が生まれました。
「太子」というのは、成道以前の釈迦を指す言葉で、もともと半跏思惟像はこの釈迦の像でした。
日本では、半跏思惟像と言えば弥勒像なので、「太子」には弥勒菩薩にも重ねられたのでしょう。


飛鳥朝には、仏教だけではなく、ゾロアスター教などのイランの宗教の影響があったというのは、松本清張だけでなく、イラン学の伊藤義教や井本英一も指摘しています。

他にも、栗本慎一郎(経済人類学者)は蘇我氏がサカスタンを故郷とするイラン系ミトラ教徒だったという説を、久慈力(作家)は蘇我氏がカッシートのバビロニア系ミトラ教徒だったという説を提唱したように、飛鳥朝にミトラ教が影響を与えたと考える人も現れています。

東大寺の教学、二月堂の創建、お水取りの創作に貢献した僧の実忠は、伊藤義教の推測によれば、イラン系の人間です。
二月堂の修二会のお水取りの儀礼では、二月堂の下にある井戸から水を汲みます。
この儀礼の背景には、イランの河神でありミトラ神の母でもあるアナーヒター信仰があると、氏は推測しています。

推古朝の時(612)、中国南部の呉から百済人の楽師・味摩之が、伎楽を日本に伝えました。
その伎楽には、ミトラ神の仮面劇が含まれていました。
伎楽は、東大寺の大仏開眼供養でも上演されました。


<秦氏と摩多羅神>

秦氏の広隆寺に弥勒菩薩半跏像があるように、秦氏は弥勒信仰を持っていたと思われます。

秦氏は、一般に、新羅からの渡来人とされますが、もともとは中央アジアの弓月国が故郷のようです。
ですから、秦氏は、古くからミトラ神への信仰を持っていて、そこに弥勒菩薩信仰が習合した可能性もあります。

少し時代を下りますが、広隆寺には、「摩多羅神」が牛に乗って寺院内を一巡する牛祭りがあります。

「摩多羅(マタラ)神」は謎の神で、大黒天(マハーカーラ)だとか、母天(マートリ)であるという説もありますが、蓮池利隆(中央アジア仏教史)は、ミトラ神説を唱えています。
名前が似ていること、牛と結びついていること、死後審判の神という点で、ミトラ神の性質と一致します。

「摩多羅神」は、天台宗の円仁が伝えた神で、それが広隆寺に伝わったとされます。
天台宗では、常行三昧堂(念仏堂)の後戸の神、つまり、阿弥陀仏の権現・守護神です。
阿弥陀仏(=無量寿仏)は、もともと無限時間神ズルワンであると考えられるため、偶然かもしれませんが、ズルワンの権化であるミトラ神の性質と一致します。

また、天台宗では、「摩多羅神」は玄旨帰命壇潅頂の主神になりましたが、これが北極星とされる点、少年を伴う点で、ミトラ神の性質と一致します。

上記したように、妙見菩薩(=尊星王)は、中国の北辰・北斗信仰とミトラ神とが習合した仏教の天部ですが、その秘法の尊星王法は、天台宗でも最高の大法の一つとされます。


ただ、ミトラ神の性質は多く、また、多くの神には歴史の中で重層的な影響が積み重なっていますので、ある神がミトラ神であるかないか、という考え方自体が無意味かもしれません。


<空海と弥勒信仰>

その後、奈良時代には、元興寺、興福寺など法相宗が弥勒の「上生信仰」を広めました。
そして、平安時代には、真言宗、天台宗の影響もあって、各地に弥勒寺が創建されました。

空海も弥勒信仰を持っていました。
空海が中国に渡る以前に書いた最初の書である「三教指帰」では、自らの姿を仮託した仮名乞児の乞食僧の姿を、弥勒の兜率天にいく旅姿だとしています。

また、真実かどうかは確実とは言えませんが、臨終の際には、食を断って、弥勒菩薩の尊像の前で坐禅三昧に入ったそうです。
そして、「吾開閇眼の後には、必ず兜率他天に往生して、弥勒慈尊の御前に侍す可し。五十六億余の後には必ず慈尊御共に下生し、祗候して吾先跡を問ふ可し」と言ったとされます。
ここには、上生信仰、下生信仰の両方が語られています。

空海没後には、大師の人定、復活信仰が生まれましたが、これも弥勒信仰と結びついています。

平安末期の12C後半には、高野山で「下生信仰」が高揚し、真言宗中興の祖の覚鑁も下生を目指して入定しました。


<鹿島の弥勒信仰>

戦国時代から安土桃山時代にかけて、関東を中心に「弥勒」の私年号が使われたり、鹿島を中心に「弥勒踊り」、「弥勒の船」などを特徴とする弥勒信仰が広がりました。

これらは、渡来した中国人を介して中国で広まった明朝時代の「白蓮教」が影響を与えた可能性がありますが、はっきりした証拠はありません。


戦国時代に、関東・中部の各地で、地方の土豪などによる私年号として、「弥勒」、「命禄」が作られました。
それらの年号は、1506-1508年の間と、1540-1542年の間に最も多く作られました。

弥勒の私年号を使うということは、おそらく「弥勒の世」が始まったという信仰の表現でしょう。


鹿島には、鹿島は東のはての地であり、さらに東方の海上他界から豊穣神が「宝船」に乗ってやってくるという信仰を持っていました。
また、関東・東海地方で、厄除けの「鹿島踊り」が行われていました。

そこに弥勒信仰が習合し、弥勒が「弥勒の船」に米を積んでやってくるという信仰、「弥勒踊り」へと変化しました。

鹿島の弥勒信仰では、「弥勒の世」は、凶作の年に弥勒が救済に現れるという考え、もしくは、豊作の年を意味します。
そこには末法思想や終末論、革命といった側面はありません。

鹿島の弥勒信仰は、鹿島に多い真言宗の弥勒菩薩信仰の影響で生まれたのかもしれません。

ですが、鹿島の「弥勒」の性質は福神であって、これは布袋信仰と習合した弥勒信仰に似ています。


また、沖縄にも鹿島と類似した信仰が伝わっていて、歌に同じ歌詞があるなど、両者に関係があることは間違いありません。
ですが、その影響関係に関してはっきりしたことは分かっていません。

沖縄地方では、弥勒は「みるく」、あるいは「みりく」と呼ばれ(朝鮮での発音の影響かもしれません)、布袋に似た面をつけて豊年祭で行列が行われます。


鹿島の「弥勒の船」は、後に、「七福神の宝船」の誕生に影響を与えたと思われます。
七福神の布袋は、弥勒の化身です。
直接の影響関係はなかったとしても、七福神は、中国の弥勒教の八明王、もとを辿ればミトラ教の7大天使の日本版のようになりました。


<富士講の弥勒信仰>

江戸時代には、食行身禄(じきぎょう・みろく、本姓は小林、本名は不詳、江戸では伊藤伊兵衛と名乗る、1671-1733)という富士山の行者をきっかけにして、修験道とは関係のない「富士講」と呼ばれる富士山信仰が生まれました。

この食行系の富士信仰は、江戸庶民の間で大きな信仰となり、江戸には多数の「富士塚」と呼ばれる小さな富士山が作られ、聖地になりました。

一般に、この修験道とは無関係な「富士講」は、角行藤仏(1541-1646)を祖とし、食行身禄が第6世、あるいは、第5世と言われています。
ですが、実際には、この間、細々とした行者間の継承関係があっただけで、宗教的組織を持った「富士講」が生まれたのは、食行の死後です。

角行は 後世の多くの富士講系の団体が祖として伝説化していますが、本人の思想は、富士山西麓の人穴に住んで修行したこと、護符の代金として金銭を得ていたことくらいしか分かっていません。

彼を師として継承した弟子筋は、いずれも仕事を持った江戸の庶民であり、専門的な宗教者ではありませんでした。
彼らは、修験道系に比して、禁欲より倫理的誓いを重視しました。

食行の師に当たる月行(1643-1717)が、元禄元年(1688、辰年)に、富士山の神である仙元大菩薩様から、自らが統治する「みろくの御世」になったというお告げを受け、大事な意味を持つ「参」の字を教えられました。

食行は、月行の教えを継承しましたが、弟子はいませんでした。
食行は、「みろくの御世」になっているもかかわらず、人々の行いが正しくないことに怒りを感じ、富士山八合目で、持参した厨子に閉じこもって入定(餓死ないしは凍死)を行いました。
その目的は、神に使える役人になって、悪い奴らを罰するためでした。

彼が月行から継承した神話は、下記のようなものです。

1万8千年前、富士山麓の4つの洞窟から4人の神が生まれました。
「ちち」と「はは」の二神が「しみ(須弥)のはしら」を作り、4人の神が人穴の中でそれを立てました。
そして、人間と米を作りました。
「ちち」と「はは」が6千年の間、世界を統治し、その後、「天照大神宮」が1万2千年間統治しました。
この間、釈迦如来が富士山頂に「一字の大事(参)」を伏せました。
新しく「仙元大菩薩様」の「みろくの御世」が始まり、万刧万万年続きます。

食行は、神道や仏教を否定しますし、「天照大神宮」も否定的な存在とされるようです。

食行が亡くなった後、知人らによって「富士講」が組織され、徐々に江戸の庶民の間に流行していきました。
ですが、その教えの中心は、士農工商に応じた道徳を説くものであり、弥勒信仰はあまり重視されませんでした。

月行や食行の主張は、「みろくの御世」はすでに始まっているということです。
そして、中国の白蓮教にあったような世直し志向は、食行には見られましたが、「富士講」にはありませんでした。

「富士講」の非主流派の伊藤参行は、月行、食行と少し異なる教義を作ったようです。

原初神は、「元のははちち様」などと表現されます。
そして、「元のははちち」は三柱神、「仙元大菩薩(木花咲耶姫)」、「長日月光仏」、「弥勒仏生仏(妙見弥勒)」を生みます。
これは、天祖参神(大祖参神)とも表現され、記紀の造化三神でもあるとされました。
そして、「元のははちち」、「天照大神宮」、「仙元大菩薩」が6千年ずつ世界を統治します。
食行は、「仙元大菩薩」と神人合一して、自身が「弥勒仏生仏」の化身であると悟りました。

この原初神と3柱神は、ミトラ教の、両性具有のズルワン(中国では無生父母)と、母神アナーヒター、父神ズルワン、子神ミトラの3神と似ています。
また、統治の3期間は、ゾロスター教が語る、アフラ・マズダの世界創造の6千年、アーリマンとの戦いの6千年、最後の審判後の神の国の3期間と似ています。
この類似は、間に白蓮教の存在を仮定しないと、理解しにくいのではないでしょうか。


「富士講」はその後に分派していき、明治期には、実行教、扶桑教、丸山教などが教派神道となって、教義も神道化しました。


<大本教の弥勒信仰>

大本の開祖の出口ナオは、明治25年、艮の金神が神懸かり、「三千世界の立替え」によって「艮の金神の世」が来ることを伝えました。
これは後に「みろくの世」と呼ばれるようになりました。

立替えは今からということですので、私年号や富士信仰の月行、食行の考えと同じです。

ですが、富士講系の教派神道化した各宗教が、国家神道に同調したのに対して、大本教は中国の白蓮教のように革命的性質を持っていたため、政府によって弾圧されました。

大本では、「みろくの神(弥勒大神)」を「天の祖神」、「大国常立神」とし、また、「木花咲耶姫」でもある「伊都能姫」であるとしますが、これは富士講系の考えに似ています。

また、「みろくの神」は、大本の聖師である出口王仁三郎に懸かった神でもあります。

王仁三郎の師だった大石凝真素美は、弥勒を「五六七」と表記し、弥勒が56歳7ヶ月の年齢で、日本に下生すると主張していました。

王仁三郎は彼の影響を受けて、弥勒を「五六七」と表記し、また、自身がその年齢になった昭和3年辰年に、「みろく大祭」を行いました。

大本の弥勒神話には、「隠遁神話」という独特の特徴があります。
「みろくの世」は、かつて統治していた「みろくの神」が復帰して、本来の世に戻すことを意味します。
悪い神によって、悪神であると貶められていた善神の統治が復活するのです。


参考文献
・「イラン文化渡来考」伊藤義教
・「ミロク信仰の研究」宮田登
・「角行系富士信仰」大谷正幸
・「ミトラ教 ミトレーアム・ジャパン」東條真人
など
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折口信夫の「死者の書」と神道の宗教化


折口信夫の産霊信仰と鎮魂法」から続くページです。

このページでは、折口信夫が唯一完成させた小説「死者の書」と、戦後に主張した神道の宗教化、産霊神の一神教について取り上げます。

それは、折口が考えた、古代と未来をつなぎ、神道、仏教、キリスト教を総合しつつそれらを越える、普遍的な宗教とは何か、という問題です。

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<死者の書>

「死者の書」は、折口が「釈迢空」名義で、完成させた唯一の小説です。
この小説は、1939(昭和14)年に連載され、その4年後に、構成を変えて第二稿として出版されました。

また、戦後の1948(昭和23)年頃に、続篇の草稿が執筆されました。
ただ、折口の草稿には「死者の書」とだけあり、「続篇」とは書かれていません。
続篇の草稿が書かれたのは、ちょうど、折口が、神道宗教化をテーマにした講演を行っていた頃です。

「死者の書」には、折口自身の宗教観、そして、彼の日本の宗教に関する考え方が表れています。
そして、その内容は、折口が神道宗教化として、神道の新しい方向性として考えていたものとつながっているはずです。


「死者の書」は、古代的な神祇信仰が終わり、仏教(阿弥陀浄土信仰)の時代へと移行する8世紀半ばが舞台です。
この小説では、この頃の日本人の宗教心の変容を描いています。

主人公は、藤原南家の豊成の娘の郎女(中将姫)です。
彼女は、氏神の巫女(神の妻)となるべく育てられましたが、それにあきたらず、阿弥陀浄土の信仰にも傾倒するようになりました。

そして、太陽が沈む西方の二上山越えに阿弥陀仏を幻視するようになり、二上山とその麓の当麻寺まで出かけます。
郎女は、巫女でもあったので、それは恋(魂乞い)の要素を持つものでもありました。

ですがその裏側には、50年ほど前に謀反を疑われて自害に追い込まれ、二上山の山頂近くに正しい葬儀なく埋葬された滋賀津彦(大津皇子)が、復活して、郎女を魂乞う行為がありました。
滋賀津彦は、生前の最期に見た鎌足の娘の耳面刀自に思いを寄せて、この世に執心を残し、彼女に似た同氏族の子孫である郎女に魂乞いし、そのもとに訪れようとしていました。

滋賀津彦は、天若日子や隼別に重ねられて、反逆者として描かれます。
ということは、怨霊でもあり、郎女は巫女として、彼を鎮魂することが望まれます。

郎女は、蓮の糸で布を織り、そこに幻視した阿弥陀仏の姿を描きました。
彼女が描いたのは、阿弥陀仏だけでしたが、それを見たお付きの刀自達には、数千の地涌の菩薩の姿が現れました(浄土の光景を描いた当麻曼荼羅となりました)。
阿弥陀仏と菩薩達が来迎して、滋賀津彦の魂は救済されたのでしょうか。

郎女が、没する太陽を眺め、阿弥陀仏を幻視したのは、「日想観」の一種です。
「日想観」は、「観無量寿経」で説かれる観相法の第一のもので、日没に浄土を観想する方法です。
折口が若い頃に親しんだ四天王寺や天王寺の夕陽丘には、「日想観」を行って往生をしようとする習慣がありました。

一方、「死者の書」では、二上山麓の当麻の女達が、彼岸に太陽を追って歩く「野遊び」という古代的な風習の様子も書かれています。

つまり、「死者の書」では、古代的な風習、魂請い、鎮魂が、仏教的な阿弥陀浄土の信仰の観想に変換される様子が描かれています。

実は、折口が古代学として日本の古代に見ようとしていたものは、日本的なものではなく、普遍的なものなのでした。
それだからでしょうか、「死者の書」は、世界の宗教とつなげられています。

「死者の書」というタイトルは、エジプトの「死者の書」から来たものです。
出版された折口の「死者の書」には、山越し阿弥陀像、当麻曼荼羅に加えて、エジプト神話のオシリス復活の絵が添えられていました。

折口の「死者の書」には、郎女が蓮華の中から阿弥陀仏の姿が現れるヴィジョンを見る場面がありますが、ここにはオシリスの復活と共通する要素があります。
つまり、郎女による滋賀津彦の救済は、イシスによるオシリスの復活と重ねられています。

このように、「死者の書」には、日本の古代的な信仰が持つ普遍的な宗教心の変容が描かれています。

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*山越し阿弥陀像、当麻曼荼羅


<死者の書・続篇>

「死者の書・続編」は、平安時代末期の高野山が舞台となり、郎女と同じ藤原氏の左大臣頼長を主人公とする物語です。

高野山は二上山と同様に死者の山です。
それに、頼長は、四天王寺の日想院から高野山に赴いたり、高野山から二上山麓の当麻寺に行ったりするなど、「死者の書」の舞台とも結び付けられています。

続篇は、頼長が空海を復活させる(招魂する)物語として構想されたのかもしれませんが、未完のため、その部分は描かれていません。

藤原頼長は、高野山の僧から入定した空海は今でも髪が伸びていて、二十年に一度、その頭髪を切る儀式が行われているという話を聞きます。
また、「日京卜」という珍しい占いの法があるという話も。

高野の谷の一つに、空海が唐より連れ帰った鬼神の子孫とされ、「苅堂の聖」と呼ばれる下級の法師達が住んでいます。
彼らが、空海の頭髪を切る儀式の前日に、落日に向けて十文字の形に組んだ枝を投げると、そこに空海の姿が現れるので、これよって髪の長さを占うのが「日京卜」です。

頼長は、これが占いではなく、「招魂の法」であると理解します。
これは、ペルシャ人によって西域から長安に伝わった景教(ネストリウス派キリスト教)の招魂術であり、これによってキリストの姿を現して礼拝するのです。

つまり、「日京卜」の「日京」は「景教」の「景」なのです。
そして、「日」は、景教が日の神の信仰と習合していることを予期させます。


「死者の書」では、普遍性を持つ古代的なものの、新しい形への変容が描かれました。
そのテーマは続篇でも継承されているはずです。

真言密教の大日如来は太陽の仏ですし、ネストリウス派キリスト教はペルシャの太陽神信仰と習合している可能性もありますから、太陽信仰というテーマも同じです。

入定した空海と、ネストリウス派の招魂法が登場するので、死と復活というテーマも同じです。

では、折口は、なぜ、続篇を描こうとしたのでしょうか?

「死者の書」の主人公が郎女という女性であるのに対して、続篇の頼長は、学識の高い男色家です。
また、「死者の書」が参照したエジプトの宗教は、イシスという女神を重視する宗教ですが、続篇のネストリウス派キリスト教は、聖母マリアという人間の女性の神性を否定する派です。

つまり、女性原理のテーマが、男性原理、あるいは、無性原理というテーマに変わっています。

また、「死者の書」が扱う阿弥陀信仰は一神教的傾向が高い宗教ですが、続篇が扱うキリスト教は一神教であり、ネストリウス派は正統派以上に一神教的な異端です。

つまり、一神教というテーマが明確化されています。

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*自筆の続篇草稿


<藤無染と新仏教>

「死者の書」の背景を推測してみましょう。

折口が、1905(明治38)年に国学院大学に入学して上京した時、藤無染らのもとに同居しました。
藤無染は年上の僧侶で、恋人だったのではないかと推測されている人物です。

藤無染は、浄土真宗の僧侶でしたが、「新仏教」の運動の中にいました。
折口は、藤無染の思想や、彼の背景となった当時の「新仏教」運動、仏教改革運動に影響を受けたのではないかと推測されます。

「新仏教」は、仏教とキリスト教が共通の思想を持っているとして、総合的な新しい仏教を生み出そうとする傾向を持っていました。
その背景には、欧米で同様の主張をしていた思想家達の影響がありました。
鈴木大拙のアメリカの師であるポール・ケーラスもその一人であり、ケーラスやスウェデンボルグを翻訳した鈴木も、「新仏教」にとっては大きな存在でした。

また、この運動の背景の一つには、ブラバツキー夫人の神智学もありました。
藤無染は、真宗が海外の思想を学ぶために設立した西本願寺の「文学寮」で学びましたが、「文学寮」では神智学も研究されていました。

藤無染は、仏陀とキリストの伝記の共通する部分を抜き出して並べた「二聖の福音」(明治38)という書を出版しています。
彼は、この書で、ケ―ラスやアーサー・リリーの書を参考文献としてあげています。
リリーは、神智学や、そのイギリス支部長でキリスト教神秘主義者だったアンナ・キングスフォードの影響を受けた人物です。

ですが、「新仏教」を生む母体になった真宗は、やがてその運動を弾圧する側に回りました。
折口には、藤無染が、真宗などの旧仏教に対する反逆者と映っていたでしょう。
また、藤無染は、早くに亡くなりました。

ですから、藤無染は「死者の書」の滋賀津彦に重なる人物です。
つまり、「死者の書」の折口個人の背景には、折口が藤無染を復活・供養するというテーマがあるのです。

そして、新しい宗教を体現した郎女と、新しい神道を目指した折口、新しい仏教を創造した空海と、新しい仏教を目指した藤無染は、重なります。


また、折口は、メレシコーフスキーの「背教者じゆりあの」という書を絶賛していました。
この書は、ペルシャ由来の太陽神ミトラスを信仰した古代ローマの反キリスト皇帝のユリアヌスをテーマにしています。
そして、ギリシャ・ローマなどの古代の神々の復活や異教の神々を通して、キリスト教を蘇えらせることを主張しています。

つまり、太陽神を一つの焦点として、古代的多神教と一神教の統合がテーマになっています。
これは、「死者の書」のテーマとも重なります。


また、折口が読んだであろう文章に、佐伯好郎が「世界聖典外纂」に掲載した「景教」があります。
これは、正統派キリスト教とネストリウス派を対比し、その背景を、前者は地母神崇拝のエジプト神学を背景にしたアレキサンドリア派、後者はギリシャ哲学を継承したシリア派としています。

偶然かもしれませんが、これは「死者の書」とその続篇との対比に重なります。


<鈴木大拙との対決>

1948年、折口は、新仏教の導師でもあった鈴木大拙と、雑誌が企画した座談会「神道と仏教」で初めて会いました。
そして、ここで、極めて興味深い対話を行って、激烈に火花を散らしました。

ちなみに、鈴木は「日本的霊性」で、神道は霊性には触れていないとして切り捨てています。

折口は、この座談会で鈴木に、自分は真宗の家で育ったけれど、真宗には弱点があるように感じるが、真宗の弱点はどんなところにあると思うか、と問いました。

鈴木は、これに答えませんでした。

一方、鈴木は、神道には神の愛がない、神道が穢れを払うのは暴力的だが、仏教には穢れを受け入れる慈悲がある、と発言しました。

それに対して、折口は、出雲のスサノヲとオオクニヌシにおいては、暴力と苦しみが愛と喜びと一つになっていて、ここに神道の愛が存在すると応えました。

ちなみに、折口は、太陽信仰にこだわりと持っていながらも、アマテラスにはほとんど関心を示さず、スサノヲにこだわっていました。
折口の最後の詩集「近代悲傷集」も、スサノヲをモチーフに歌われています。
また、反逆者という点では原点となる存在であり、「死者の書」の「滋賀津彦」とも重なります。
(また、キリストを意識しつつ、贖罪神と愛の神としてのスサノヲを重視する点では、出口王仁三郎と共通していることが興味深いです。)

また、鈴木は、神道には教義の体系がなくていまだ宗教ではないと批判し、これまでの神道を破壊して新しい神道を作るべきではないかと発言しました。

ですが、実は、これは、折口が、当時、すでに主張していたことと同じでした。


<神道の宗教化、産霊神の一神教>

折口は、太平洋戦争の敗戦を、国家神道となった神道の神の、キリスト教に対する敗北であると捉えました。
明治以降の神社神道には、キリスト教徒が持っていたような情熱がなかったと。

そして、戦後の1947(昭和22)年から1949(昭和24)年にかけての、「神道の友人よ」、「民族教より人類教へ」、「神道宗教化の意義」、「神道の新しい方向」という講演や新聞への執筆で、神道の宗教化を主張しました。

折口は、神道には体系化された教義がなく、特に国家神道は国民道徳と結び付けられる一方、宗教的な罪障観がないことが問題であると考えました。
そのため、例えば、特攻隊を美化するようなことになってしまったと考えたのでしょう。

また、折口は、神道は多神教と考えられているけれど、「事実において日本の神を考えます時には、みな一神教的な考え方になるのです」(神道の新しい方向)と書いています。

この一神教化を考える時、折口は、戦争末期になって、神道家や官僚の中で、天照大神と天御中主神のどちらが上かという論争が起こったことを取り上げます。
そして、それが現世的な争いに過ぎなかったので、神々に背かれたのだと批判しました。

そして、折口は、本当に必要な神の実体というのは、「天照大神、或るは天御中主神、それらの神々の間に漂蕩し、棚引いている 一種の宗教的な或る性質」だと表現しました。

折口は、「霊性」という言葉を使っていませんが、この神の間に漂う流体的な神的実体というのは、「霊性」としか表現できないものでしょう。

折口は、それを「産霊神」であり、「宗教から自由なもの」であると言います。

「日本の信仰の中には…すべてに宗教から自由なものと言つていゝものゝあることです。それは、高皇産霊神、神皇産霊神と言つてゐる――、あの産霊神の信仰です」(同上)

「神道教は要するに、この高皇産霊神、神皇産霊神を中心とした宗教神の筋目の上に、更に考へを進めて行かなければなりません。」(同上)

宗教化を掲げながら宗教から自由というのも不思議ですが、折口の目指す新しい神道は、「産霊神」を中心にした、超宗教であり、超一神教なのでしょう。

キリスト教も参考にしながら、「産霊神」を最高神として自身の神道を描くということであれば、平田篤胤の思想を継承しているとも言えます。

折口が、古事記の根源神である「天御中主神」を重視しなかったのは、「天御中主神」には信仰の内容としての実態がないからです。
それに比べて、高産霊神、神産霊神は職能がはっきり分かると考えました。
「産霊神」は、前のページで書いたように、物質な肉体に霊魂を与え、その物質や肉体を育て、霊魂を育てる神です。

折口が、「産霊神」を「宗教から自由なもの」と考えたのは、おそらく、「産霊神」が人格神ではなく、非人格的な創造力という性格しか持たないからでしょう。

「民族教より人類教へ」という講演タイトルにもあるように、折口が目指した「神道教」は、単に日本の新しい宗教ということではなく、人類にとっての普遍的な新しい宗教なのでしょう。

文化人類学では、ラッファエーレ・ペッタッツォーニやヴィルヘルム・シュミットが、原初的な文化に、すでに至高神を持つ一神教的な信仰が存在することを確認していました。
この「原始一神教」と呼ばれる信仰の至高神は、例えば、北米では「グレート・スピリット」と呼ばれます。
折口は、その神を「既存神」あるいは、「至上神」と表現します。

この神は、超越神である一方、マナ的な力と一体で、万物に内在する神という側面も持っていて、神々とも共存可能です。

折口の目指した「産霊神」を中心にした「神道教」は、そのような原始一神教を継承しながら、それを宗教化するものなのでしょう。

折口は、神道学では、その教義化の準備はほとんどできていると考えていました。
そして、後は、情熱を持った宗教家の出現こそが必要だと、それを期待しました。


<欠けていた観点>

最後に、当ブログとして、折口になかった観点を書きます。

折口は、古代の鎮魂法を研究しましたが、神道宗教化において、その行法化については考えませんでした。
例えば、平田篤胤は真言密教の行法を研究して久延彦祭式を創作しましたし、本田親徳や川面凡児は鎮魂法を行法化しましたが、折口にはそのような行法という観点がありませんでした。


また、折口は、ほとんど憑霊的側面から宗教を見ましたが、例えば、平田篤胤の幽界研究を含めて神仙道や、出口王仁三郎にもあったような、脱魂的側面(単なる遊離ではなく、意図的な幽界飛翔)については関心を示しませんでした。

これは折口が、古代日本の特徴として憑霊型の巫女を取り出したからですが、さらに狩猟的な古層には脱魂型の男巫もあったはずです。
日本の歴史の中ではその潮流は、神道以外、俗流神道、民間神道としてあったのではないかと思います。

それに、折口も参照して統合を考えていたはずのユダヤ・キリスト・イスラムの一神教の預言者は脱魂型ですから、どちらかと言えば、こちらに普遍性があります。


*主要参考文献
・折口信夫全集「神道宗教篇」
・折口信夫「死者の書」、「初稿・死者の書」、「死者の書・続篇」
・安藤礼二「神々の闘争 折口信夫論」、「折口信夫」、「光の曼荼羅 日本文学論」
・中沢新一「古代から来た未来人 折口信夫」

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折口信夫の産霊信仰と鎮魂法


折口信夫は、民俗学、国文学、あるいは、神道学、古代学、芸能史学の学者であり、その総合的で独特な学問は、「折口学」とも表現されました。
彼は柳田国男と並んぶ民俗学の創始者ですが、彼にとってそれは新しい国学であり、彼は最後の国学者でもありました。

また、折口は、釈迢空と号した歌人であり、小説家でもありました。

折口の学問に対する姿勢は独特で、コカインを服用して、古代人の思考方法や世界観を体験的に理解しようとし、直観や象徴を重視して学問を行いました。

一般に、折口信夫は、神秘主義者とは言われません。
ですが、彼が論じた、「外来魂」=「たま」は、非日常的な無形のエネルギーであり、「産霊」や「鎮魂」はそれを扱う技術です。
そして、神霊を憑依させた者が語る神の言葉は、非日常的な言葉です。

この非日常的な霊魂と言葉と意味の発生を巡る折口の思想は、霊学者の観点とは異なりますが、本ブログの定義では神秘主義的なものと言えます。

このページでは、折口学全般の紹介ではなく、その霊魂観、言語観、鎮魂法、産霊信仰といったテーマについてまとめます。

そして、続くページでは、小説「死者の書」と神道宗教化について取り上げます。

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<たま>

折口信夫(1887-1953)は、日本における「霊魂」の古語を「たま」であるとしました。

「霊魂はたまであり、今所謂たましひはもと霊魂の作用である。たまは霊体であって、多くの場合露出せず、ものに内在してゐる。そう言る時、霊をつゝんでゐるものをもたまと言ふ」(霊魂・1951・昭和26)

「たま」は霊力を持った霊体で、折口は、この「たま」を「外来魂」として捉えました。
文化人類学で霊力を意味する「マナ」の英語が「external soul(外在魂)」ですが、折口はこれを「外来魂」、あるいは「威霊」と訳して自身の重要な霊魂概念としました。

「たましひは、肉体内に常在して居るものだとは思つて居なかった様である。…たましひの居る場所から、或る期間だけ、仮りに人間の体内に入り来るものとして居たので…」(原始信仰・1931・昭和6)

「たま」は、その根源においては、人格的存在ではなく、無個性な一つの力のような存在です。
そのため、自由に分割、分霊することもできます。

「霊魂そのものには、それ程はつきりと思慮記憶があるものとは、古人は思はず、霊魂を自由な状態において考へたのである」(民族史観における他界観念:1952・昭和27)

文化人類学では、「霊魂」(一定の人格性を持った)が根源存在であると考える原始宗教を「アニミズム(精霊信仰)」と呼びます。
それに対して、人格性のない霊的な力である「マナ」が根源存在であると考える原始宗教を「マナイズム(アニマティズム、ヴァイタリズム)」と呼びます。

折口の霊魂観は、「マナイズム」のようにも思えますが、純粋なそれではなく「アニミズム」寄りのものでした。

折口にとって、「たま」は、抽象的で不可視なものですが、同時に、物体的に捉えることができるものです。

また、霊学の言う四魂に関しては、「さち(幸魂)」を狩猟の能力を与える霊魂と解釈しました。
そして、「奇霊」は医療の威力を持つ霊魂です。

また、「荒魂」を戦争の威力を発する時に分離されるもので、外来魂ではない霊魂であるとしました。
そして、「和魂」は「荒魂」ができる時に相対的に現れる霊魂であるとしました。(原始信仰、霊魂)


折口によれば、「たま」は、後代に、人間から見て善いものが「神」と呼ばれるようになり、邪悪なものが「もの」と呼ばれるようになりました。(霊魂の話:1929・昭和4年)

「たま」は、外来神である「マレビト」として、定期的に共同体に来訪します。
沖縄のアカマタ・クロマタのように、「マレビト」は、もともと、鬼や獣のような異形の姿になって来訪しました。(国文学の発生 第三稿:1929・昭和4年)



「マレビト」は、土地の精霊と約束を切り替えに来るのが一番の目的でした。(春来る鬼:1931・昭和6年)


「マレビト」には、人間に土地を奪われて、人間に対して悪意を持っている野山の精霊たちを、服従を誓わせ、逆に自分たちを祝福しに来させるようにしたものもありました。(日本芸能史序説:1950・昭和25年)


一方、成熟した人間の「完成した霊魂」は、死後、「常世」に至ります。
人間の霊魂は、「他界身」としては異形の姿(獣身)をとることもあります。
アイヌや沖縄など日本の一部にはトーテミズムがあり、その場合は「他界身」は「トーテム動物」となります。
ですが、「常世」の霊魂は、最終的に無個性な男女一種類の霊魂に、あるいは、人格に限定されない霊魂に帰一します。

ところが、人間でも「未完成な霊魂」は、「常世」に至らず、山野に留まります。
彼らは、植物や石などを体(一種の他界身)にすることもあり、「精霊」と呼ばれます。
これら山野にいる雑多な邪霊は、人間をうらやみ、危害を加えることがあります。
これが日本的なアニミズムです。
(民族史観における他界観念:1952・昭和27)


<柳田国男>

折口の民俗学における師は柳田国男です。
ですが、二人の霊魂観は大きく異なると言われています。

柳田にとって根源的な霊魂は、共同体の「祖霊(祖神)」であって、共同体の内部から生まれ、共同体を守り、その自己同一性の根拠となるような存在です。

それに対して、折口にとっての根源的な霊魂は、「祖霊」ではない無個性な力であって、外来する時には異形の姿となって、共同体を活性化する存在です。
折口は、共同体を見守る「祖霊」というのは、近代以降の信仰ではないかと考えました。

「其先祖と言ふ存在は、今一つ先行する形があつた。他界にゐる祖裔関係から解放せられ、完成した霊魂であつたことである」(民族史観における他界観念)

ですが、最初期の柳田の論考である、「石神問答」(1910・明治43)では、外来する、善悪を兼ねた異形の神々を扱っていました。
そして、「「イタカ」及び「サンカ」」(1911-12・明治44-45、雑誌連載)では、漂泊の芸能者を扱っていました。
これは、ほとんど折口のテーマを同じです。

つまり、折口は、柳田がその後に否定した、あるいは、扱わなくなったテーマを継承したのです。
ですから、柳田による執拗な折口批判は、過去の自己批判でもあったのです。

柳田にはさらに古い論考があって、「幽冥談」(1905・明治38、雑誌掲載)では、天狗などの異形の者として「隠れ世」から現れる日本の神々を扱っていました。
そして、平田篤胤一派の幽冥研究を評価しています。
折口も、「先生の学の初めが、平田学に似ている」(先生の学問)と書いています。
折口が興味を持った柳田民俗学の出発点は、後の姿と大きく異なるのです。


<産霊>

折口は、「霊魂(たま)」を扱う神の技術を「産霊(むすび)」、人間の技術を「鎮魂」として捉えました。

「産霊」は、「霊魂をものの中に入れて、それが育つやうな術」です。

「生物の根本になるたまがあるが、それが理想的な形に入れられると、その物体も生命を持ち、物質も大きくなり、霊魂も亦大きく発達する。その霊(タマ)が働くことが出来、その術をむすぶと言ふのだ。…つまり、むすびの神は、其等のむすびの術を行う主たる神だ」(神道宗教化の意義:1946・昭和21)

霊魂を物質や肉体に入れると、霊魂も物質も肉体も発達して増える、つまり、生命力を与えるのが「産霊」です。
そして、それを行う神として神格化されたのが「産霊神」、つまり、「高皇産霊神」と「神皇産霊神」の神です。

この両神は、天照大神が大切なことを行う時は、必ず出現します。
そして、神も万物も、その「産霊」によって作られたものなのです。

「(産霊によって成長した)その一番完全なものが神、それから人間となつた。それの不完全な、物質的な現れの、最も著しく、強力に示したものが、国土或いは嶋だ、と古代人は考えました」(神道の新しい方向:1949・昭和24)


<鎮魂>

折口にとって、「たま(霊魂)」を扱う人間の技術全般が「鎮魂」ですが、これは複合的に考えることができる幅の広い概念です。
「鎮魂」は次のように分類することができます。

まず、「たま」を呼んで(招魂)それを体に付着してエネルギーを高めることが、「たまふり(魂触り)」です。
「魂乞い」とも呼ばれます。

そして、それを体の中に入れて遊離しないように固定することが「たましずめ(魂鎮め)」です。
また、悪霊などが体に触れて来ないように抑えつけることもこれに当たります。

また、体内の「たま」の力を増殖させることが「たまのふゆ(魂殖ゆ)」です。
それを行うのが「ふゆ(冬)」です。
「たま」は増やして分けて他人に与えることができます。

以上の「鎮魂」は、基本的に巫女などの術師が誰かに対して行う技術です。
ですが、自分で行う方法もあります。
「忌籠り」もその方法です。

また、折口は、「禊」も、水を介して何らかの霊魂を、あるいは水神や海神の霊魂を付着させる鎮魂法として解釈しました。


「鎮魂」の具体的な方法は多様で、以下に列記したようなものがあります。

本田親徳や川面凡児の鎮魂法は「行法」的な方法ですが、折口のそれは、儀式、呪術、芸能、あるいは、単に、風習や迷信のように感じられるものでしょう。
芸能に関しては、折口は、鎮魂法から生まれたものと考えています。

ですが、どのような呪術的な技術も、形式だけが残ってそれだけを見れば、そのように見えます。

まず、「舞踊(あそび)」は、霊魂を呼び出す方法です。
一定の形式で謡う「歌謡」は、その霊魂を歌に乗せて体に入れる方法です。

「反閉(四股)」、「田遊び」は、地を踏みつけることで悪霊を抑えつける方法です。

「はふり」は、体を振って霊魂を呼び入れる方法です。
「袖振り」、「領巾振り(ひれふり)」のような布を振ることは、霊魂を呼ぶ方法です。

上にもあげた「物忌み」は、布団のようなもの(も)をかぶってじっとしていることで、霊魂を呼び入れる方法です。

「鳥の遊び」、「魚の遊び」は、鳥や魚を捕まえて、それを見る、食べることで、それが持っている霊魂を体内に入れる方法です。

「花見」、「国見」は、自然を見ることで、それが持っている霊魂を呼び入れる方法です。

「国偲び(くにしのび)」は、土地を思い浮かべることで、その霊魂を呼び入れる方法です。
旅先で郷土を思い浮かべることなどがあります。

「霊合(たまあひ)」は、相手の人物を思い浮かべることで、その霊魂を呼び入れる方法です。
恋愛の「魂乞い」でも行われます。

また、宮中で行われている鎮魂法としては、以下の方法があります。

アメノウズメが行ったとされる「宇気槽撞き(宇気槽の上に乗って矛で突くこと)」は、大地の霊を呼び出し、悪霊を抑えつける方法です。

箱から服を取り出して振動させる「御衣振動」は、霊魂を呼び入れる、あるいは、増殖させる方法です。

「糸結び」は、糸で輪を作って箱に収める、あるいは、箱を糸で縛ることで、霊魂をつなぎとめる方法です。
神宝に糸を結んで、その神宝の名や呪詞を唱えながら、神宝を振動させることもあります。
この場合、霊魂を呼び入れる方法です。
伯家や橘家が伝えています。

以上の3つの方法は、「一二三四五六七八九十(ひとふたみよいつむゆななやここのたりや)」を唱えながら、同時に行います。

また、臣下から天皇などに、歌舞奏楽や食物、神宝、寿詞(よごと)を捧げることは、国魂や自分の霊魂などを、捧げて移動させる行為です。


<神語・言霊>

折口の国学院大学の卒業論文は「言語情調論」(1910・明治43)です。
「情調」とは感情を喚起する働きです。

この書で、折口は、「間接的言語」=「差別的言語」と、「直接的言語」=「包括的言語」を区別しています。
後者の「直接的言語」は象徴的言語であり、詩的言語でもあります。

折口は、その後、この象徴的言語を、神の言葉(託宣、神語、神言、祝詞、呪言…)として捉えるようになりました。
「祝言」は、神、あるいは「マレビト」が発する、土地を祝福する言葉に由来します。
また、「祝詞」、「呪言」は、土地の精霊を服従させる言葉に由来します。

そして、神が自叙伝を語る言葉が叙事詩となりました。
折口は、このような神の言葉が、文学の起源であると考えました。

詩的・呪的言語が意味を発生させるという論考から出発したという点では、折口は井筒俊彦と似ています。


折口は、古代人の思考の特徴を象徴的思考であるとして、これを「類化性能」と表現しました。

そして、折口は、「思兼神(おもひかねのかみ)」を、意味を「兼ねる」神、つまり、象徴言語の神であると考えました。

「思兼というのは、いろいろな意味を兼ねて考える、そういう言葉を拵えた神の名であった。すなわち言葉は、一語にも、いろいろな意味を兼ねたのである」(古代における言語伝承の推移)

また、折口は、創造する霊力である「産霊」が、特定の形式の言葉(台=と)に憑依することで、「言霊」が生じると考えました。
この言霊の神、呪言の守護神は「興台産霊(ことどむすび)」であり、「思兼神」はその人格神化した名であり、呪言の創製者であり、「興台産霊」の子である「天児屋命(あめのこやねのみこと)」は祝詞の神です。

むすびと言うのは、すべて物に化寓(やど)らねば、活力を顕す事の出来ぬ外来魂なので、呪言の形式で唱へられる時に、其の憑り来て其の力を完うするものであつた。興台(ことゞ)――正式には、興言台と書いたのであらう――産霊(むすび)は、後代は所謂詞霊(ことだま)と称せられて一般化したが、正しくはある方式即とを具へて行ふ詞章(こと)の憑霊と言ふことが出来る」

「こやねは興言台(ことゞ)の方式を伝へ、詞章を永遠に維持し、唱法を保有する呪言の守護神だつたらしい。此中臣の祖神と一つ神だと証明せられて来た思兼ノ神は、たかみむすびの子と伝えられるが、ことゞむすびの人格神化した名である。此神は、呪言の創製者と考へられてゐたものであらう」
(国文学の発生(第四稿)呪言から寿詞へ:1927・昭和2)

折口にとって、言葉(意味)の発生は霊魂の発生は一体で、それは「神語」であり、「言霊」を持った言葉なのです。


*主要参考文献
・折口信夫全集「古代研究」、「民俗学偏」、「神道宗教篇」
・安藤礼二「神々の闘争 折口信夫論」、「折口信夫」
・津城寛文「折口信夫の鎮魂論」

*「折口信夫の「死者の書」と神道の宗教化」に続きます。

posted by morfo1 at 16:29Comment(0)日本