西田幾多郎の絶対無の哲学


初めて日本独自の哲学を生み出したと言われる西田幾多郎は、参禅によって得た「見性」体験をもとに、東洋の無の思想を西洋哲学の枠組みを使いながら哲学化しました。

西田哲学の特徴は、「無」を「一般概念(概念的一般者)」として理解し、そこからの創造を、自己限定的、相互否定的、弁証法的なものとして理論化したことでしょう。

さらにそれは、華厳教学の事事無礙の世界を、主体性を持った個人による、歴史・社会的で物質的な創造として描くものでした。

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<参禅>

西田幾多郎(1870-1945)は、石川県河北郡の出身で、第四高等中学校第一部では、欧米への禅の紹介者として有名な鈴木大拙と同級生でした。

西田は、20代後半の1897(明治30)年頃から参禅を始め、金沢、京都の何人かの禅師に師事しました。
1901(明治34)年には、金沢の洗心庵の雪門禅師に戎を受けて、寸心居士の号を授かりました。

西田は、1902(明治35)年の書簡で、「必ず成就せずんば死して瞑せざらんと欲す」と書き送っています。
また、翌年の日記では、「見性までは宗教や哲学の事を考えず」と書いています。

禅では、無分別の智を得ることを「見性」と言いますが、西田は、是が非でも「見性」を得なければ哲学はできない、と考えていたのです。
その理由は、西田が、昭和18年に送った西谷啓治宛の書簡でわかります。

「禅といふものは真に現実把握を生命とするものではないかとおもひます。私はこんなことは不可能ではあるが何とかして哲学と結合したい、これが私の三十代からの念願で御座います」

つまり、禅こそが真の現実の認識をもたらすもので、それを哲学化したかった、ということです。

西田は、1903(明治36)年になって、京都の大徳寺の廣州禅師のもとで、「無字」の公案を通ることができました。
つまり、「見性」を認められたのです。

ですが、この時、西田自身は、その実感を持てませんでした。
そのため、その後も、金沢の洗心庵の雪門禅師のもとで、数年の間、「隻手音声」の公案に取り組みました。
その後は、仕事が忙しくなってか、参禅は途絶えます。

西田は、「見性」について、晩年に以下のように書いています。

「禅宗では、見性成仏と云ふが、かゝる語は誤解せられてはならない。…自己は自己自身を見ることはできない。…見と云ふのは、自己の転換を云ふのである」(場所的論理と宗教的世界観)

つまり、西田は、真理の認識というより、自己を否定する体験であると解釈しました。


<東洋思想、仏教、日本文化>

西田は、西洋思想の特徴を「対象論理」であると考えました。
彼は、「神秘主義」という言葉を、プロティノスや否定神学のような西洋の神秘主義を指して使いますが、これらについても「対象論理」であると批判しています。

西田は、「対象論理」でない東洋の思考、「無」の思想を、西洋に匹敵するような論理として体系化することを目指しました。

ですが、東洋思想や仏教は、心ばかりを対象として、物を対象としないことが欠点だと考えました。
そして、仏教思想を科学とも結びつけようと考えました。

ちなみに、西田は、量子力学の「観測の理論」が主客分離できないことや、「不確定性原理」、「相補性」が、自身の「絶対矛盾的自己同一」(後述)と似ていると考えました。


一方、日本文化の特徴は、「物」に至ることであると考えましたが、それは論理的ではなくて、情的、実践的なものでした。

「我国文化は、…物に至るという方向にあるのではないかと思ふ…事事無礙と云ふことである」
「日本へ仏教が入って来た時、華厳とか天台とか云ふ理智的な宗教が伝えられた…それは漸々と簡素化せされ、実践化せられた」(以上、「日本文化の問題」)

ですが、その華厳や天台の教学については、自身の哲学と通じるものであると考えていました。

「(絶対矛盾的自己同一の見方に)東洋哲学の粋とも云ふべき、天台や華厳の思想に通じるものがあると思ふ」(哲学論文集第五)


<初期の哲学:純粋経験>

西田は、最初の著作「善の研究」(1911)で、「純粋経験」を唯一の実在としてすべてを説明しようとしました。

「純粋経験」は、西田によれば、「一切の思慮分別の加わる以前の経験そのままの状態。言いかえれば直接的経験の状態」です。

それは、「未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している」、「経験するというのは事実そのままに知るの意である」とも述べています。

つまり、「純粋経験」は「主客未分」の状態の「知」なのです。

「純粋経験」という言葉は、ウィリアム・ジェイムスから来ています。
西田は、ジェイムスの「宗教経験の諸相」を鈴木大拙に勧められて読み、「面白く候。よほど禅に似たる所あるように思われ候」と感想を送っています。

西田は、「純粋経験」が対象的思考によって分裂し、その後、自覚によって再統一されるまでの、意識の統一の展開過程を考えました。

1 主客未分の状態 :感覚的知覚
2 主客分裂の状態 :反省的思惟
3 自覚的統一の状態:知的直観

西田は、この過程を、
「先ず全体が含意的implicitに現れる、それよりその内容が分化発展する。而してこの分化発展が終わった時実在の実現せられ完成せられるのである」
と考えました。

西田は、最後に自覚的な統一に至った状態を神人合一としても解釈しています。

「真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである。…キリスト教ではこれを再生といい仏教ではこれを見性という」

また、西田は、「純粋経験」を展開させるものを、「意志」であり、「統一的或者」、「或無意識的統一力」であると書いています。

さらに、西田は、その「統一力」が「概念的一般性」であると書きます。

「純粋経験は体系的発展であるから、その根柢に働きつつある統一力はただちに概念の一般性そのものでなければならぬ…純粋経験の事実とはいわゆる一般的なるものが己自身を実現するのである」

このように、西田の思想には、その初めから、禅的な体験をもとにしながらも、それとはまったく異なる、ヘーゲル的とでも言える要素が結合しています。


また、その後の「自覚における直観と反省」(1917)では、3段階目の「自覚」を、「自己の内に自己を映す」こと、自己自身の直観であるとしました。


<前期の哲学1:絶対無の場所>

西田の哲学の初期から前期へは移行の特徴は、「意識」から「場所」へ、「個」から「一般(普遍)」への観点の移動であると見ることができます。

西田は、論文「場所」(1926)で、「場所」という概念を導入しました。
そして、「働くものから見るものへ」(1927)、「一般者の自覚的体系」(1930)などで「場所の理論」を構築していきました。
この「場所」の概念とともに、西田の哲学は「西田哲学」と呼ばれるものになりました。

「善の研究」では主客が「分離」した状態を自覚によって「統一」すると考えました。
ですが、「場所」の理論では、主観が客観を「包む」と考え、自覚を「包み込む」ものへと拡張していくと考えました。

上記した「自己を映す」という自覚は、自己を対象として限定する行為です。
ですが、主観である「意識する意識」は、対象化できません。
ですから、自己を対象として限定した時、常に、隠れ去ってしまうものがあるのです。
それが対象として限定されたものを「包み込む場所」です。

西田は、下記のような3段階の「場所」を考えました。

1 有の場所  :物と物が関係する場所
2 意識の野  :意識と対象が関係する場所
3 絶対無の場所:「意識の野」が拡大した極限

そして、3段階目の主客合一の状態の「場所」を、「真の無の場所」、「絶対無の場所」と表現し、「合わせ鏡」に喩えました。

ちなみに、「場所」は空間的イメージの概念ですが、西田がその後に展開した時間論では、それが「永遠の今」、「絶対的現在」として捉えられます。


<前期の哲学2:超越的述語面>

また、西田は、述語主義、普遍主義の立場から、「絶対無の場所」を「超越的述語面」として考えました。
これは、初期から存在した「一般概念」の展開という考えを体系化し、「場所」と概念的な判断との関係を明らかにしようとしたものです。

その理論的背景には、アリストテレスの「主語の論理学」と、ヘーゲルの「述語の論理学」があります。

アリストテレスは、「主語主義」の立場から、「主語(特殊)」となって「述語(一般)」とならないものを個的実体(基体)とし、「述語」は「主語」に内属するものとする論理学を作りました。
彼にとって、「一般」は抽象でしかありません。

これに対して、ヘーゲルは、「述語主義」の立場から、個物を含み、個物に内在する「具体的普遍」というものを考えて、「述語(普遍)」が「主語(特殊)」を個別化するとする論理学を作りました。
「普遍」は、個物へと発展する歴史的存在です。

これを受けて、西田も、「述語主義」の立場から、「述語」を「具体的一般者」と考えます。
そして、意識は「述語」となって「主語」にならないとし、「述語(普遍)」が「主語(個物)」を包括するとする論理学を作りました。
ですが、歴史の担い手は、「個」です。

西田は、ヘーゲルの弁証法を「過程的弁証法」、「思惟的弁証法」と呼び、これに対して、自分の弁証法を「場所的弁証法」、「行為の弁証法」と呼びます。
つまり、西田は、ヘーゲルの対象論理的な弁証法を、場所の論理の弁証法に変えたのです。

西田は、「述語」を、「主語」を包括する「述語面」として捉え、すべての「述語」を包括する「述語」として「超越的述語面」を考えました。
これが「絶対無の場所」であり、そこでこそ個体が成立するのです。

概念の包括関係で考えるということは、集合の階層を考えることになります。
「述語面」は、主語をすべて含む無限集合であり、「超越的述語面」は、すべての述語を含む、より大きな無限集合です。
つまり、「述語面」の集合の階層は、無限集合の階層です。

西田は、これをデデギントの無限論で考えようとしましたが、実際には、カントールの無限論の方が適していたはずです。


<前期の哲学3:一般者の自覚>

西田は、意識がより広い「場所」へと拡張する運動を、諸々の「一般者の自覚」の体系として語ります。
そして、3段階の「場所」は、下記のように、3段階の「一般者」の展開として考えます。

1 有の場所  :判断的一般者:知的自己 
2 意識の野  :自覚的一般者:意志的自己
3 絶対無の場所:叡智的一般者:叡智的自己→道徳的自己
→ 宗教的意識  :無の一般者 :真の自己

「判断的一般者」は主語と述語の世界、物と物の世界ですが、その限界である「述語面」の底を超越することによって「自覚的一般者」となります。

「自覚的一般者」は意識と対象の世界ですが、意識する意識へと至り、意識的自己の底を超越することで「叡智的一般者」となります。

「叡智的一般者」は、芸術的直観、つまり、創造的で実践的で自由な世界で、その極限は「無の一般者」と呼ばれます。

西田は、「叡智的一般者」が深まる中で、「道徳的自己」が現れると言います。
「道徳的自己」は善の意志を持つと同時に悪の意志も持つ矛盾的存在です。
そして、その矛盾が極まるところで自己が否定され、その底で「真の自己」が見出され、「宗教的意識」となります。


<後期の哲学:絶対矛盾的自己同一>

西田の初期・前期の哲学は、「絶対無の場所」へと至る「往相」の哲学でした。
それに対して、著「無の自覚的限定」(1932)、論文「絶対矛盾的自己同一」(1939)などの後期の哲学は、歴史的現実へ至る「還相」の哲学です。
これは、観想から実践へ、抽象から現実へ、一般から個へ、という移行でもあります。

その歴史的現実への還相は、「絶対無の自覚的限定」として生まれます。
これは、主体的に見れば、「行為的直観」によって自己形成する過程です。
そして、その時の論理構造は、「絶対矛盾的自己同一」となります。

「行為的直観」とは、「行為(作ること)」と「直観(見ること)」が同時で、例えば、画家が創造的に描く時、同時に、創造的に見ているということです。
これは、常に既存の自己の否定を通して、「行為」と「直観」が、弁証法的に互いに自己否定的に相手を創造します。

西田は、概念的な把握も、「行為的直観」的に行うべきとします。
つまり、「行為的直観」による創造が形式論理を含むことで、知識が「具体的一般者」の自己限定として生まれるのです。


西田は、このような「行為的直観」的な創造を、人間的で「歴史社会的」な生産として考えます。
そして、これを、「生物的生命的」な生産と対比します。

ですが、「行為的直観」的な創造について、西田は「でなければならない」といった表現を多用します。
ですから、これが人間の世界の現実という側面と、目指すべき状態という側面があります。


「絶対無の自覚的限定」の論理構造は、矛盾・対立・相互否定を含んだままに自己同一性を持った状態であり、これが「絶対矛盾的自己同一」と表現されます。
これは、統一されることのない動的な運動です。

「絶対矛盾的自己同一」は、「一(絶対無)」と「多(限定)」の関係でもあり、「個人」と「個人」、「個人」と「物」の関係でもあり、「行為」と「直観」、「一般」と「特殊」、「超越」と「内在」、「外」と「内」、「過去」と「未来」などの関係でもあります。
つまり、「一即多・多即一」、「超越即内在・内在即超越」…です。


<鈴木大拙と西田哲学>

西田は、郷土の同級生だった鈴木大拙と、生涯に渡って思想的な影響を与え合いました。

西田は、仏教の論理を西洋の対象論理に対抗できるような普遍的な論理として体系化しなければいけない、という考えを持っていました。
鈴木も西田の影響を受けてか、同じ問題意識を共有していました。

西田が「矛盾的自己同一」を打ち出した2年後の1941(昭和16)年に、大拙は、「禅への道」で禅の認識を論理化した「即非の論理」を打ち出しました。
そして、1944(昭和19)年の「日本的霊性」で、その詳細を論じました。

「即非の論理」は、「AはAだと云うのは、AはAではない、故にAはAである」という、「否定を媒介にして、始めて肯定に入る」禅の論理です。

西田は、自分の「矛盾的自己同一」の論理と、大拙の「即非の論理」が、ほとんど同じものであると考えていました。
そして、西田は、大拙宛の書簡で、次のように書いています。

「私は即非の般若的立場から人といふもの即ち人格を出したいとおもふのです。そしてそれを現実の歴史的世界と結合したいとおもふのです」

ですが、西田が、「絶対無の自覚的限定」を「行為的直観」と「絶対矛盾的自己同一」で考えたことは、すでに、個人を重視し(人格を出す)、社会的行為を重視する(歴史的世界と結合する)試みでした。
これは、晩年の哲学にも受け継がれます。


鈴木は、「即非の論理」を作り出すのと平行して、真宗論を書きました。
1942(昭和16)年に「浄土系思想論」を出版し、主著の「日本的霊性」でも真宗を大きく扱っています。

鈴木の真宗観は、「往生」ではなく、禅的な解釈によって、「他力」や「自然法爾」、「名号(念仏)」を評価するものです。
この鈴木の真宗観は、西田の晩年の宗教哲学に大きな影響を与えました。

西田、鈴木は真宗王国と呼ばれる北陸の地域ですから、二人の根底には、その影響があるのでしょう。


<晩年の哲学:逆対応>

西田は、1945年、亡くなる前に「場所的論理と宗教的世界観」を脱稿しました。

この書は、自身の「絶対矛盾的自己同一」の立場から、浄土教、禅、キリスト教を統一的に把握しようとしたものです。

西田は、宗教心を、対象的論理ではなく、「場所的論理」、「絶対矛盾的自己同一」の論理によってしか理解できないものであるとします。
ですから、この書は、西田哲学の「場所の論理」の最終的な形を示すものでもあります。

西田は、自己の根底において、絶対者(キリスト教と仏教の両方を扱うのでこの言葉を使います)と自己が、相互否定的に生まれる「絶対矛盾的自己同一」体験によって、宗教的回心が起こるとしました。

西田は、このあり方を「逆対応の論理」と表現します。
これは、絶対者と自己などが、互いに自己否定的に対応しあっている状態を表現します。

つまり、個人が個人として限定される極限において、個が否定、超越され、絶対者と対面します。

「個なれば個なるほど、絶対的一者に対する、即ち神に対するということができる。我々の自己が神に対するというのは、個の極限としてである」

例えば、道徳的意志は自己矛盾を含むので、その極致において道徳を否定するに至り、絶対者に対して、自己の死を自覚し、始めて自己を自覚するのです。

この時、絶対者の側から見れば、絶対者が自己を限定して個として現れるのですが、これが「逆対応(逆限定)」です。

「逆対応」は、述語主義の点からも「主語的方向と述語的方向の矛盾的自己同一」、「個物的限定即一般的限定」と説かれます。

西田は、キリスト教における「啓示」も「絶対矛盾的自己同一」、「逆対応」として理解しました。
また、禅の「見性」も同様です。

「我々の自己は、何処までも自己の底に自己を越えたものに於いて自己を有つ、自己否定に於いて自己自身を肯定するのである。かゝる矛盾的自己同一の根柢に徹することを、見性と云ふのである」

西田の真宗における阿弥陀仏(他力、自然法爾)と個人との関係も同様に解釈されます。

「親鸞聖人の義なきを義とするとか、自然法爾とかいう所に、日本精神的に現実即絶対として、絶対の否定即肯定なるものがあると思うが…」

また、西田は、鈴木の「名号の論理」も同様のものとして評価しました。
これは、念仏を唱えることは阿弥陀仏と一体になることで、それは個的主体を超えていると共に主体であり、受動的であるとともに能動的であると考えるものです。
この時、阿弥陀仏からの呼声と、阿弥陀仏への呼びかけが、同時となります。

「矛盾的自己同一的媒介は、表現による外ない。言葉による外ない。仏の絶対悲願を表すものは、名号の外にないのである」


<仏教教学、特に華厳思想との比較>

西田の述語主義的な「場所」の理論は、どこから来たのでしょうか?

西田は、プラトンが述語主義であり、「場所」という概念がプラトンの「コーラ(受容器)」とつながりがあると書いているので、それが一つの源泉かもしれません。

仏教には、「場所」と同様に空間的イメージの概念として、「法界」があります。
華厳経学の「四種法界説」は、複数の段階の「場所」を設定した西田の発想と似ています。
ただ、四法界説では、後の二法界は、還相に当たりますが。

また、仏教の修行では、外界(客観)を空じ(法無我)、内面(主観)を空じ(人無我)ます。
これらは、段階的に述語面を超越していく西田の発想と似ています。

西田は、言及していないと思いますが、仏教の「空」や「無」は、本来、述語の位置にあって、主語の実体性を否定する言葉です。
そういう意味では、絶対の述語であるとも言えます。
主語になるべきではない言葉という意味で、「場所」と「空」、「無」は同じです。

仏教における「一般」と「特殊」をめぐる論理学に相当するものは、華厳教学の「理」と「事」の理論でしょう。

また、「絶対矛盾的自己同一」は、華厳の「一即多・多即一」などと似ている部分があります。
ただ、華厳の言う「一」は「個(一部分)」ですが、西田の言う「一」は「全体(一切)」のことです。

また、西田は「大乗起信論」を読んで、「中々分らない」と日記に書いています。
ですが、「大乗起信論」の「真如」の概念は、「そのまま」の体験である「純粋経験」と似ています。

また、「本覚」の概念は、「純粋経験」の最初に存在する統一という側面と似ています。
統一が分裂し再統一に至るという流れは、「大乗起信論」では、「本覚」→「無覚」→「究竟覚」となります。


西田哲学の仏教から見た問題点としては、次のような点があります。

部派仏教や大乗の中観、唯識には、詳細な煩悩論とそれと対応する修道論がありますが、西田哲学には、哲学なので当然かもしれませんが、それらはありません。

ですが、実は、禅宗は如来蔵思想的であるため、煩悩論が欠如しています。
一方、真宗は、末法思想として、皆が平等に悪人であり、煩悩をなくすことなど不可能との立場に立つため、逆の理由で、同様の結果となります。

禅宗と真宗は、正当なインド仏教からすれば、煩悩論が欠如した致命的な仏教であり、西田哲学はそれらの影響を受けています。

そのため、還相的側面においても、煩悩のない後得的な分別と、煩悩のある妄分別の区別を明確化しません。
ですから、後期の哲学が還相的だとは言え、それは、人が「絶対無の場所」へ至った往相からのあるべき展開としての還相ではなく、単なる人間世界の現実である、往相の裏側としての還相として読めてしまいます。

これは、禅の修行で言えば、西田が往相に当たる「見性」は通りましたが、還相に当たる「仏向上」の修行に至っていないことと対応しています。

出口王仁三郎の思想と大本霊学


出口王仁三郎、そして、大本の宇宙論、人間論は、神秘主義的な思想を表現しています。
特に、神人合一を旨とする大本の教旨には明らかです。

王仁三郎は、本田親徳の「霊学」と「鎮魂帰神法」、そして、中村孝道、山口志道、大石凝真素美の「言霊学」を継承、取捨選択して、大本、そして、自身の宗教観と整合させながら、「大本霊学」、「大本言霊学」を作り上げました。

王仁三郎によれば、本田親徳の霊から直接、教えを受けたそうですが、現実には、弟子の長沢雄楯から本田霊学を学びました。

また、祖母が中村孝道の妹でしたので、少なくとも、彼女を通して、彼の言霊学を学んだでしょう。
大石凝真素美とは、偶然に出会って知人となっているので、彼を通して、直接、間接に彼の言霊学を学んだでしょう。

このページでは、王仁三郎と大本の神秘主義的世界観、そして、どのように霊学、言霊学を取り入れたのかについてまとめます。


<神秘主義的宇宙論>

王仁三郎の宇宙論は、普遍的な神秘主義哲学と同様、流出論的な宇宙論です。

原初的存在の「大元霊」=「天之御中主神」が、自身と一体の宇宙を生み出します。
つまり、「一即全」です。
王仁三郎は、以下のように「流出」を「放つ」、「帰還」を「巻く」という言葉で表現します。

「一神にして同時に多神、多神にして同時に一神、これを捲けば一神に集まり、これを放てば万神分るのである」(大本略義)

また、以下に書くように、王仁三郎の宇宙論は、華厳的な「部分即全体」の照応的宇宙論でもあります。

「宇宙間に発生する万有一切は、皆、小天之御中主神である」(大本略義)

人間の霊魂も、「天之御中主神」の分霊です。
造化三神の分霊とするのは平田篤胤以来の考え方です。


<霊界の構造>

王仁三郎は、宇宙(天地)創造の過程、記紀神話の神々を「幽の幽/幽の顕/顕の幽/顕の顕」という4段階に分けます。

ここには、本田霊学の影響を見ることができます。
ですが、その区分の内容は、王仁三郎に独自なものです。

・幽の幽:根本造化の経営:伊邪那岐、伊邪那美以前、神世六代まで
・幽の顕:天の神界の経営:伊邪那岐、伊邪那美、三貴神など
・顕の幽:地の神界の経営:天孫降臨から神武天皇以前
・顕の顕:人間界の経営 :神武天皇以降

「皇国伝来の神法」では、この4つを、以下のように、空間的な霊界の構造と結びつけています

・幽の幽:造化三神、時空・現象以前
・幽の顕:天の神界
・顕の幽:地の幽界
・顕の顕:現界

「霊界物語」で語られる、霊界の構造は下記の通りです。

(霊界の構造)
・天界(神界)
>天の神界
>地の神界
・中有界(精霊界、八衢)
・地獄界(幽界)
>根の国:虚偽の世界、兇鬼がいる
>底の国:悪欲の世界、兇霊がいる

2つの「天界」、2つの「幽界」は、それぞれさらに3層で構成されています。
「中有界」は、人間が死後に最初に赴く場所で、ここを経て、人それぞれの霊魂にふさわしい場所に行きます。

また、「天界」の中の2区分は、この「天/地」の神界とは別に、以下の2つで語られることもあります。

>天国(太陽界):愛善の世界、天人がいる
>霊国(太陰界):信真の世界、天使がいる


<相応の理、雛型経綸>

神秘主義の世界観の基本的原理には、階層の上位の世界が原因、モデルとなって、下位の世界にそれが反映されるという法則があります。
これは、何かを念じたら実現する、しやすくなるという、魔術、呪術の論理でもあります。

大本ではこの法則を「相応の理」と呼びます。
霊界のできごとが現界に起こり、また逆も起こるのです。

また、大本では「雛型経綸」と表現される法則があります。
これは、大本で行った、起こった出来事が、日本で起こり、日本で起こった出来事が世界で起こるとされるものです。
この法則に従って、大本を起点にして「立替え立直し」を行おうとしたのです。

日本はもともと世界の雛型とする考えがあるので、大本を日本の雛型にするという仕掛けを行ったのです。

大本が行った「男嶋・女嶋開き」、「弥仙山岩戸開き」、「神島開き」、「元伊勢の御用」、「出雲火の御用」などの神業も、この論理に従ってのものです。

ですが、これは特別なものではなく、多くの宗教儀式の基本法則でもあります。
象徴的に豊穣を示す行為を行って豊穣を招く予祝儀礼も、この法則によっています。


<霊主体従>

王仁三郎によれば、造化三神の段階において、宇宙論的な原理として「霊主体従」、つまり、「霊(高皇産霊尊)」が先、「体(神皇産霊尊)」が後が決まっていました。

王仁三郎は、「霊主体従」について、次のように書いています。

「霊主体従とは、人間の内分が神に向かって開け、惟神を愛し神を理解し善徳を積み、真の智恵を輝かし、信の真徳に居り、外的の事物に些しも拘泥せざる状態を云ふのである」(霊主体従・体主霊従)

「霊主体従」は「霊五体五」とも表現されます。
現界の人間においては、「霊」と「体」の比率は5:5が正しく、「霊」を優先するということです。
また、「進左退右」とも表現されます。

神や霊を優先するとうことは、利他的な「愛善」につながります。
王仁三郎は、「愛」には「愛善」と「愛悪」があると言います。
前者は外に向かう愛であり、後者は利己的な自己愛です。
そして、前者は神の愛であす。

王仁三郎が戦後、大本に変えて作った団体の名前も「愛善会」です。

「愛には、愛の善と愛の悪とがある。此愛の善といふのは、絶対の愛。所謂愛善は、天国即ち神の国より外にはないのであります。…神の方から見ると、世界は一視同仁である」(愛善の真意義)

これに対して、「体主霊従」は、「体」に偏る、あるいは、「体」を優先するであり、利己的な「愛悪」につながります。

逆に、「力主体霊」は、「霊」に偏ることで、これは権威主義的な性質につながります。

王仁三郎は、人間の「精霊(霊魂)」の本質を、正邪の中間にいるものとしました。

そして、人間の心が自然界や世間に向かう指向性を「外分」と呼び、霊界に向かう指向性を「内分」と呼びます。

「内分」は「神界」に向かうべきであって、「幽界(地獄)」に向かうべきではありません。
後者を「外部に向かう内分」と呼びます。

「外分」が「体主霊従」、「神界」に向かう「内分」が「霊主体従」です。


<霊学>

王仁三郎は、本田霊学の多くのそのまま「大本霊学」として継承しています。

理論的概念としては、「一霊四魂」、「三元」、「八力」、「幽/顕」、などです。
実践は、「鎮魂法」、「帰神法」、「太占」からなりますが、王仁三郎は、大本の「天津金木(太占)」は人間の説ではなく神界直授の真理であると主張しました。


王仁三郎が、大本の「三大学則」として採用した以下のものは、本田霊学のそれです。

・天地の真象を観察して真神の体を思考すべし
・万有の運化の毫差なきを見て真神の力を思考すべし
・活物の心性を覚悟して真神の霊魂を思考すべし

「三大学則」にもあるように、王仁三郎は本田霊学を受け継いで、世界を「霊・力・体」の3つから捉えます。
ですが、それぞれの意味は、本田霊学とは少し異なるようです。

本田霊学では、「体」を対応させる神は、伊邪那美神以下ですが、王仁三郎は、神皇産霊尊からです。
つまり、「霊」と「体」は、形相と質料のような概念だと思われます。

また、王仁三郎は、「力」を「霊」と「体」の結びつきとして捉えますが、本田霊学ではそのような見方はありません。
二霊統の統合を重視する王仁三郎の思想でしょうか。


王仁三郎は、「体」としてこの「三元」を、「霊」としては「一霊四魂」を、「力」としては「八力」を説きます。

・体:三元
・霊:一霊四魂
・力:八力

本田霊学では「三元」とは、「流・剛・柔」です。
王仁三郎は、これを「本質」を呼び、以下のような対応関係を持ちますが、これは本田霊学と同じです。

・剛:鉱物:常立神  :玉留魂
・柔:植物:豊雲野神 :足魂
・流:動物:葦芽彦遅神:生魂

また、王仁三郎は、鉱物は霊魂が潜んでいる状態で、目覚めた場合は御神石となり、植物は霊魂が眠っている状態で、目覚めた場合は御神木となり、動物は霊魂が覚めている状態であるとします。

霊魂の働きは、「用」は「四魂」、「体」は「四大」として捉えます。

「天・火・水・地」の「四大」は、大石凝真素美の「天津神算木」の四面であり、同時にこれは「真澄鏡」の縦の5つの内の4つの場所です。

「和・荒・奇・幸」の「四魂」とその性質は、本田霊学の「一霊四魂」説をそのまま継承しています。

   (性質)(曲)(情)
・和魂: 親 : 悪 : 制
・荒魂: 勇 : 争 : 断
・奇魂: 智 : 狂 : 裁
・幸魂: 愛 : 逆 : 割

そして、王仁三郎は、大本の言う「厳の御霊」と「瑞の御霊」との関係を、次ように考えました。

・厳の御霊:荒魂、和魂が主
・瑞の御霊:奇魂、幸魂が主

また、本田霊学では、省、恥、悔、畏、覚の「五情」を、「心」の祓いの働きとしましたが、王仁三郎は、これを「戒律」と捉えます。

「八力」は、本田霊学のそれと同じ「動・静・解・凝・引・弛・合・分」で、神世七代の八神が対応します。

(八力)(神)
・動 :大戸地神
・静 :大戸辺神
・解 :宇比地根神
・凝 :須比地根神
・引 :生杙神
・弛 :角杙神
・合 :面足神
・分 :惶根神


本田霊学も王仁三郎も、「一二三…萬」の数歌に天地創造の過程を対応させています。
ですが、二人が対応させる内容は異なります。
参考に、一から五までの二人の対応は下記の通りです。

(王仁三郎) (本田親徳)
・一:一霊四魂 :天之御中主神
・二:八力   :二産霊神
・三:三元   :三元
・四:世    :八力
・五:出(いつ):一霊四魂


<言霊学>

王仁三郎は、「言霊」を「ことたま」、「言霊学」を「げんれいがく」と読ませます。

王仁三郎の言霊理論は、先に書いたように、中村、山口、大石凝からの影響を受けています。

王仁三郎が、「火/水」二元論、原初存在を「ゝ」と「○」を合わせた記号「⦿」で表現することなどは、山口の影響です。
また、原初存在を「ス」の言霊とすること、75声の「真澄鏡」説などは、中村、大石凝の影響です。

王仁三郎は、「水穂伝」を書いた山口の言霊説を、「火水の体」である「大本(にほん)言霊」、「真寸美鏡」を書いた中村、および大石凝の言霊説を、「火水の用」である「日本(にほん)言霊」であるとします。(言霊の大要)

そして、「火水の体」は「カミ」であり、「火水の用」は「イキ」、あるいは、「シホ」であるとします。(大本言霊解)

・山口志道「水穂伝」 :火水の体:カミ   :大本言霊
・中村孝道「真寸美鏡」:火水の用:イキ、シホ:日本言霊

王仁三郎は、以下のように、宇宙が言葉の法則で作られ、動いていると説いています。

「宇宙は語法、語則によって創造、経営、運転される。従って、語法、語則を調べれば、宇宙の真相が理解される。宇宙は極微の神霊元子の充実する世界であり、この神霊元子は神の言葉によって動かすことができる。かくして、言霊学は、この神霊元子を動かす言葉の力を調べる学…」(言霊の大要)

言霊を原子論的に「神霊元子」として捉えるのは、大石凝真須美の影響です。


王仁三郎は、別のページで紹介したように、「天祥地瑞」で、言霊の生成の過程を宇宙生成の過程と結びつけて、以下のように説いています。

・ス→ウ→ア→オ→5大父音→9大母音→75音

また、「タ・カ・ア・マ・ハ・ラ」の「六言霊」が、(5大父音の前後に?)発生して、高天原(至大天球)が作られます。

これは、大石凝の影響でしょう。
ただ、高天原が言霊として生まれたという説は、吉田兼倶も説いていますが、「高天原(タカ・アマ・ハラ)」の三字が47言(50音)の種子であるとします。

王仁三郎は、綾部が地上の中心(高天原)であり、五大父音「アオウエイ」の言霊の発生源であると主張しました。
王仁三郎は、「五大母音」と書いていたものを、途中から「五大父音」と変えたようですが、これは王仁三郎のオリジナルかもしれません。

王仁三郎は、「五大父音」を「天の柱」、「九大母音」を「国の柱」としました。

75音の各行の意味について、王仁三郎は下記のように対応させていますが、大石凝の説とは異なります。

(王仁三郎)(大石凝)
・ア行: 天 : 地
・オ行: 地 : 水
・ウ行: 結 : 結
・エ行: 水 : 火
・イ行: 火 : 天

(王仁三郎)(大石凝)
・ア行: 天
・ヤ行: 人  :地の座
・ワ行: 地  :地の座

また、王仁三郎は、75音それぞれの神を説いています。
「五大父音」に関しては、以下のように、神世七代の神々です。

あ:宇比地邇神、須比智邇神
お:角杙神、活杙神
う:大戸之道神、大戸之辺神
え:面足神、惶根神
い:伊邪那岐神、伊邪那美神28


また、王仁三郎は、言霊を重視する「霊界物語」では、ヤ行の「エ」、「イ」、ワ行の「ウ」と「五大父音」のそれとを区別するために、「五大父音」を画が離れた活字を特別に作って印刷しました。

また、王仁三郎は、言霊の発生する方向を重視しました。
通常は南に向かって発するのですが、東・西・北方向に発する場合もあります。
そのため、北の発する場合には活字を通常の下向きに、東に発する場合には右倒しに、西に発する場合には左倒しにして印刷しました。

また、「霊界物語」の「幽の幽」の神話である「天祥地瑞」では、会話などのほとんどが和歌(三十一文字)で書かれます。
これは、神は本来、和歌のリズムで会話していたからとされます。

王仁三郎の「天の岩戸開き」の解釈は、言霊と関連して面白いものです。
「古事記」では、天照大御神を、鏡にその姿を映すことで天の岩戸から引き出しました。
王仁三郎によれば、これは75声の言霊(真澄鏡)を奏上して、鎮魂帰神法で天照大御神と神人合一したことを表現しているのです。


王仁三郎は、学者ではなく宗教家(神業の実践家)ですので、言霊に関しても、学よりも、実践としての側面が重要です。

王仁三郎は、綾部の大本本部に「金龍海」と呼ばれる池を作り、そこに「五大父音」を象徴する五大洲を浮かべました。
また、言霊閣(黄金閣)を建て、鈴を用いた75声の言霊を配置しました。
これらは、大本の雛型理論に基づく神業です。

また、言霊隊を組織して各地の山で言霊発生の神業を敢行しました。

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*言霊閣の鈴と金龍海


<大本の鎮魂帰神法>

大本の最も基本的な教えである「大本教旨」は、以下のものです。

「神は万物普遍の霊にして、人は天地経綸の主体なり、神人合一してここに無限の権力を発揮す」

「神人合一」という表現は、大本の教義が神秘主義思想であることを示します。
そして、その方法論が「鎮魂帰神法」です。

王仁三郎は、長沢雄楯から本田流の鎮魂帰神法を学び、口伝書と石笛を譲り受けました。

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*鎮魂印を組む王仁三郎

本田流では、「鎮魂方」と「帰神法」を分けて考えますが、王仁三郎や大本では、あまり分けて説くことをしないようです。

大本では、浅野和三郎らが、「鎮魂帰神法」を誰もが神人合一を体験できる方法と宣伝しました。
ですが、実際には、憑いている狐や先祖の霊を落とすことで、心身の治療を行うものとして使われていました。
そして、これに対して、大本幹部の中では、「病気鎮魂」という言葉が使われていました。

海軍機関学校の浅野の同僚だったスティーブンソンは神智学会員でしたが、「鎮魂帰神法」のような法は世界中にあると浅野に指摘しましたが、浅野は、大本の「鎮魂帰神法」は神から授けられたものであると反論しました。

また、心理学者の中村古峡は、「鎮魂帰神法」を心理学的に分析して、その心霊主義を否定しましたが、王仁三郎は、科学者の無神論を批判しました。

王仁三郎は、「鎮魂帰神法」は特別な能力・資質を持った人間でないと無意味で危険であると考えて、1923(大正12)年に禁止しました。


大本では、憑霊する神霊、憑依する心霊を、以下のように4種類に分けていました。

・上級神
・聖守護神、副守護神
・動物霊:病気の原因となる
・先祖:病気の原因となる

王仁三郎によれば、高次の神霊の影響を受けた人間の霊魂が「正守護霊」ですが、外部から憑く神霊に対してもこの言葉を使います。

逆に、邪霊の影響を受けた人間の霊魂が「副守護霊」で、外部から憑く邪霊についてもこの言葉を使います。

そして、「正守護霊」が統御するようになって、天人の列に加わった人間の霊魂を「本守護霊」と呼びます。
これは「直霊」であり、大神に帰神した状態の霊魂です。

・本守護霊:天人の列に加わった霊魂:帰神
・正守護霊:神霊の影響を受けた霊魂:神懸
・副守護霊:邪霊の影響を受けた霊魂:神憑


また、王仁三郎は、神とのつながりを、「直接内流」、「間接内流」、「直接外流」、「間接外流」の4種類に分けました。

「直接内流」は、天之御中主神の霊からの影響を直接受けている状態です。
これは、本田流で言う「神感法」による「帰神」状態に当たります。
また、上記の「本守護霊」は、「直接内流」を受けています。

「間接内流」は、天人や天使的存在を介して人間に伝達される状態です。
これを「神懸(しんけん)」と表現します。

「直接外流」は、本田流で言う「他感法」、つまり、「審神者」を介した「帰神」

最後の「間接外流」は、書物などの知識が潜在意識化して、それが第二の人格のようにして現れる場合です。

・直接内流:天之御中主の直接の流入、神感法による帰神、本守護霊
・間接内流:天使的存在を介して人間に伝達、神懸、正守護霊
・直接外流:他感法(による帰神?)
・間接外流:書物などの知識が潜在意識化して現れる



*他の出口王仁三郎と大本のコンテンツ

大本の隠退・贖罪神話


大本の宇宙生成論」から続くページです。

大本の神話、教義の特徴は、隠退させられていた神が復帰して理想の国を作る、という救済神話です。
これは半ば終末論的です。
これを担うのは、「艮の金神」こと「(大)国常立尊」です。

また、これと重なるような、贖罪を負って隠退していた神が救世主として理想の国作りを助けるという神話です。
これを担うのは、「素戔嗚尊(須佐之男尊)」です。

このページでは、これらの神話の要点を中心に簡単に紹介し、分析します。

ですがその前に、歴史編などですでに書きましたが、神話と対応する大本の2つの霊統に関して、復習的にまとめます。


<厳と瑞の霊統>

大本の基本的な霊統は、二人の教祖、出口ナオと王仁三郎のそれぞれが持つ対照的な二つの御霊である「厳の御霊」と「瑞の御霊」の対立で構成されています。

ですが、王仁三郎は、自身を開祖のナオよりも上位と位置づけ、さらに両霊統を統合する御霊を持つ、あるいは、その顕現としました。

ナオ  :厳:変性男子:火:霊:艮の金神:国常立尊:天照大御神:稚姫君命
王仁三郎:瑞:変性女子:水:体:坤の金神:豊雲野神:須佐之男尊
統合  :伊都能姫、弥勒の大神、大国常立神、素戔嗚尊

この二元論は、日本書紀が取り入れた陰陽説、山口志道の「火/水」の二元論、本田霊学の「霊・体・力」説などを結びつけたものです。

ナオは最初、王仁三郎(須佐之男尊)を悪役として必要な存在とみなしていました。
ですが、やがてそれを見直して、「天の祖神」、「弥勒の大神」の現れと見做すようになりました。

王仁三郎は、自身を、2つの霊統の分裂以前、あるいは、統合した「大国常立尊」、「伊都能売」と見做しました。

また、ナオの「大本神諭」では、この2つの御霊に加えて、他にも2つの御霊が語られます。
一つは、ナオの長女の澄が体現する、「大地の金神」である「金勝要神(きんかつかねのかみ)」。
もう一つは、澄と王仁三郎の子である清吉が体現する、救世主である「日之出の神」です。

「霊界物語」では、「大地の金神」は、「櫛名田姫」でもあるとされます。
そして、「日の出神」は、伊邪那岐尊の息子で、ヨモツヒラサカの戦いでは全軍の総司令官として活躍します。

また、王仁三郎は、ナオの御霊を、「国常立尊」や「天照大御神」より下位の存在で、救世主を待つ「稚姫君命」とし、ナオと王仁三郎の関係の主従を逆転させました。

そして、王仁三郎は、自身が持つ「瑞の御霊」である「素戔嗚尊」を、贖い主である救世主とし、それが、「大国常立尊(天之御中主神)」でもあり、「天照大御神」より上位の存在としました。
ですが、地上に降りた「須佐之男尊」は、終末の大救世主たる「伊都能姫」を見出す存在です。


<国祖隠退>

「霊界物語」の4巻で、「国常立命(国祖、国治立命)」の隠退の神話が語られます。

その前段までの物語では、「国祖」が地上霊界の主宰神になり、「稚姫君命(稚桜姫命)」を宰相として神政を司らせました。
そして、地上現界は、「須佐之男命(国大立命)」に主宰させていました。

ですが、三種の邪霊が神々や人に憑依して乗っ取り、地上を混乱させていました。

・八頭八尾の大蛇  :分裂させる
・金毛九尾白面の悪狐:愛欲で操る
・六面八臂の邪鬼  :支配する

そして、彼らの影響で悪神化して、「国祖」、「稚姫君命」ら正神の神政の邪魔をしていたのが、「盤古大神」と「大自在天神大国彦」の勢力です。
それぞれの陣営は、次のような特徴を持ちます。

・正神系  :霊主体従(霊五体五)
・盤古大神 :体主霊従(霊に偏向)
・大自在天神:力主霊従(体に偏向)

まず、「稚姫君尊」が、悪鬼の誘惑で夫婦仲を壊して律法を破ったため、三千年の間、幽界に落ちて罪をつぐなうことになりました。
「稚姫君尊」の生まれ変わりが出口ナオとされます。

「国祖」は、まだ混沌としていた世界を統治するには厳格すぎました。
悪霊の入れ物となった二神の勢力は、「国祖」の神政を糾弾するため、「国祖」を神々による「常世会議」にかけた後、八つ裂きの刑にしました。
そして、「国祖」の隠退を「天の大神(伊邪那美神、伊邪那岐神、天照大御神)」に訴えました。

「天の大神」は、涙を飲んで、時が来たら復権させ、私も地に降りて手伝うと約束して、「国祖」を隠退させました。
王仁三郎が大本に加わってナオを助けたのは、この約束を果たすためだとされます。

「国祖」は、幽界に追放されましたが、霊魂は「地上の高天原」である「聖地エルサレム」から艮の方向にある「秀妻国(日本)」に、妻の「豊雲野神(豊国姫命)」は、坤の方向の島国に留まりました。
そして、邪神達は、「国祖」を祟り神、鬼であると宣伝しました。

これが、この二神が、「艮の金神」、「坤の金神」と呼ばれるようになった理由です。
そして、日本の神事(節分の豆まきなどを含めてすべて)は、「国祖」を調伏するものとなりました。

その後、「盤古大神」の一派が地上の神政を担うも、「大自在天神」一派との間で争いが起き、混乱が続きました。

また、「国祖」が隠退して、大地から「国祖」の精霊が抜け出したため、天変地異が起こり、大洪水と地軸が傾くに到りました。

「国祖」と妻神は、その状態を悲しんで、贖い主として、天教山(富士山)の噴火口に身を投じました。


<須佐之男尊の贖罪>

「霊界物語」の、「国祖(国常立尊)」が地上霊界の神政から隠退し、贖い主になった神話は、次に語られる「素戔嗚尊(須佐之男尊)」が地上現界の神政から隠退し、贖い主にあった神話と、ほとんど同型です。

「霊界物語」だけで語れる須佐之男尊の物語には、古事記に類する部分と、独自の部分があります。
独自の物語では、須佐之男尊は、「三五(あなない)教」(詳細は下記)の指導者となり、宣伝使を世界に派遣しつつ、自身も旅をして、八岐大蛇に象徴される悪を「言向け和する」(言霊の言葉で改心させる)ことで、「国祖」による「五六七(みろく)神政」の成就のために尽くします。

「霊界物語」の中には、ところどころで古事記の神話の解釈が挿入されています。
これは、「言霊解」などと題されていて、王仁三郎が行った講演の記録です。
ここでは、須佐之男尊の物語が、以下のように解釈されています。

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*須佐之男尊に扮した王仁三郎


伊邪那岐大神は、須佐之男尊に、海原(地上現界のこと)を主宰するように命じました。

地上現界にいる神々は、地上で罪穢れを落としてからでないと高天原に昇れないことになっていました。
ですが、神々はそれを理解せず、高天原の天照大神に憧れているばかりで、須佐之男尊の言葉に耳を傾け、自らを省みることがありませんでした。

須佐之男尊は、その有様に、心を痛めて泣きました。
そして、自責の念を感じて、母のいる根の堅州国(月界のこと)に隠退しようと思いました。

伊邪那岐大神も、この須佐之男尊を隠退させることで、神々も改心してくれるだろうと思い、須佐之男尊を地上現界から追放しました。


須佐之男命は、天照大御神に別れを告げるために高天原に登りました。
ところが、天照大御神は猜疑心から須佐之男尊を武力で迎え撃つ準備をしました。

二神の誓約(うけい)の結果、天照大御神の玉からは五男神が、須佐之男命の剣からは三女神が生まれました。
これによって、天照大御神は「変性男子(身体は女性で霊魂は男性)」、須佐之男命は「変性女子(身体は男性で霊魂は女性)」であることが判明しました。

また、天照大御神の御霊は、五男神を生んだこともあって、「厳(五、いつ)の御霊」、須佐之男命の御霊は、三女神を生んだこともあって「瑞(三、みつ)の御霊」と呼ばれます。

そして、五男神と三女神の名前の言霊解釈から、「厳の御霊」は攻撃的で、「瑞の御霊」は慈悲深いことが示されます。

以上は古事記を元にした解釈ですが、「霊界物語」独自の物語では、天照大御神の猜疑心の裏には、彼女が須佐之男尊の領土を侵略しようとしていことがあったと明かされます。

王仁三郎は、この時の二神の関係を、彼が大本に参加した時の、ナオと彼の関係に重ねています。


その後、須佐之男尊の部下が勝手に、天照大御神の田を破壊すなどの乱暴を働きましたが、須佐之男尊はその罪をかぶりました。

記紀神話ではその後、須佐之男命が斎服殿に馬の皮を逆剥ぎにして投げ込んだ時に、天の服織女が梭で女陰を衝いて死んだとされます。
これについては、王仁三郎は明確な解釈を行っていませんが、神衣を織ることは、天照大御神の経綸の行いのことであるとしています。

ところで、ナオのお筆先では、ナオの神が「国常立尊」でもあり、「稚日女尊」でもあると出ています。
「稚日女尊」は、日本書紀の一書でのみと名前が書かれている、この時に亡くなった服織女です。

このことは、ナオと王仁三郎との対立の深さを示しているように思えますが、王仁三郎は、「稚日女尊」と須佐之男尊の間に性的関係があったのだと解釈しました。

こうして、須佐之男尊は、罪をかぶって天上霊界から追放されました。
この須佐之男尊の行為は、キリストの贖罪と同様の行いだとされます。


そして、須佐之男尊が地上(出雲)に下ります。
これは、王仁三郎が大本に入ったことと同じとされます。

そこで出会った老夫と老女はナオであり、その童女は世の人々、「櫛名田姫」は「大地の金神」である澄です。

「八岐大蛇」は邪霊にまどわされている人々で、「十拳剣」でこれを切るのは、破邪顕正の心で人民を改心させることです。
そして、尾から「草薙の剣」を見出すことは、下層の人民の中に潜む大救世主である「伊都能売」の御霊を持つ人を見つけることです。

須佐之男命による八岐大蛇退治は、「霊界物語」では世界を舞台にした「言向け和す」旅になります。

そして、丹波の綾の聖地では、「錦の宮」という三五教の神殿を建てて、須佐之男尊が指導を行い、言依別命が教主として、五六七神政成就のための宣教を行いました。
もちろん、これは大本の開教と重なります。


72巻までの「霊界物語」では、その最後までが描かれませんでしたが、伊邪那美神から受けた須佐之男尊の使命は、「八岐大蛇」が憑依した「大黒主」を言向け和して、「天叢雲の剣(救世主としての伊都売神)」を得て、天照大御神に奉ることでした。


<三五教>

「国祖」が創始し、須佐之男尊が指導したのは、「三五(あなない)教」です。

「三五教」の「宣伝使」が、改心したり悪に落ちたりを繰り返しながら「身魂みがし」をして成長していくのが、「霊界物語」の重要なテーマの一つです。

「三五教」の特徴は、非暴力主義、無抵抗主義、言葉によって改心させる(言向け和す)ことです。

つまり、記紀神話の「天の岩戸開き」のように、天照大御神を騙して引き出すのではなく、その猜疑心をなくすのです。
また、記紀神話の「八岐大蛇退治」のように、武力によって倒すのではなく、言葉によって改心させるのです。

「三五教」に敵対するのは、「大自在天神」系の「バラモン教」と、「盤古大神」系の「ウラル教」、そして、「高姫」系の「ウラナイ教」です。

それぞれは、下記のような特徴があります。

 (宗教)  (主宰神)   (特徴)
・三五教  :正神系   :霊主体従(霊先体後):非暴力主義、説得主義
・バラモン教:大自在天神系:力主霊体(霊に偏向):暴力主義、権威主義
・ウラル教 :盤古大神系 :体主霊従(体に偏向):物質主義、個人主義
・ウラナイ教:高姫系   :インチキ、須佐之男尊に敵対

「三五教」は大本がモデル(あるいは、その逆)です。
「三五教」は、三葉彦神が創始した「三大教」と、埴安彦神が創始した「五大教」を合体させて生まれました。

「三」は天照大御神と須佐之男尊の誓約(うけひ)で生まれた三女神を、三葉彦神は王仁三郎を象徴します。
「五」は、同様に、五男神を、埴安彦神はナオを象徴します。 

「ウラナイ教」の名前は、「ウラル教」の「ウラ」と、「三五(あなない)教」の「五(ない、ナオの方)」を足したものです。
ウラナイ教は、大本の反王仁三郎派がモデルでしょう。
大本では、ナオが「表」、王仁三郎が「裏」とされ、「ウラナイ」とは王仁三郎の排除を意味します。


<大本の隠退・贖罪神話について>

「国祖」の隠退と復活の神話は、世界でも他に類を見ないものです。
ですが、類似した神話は様々なものがありますし、また、これを生み出した背景には様々な事項を考えることができます。

大本神話の特徴をモデル化すると、下記のようになるでしょう。

地上を主宰する天神(国常立尊)が、厳格すぎるゆえに主宰権を失って、さらに地上は乱れたが、復帰して終末後の神の国(みろくの世)を作る。

地上における主宰神(須佐之男尊)が、主宰権を失って堕天するも、贖い主となり堕天し、宗教的指導による救済を行い、終末の救世主(伊都能姫)を育成する。

また、両神の隠退は、単に主宰権の喪失だけではなく、八つ裂きのような肉体への刑罰、悪神の汚名、を伴っています。

これらは、広義では、堕天、終末論を伴う救済神話です。
ですが、その固有の特徴には、厳格さや慈悲深さに由来する贖罪が堕天の理由となって、悪神の汚名を着せられている点や、2霊統の統合がテーマになっている点などがあります。


<大本神話と旧約・新約神話>

須佐之男尊の「贖罪」に関しては、王仁三郎自身がキリスト教について言及しているように、キリスト教の贖罪觀念の影響を受けています。
王仁三郎自身(須佐之男尊)をイエス、ナオ(稚姫君神)を洗礼者ヨハネと比べるような記述もあります。

また、旧約から新約への変化は、「律法」から「愛」へという救済思想の変化ですが、これは、ナオ(国常立大神)の「厳の御霊」から王仁三郎(須佐之男尊)の「瑞の御霊」への変化とも対応します。
国常立神が律法を作った厳格な神であるのに対して、須佐之男尊は「言向け和」する慈悲深い神です。

また、大本の「立替え立直し」、「大峠」の思想は、一種の終末論なので、その点でも、新約との類似があります。
「贖い主」と「教主」としてのイエスが須佐之男尊ならば、「ヨハネ黙示録」の「終末の救世主」に相当するのが「伊都能姫」でしょう。

また、「霊界物語」への旧約の影響もあって、大洪水、アダムとイヴに対応する天足彦と胞場姫、「知恵の樹」の実に対応する「体守霊従」の果実などが明らかにそうです。


<大本神話とイラン系神話>

神道は多神教で、古事記には長い神統譜があります。
それに対して、キリスト教は一神教なので、大本神話との類似には限界があります。

古事記には、造化三神の段階があり、国常立尊の段階があり、伊邪那岐神の段階があり、天照大御神の段階があり、さらに天孫降臨後や国津神の段階などがあります。

こういった多層的な神統譜と、終末論的な救済神話を持つのはイラン系宗教(ゾロアスター教、ミトラ教、マニ教、ミトラス教)です。
これらには、根源神の段階、天体・気象神の段階、地上の救世神の段階、終末の救世神の段階がありますし、隠退と似た堕天の神話があり、世が堕落していく神話があります。

実は、キリスト教の終末論も仏教の弥勒信仰も、イラン系宗教の影響で生まれ、その救済神話を簡略化したものです。
さらに実は、大本が言う「みろくの世」という言葉も、仏教の弥勒信仰ではなく、ミトラ教の中国版である弥勒教が日本に伝来して生まれた、鹿島や富士講の「みろく信仰」に由来するものです。

王仁三郎は、イラン系宗教やその「みろく信仰」への影響については、ほとんど知らなかったでしょう。
ですが、多層的な神統譜と堕天や終末論的な救済神話を合わせ持つ神話は、必然的に似てきます。


ただ、ゾロアスター教と大本との間には、偶然ではない影響があるのかもしれません。

王仁三郎は、人間が、「黄金時代」、「白銀時代」、「赤銅時代」、「黒鉄時代」、「泥土時代」という五時代を経て、徐々に悪化すると考えました。
これに似た神話は、古くはゾロアスター教やギリシャ神話で語られ、仏教では末法思想という形で日本に伝わっています。

また、「艮の金神」が隠退していたのは3000年ですが、この3000年というのは、ゾロアスター教で区切りとされる年数で、アンラ・マンユが深淵に落ちていた期間も3000年です。

そして、大本では、隠退の3000年の後に、復帰のための50年の準備期間が設定されていましたが、ゾロスター教でも、最後のサオシャントが57年の神聖な統治を行った後に、最終戦争を向かえます。


イラン系堕天神話(原人間の殺害を含む)の核心は、堕天した、あるいは、殺害された神(マズダ、アーリマン)や神的な「原人間」が、人間の霊魂の奥底にある神性になったとする点です。
そして、救世主の与える霊的智恵によってその神性を顕在化させるのが救済です。

大本の隠退神話には、直接的にはこの側面がありません。
国常立尊の死せる霊魂が人間の霊魂になったわけではありません。

ですが、人間の霊魂は、天之御中主神の分霊(直霊・本守護霊)であり、国常立大神の隠退によって世が「体主霊従」になり、須佐之男尊の指導によって「霊主体従」に戻ると語ることは、ほとんど同じ思想を表現しています。


イラン系救済神話の現代版と言えるのが、ブラヴァツキー夫人の神智学です。
神智学は、秘教を抑圧したキリスト教に批判的で、その秘教的本源に遡って普遍主義志向で創造されたものです。
ですから、霊学の秘教的志向を持つ王仁三郎が、神智学の神話を知らず、キリスト教しか参照しなかったのは、実に残念なことです。

イラン系救済神話には、堕天したアーリマンの復帰を説くものがありますが、これは自由意志の獲得というテーマを内包し、秘密教義とされました。
神智学はこれを重視して取り込みましたが、大本神話にはこのテーマはないようです。

ちなみに、大本が提携したバハイ教も、イラン系宗教の現代版と言えますが、イスラム教の影響が濃く、神話的側面は希薄です。


<大本神話と日本の宗教・神話>

最後に、日本古来の伝統という点からいくつか述べてみます。

日本書紀は、陰陽思想を取り入れているので、大本の「火/水(厳/瑞)」の二元論による解釈の基盤があります。

そして、記紀神話の須佐之男尊には、すでに、おそらく結果的に、統合神、贖罪神という性質があります。

記紀神話の須佐之男尊の基本性質は、大気・水の循環(海・蒸発・雲・降雨・川・地下水)の神です。
ですから、王仁三郎が、須佐之男尊を「瑞の御霊」としたのは正しいのです。

そのため、昇天して太陽を隠す一方で、地上に下って豊穣をもたらし、穢れを浄化して地下に下る神なのです。
水の神には、天地の媒介神にして、贖罪神、復活神という性質があるのです。

ちなみに、折口信夫は、古代においては、丹波氏が水の神の巫女の家系だったと書いています。


日本には、記紀神話に対する、いわゆる「埋没神」の復活の潮流があります。
これは、天皇家や藤原氏、そして、天孫族の支配に抗する宗教伝統です。

これらの非主流派とされた神々は、記紀神話と律令神道の体制では、抹消されるか、悪神化されるか、矮小化されるか、記紀の神々へ改名をさせられました。

埋没神の復活というテーマは、古くは記紀以外の各氏族の古伝にもあり、三輪流神道や伊勢神道、教派神道にもあります。
また、神仏習合の中で、仏教系の神仏の姿をまとって復活した神々もあります。

歴史編で書いたように、大本の「艮の金神」=「国常立尊」の隠退と復活の神話の背景には、綾部の九鬼家の「鬼」、丹波の元伊勢外宮の「豊受大神」、海部氏の籠神社の元天照「火明命」などの「埋没神」とのつながりを感じます。


また、日本には、古来、荒魂即和魂で、祟る「荒魂」を祀って守護神の「和魂」にするという宗教観があります。

天津神の支配に屈して発現した国津神などの「荒魂」は、中世には「黒い翁」となり、「荒神(こうじん)」となり、「金神(こんじん)」となりました。

宗教観の変化の中で、「和霊」の「荒魂」化は、行き過ぎた厳格さが理由と見なされたり、主宰権の喪失と見なされたりしてもおかしくはありません。
そして、「荒魂」の「和霊」化は、慈悲深さという性質が必要だと見なされたり、主宰権の復活と見なされたりしてもおかしくはありません。

「荒神」は、中世に、一部で根源神にまで格上げされました。
「金神」の根源神化は、近世の金光教に始まり、大本で完全な姿になったと言えます。