大本の宇宙生成神話


王仁三郎が書いた大本の宇宙発生論(天地創造神話)を3種、紹介します。
「大本略儀」、「天祥地瑞」の冒頭、「霊界物語」の冒頭の宇宙生成論です。

「大本略儀」のそれは、古事記の霊学的に解釈といった感じのものです。

「天祥地瑞」の冒頭のそれは、天之御中主神以前(造化三神)の「幽の幽」の段階の天界の生成論で、「富士文献」の言霊学的解釈とされます。

「霊界物語」の冒頭のそれは、その後の話で、「(大)国常立尊」が地上の神政を始めるまでの話です。

これらは、全体としての特徴をまとめれば、大本の二教祖の霊統とその統合を基本テーマとして、古事記を霊学、言霊学によって解釈、拡張したものだと言えるでしょう。


<大本略儀の宇宙生成神話>

まず、大正5年に出口瑞月の口述という形で発表された「大本略儀」の宇宙生成論を紹介します。
ここには、まとまった形で、王仁三郎の思想が表現されています。
「霊界物語」とは違って、基本的には古事記に出てくる神々を、霊学的に解釈したものです。


まず、原初の存在として、「天之御中主神」がいます。
この神は、無限絶対、無始無終であり、「大元霊」、「大国常立尊」とも表現されます。

「大元」という表現は、伊勢神道や吉田神道以来のものです。

また、「天之御中主神」は、言霊としては「ス」です。
言霊学では、音声は言霊であり、神です。

原初の言霊を「ス」とするのは、中村孝道のアイディアに始まり、大石凝真素美が体系化しました。

「天之御中主神」は、「霊・力・体」の三元を配分し、自身と一体である宇宙万有を創造するので、「全一大祖神」とも表現されます。
宇宙も無限絶対、無始無終で、宇宙に発生するすべては、「小天之御中主神」です。

「天之御中主神」と宇宙の関係は、「放てば万有であるが、これを巻き収むれば、天之御中主神に帰一する」のです。
つまり、流出論的宇宙論、神観です。

ですが、「天之御中主」は、活動を開始しているので、静的状態に逆行することはありません。

「天之御中主神」の創造は次の4段階で行われます。

1 幽の幽:根本造化の経営:伊邪那岐、伊邪那美より前、神世六代まで
2 幽の顕:天の神界の経営:伊邪那岐、伊邪那美、三貴神など
3 顕の幽:地の神界の経営:天孫降臨から神武天皇より前
4 顕の顕:人間界の経営 :神武天皇以降

ですが、いずれの段階の創造も、未完成なのです。
ですから、人間の使命は、「天之御中主」が創造する天地経綸に従うことです。


「幽の幽」の段階では、まず、「天之御中主」は、相対的二元として、「霊」と「体」を生み出します。
これは「陽」と「陰」でもあり、「火」と「水」でもあります。

そして、神としては、「高皇産霊神」と「神皇産霊神」です。
この両神の活動によって時空が生まれます。

「天之御中主」は、活動の初めに、「陽」を主として、「陰」を従としました。
「大本霊学」では、これを「霊主体従」と表現します。

また、二元は結びつて「力」となります。

・霊(チ・ヒ):火:陽:高皇産霊神:父:左
・体(カラ) :水:陰:神皇産霊神:母:右
・力(チカラ):霊・体の結合で発生

「幽の幽」の段階の神で、地の創造に関わるのは、「国常立尊」と「豊雲野神」で、次のような特徴を持ちます。

・国常立尊:霊系:縦に大地の修理固定、根本の働きを司る
・豊雲野神:体系:横に天地の修理固定、気候風土など特色の働きを司る

大本によれば、今起こりつつある「立替え立直し」は、この二神が働きによります。
大本には、この二神は「艮の金神(出口ナオ)」、「坤の金神(出口王仁三郎)」として現れました。

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*王仁三郎が描いた国常立尊と豊雲野神


「幽の幽」の段階は、宇宙の内部の動きであって、現象として現れません。
ですが、「幽の顕」の段階の働きは、宇宙に現象として、天地の出現などとして現れます。
この世界は「天の神界」と呼ばれます。

「幽の顕」の経綸を主として担当するのは、体系では「伊邪那美神」、霊系では「伊邪那岐神」です。
言霊では、それぞれ「ア」と「ウ」です。

・伊邪那美大神:体系:ア
・伊邪那岐大神:霊系:ウ

そして、この二大基礎音から五大母音となり、五十声音となり、七十五声音となり、無量無辺の音声が鳴り響き、天津神々が生まれ、森羅万象が生まれました。

この二神から生まれた三貴神は、以下のような性質を持ちます。

・天照大御神:霊系:左:火:天の神界(高天原、至大天球)を主宰
・月読命  :体系:右:水:夜の食国を主宰
・須佐之男尊:両系:中  :地の神界(海原、地球)を主宰

また、この段階での宇宙における霊魂の働きは、「体」から言えば「天・火・水・地」の「四大」となり、「用」から言えば「奇・荒・和・幸」の「四魂」となります。

・用:奇・荒・和・幸の四魂
・体:天・火・水・地の四大

それぞれは次のように対応します。

・奇魂:天:霊の霊
・荒魂:火:霊の体:太陽
・和魂:水:体の霊:太陰
・幸魂:地:体の体


「顕の幽」の段階は、「地の神界」とも表現され、国津神はここに属します。

大地は宇宙の中心にあって、まず、日月星辰が分離した後で、最後に形成されました。
大地には、天津神の分霊が国津神の霊魂として宿っていて、大地の形成は国津神の発生と同時の出来事です。

大地を主宰する「須佐之男尊」は、高天原を主宰する霊系の「天照大御神」との関係では、体系となります。
そして、「須佐之男尊」は、「瑞の御霊」を持つ「変性女神」であり、「天照大御神」は、「厳の御霊」の御霊を持つ「変性男神」です。

「地の神界」の経綸は、この両神の誓約(うけい)によって生まれました。
これによって生まれた三女神は「変性女子」の御霊=「瑞の御霊」を持ち、五男神は「変性男子」の御霊=「厳の御霊」を持ちます。

・須佐之男尊→三女神:変性女子の御霊=瑞の御霊
・天照大御神→五男神:変性男子の御霊=厳の御霊

この両者を統一して完全なものになるのが、「伊都能売の御霊」です。
「伊都能売神」は、古事記に名前のみ登場する神です。
王仁三郎は、ナオが亡くなった後に、自分に「伊都能売」の御霊が降りたとしています。


以上、「須佐之男尊」は、三貴神としては統合の立場で生まれていますが、「天照大御神」と対となった後の統合の立場にあるのは、「伊都能売神」とされます。


<天祥地瑞の言霊宇宙生成神話>

1921(大正10)年に、王仁三郎が口頭著述を始めた「霊界物語」は、81巻まであり、12巻ごとにまとめられてタイトルが付けられています。
73巻以降は「天祥地瑞」と呼ばれ、72巻までとは独立した作品です。
72巻までの「霊界物語」が過去の現界の物語であるのに対して、「天祥地瑞」は大過去の霊国の物語とされます。

「霊界物語」は全体で、120巻を予定していたとされます。
ですが、72巻までの「霊界物語」、「天祥地瑞」ともに、物語が中途半端に終わっていて、未完のようです。

「天祥地瑞」は、天之御中主神以前(造化三神)の「幽の幽」の世界で、「富士文献(宮下文献)」の言霊解釈とされます。
「富士文献」では、天之御中主神以前の7代の神を語り、それを「天の世」とします。
富士の高山や噴火を表現する神々です。
そして、天之御中主神以降が「天之御中の世」とされます。

ですが、「天祥地瑞」には多数の神々が登場しますが、ほとんどは聞いたことのない名前の神々で、「富士文献」の7代の神はごく一部しか含まれません。

ここでは、「天祥地瑞」の冒頭の「紫微天界」の生成に関する部分を紹介します。


原初に、大虚空に極微なる一点「ゝ(ほち)」が顕れ、これが霊気を産出し、円形を作ります。
円形は微細な気を放射して円形の圏を描いて元の円形を包み「⦿(ス)」の形になりました。

原初の音を「ス」とするのは、中村孝道のアイディアをもとにした大石凝真素美の説、それを「ゝ(ほち)」と「○」で表現するのは、山口志道に由来するものです。

言霊学では、音声は言霊であり、神です。

この「ス」の言霊の働きを、「天之峯火夫の神」、「大国常立神」、「主(ス)の大神」と呼びます。
「天之峯火夫」は、「富士文献」の原初神です。
「ス」の言霊宇宙は、極微の神霊分子が動きまわっている状態です。

この「ス」が限りなく膨張して「ウ」=「宇迦須美の神」となりました。
「ウ」は「体」を生み出す根元です。

ちなみに「ウ」を原初の言霊としたのは平田篤胤です。

「ウ」が上昇して「ア」=「天津瑞穂の神」を生みました。
また、「ウ」が下降して「オ」=「大津瑞穂の神」を生みました。
また、「ウ」は神霊の元子と物質の原質を生みました。

そして、「天之峯火夫の神(ス)」と「宇迦須美の神(ウ)」の働きで、大虚空に「天津日鉾の神」が出現しました。
この神は、やがて言霊の原動力となって、75声の神を生んで、至大天球を創造します。

「天津瑞穂の神(ア)」と「大津瑞穂の神(オ)」が結びついて、「タ」の言霊である「高鉾の神」と、「カ」の言霊である「神鉾の神」を生みました。

この両神は左遷・右旋して円形を作りましたが、これが「マ」の言霊である「天津真言の神」です。

「タカアマ」の言霊が、際限なく虚空に拡がって「ハ」の言霊である「速言男の神」が生まれました。

「速言男の神(ハ)」が右に左に廻って螺線形をなして「ラ」の言霊を生みました。
高天原の「六言霊(タカアマハラ)」の活動によって、大宇宙は形成され、霊子の根元と物質の根元、天地の基礎が作られました。

ちなみに、「タカ・アマ・ハラ」という言霊を原初の言霊としたのは吉田兼倶、「タカマガハラ」という6声の言霊で至大天球(高天原)ができるとしたのは大石凝真素美です。

1 ス=天之峯火夫の神(大国常立神、主の大神)
2 ウ=宇迦須美の神
3 原動力=天津日鉾の神
4 ア=天津瑞穂の神
5 オ=大津瑞穂の神
6 タ=高鉾の神
7 カ=神鉾の神
8 マ=天津真言の神
9 ハ=速言男の神
10 タカアマハラ=高天原


次に、「六言霊」は鳴り続けて、「火」、「水」を発し、光を放ち、霊線を放ち、徐々に5層(紫微圏(天極紫微宮界)、蒼明圏、照明圏、水明圏、成生圏)を形成しました。

次に、「主の大神」は、「高鉾の神」、「神鉾の神」に高天原を形成させました。
そして、諸神は「紫微圏」層に住みました。

次に、「タカアマハラ」の言霊から生まれた「天之高火男の神」が「天之高地火の神」と共に、「タカ」の言霊によって天界の諸神を生み、「紫微宮」を作りました。

この両神は「富士文献」に出てくる神です。

「紫微圏」の霊界を「天極紫微宮界」と言い、「タカ」の言霊が鳴り輝き、75声の神々を生みました。


また、「速言男の神(ハ)」は、霊・力・体の「三元」で、七神を祀る大宮を作り、「大太陽」を生みました。

大宮が完成すると、「速言男の神(ハ)」は、「一二三四五六七八九十百千万(ひふみよいむなやここのたりももちよづ)」と祝歌を謡いました。

また、左を守る「言幸比古の神」は、「アオウエイ、カコクケキ…パポプペピ」と言霊を縦に宣り上げました。
そして、右を守る「言幸比女の神」は、「アカサタナハマヤラワガザダバパ…オコソトノホモヨロヲゴゾドボポ」と言霊を横に宣り上げました。

また、宮に仕える「日高見の神」は、祝言の歌を宣り奉りました。
「言幸比女の神」も言霊の幸を歌いました。


次に、「天の道立の神」は、「ウ」の言霊から生まれて、四柱の神に昼と夜を分かち守らせ、神業に活躍し、諸神を安住させました。
ですが、妖邪が発生したので、天の数歌、大祝詞を奏上してこれを消しました。

「天の道立の神」が大幣を振ると、「太元顕津男の神」がやって来ました。
「太元顕津男の神」は、「ア」の言霊から生まれて、西南(坤)の空を修理固定した神です。

「天の道立の神」は、「太元顕津男の神」に、高地秀の峯に降りて、神生み(国魂の神)、国生みを命じられました。

「太元顕津男の神」は、高地秀の峯で言霊を奏上し、大太陰(天界の月)を生み、「高野比女の神」を妻として、高地秀の宮に住みました。

「天の道立の神」は紫天界の西の宮の神司として、神人の教化に専念しました。
一方の「太元顕津男の神」は東の国なる高地秀の宮に神司として、霊界における霊魂、物質両面の守護を行いました。
そして、「太元顕津男の神」は、「みろく(至仁至愛)の神」となって大太陰界に鎮まりました。

・天の道立の神 :厳の御霊:ウ:大太陽
・太元顕津男の神:瑞の御霊:ア:大太陰:みろくの神
・伊都能売神  :厳と瑞の御霊

そして、厳・水の二つの御霊を合わせ持ち、「みろく神政」を樹立する神が、「伊都能売神」です。
現在は、とうとう「伊都能売神」が地球に現身をもって現れて、神業を行う世になりました。


この後は、「太元顕津男の神」の神生み、国生みの旅の物語となります。
「太元顕津男の神」は、八十柱の比女神を授けられて、紫微天界を旅して、比女神と出会い、御子の国魂神を生み、言霊を奏上して国土を修理固成していきます。


<霊界物語の宇宙生成神話>

「霊界物語」は、王仁三郎が明治31年に高熊山の霊的体験で見た幽界・神界の物語とされます。
王仁三郎が主人公で、木花咲耶姫の使者・松岡芙蓉仙人に導かれて、幽界と神界の旅に出るところから始まります。

「霊界物語」は、世界を舞台にした太古の物語で、中心テーマは、国祖とされる「国常立尊」の隠退と復帰、「素戔嗚尊」の贖いと救世、そして、宣伝師の伝道と成長の物語です。

それらは悪との戦いの物語でもありますが、原則として、正神たちは、武力を否定し、「言向け和す」ことによって悪の改心を目指します。

ですが、「すべて宇宙の一切は…善悪一如にして、絶対の善もなければ、絶対の悪もない」と最初に語られるように、勧善懲悪を否定しています。

以下、1巻20章から語られる、宇宙生成の部分を紹介します。


混沌の中に、球体の凝塊が顕れ、目の届かない広がりに至りました。

その球形の真ん中に金色の円柱が立ち上がって左遷し、星々を飛び散らせました。
そして、「金色の竜体」になり、多数の竜体を生み、竜体が通ったところに山脈、海ができました。
「金色の竜体」は、「大国常立尊」と呼ばれます。

一方、海の中から銀色の円柱が立ち上がって右旋し、種々の種物を飛び散らせました。
そして、「銀色の竜体」になりました。
「銀色の竜体」は、「坤の金神(豊雲野神、豊国姫命)」と呼ばれます。

次に、「金色の竜体」の口から太陽、「銀色の竜体」の口から太陰が生まれました。
太陰が地上の水を吸い上げ、地が固まると、二つの竜体は人の形の霊体になりました。

太陽の世界では伊邪那岐命が「撞の大神(天照大御神)」を招いて天上の主宰神にしました。

次に、「白色の竜体」が、一番力のある神の「素戔嗚大神」になりました。
また、この神から白色の光が放たれて「月夜見尊」となって月界の主宰神になりました。

・金色の竜体:大国常立尊(艮の金神)→太陽
・銀色の竜体:豊雲野神 (坤の金神)→太陰
・白色の竜体:素戔嗚大神      →月夜見尊


次に、「大国常立命」は、地上霊界の主宰神「国常立命(国祖、国治立命)」となり、「地の高天原(聖地エルサレム)」で神政の指揮を執りました。

そして、十二の神々を生み、動・植・鉱物を形作って、地上を実りある世界にしました。
また、「日の大神」と「月の大神」の霊魂を授与して、肉体は「国常立尊」の主宰として、人間を作りました。

一方では、天地間に残滓のように残っていた「邪気」は、凝って悪竜、悪蛇、悪狐といった「邪霊・邪鬼」となり、神々に憑依し、世を混乱させようと企てました。

「国祖」は、厳格な「天の律法」を制定しました。

また、太陽の陽気と太陰の陰気を吸って、「稚姫君命(稚桜姫命)」を生み、聖地エルサレムにある「竜宮城」で宰相として神政を担いました。
「稚姫君命」は、生まれ変わって出口ナオになったとされる神です。

そして、地上現界の主宰は、「須佐之男命」に委任しました。
「素戔嗚大神」の地上現界における姿が「須佐之男命」です。

   (霊界の主祭神)   (現界の主祭神)
太陽:伊邪那岐(日の大神):天照大御神(撞きの大神)
太陰:伊邪那美(月の大神):月夜見神
地球:国常立尊      :須佐之男尊


出口王仁三郎と大本の歴史2(伊都能売の霊統)


出口王仁三郎と大本の歴史1(厳/瑞の二霊統)」から続くページです。

前のページは、主に、大本の二大教祖だった出口ナオと出口王仁三郎の二人の霊統(厳の御霊/瑞の御霊)が、結合し、対立していた時代を扱いました。

このページでは、主に、ナオ亡き後、王仁三郎が2つの霊統を統合(伊都能売の御霊)して体現したとする以降の時代を扱います。

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<鎮魂帰神法>

1917(大正6)年に創刊された機関誌「神霊界」では、王仁三郎は、本田霊学や鎮魂帰神法、そして、大石凝真素美らの言霊学、言霊学による記紀解釈などを紹介しながら、大本霊学を構築しました。

鎮魂帰神法は、当時の日本で流行し始めた心霊主義、心霊への興味と合致していたため、多くの人が大本教に足を運んでそれを体験しました。
そして、それが入信者の増加につながりました。

「神霊界」を創刊の前後から、大本には、学者や軍関係者、政治家などの入信者が増え始めていました。
ラフカディオ・ハーンの弟子で、有名な英文学者であり、横須賀の海軍機関学校の英語教官だった浅野和三郎もその一人です。

王仁三郎は、浅野を「神霊界」の編集長に起用しました。
浅野は、大本で審神者の才能も発揮し、「神霊界」でも鎮魂帰神法を宣伝して大本の信者獲得に寄与しました。
他にも、後に王仁三郎とは別の形で霊学を総合し「天行居」を開いた友清歓真や、「生長の家」を開いた谷口雅春、「世界救世教」を開いた岡田茂吉も参加していました。

こうして、大本は、大正10年に弾圧が起こる頃までには、信者が30万人ほどに達しました。

浅野らは、大本の鎮魂帰神法を、誰もが神人合一を体験できる方法と宣伝しました。
ですが、実際には、憑いている狐や先祖の霊を落とすことで、心身の治療を行うものとして使われました。
大本幹部の中では、「病気鎮魂」という言葉が使われていました。

ちなみに、後の1923(大正12)年、王仁三郎は、鎮魂帰神法を原則的廃止し、関東大震災後に、「み手代お取次」を導入しました。
これは、鎮魂瞑想と祝詞によって、取次人が霊界と合一し、病人にしゃもじを当てて霊的エネルギーを丹田から注ぐというものです。

王仁三郎は、鎮魂帰神法は、特別な能力・資質を持った人間でないと、無意味で危険であると考えていました。
ですが、鎮魂帰神法は、大本の信者、信者獲得のための治療方法として機能していましたので、鎮魂帰神法のソフト・ヴァージョンを作った、ということでしょう。

「み手代お取次」は、大本以前の教派神道が使っていた方法を参考にしたものでもありましが、その一方で、大本以降の新興宗教の方法の起原にもなりました。


<霊界物語>

1919(大正8)年、出口ナオが亡くなり、澄が二代教主となりました。
王仁三郎は、ナオに変わってお筆先を書くようになりましたが、これを「いづのめしんゆ(伊都能売神諭)」と呼びます。

これは、王仁三郎の御霊が、自身の「瑞の御霊」に加えて、ナオの「厳の御霊」を兼ね備えた存在である「伊都能売」になったことを示しています。
王仁三郎が「弥勒の神」であれば、「厳の御霊」が降りても不思議はありません。

王仁三郎は、「伊都能売」について、根源神であって、豊受大神、木花姫命、観音菩薩であるとも書いています。

また、同年、大本は丹波の亀山城跡を買い取り、ここに本部を置きました。

そして、1920(大正9)年には、大正日日新聞を買収して、これを使って大本の広報を行うようになりました。


「神霊界」誌上では、1917年頃から、浅野らが、お筆先を解釈して「立替え立直し」の「大峠」が、1920(大正10)年に起きると主張して、「神霊界」でも大きく訴えました。
ですが、王仁三郎は、この是非に関して明言せず、この年に大本にとっての「大峠」が起こると予言していました。
ちなみに、この年は中国で革命の年とされた辛酉の年です。

運命の1921(大正10)年、浅野の予言した「世の大峠」は来ず、王仁三郎の予言した「大本の大峠」が起こりました。

この年、不敬罪、新聞紙法違反を問われた「第一次大本弾圧事件」が起こったのです。
綾部の本宮山神殿は取り壊され、80名が拘束されました。

ですが、王仁三郎は同年に仮保釈され、後の昭和2年に、大正天皇崩御にともなう大赦で無罪となりました。

「大本神諭」が発禁となったため、新たな聖典が必要となったこともあって、王仁三郎は、「霊界物語」の著述を開始しました。

「霊学物語」では、王仁三郎が救世主であり、大本の主体であり、ナオは補助的な役とされます。
また、天照大神をほとんど悪神のように描き、素戔嗚命を善神の救世主として描きます。

この方針展開と共に、浅野、友清らは大本を去りました。
浅野は心霊主義者となり、友清は本田流の鎮魂帰神法の立場から大本を批判し、独自の霊学を追求しました。


<民族主義から普遍主義へ>

1922(大正11)年、王仁三郎は、バハイ教の宣教師アイダ・フィンチと知り合い、ババイ教のエスペラントの導入、世界的人道主義などの普遍主義の影響を受けました。
そして、ババイ教と提携し、万教同根を主張するようになりました。

これを機に、ナオのお筆先が外国排除の思想を持っていたのに対して、王仁三郎は大本を普遍主義へと転向させていきます。
そして、1923(大正12)年、中国の道院(紅卍字会)と提携を行うなど、世界の多数の教団と提携を進めていきました。

1924(大正13)年、王仁三郎は、「五六七神政大国建設」のため、世界の艮である日本から、モンゴルを経て、世界の坤であるエルサレムを目指す旅に出ました。
これには、大本の信者であり、合気道の創始者、植芝守平もSPとして参加しました。
王仁三郎は、この時、ダライ・ラマを名乗り、大本ラマ教を宣言しています。

ですが、ソ連軍に行く先を阻まれ、満州軍につかまって送還されました。
しかし、日本の一般国民には、王仁三郎の試みが肯定的に受け止められたようです。
政治家の鳩山一郎も王仁三郎を称賛したようです。

1925(大正14)年、王仁三郎は、「世界宗教連合会」、「人類愛善会」を設立し、大本を「万教同根」の普遍主義的を掲げる教団へと変容させました。

1928(昭和3)年3月3日、王仁三郎は56歳7ヶ月になりました。
これは、大石凝満素美が、弥勒が下生すると考えた年齢です。
この日、みろく大祭という儀式を行い、大本の役員全員が一旦辞職し、翌日に新人事で再結成されました。
この年も、辰年でした。

1931(昭和6)年、日本の艮と坤に当たる北海道の芦別山と、鹿児島喜界ケ島の宮原山を開く神業を行いました。
これは、大本の艮と坤で行った神業に続いて、日本の艮と坤で行うものでした。

これは、大本の三段の「雛型経綸」の理論、つまり、大本で起こったことは日本で起こり、日本で起こったことは世界で起こる、とする理論に基づくものです。

1933(昭和8)年、「霊界物語」の73巻以降に当たる「天祥地瑞」の口述を始め、翌年まで続けました。
これは、「富士宮下文献」を言霊学によって解釈し、天之御中主神以前の神話を描くものです。


<第二次弾圧>

1934(昭和9)年、大本は、愛国団体「昭和神聖会」設立しました。
会員・賛同者は800万人に達し、創立発表会では内務大臣、衆議院議長らが祝辞を述べました。

1935(昭和10)年、治安維持法、不敬罪違反を問われた「第二次大本弾圧事件」が起こりました。
警察は、内務省より大本のかけらも残すな、との指示を受けていました。
亀岡、綾部のすべての神殿などが徹底的に破壊され、出口ナオの墓は掘り起こされ、信者の納骨堂まで破壊され、1000人以上が尋問・暴行を受けました。
そして、翌年には、大本に解散命令が出されました。

王仁三郎は、警察を意図的に挑発して弾圧事件を導いたと指摘する人もいます。
この見方によれば、大本の雛形経綸によって、大本を一旦潰すことが、日本を潰し、世界を潰すことにつながり、それによって立替えが可能となると考えていたのです。

例えば、王仁三郎は、大本弾圧が、日本の敗戦による武装解除につながり、それが世界の武装解除につながると考えていたようです。
また、大本が潰れることで、従来の世界のすべての(ニセモノの)宗教を潰すことができると。


<愛善苑>

王仁三郎は、1942(昭和17)年になって保釈されました。

王仁三郎は、1943(昭和18)年に大本の雛形の立て替えの地の準備作業が終了した、と宣言しました。

王仁三郎が晩年に読んだ歌によれば、ナオが神懸りになった明治24年に、艮の金神の隠退の3000年が終わり、その50年後の昭和18年に、「地の準備神業」を終えたのです。
つまり、大本の雛型を作る神業が終わり、「艮の金神」が本格的に現れ始めるということでしょう。

1945(昭和20)年、王仁三郎の無罪判決が決まりました。
そして、その翌年の1946(昭和21)年、王仁三郎は大本に代わる「愛善苑」を設立しました。

お筆先によれば、神は立替えについて人民に九分九厘までは伝えるけれど、最後の一厘は伝えられません。
そこでどんでん返しが起こるけれど、それは教えることができない、とされます。
これを「一厘の仕組み」と呼びます。

「霊界物語」では、「稚姫君命」らが、竜宮島と鬼門島(冠島と沓島)に隠した宝珠を、「国常立尊」が体と霊に分けて、その霊をシナイ山の山頂に隠したことを「一厘の仕組(あるいは、一輪の仕組)」と呼びます。

大本が「艮の金神」を世に出すためとして行った「沓島・冠島開き」は、体の方だったということでしょうか。

また、王仁三郎は、「伊都能売神諭」で、自分がその一厘を握っているとほのめかしています。

その一方で、王仁三郎は、「霊界物語」で、「いま大本にあらはれた変性女子はニセモノだ…いづれ現はれ来たるだろ。美濃か尾張の国の中…」と、後に託すようなことを書いています。

そして、1948(昭和23)年、王仁三郎は、亀岡の天恩郷瑞祥館で亡くなりました。


<その後>

王仁三郎が亡くなった後、「愛善苑」の第二代苑主には、王仁三郎の妻で、ナオの娘の澄子が就任しました。
澄子は、お筆先で、地上の金神である「金勝要(きんかつかね)の神」の御霊とされ、継承を指名されていました。
そして、澄子は、翌年の1949(昭和24)年に、「大本愛善苑」と改名しました。

1952(昭和27)年には、澄子が亡くなり、長女の直日が三代教主に就任し、同年に、「大本」に改名しました。

ですが、その後、大本は分裂します。

大本の教主は、国常立尊の御霊を持つ、出口家の娘が継承するルールとなっていました。
そして、直日の次の教主は、王仁三郎がナオの生まれ変わりとして継承指名していた、直日の長女の直美が予定されていました。

ところが、直美とその夫で斎司会を仕切る栄二の勢力と、長男の京太郎が仕切る教団執行部とに争いが生じました。

そして、教団執行部は、1982年に、嫁いでいた三女の聖子(きよこ)を継承者とし、1990(平成2)年に、直日が亡くなると、四代教主に就任させました。

一方、栄二らの勢力は、1981年に「出口栄二を守る会」を結成、後に「出口直美さまを守る会」、「大本信徒連合会」となりました。

また、王仁三郎の孫の和明は、1980(昭和55)年、に「いづとみづの会」を結成し、1986(昭和61)年に、王仁三郎を永久教主とする「愛善苑」を設立しました。

反教団側は、聖子の教祖就任を、王仁三郎が生前に予言していた、内部から起こる3度目の大本事件であると教団を批判しています。
また、「愛善苑」は、「霊界物語」でインチキ教団が「大本」を名乗ると予言していたことが起こっていると批判しています。



*出口王仁三郎と大本のコンテンツ


出口王仁三郎と大本の歴史1(厳/瑞の二霊統)


出口王仁三郎は、日本の近代を代表する宗教家であり、各種の霊学を総合しながら、教派神道との合流地点で実践的に活躍した人物です。

彼は、開祖の出口ナオと並んで、大本(大本教、皇道大本)の二大教祖の一人として知られています。
王仁三郎は、民衆的宗教だった大本に、国学、霊学(本田霊学)、言霊学(中村・山口・大石凝言霊学)などに基づく教義・教学を持ち込みました。

ですが、彼は、学者や審神者の資質に加えて、自らシャーマンの資質も合わせ持ちました。
また、マスメディアを利用した広報などの教団の運営や、歌、書画、陶芸などの芸術にも才能を発揮しました。

王仁三郎の生涯は、国家(国家神道)との戦いであると共に、大本主流派(直派)との戦いでもありました。

このページでは、出口王仁三郎と大本の歴史について、王仁三郎の霊学的側面や大本の教義に関わる側面を中心にしてまとめます。

長くなりますので、前後編に分けます。
このページでは、主に、大本の二大教祖だった出口ナオと出口王仁三郎の二人の霊統(厳の御霊/瑞の御霊)が、結合・対立していた時代を扱います。
そして、その後を扱った「出口王仁三郎と大本の歴史2(伊都能売の霊統)」に続きます。

ただ、以下の事項の中には、王仁三郎や大本自身の資料によってしか確認できないものも多くあります。

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<高熊山での神秘体験>

1871(明治4)年、出口王仁三郎こと上田喜三郎(1871-1948、以下、王仁三郎と表記)は、丹波の貧しい農家の長男として生まれました。
絵師円山応挙を先祖に持つ家系でした。

祖母は、「言霊学」の創始者の中村孝道の妹で、王仁三郎は、少年時代に祖母からそういった知識を教わって育ちました。

1888(明治21)年、王仁三郎は丹波の梨木峠で「霊学」の創始者の本田親徳と偶然出会い、神道家として国のために尽くすようにと諭されたとされます。

1890(明治23)年、王仁三郎は国学者の岡田唯平に師事し、和歌を中心に、音楽、踊りといった芸術・芸能の重要性を学びました。

1892(明治25)年、王仁三郎は、小幡神社に夜ひそかに参籠して神教を請うていると、「異霊彦命(ことたまひこのみこと)」という神霊から「三大学則」などを教えらました。
この「異霊彦命」というのは、本田親徳の神霊であることを、後に知ったとされます。

1898(明治31)年、王仁三郎は、ヤクザに半殺しの目に合わされ、その夜寝ていると、部屋に五色の光の玉が体の中に飛び入りました。
そして、天狗(後に木花咲耶姫命の眷属の芙容仙人とされます)に誘われて肉体が高熊山の洞窟にテレポートし、そこで一週間の神秘体験をしました。

この時、王仁三郎は、霊体離脱して、過去・現在・未来、神界・幽霊の秘密を知りました。
これは、後に「霊界物語」として明かされます。
また、この時、王仁三郎は、異霊彦命から、自分が世の救主となるために降されたのだと、その使命を伝えられたとされます。

王仁三郎は、帰宅後も、身心の硬直状態が数日間続きました。
その後、王仁三郎は、透視能力や病気治療の能力を発揮し、「穴太の喜楽天狗」と呼ばれるようになりました。

王仁三郎の高熊山の洞窟での体験は、当時の神仙道のパタンに沿っていますが、いわゆるシャーマンの召命体験、異界飛翔体験の典型でもあります。

後に王仁三郎は、自分のこの時の体験を、大本の始まりと主張するようになりました。


<本田霊学、大石凝言霊学の伝授>

高熊山で神秘体験をした後、その同じ年に、王仁三郎の元に、本田親徳の弟子の長沢雄楯の稲荷講社の結社員が訪れて、長沢に会いに来るように誘いました。
王仁三郎は、静岡の長沢を訪れ、彼から本田霊学を学びました。

また、長沢の審神によって、王仁三郎に懸かっている神霊は、須佐之男尊の分霊の「小松林命」であるとされました。

さらに、本田の遺言(丹波から訪れる青年によって神の道が開かれる)に従って、長沢の母から、本田の奥義書と鎮魂石、石笛を譲られました。

同年、何度目かの静岡訪問の帰りの汽車の中で、偶然、言霊学の大家である大石凝真素美と出会いました。
その後、彼から言霊学を伝授され、また、一緒に琵琶湖に行き、湖面に現れる水茎文字を見せられました。

おそらく、王仁三郎は、言霊学以外にも、日本に弥勒菩薩が下生するとか、世界の艮である日本(琵琶湖近く)で最初の人間が生まれた、といった大石凝の思想を聞いて、その影響も受けたのではないでしょうか。

後に、王仁三郎は、大本の機関誌「神霊界」に、本田や大石凝の作品を掲載しています。


<出口ナオ>

1892(明治25)年、綾部の出口直(1836-1918、以下、ナオと表記)に、最初の神懸かりが起こり、文盲のはずの彼女の自動筆記(お筆先)が始まりました。
ナオに懸かった神は、「艮の金神」と名乗り、「三千世界の立替え」によって、「艮の金神の世(水晶の世、松の世)」をもたらすと語りました。
これは後に、「みろくの世」と呼ばれるようになります。

ちなみに、この年は辰年でしたが、辰年は古くから革命の年とされていました。

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ナオの父親は大工であって、ナオの家族は、鬼門(艮)の習俗に深く親しんでいたハズです。
一般に、「金神」は陰陽道の方違えの祟り神ですが、巡回して特定の方位を持ちません。
ですが、祇園の祭神である牛頭天王の関連神話にも「金神」がいて、こちらは鬼門の方位が関係します。

大本に先立って金光教が、「金神」を方違えの祟り神から、内面の信を重視する天地の根源神・親神へと、大きく「金神」の性質を変革しました。
ナオは、それに天理教の「立替え」の革命思想を組み合わせながら、「金神」を世直しの神へと変革しました。

つまり、自身が被っている苦難の理由を、金光教は方違えから内面の信の問題へと変革し、大本は世の問題へと変革したのです。

また、綾部の北の大江町には、鬼伝説があります。
これは、大和朝廷が土着の土蜘蛛の「クガミミ」を征伐したことがもとになっているようです。
この「クガミミ」は、綾部の元藩主だった九鬼(クカミ)家につながっているという説もあります。

大本のお筆先にも「九鬼大隅守との因縁」という言葉が出てきます。
九鬼家は、鬼門の神を祀ってきたようです。
また、「九鬼文献」の「鬼門祝詞」は「宇志採羅根真(うしとらこんしん)大神」という神を讃えていますが、これが大本以前に書かれたものであるかどうかは、確認できません。

ナオに現れた「艮の金神」の背景には、土蜘蛛系の綾部における反大和朝廷(反国家神道)的思想があるのかもしれません。

また、「みろくの世」という言葉は、一般には、仏教の弥勒菩薩の下生と結びつけられます。
ですが、「みろくの世」という言葉を広めたのは、鹿島のみろく信仰や富士講であって、これらは系統的には、仏教ではなく、中国の弥勒教や、さらに遡ればイラン系のミトラ教になります。


さて、最初は狂気や狐憑きを疑われたナオですが、病気治療や予言によって、徐々に信者が集まり出しました。
すると、金光教が彼女を取り込もうと近づいてきて、1894(明治27)年には、ナオは金光教会の傘下に入ります。
ですが、金光教がナオの神に興味を持っていなかったため、1897(明治30)年、金光教から独立しました。

こうして、ナオは、自分に懸かった神を理解してくれる人物を求めていました。


<王仁三郎の大本教入り>

1898(明治31)年、王仁三郎は、小松林命から「一日も早く西北の方をさして行け、お前の来るのを待っている人がいる」と告げられ、出口ナオと出会ったとされます。
一方、ナオのお筆先にも、「この神をさばけるお方は東から来るぞよ」と出ていました。

二人の最初の出会いでは、互いに相手を確信することがありませんでした。
ですが、翌年の1899(明治32年)、王仁三郎は大本に参加し、「金明霊学会」を設立、九鬼家の九曜紋家紋を引用して「十曜神紋」を定めました。

そして、王仁三郎は、ナオについた神を審神して、「国武彦命」、後に「国常立尊」としました。
王仁三郎は、後に、「国常立尊(大国常立尊)」=「天之御中主」=「大元霊」=「伊都能売」とします。

これは、「国常立尊」=「天之御中主」=「大元神」=「豊受大神」とする伊勢神道と似ています。
伊勢神道は、外宮の「豊受大神」を祀る度会氏が創造したものですが、度会氏はもともと「豊受大神」ととともに丹波(元伊勢)から伊勢に移住したとされます。

王仁三郎は、「伊都能売」と「豊受大神」を同体視しています。
また、大本は、後に、元伊勢に関わる神業を何度か行っていて、背景に伊勢神道の影響があるかもしれません。


また、お筆先では、ナオと王仁三郎の関係について、ナオが「変性男子(肉体は女性だが魂は男性)」、王仁三郎が「変性女子(肉体は男性だが魂は女性)」とされました。

この言葉は本来、仏教用語ですので、王仁三郎はこれを嫌い、前者を「瑞の御霊」、後者を「厳の御霊」としました。

・ナオ  :変性男子:厳(火)の御霊:艮の金神=国常立尊
・王仁三郎:変性女子:瑞(水)の御霊:小松林命=須佐之男尊

このように、初期の大本教の基本構造は、ナオと王仁三郎が持つ、対照的な二系統の霊統を合体させたものとされました。

「厳/瑞」の二元論は、「火/水」の二元論でもあり、ここには言霊学の創始者の一人、山口志道の説の影響もあるでしょう。
「火水」と書いて「カミ」と読むのも同様です。
また、伊勢神道にも、「天照=火/豊受=水」という二元論がありました。


翌年の1900(明治33)年、王仁三郎は末女のすみこ(澄子)と結婚し、お筆先の指示によって「おにざぶろう(「王仁三郎」表記は本人による)」と改名しました。
先に書いたように、これには綾部・九鬼の「鬼」伝説が背景にあるのでしょう。

大本ではナオと王仁三郎の二人を教祖としましたが、その地位、呼称は、ナオが「教主」、「開祖」であり、王仁三郎は「教主輔」、「聖師」でした。

教団内の多くはナオ派であり、彼らは王仁三郎をあくまでも補佐的役割と考えていました。
王仁三郎は、このナオを主とするナオ派と戦っていくことになります。

王仁三郎は、教団の運営に能力を発揮しましたから、二人の体制は、シャーマン的女性と政治力のある男子という、日本古来のヒメヒコ体制に似ているという側面もありました。


<神業と火水の戦い>

同年、二人は、神業として、大本の艮方向にある舞鶴沖の「男嶋・女嶋開き(沓島・冠島開き)」を行いました。
これは、「艮の金神」を世に出すためのものです。

男嶋・女嶋は、籠神社の海の奥宮で、冠島には天火明神を祀る老人島神社があり、ここから「ミタマ石」を綾部に持ち帰りました。
籠神社は元伊勢で、境外末社には豊受大神を祀る真名井神社があります。

この地方は、もともと海部氏の領域で、その祖神の「天火明神(アメノホアカリノカミ)」は、「天照大御神(アマテラス)」以前の男性の太陽神「アマテル」と同体です。

また、王仁三郎は、「霊界物語」で「天照皇大御神」と「天照大神」を区別して、前者を「大国常立尊」に近い存在としています。

「艮の金神」の背景には、火明、豊受、「元天照」、「元国常立尊」らの記憶があって複雑に結びついているのかもしれません。


1901(明治34)年、ナオと王仁三郎は、4月に「元伊勢の御用」、7月「出雲火の御用」と呼ばれる神事を行いました。

「元伊勢の御用」は、大江町の元伊勢とされる皇大神社から、天照大神の霊としての、清水を綾部に持ち帰るものです。
一方の「出雲火の御用」は、出雲大社から、須佐之男の霊としての神火、土、清水を綾部に持ち帰るものです。

「出雲火の御用」の帰路の時点から、「火水の戦い」と呼ばれる、ナオに懸かった天照大神と王仁三郎に懸かった須佐之男命の戦いが始まりました。

・ナオ  :厳(火)の御霊:元伊勢の御用:天照大神
・王仁三郎:瑞(水)の御霊:出雲火の御用:須佐之男

そして、10月には、ナオが王仁三郎の態度に怒り、天照大神の「天の岩戸籠もり」を再現するように、弥仙山籠もり(神社の社殿に)を行いました。

ナオ(お筆先)の考えでは、王仁三郎(=小松林命=須佐之男尊の分霊)の役割は、立替えのために、まず、天の岩戸を閉める役であり、これは悪役なのです。

1903(明治36)年には、「弥仙山岩戸開き」が行われて、「火水の戦い」が終わりました。
そして、王仁三郎に懸かる神は、「艮の金神」と対になる「坤の金神」に代わりました。
「坤」は裏鬼門です。

そして、後の1916(大正5)年には、大本の坤方向にある播州沖の「神島開き」と呼ばれる、「坤の金神」を世に出すための神事を行いました。
これは「男嶋・女嶋開き」と対になる神業です。

・ナオ  :艮の金神:国常立尊:男嶋・女嶋開き
・王仁三郎:坤の金神:豊雲野尊:神島開き


<弥勒の神>

当時の宗教団体は、教派として国家に公認された団体は、文部省の管理下で、決められたルールに従って運営していました。
ですが、非公認の場合は、警察や内務省から目をつけられて、圧力を受けていました。

1906(明治39)年、王仁三郎は、大本を合法団体にする方法を探るために、一旦、綾部を離れました。
そして、まず、京都で府庁の神職の資格を得て、半年の間、神社の神職を経験しました。

その後、王仁三郎は、御嶽教に入り、1908(明治41)年には、大阪大教会長に抜擢されて、教団運営を学びました。

その後、綾部に戻ると、神道を研究する「大日本修斎会」を設立して、月刊誌「大本講習」などで儀式の講習を行いました。
この時に打ち出した「三大学則」は本田霊学のものでした。(詳細は別ページ参照)

1911(明治44)年、大本教は、出雲大社教の傘下に入りました。
出雲大社教は、出雲大社の国造千家尊福が天津神中心の国家神道に反発して作った教派神道の一派です。

反国家神道という点で大本と共通しますが、出雲は須佐之男系なので、ナオよりも王仁三郎色が強く反映したと言えるのかもしれません。

1916(大正5)年に、大本教は「皇道大本」と改名しました。
この名は、近代日本が政教分離を原則とし、国家神道を宗教ではないとしたのに対して、祭政一致・神政復古を掲げたものだと言えます。

この年は、先に書いたように、「神島開き」によって「坤の金神」を出現させましたが、神島渡島は3度行われました。
この年も辰年です。

10月に行われたその3度目に、ナオが初めて参加したのですが、この時、ナオのお筆先に、王仁三郎に懸かる神が、「弥勒の神」=「天の御先祖さま」の御霊であると出て、ナオは仰天しました。

「弥勒さまの霊はみな神島へ落ちておられて、坤の金神どの、須佐之男命と小松林の霊が弥勒の神の御霊で…弥勒さまが根本の天のご先祖さまであるぞよ。国常立尊は地の先祖であるぞよ」

つまり、王仁三郎に懸かる「須佐之男命」、「坤の金神」は、単に「天照大神」、「艮の金神」と対になる神ではなく、その上の「天の根源神」の現れでもあったということでしょう。
これは、王仁三郎がナオの上位に位置づけられたことになります。

ナオ  :艮の金神:地の先祖=国常立尊
王仁三郎:弥勒の神:天の先祖=大国常立尊

お筆先によれば、ナオに懸かった神は、「国常立尊」であると同時に、「稚姫君命」でもありました。
後に、王仁三郎は、ナオの御霊を「稚姫君命」であるとして、「稚姫君命」を通して「国常立尊」の言葉が伝えられたのだとしました。


<大本神諭>

1917(大正6)年、王仁三郎は、機関誌「神霊界」を創刊しました。

そこで、王仁三郎は、ナオのお筆先を「取捨按配」して、それに漢字をあてて編集し、「おほもとしんゆ(大本神諭)」として公開しました。

例えば、お筆先に現れた「たてかえ」は、「大本神諭」では「立替え立直し」と表現されました。

ちなみに、後の「霊界物語」では「三五(おおもと)神諭」と表記されるものになり、「立替え立直し」は「天の岩戸開き」という表現になります。

「三」は「誓約(うけい)」で生まれた三女神であり、「みつ」=「瑞」です。
一方の「五」は五男神であり、「いつ」=「厳」です。

ずれにせよ、「大本神諭」は、二人の合作と見做すべきものです。


*「出口王仁三郎と大本の歴史2(伊都能売の霊統)」に続きます。