大石凝真素美の言霊学と天津金木学


大石凝真素美は、古神道霊学者で、「言霊学」の大成者として知られています。
中村孝道の「言霊学」を受け継ぎながら、それを古事記の宇宙生成論と一体のものとして発展させました。

孝道の説は、言霊を一種の原子論や立体図形とも結びつけるユニークなものであり、また、それを秘伝とされてきた「天津金木学」と結び付けて公開しました。

孝道の諸説は、大本教の出口王仁三郎にも影響を与えました。

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<歩み>

大石凝真素美(本名:望月大輔、1832-1913)は、近江国甲賀郡に生まれました。
祖父は言霊学の先駆者である中村孝道の高弟の望月幸智でした。

初め、伯父について医学を学ぶも、その後、国学に転向しました。
22歳の時に、黒船来航とそれに対する幕府の頼りない対応を見て、日本に対する危機感をいだき、日本は神国なので大神人が必要であると感じて、その人を探そうとしました。

真素美は、祖父から孝道の「言霊学」や「天津金木学」(詳細後述)を学んだものの、その奥義については、教わる前に祖父が亡くなったと伝えられています。

1868(慶応4)年に、美濃の修験者、山本秀道の噂を聞いて訪ね、その知識と霊威に感じ入って師事しました。
この山本家は、仏教化する以前の古い修験道を伝えていたようです。

また、山本家には、代々、「天津金木」が御神体として伝えられていて、真素美はそれを見て、孝道の秘伝として祖父が語っていたものであると直観しました。

二人は、秀道が審神者、真素美が神主となって、鎮魂帰神法を用いて、「天津金木」など様々な研究を行いました。
この時、様々な天つ神、国つ神や、武内宿祢が降臨したとされます。
また、真素美は、自分が稗田阿礼の再生であり、石凝姥神の系統であると確信しました。

1873(明治6)年、大石凝真素美を名乗るようになりました。

1878(明治11)年には、古事記の奥義の探求のため、秀道が武内宿禰の霊を真素美に付けて神意を得ました。

また、同じ頃(明治11-12年)、琵琶湖の湖面に、孝道が原文字(神代文字)とした「水茎文字(瑞組木文字)」が波紋として現れ、消えることを発見しました。
後の1899(明治32)年には、出口王仁三郎にこれを見せたとされます。

1890(明治23)年、「弥勒出現成就経」と「仏説観弥勒下生経」を脱稿しました。
この両書は、基本的に、弥勒下生の地は日本になると主張した書です。
ですが、「天津神算木」や七十五声(七十五音)の言霊についても言及しています。

この真素美の弥勒日本下生説は、大本教の出口王仁三郎に影響を与えたと思われます。
「仏説観弥勒下生経」は、後に大本教の機関誌の「神霊界」にも掲載されました。

真素美は、伊勢神宮には遷宮の際に「天津金木」によって形成された形象を再安置する「御見比の秘密神事」が継承されていたが、明治20年の遷宮の際に途絶えたと主張し、正殿の炎上を予言しました。
この予言は1898(明治31)年に的中して、放火を疑われて逮捕されました。

1900(明治33)年に脱稿した「天地茁廴貫きの極典」では、古事記の神代解釈としての宇宙生成論を、「す」を根源とする「言霊論」、「真須鏡」とその五柱、「天津神算木」、「六角切り子の玉」といった真素美の基礎概念を用いて展開しました。

この書は、1923(大正12)年に活字出版されましたが、それ以前に大本教では書き写されて読まれていて、出口王仁三郎が1918(大正7)年に機関誌「神霊界」で紹介しました。

1903(明治36)年、「大日本言霊」を脱稿しました。
この書では、七十五声のそれぞれの「六角切り子の玉」の14面に対応する十四義を説いています。

また、同年に、「天津神算木之極典」を脱稿(活字出版は1924(大正13)年)し、多数の図と共に、「天津神算木」の複雑多様な運用の秘法を公開しました。

1912(明治45)年には、「真訓古事記」を書きあげましたが、推敲を希望しながらも、それを果たすことなく、翌年に亡くなりました。
晩年には、「法華経」と「古事記」の密合も研究していました。

真素美の主な弟子には、水谷清、水野満年らがいて、彼の研究を継承しました。

また、真素美は、先にも触れたように、言霊学や弥勒日本下生説などで、大本教の出口王仁三郎にも直接、大きな影響を与えました。


<宇宙生成論>

真素美の宇宙生成論・神統譜は、言霊である七十五声の誕生と展開として語られます。
それは、七十五声が正列した「真須鏡」や、ひな形的な形態の「十八稜圑=六角切り子」、構成単位の「天津神算木(あまつかねぎ)」などを反映します。

以下、主に最後の著である「真訓古事記」に基づいて、真素美の宇宙生成論を紹介します。
ただ、これは「古事記」の神代部分を細かく言霊的に解釈した複雑なものですので、そのごく一部を取り上げます。

宇宙開闢以前の原初には、「す」という物(音)がありました。
「す」は呼吸の音であり、「皇(すめらぎ)」の「す」です。

「す」を宇宙の根源とするのは、「す」を「真洲鏡」の中央に置いた中村孝道の説を、宇宙生成論として拡大解釈したものです。
また、真素美は、「す」を「⦿」と表現しますが、これは山口志道のそれと似ています。

「す」は「此世の極元」と表現され、「十八稜圑(こんぺいとう)」の形でした。
「十八稜圑」は、別の箇所で「六角切り子の玉」と書いている十四面体と同じものを指しているものと思われますが、「こんぺいとう」と読み仮名をふっているので、これは凹凸がある立体です。
これは、真素美にとってのプラトン立体のような存在です。

また、この「極元」は、微細な「神霊元子(こえのこ)」が、「もろみ」の状で「もろもろ(多量)」に存在する状態でした。
「神霊元子」は、霊的原子であり、音原子であるような存在です。
この極微点が連珠糸となって組織化されることで、天地人が造られます。

次に、「十八稜圑」の瘤の麓のところに「対照力」が起こり、これが球の形になって「至大天球(たかまがはら)」となりました。

「対照力」は、「た・か・ま・が・は・ら」の6声で「至大天球」となりました。
「た・か」の2声が力、「ま」で張り詰めて球となり、「が」で生き生きとし、「は」で広々とし、「ら」で動き出しました。

次に、この天球の中心部に大気が結晶して「地球」となりました。

ここに成った神は、天之御中主神と名乗りました。
地球がその体であり、至大天球が心です。

次に、地球の中心から天球の底に向かって右旋して登った神が高御産巣日神です。
反対に、天球の底から左遷して地球の中心に下ったのが神産巣日神です。

これら造化三神は、「独神(す)」としてなり、「隠身(すみきり)」になりました。
これらは「成る」神であり「鳴る」神です。
つまり、生成=音声なのです。
また、「隠身(すみきり)」というのは、働き続けるという意味でしょう。

次の、宇摩志阿斯訶備比古遅神は、3つの線幕(球面上の円幕)であり、これによって、「至大天球」の球面が8区分に分かれて「八島国(大八島)」が生まれました。

ちなみに、「天地茁廴貫きの極典」では、中心にある地球にも「小八島国」ができたとしていました。

この8区分(曲面)は、前後から見ると中央に1区、周辺に6区で、前面と後面の6区を別面とすると14面の「六角切り子」になります。

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*大八島(茁廴貫きの極典より)と六角切り子(大日本言霊より)

「六角切り子の玉」は、本当は球であるけれど、方面で理解するために便宜的に14面体として捉えたものとされます。
それは、第一に、天球の御樋代(入れ物、ひな形)であり、それゆえに、天地人と照応(密合)するものです。

また、天球たる「六角切り子の玉」を基本単位まで細分したものが、「天津神算木(天造之神算木、あめのかねぎ)」です。
これは、天地人の組織原理として、それによって一切の真実を知ることができるものであり、地球の御樋代(入れ物、ひな形)でもあります。(詳細は後述)


次に、天球・地球間の東西南北に四神が顕れました。
北に天之常立神、南に天之底立神、東に国之常立神、西に国之底立神です。
天之底立神、国之底立神は、古事記が書き洩らした神だと書いています。

ちなみに、「天地茁廴貫きの極典」では、天球と地球の間に、「真須鏡」の「天・火・結・水・地」の五柱が縦に五重に生まれたとしています。
そして、上記四神は、それぞれが天か地の10柱に当たると、などとされます。

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*天球・地球の間に天津神算木を配列した図(天津神算木之極典より)

「至大天球」を含めて、天地人は、日本語の七十五声が正列した鏡である「真須鏡」を反映して、それぞれに照応します。
七十五声は、「名(地の真)」、「言(天の真)」、「結(天地結合の真)」となりました。

神世七代の神々は、国之常立神(=「お」)以下の大斗乃弁神までで、「あおうゑい」の五声が生まれ、次の淤母陀琉神は、五声が揃ったことを表現します。


次の伊邪那岐、伊邪那美の両神が地をかき混ぜてオノゴロ島を作った時に使った「天沼矛」は、「天地火水」の「神霊液」が凝縮したものです。
また、人間が声を発する口も「天沼矛」と言います。

そして、オノゴロ島にある「天之御柱」は、「真須鏡」の「水柱」に当たります。
その後、両神は「真須鏡」に沿って「八島」を造りました。

以下も、様々な神々と言霊を結びつけて解釈します。
例えば、国之水分神は、サ行活用する、押さ・押そ・押す・押せ・押し、越さ、越そ、越す、越せ、越し…などの言葉である、といった具合です。


人間の誕生は、天照大御神の「魂(みたま)」と須佐之男命の「魄(つるぎ)」を受けて、初めて人体を持った三姫と五彦が、近江の琵琶湖・蒲生郡に生まれたのが始まりです。


「天地茁廴貫きの極典」によれば、最初の人間達は、土の中で何年も過ごして、体が成熟すると土から出てきました。
また、出てきた後は爬虫類のような姿で何年も過ごし、その後で脱皮して人間の姿になりました。

人間は、眼・耳・鼻・舌・身・意識の「六識」を持ち、これは「と」に当たります。
さらに、欲である「七識」=「たし」、良心である「八識」=「し」、広げられた良心である「九識」=「さ」、仏智である「十識」=「さ(合わせて、ささ)」を持ちます。

出雲には、「天津神算木」の基本配列である「十六結」を反映して「十六島(うつふるひ)」が作られました。
これは、日本の国々、世界の国々の雛形でもあります。

次に、大国主神が顕れましたが、この神は、すべての人間を生み、その身体を保ち助ける神であり、また、日本語を主宰します。
一方、少名彦名神は、火・水を、そして、外国語を主宰します。
また、事代主神は、七十五声を保つ神です。
そして、久延毘古は、奥深くに隠れた知識を知らせる神です。

ちなみに、弥勒が日本に下生した時、世界の言語は統一されます。


<言霊学>

真素美は、三大皇学として、音に関する「天津祝詞学」、相に関する「天津金木学」、生に関する「天津菅曾学」をあげています。
「天津祝詞学」が「言霊学」であり、「天津金木学」は「太占(占い)」、「天津菅曾学」は神霊学です。

真素美は、中村孝道の「真洲鏡」の説を基にして、「言霊学」を発展させました。

真素美の独創と思われるのは、まず、上記したように、音声を微細な「神霊元子(こえのこ)」という元粒子の運動として考えていることです。

そして、七十五声の意味を、「六角切り子の玉」という立体をもとに表現したことです。
真素美によれば、七十五声のそれぞれが、「六角切り子の玉」の14面のそれぞれに対応する意味を持ちます。

ですが、14面のうちの6面には12支が1つ、上下面に当たる2面には12支が3つ割り当てられていて、残り6面には12支が割り当てられていません。
12支が3つ割り当てられている2面を合計6面分として数えると、合計18面分となります。
この18が「十八稜團」の18ではないかと思います。

そのため、一つの音声に対して18義と考えることができます。
ただ、それぞれの義に対しては、複数の言葉で説明されることもあります。

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*「あ」声の意味と12支の割り当て(大日本言霊より)


真素美は、孝道の「真洲鏡」を、「真須鏡」と表記します。
これは七十五声で構成され、上下左右の隅と中間の9声を九柱として重視します。

真素美は、この75という数に関して、神事を一年に75度行うことがある、人の噂も75日などと言われる例をあげて、それが日本における聖数であることが伝わっているとします。
また、9に関しては、出雲、伊勢の神殿や紫辰殿が九柱で建てられていることにも現れているとします。

「真須鏡」は「真洲鏡」と比べて、七十五声の配置は同じですが、縦横軸の説明を、以下のように少し変更を加えています。

まず、横軸です。

  (列の意味) (韻の場所)
・あ:地柱:幽内 :喉の韻
・お:水柱:幽内 :唇の韻
・う:結柱:中道 :口の韻
・え:火柱:顕外 :舌の韻
・い:天柱:顕外 :歯の韻

次に、縦軸です。
 
(宇宙の場所)(音の場所)
・か・が・だ :天之座  :歯之音
・た・ら・な :火之座  :舌之音
・は・さ・だ :結之座  :口之音
・ぱ・ば・ま :水之座  :唇之音
・や・わ・あ :地之座  :喉之音

宇宙の場所は、「天之座」は天球である高天原、「火之座」は太陽のある空域、「結之座」は天地の中間、「水之座」は川など、「地之座」は大地でしょう。

これは、天地の5領域を貫いて、言霊の5柱が立っていると考えることもできます。

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*真須鏡(大日本言霊より)


<天津神算木学>

「天津金木(あめのかねぎ)」は、「大祓祝詞」に出てくる謎の言葉です。

真素美は、これを「天津神算木」、あるいは「天造之神算木」と表記します。
そして、伊邪那岐、伊邪那美の両神が、国生みの際に行った占いの「太占(ふとまに)」が、「天津神算木」を使ったものだと考えました。

「天津神算木」は、宇宙論的には、伊邪那岐、伊邪那美が、天浮橋から大地をかき混ぜた時に使った「天沼矛」の表現でもあるのでしょう。
真素美は、これを、天・火・水・地による地球の誕生としています。

一柱の「天津神算木」は、檜で作られた四角の棒状(四分角二寸の四角柱)です。
四面の各面のそれぞれに「一二三四」の目がサイコロのように「●」の個数で記され、各面が「青赤緑黄」に着色されています。
また、上下面は白と黒に着色されています。

四面は、下記のように、「天・火・水・地」などを象徴します。

(目)(意味)(色)(国における意味)
・一 :天 :青 :君
・二 :火 :赤 :大臣
・三 :水 :緑 :小臣
・四 :地 :黄 :民

本来、「天津神算木」は私利に関わる事項を占うものではありません。
そのため、この四面は国家的な要素としては、君・大臣・小臣・民を意味します。

「天津神算木」の基本配列には、「八咫鏡」、「十六結」、「十六聴章」などがあります。
「八咫鏡」は、天球の中心に地球が結晶したことの象徴とされます。

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*八咫鏡、十六結、十六聴章(天地茁廴貫きの極典より)

「天津神算木」は、占い、真実の究明、予言などのために使いますが、その使用法には様々な方法があります。

真素美は、「天津神算木之極典」でその方法を公開しましたが、非常に難解なので、簡単な方法についての一般的な解説をします。

基本的に、「天津神算木」の各面の組み合わせ(相)に、答えを読み取り、吉凶判断を行います。
本数は二柱から三十二柱まであり、それらを基本配列に並べたり、自然に思いつくままに並べたりします。
基本配列には、螺旋状、段階状、雲状、円輪状、蛇状などがあります

解釈の基本となるのは、「天津神算木」の二柱の相(4×4の16相)の象意です。
具体的には、以下の通りです。

(相) (意味)
・一一(天天):動
・一二(天火):治
  :
・四四(地地):止

また、四柱で判断する場合は、4×4×4×4の各相の象意ではなく、「一二三四(天火水地)」と並ぶ「本位(大八州相)」を最も良しとして、それから近いか遠いかで判断します。

山口志道と中村孝道の言霊学


国学や古神道、霊学の中で、宇宙生成論や霊魂論、「鎮魂帰神法」、「仙道」、「太占学」と並んで重要な分野が「言霊学」です。
「言霊学」は、神秘主義的言語観によって、日本の五十音や、宇宙生成を研究するものです。

このページでは、「言霊論」とは何かについて、その簡単な流れ、そして、その先駆者である山口志道と中村孝道の言霊論をまとめます。


<言霊学>

国学が古語や五十音の研究をしているうちに、秘教的な傾向を強める中で、「言霊学」が生まれました。
古神道、霊学における「言霊学」は、神秘主義的な言語観を持っています。

ですから、単に、言葉に霊が宿る、発した言葉は実現する、邪心から言葉を発すると神罰が当たるといった、「言霊信仰」、「言霊思想」ではありません。

言語を、創造力を持った宇宙論的存在、神的原理として捉えます。
宇宙生成論と言語の生成論が同時であり、一語・一音ごとに意味があり(音義説)、神の言語と人間の言語、そして、宇宙や自然の言語が同一のものであって、それらに照応関係を見出します。

このような神秘主義的言語観は、「セフィール・イエツラー」以来のカバラや、スーパー・シーア派、インドのタントリズム、密教、シュタイナーなど、世界的に存在します。

日本には、古来「言霊思想」がありますし、もう一方では、空海の言語哲学があり、密教の「阿字本不生」の思想がありました。
「声字実相義」の「五大は皆な響き有り、十界に言語を具す、六塵は悉く文字なり」という言葉も良く知られていて、存在=言語とする世界観を表現しています。

そのため、日本に「言霊学」が生まれるのは必然であったと言えます。

「言霊学」の本質は、言語=神的原理=象徴体系を研究するものです。

「言霊学」は、50音や75音の象徴体系として構築されますが、中でも母音など特別視する場合は、そこに階層が生まれます。
象徴体系の階層は、宇宙の階層説であり、宇宙生成論と一体です。
ちなみに、日本の特殊性としては、子音を表す文字がないことでしょう。

神との関係では、言霊を司る神や、言葉と神との関係を探求する神論となります。

言語には、「意味」と「音声」と「形象」があります。
「意味」面は音声との結びつきを考える音義論となり、「音声」面は音声論や音韻論となり、「形象」面は文字論(神代文字論)となります。

さらには、文学論や、記紀の真意を探る解釈学にも発展します。

「言霊」は象徴体系なので、その実践面では、成就法(イニシエーション)、占い(予言、神託)、魔術(呪言)で利用されます。
言霊の発声は密教の「口密」に対応します。

古神道では、占いは「太占(太斗麻邇)」と呼ばれ、言霊の文字(神代文字)が、「天津金木」と呼ばれる占いと結び付けられました。


<言霊学の流れ>

平田篤胤は「言霊学」の先駆者の一人です。
彼は、「真の古伝」を伝える祝詞が、本来は「神世文字」で書かれていたと推測しています。

そして、1839年の「古史本辞経―五十音義訣」で言霊宇宙論を展開しました。
篤胤は、「ウ(宇)」の音声を最初にして宇宙が生まれたとして、「宇字本不生」論を主張しました。

また、「ア・イ・ウ・エ・オ」が「初・体・用・令・助」という性質を持ち、宇宙(天地)の5つの場所と対応するとしました。
この考えは、後で述べる中村孝道の言霊論と似ていて、その影響を受けている可能性もあります。

言霊論の先駆者としてより重要なのは、篤胤とほぼ同時代人である山口志道と中村孝道です。

山口は、言霊の文字という形象面を中心にして探求し、火/水の二元論で考えました。
一方、中村孝道は、音声面を中心にして探求し、軽/重や始/終の軸で考えました。

二人の「言霊学」は、大石凝真素美や大本教の出口王仁三郎らに継承され、統合、発展されました。

また、彼らとは異なる流れの「言霊学」もあります。
川面凡児や友清歓真らです。


<山口志道>

山口志道(1765-1843)は、安房国出身で、山口家には代々「布斗麻邇御霊」という言霊秘図が祀られていました。
志道は、この図の意味を解明するために国学を30年学びましたが、得るところがありませんでした。

ですが、51歳の時に、荷田訓之から「稲荷古伝」を授かりました。
これは、荷田春満が伏見稲荷で発見したものとされます。
志道は、これが「布斗麻邇御霊」から発展したもので、その解明に役立つことを発見しました。

そして、志道は、これに基づいて、自身の「言霊学」を構築し、丹波亀山で、「水穂伝」(1834)を著しました。
また、「言霊学」について神祇伯にも講義を行うなど、その普及にも尽くしました。

「布斗麻邇御霊」には、7つの図形(原文字)が描かれ、宇宙生成論を表現しています。
以下が、それぞれの意味と、その天地創造における神々や地との対応です。
これらの意味は、後述する「稲荷古伝」の12の図形(原文字)によっています。

  (天地創造)   (意味)
1図:天之御中主神 :水の中に火が生じる
2図:産霊神    :水の中の火が動く
3図:伊邪那岐   :水の中に火・緯
4図:伊邪那美   :水の中に水・縦
5図:伊予の二名の島:水の中に火・凝(こり)・与(くむ)
6図:筑紫島    :火の中に陰陽が与
7図:大八島国   :火の中に火・凝・与・水中火・火中水

そして、最後の大八島国の図形から、原文字というべき「形神名(カタカナ)」が発生しました。
その発生の順は、「ホ」に始まり、「マ」に終わります。

志道によれば、これらと関連する宇宙生成は次のようなものです。

まず、天地初発の時に「凝(こり)」が生まれ、それが「火(父)」と「水(母)」に分かれました。
次に、この二者が結合して、再度、第二の「凝」が生まれました。

そして、「凝」の中の重く濁ったものが下降して「形」になり、軽く澄んだものが上昇して「息」になりました。

「息」からは「音(こえ)」が現れ、「五十連」の言霊になりました。
また、「音」は形をとって、原文字「形仮名」になりました。

志道は、上記のように、「火(父)」と「水(母)」の二元論で考えます。
そして、神を「火水(カミ)」と表現し、また、「息」を「水火(イキ)」、魂を「霊水火(タマシイ)」と表現しました。

志道は「息=水火」を重視します。
天の「水火(イキ)」と人間の「水火(イキ)」は同一であり、天と人間は、この「水火(イキ)」が「凝」となったものです。

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*右:布斗麻邇御霊の7図形(上から生成)、左:稲荷古伝の12図形


「稲荷古伝」には、12の図形(原文字)が描かれていました。
その意味は、次の通りです。

・ヽ:火、キ、イキ、凝…
・―:火、緯
・|:火、縦
・+:キ、凝
・ノ:水
・乀:水中火
・レ:火中水
・=:天地(上火、下水)
・‖:出入息(右水、左火)
・フ:火水
・〇:水
・□:火

そして、「稲荷古伝五十連法則」によれば、アカサタナ…の各行は、次のような意味(霊)を持ちます。

・ア:空中水霊、天を司る
・カ:睴火霊
・サ:昇水霊
・タ:水中火霊
・ナ:火水霊
・ハ:正火霊
・マ:火中水霊
・ヤ:火水霊、人を司る
・ラ:濁水霊
・ワ:水火霊、地を司る

また、ア行の霊は天を司り、ヤ行の霊は人を司り、ワ行の火霊は地を司ります。

先に書いたように、五十音の「形仮名」は順次発生し、五十音にはそれぞれに意味があります。

五十音の発生力学は複雑ですが、例えば、「ア」の発生に関しては、「ハ」から水の「イキ」が月となって左に分かれて「ア」を生んで天を形作った、とされます。


<中村孝道>

中村孝道(18C末-19C中頃)は、生没年不詳であり、出身地についても、日向説、丹波説があって確定していません。
孝道の妹の宇能が、出口王仁三郎の祖母であり、王仁三郎に言霊説を教えたと伝えられていますが、これも確認はされていません。

孝道は、言霊の研究のために京都に上りました。
門弟の五十嵐政雄によれば、1816年に京都で野山元盛から日向出身の老翁が言霊説を伝授され、同郷の孝道にも伝えられたそうです。

孝道は、「言霊或問」(1834)、「言霊聞書」(1834)、「言霊中伝」、「言霊奥伝」、「言霊真洲鏡」(口述の記録)などを著しました。
また、産霊舎を設立し、ここで言霊学を講じました。

孝道は、古事記の神代巻には表裏の解釈があり、裏の解釈が言霊の伝であると主張しました。

そして、濁音、半濁音を含む75音の言霊の関係図であり、天地人の理を映した「真洲鏡(ますみ鏡、真須鏡、真澄鏡、真寸美鏡)」というものがあったと言います。
そして、これは、古事記の神代巻には「白銅鏡」、万葉集には「真墨の鏡」と記されているものであると。

「真洲鏡」は、横5列、縦15行(5組×3字)で構成されています。
母音は「母字」とされ、子音は「父字」されます。

横5列は、「アオウエイ」の列であり、この順で生成されたことを表現します。
また、それぞれの列、語味は、下記のような意味を持ちます。

  (列の意味)(韻の場所)(音の意味)
・ア :初柱 : 喉の韻 :音顕れ出る霊
・オ :内柱 : 唇の韻 :外に起こる霊
・ウ :中柱 : 歯の韻 :動く働く霊
・エ :外柱 : 舌の韻 :内に集まる霊
・イ :留柱 : 牙の韻 :至り留まる霊

縦の5組は、それぞれに3行が配置されます。
そして、それぞれが、以下のように、人間が発音する場合の場所と、宇宙上の場所に対応を持っていて、上から順に生成されました。

 (行)   (音の場所)(宇宙上の位置)
・カ・ガ・ダ: 牙の音  :高天棚
・タ・ラ・ナ: 舌の音  :天の棚
・ハ・サ・ダ: 歯の音  :中津棚
・パ・バ・マ: 唇の音  :地の棚
・ヤ・ワ・ア: 喉の音  :根の棚

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*真洲鏡

「高天棚」は高天原、「中津棚」は中つ国、「根の棚」は根の国、「天の棚」と「地の棚」はそれぞれの中間の場所を意味するのでしょう。
これは、平田篤胤の説とほとんど同じです。

それぞれの行、それぞれの音(霊)には意味があり、その意味は「真洲鏡」上の位置に対応します。

ア、ウ、イ、サ、ス、シ、カ、ク、キの9音は、上下中間の場所にあり、「九柱」として特別な存在です。
出雲や伊勢の神殿を支える9柱と同じです。

一番上のカ行は軽く、サ行は中間、ア行は重い音(霊)です。
ア列は始まり、ウ列は中間、イ列は終わりの音(霊)です。

ここの音には意味があり、具体的には、例えば、「サ」は広がり騒ぐ霊、「カ」は光り輝く霊の意味を持ちます。

図の中心に「ス」が位置しますが、「ス」について、中へ集まる霊、天地交合し万物を生み出すと書いています。
「ますみ」も、天地の間の「ス」を見るという意味かもしれません。

ですが、孝道は、「ス」を始めとして75音が生まれたとは書いていません。


<中村孝道の秘伝としての統合>

以上のように、孝道は、言霊の「音声」面を研究し、公開された部分には、志道のような「形象」面の文字論を持ちません。
ですが、秘伝、口伝にはあったようです。

孝道は、次のように書いています。

「瑞組木倭文字は倭人が秋津島なる七十五声を、吹き出す息の形を履行、瑞々しき天津金木に組み止めて、履行の跡を記したる文字也」(古事記図式三百七十五図の内瑞組木倭文字神伝図)

「これ水穂の教へ、字といへるは古へ柴を折り草を結びて諭し給へる声の形を顕はすものにして、すなはち上古の御国の文字なり。右顕しし教へを真須鏡と唱へ、その顕はす柴を瑞組木といふ」(言霊秘伝)

つまり、七十五声の言霊が吹き出す息の形を、「天津金木」を組んで表現した「瑞組木文字(瑞茎文字)」が、日本の神代文字だったというのです。

また、「水穂の教へ」というのは、「水穂伝」を書いた志道の思想を指しているのでしょう。
孝道は、志道の言霊思想を知っていて、取り入れていたのです。

ですが、孝道自身は、具体的に「瑞組木文字」を記しませんでした。

孝道の高弟に望月幸智という人物がいて、おそらく、彼とも親しかったと思われる蘭学者に田島柳がいます。
その田島が、蘭園田翁という名前で孝道の言霊学を紹介した書「皇道真洲鏡」で、「ア・オ・ウ・エ・イ」の五声の「天津金木」による表現と、75声の「瑞組木文字」を記しています。

これを出版したのは、望月幸智の孫の望月大輔です。
望月大輔は、後に、大石凝真素美と名乗り、孝道が公開しなかった「天津金木」や「瑞組木文字(水茎文字)」についても、それを発展させて発表しました。

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*「皇道真洲鏡」より


*平田篤胤の言霊学は「平田篤胤と久延彦祭式」を参照ください。

・川面凡児の言霊学は「川面凡児の霊魂観」を参照ください。
*大石凝真素美の「言霊学」は「大石凝真素美の言霊学と天津金木学」を参照ください。

*出口王仁三郎の「言霊学」は「出口王仁三郎の思想と大本霊学」を参照ください。

本田親徳と鎮魂帰神法


本田親徳の霊学と一霊四魂説」から続くページです。

本田親徳は、「霊学」という表現で、古神道の神智学(宇宙論、霊魂論、行法)を体系化し、独自の行法である「鎮魂法」、「帰神法」を創造し、その後の古神道や、大本教などの新興宗教にも大きな影響を与えました。

このページでは、本田の「鎮魂法」、「帰神法」と、その継承についてまとめます。


<鎮魂法>

本田が言う「鎮魂法」と「帰神法(術)」は、基本的には別の行法です。

ただ、「鎮魂法」は、「帰神法」にとっては準備的な行法となります。
また、憑依作用に関して、能動(する・させる)側から見れば「鎮魂法」、受動(される)側から見れば「帰神法」という側面もあります。

本田流の「鎮魂法」は、「魂振り」や「魂鎮め」という言葉で理解するより、大雑把ですが、霊魂を脱魂したり、憑依したり・させたりする業と理解する方が適切です。

本田は、「鎮魂法」に「幽」の方法と「顕」の方法があると言います。

「顕」の「鎮魂法」は、宮中祭儀としての行う鎮魂祭や、十種神宝を使ったり、「一二三四五六七八九十」を唱言したりするような、呪術的行法として行うものです。

それらに対して、「幽」の「鎮魂法」が、本田流の「鎮魂法」であり、「霊を以て霊に対する」ものです。


具体的な方法は、以下のような次第です。

まず、準備として、「鎮魂石(硬く、丸く、黒い石)」に天宇受売の御霊が鎮まるように、一週間ほど祈念し、そこに神気を鎮めた(魂降れ?)後、袋に入れ、箱に収めます。

実際に修法時には、まず、「鎮魂石」を白羽二重の袋に入れた状態で、天井から目の高さに吊り下げます。
そして、正座して、「鎮魂印(両手の中・薬・小指を左を下にして掌の中に組み、人差指を伸ばして合わせ、左親指を右親指の上に載せる)」を結び、二拝二拍手をします。

次に、「鎮魂石」を半眼で凝視し、「わが霊魂が鎮魂石に鎮まる」と強い思念を数回送ります。
雑念を排除していると、自分の心の奥底の「一霊(小精神)」が現れ、忘我の統一状態に至ります。

やがて、「鎮魂石」が輝いて見えるようになると、それは天宇受売の分霊と交流している状態(魂触れ)です。
そして、自分の体が消失し(祓い)、霊魂を「鎮魂石」の中に定めている状態(魂殖ゆ)になります。

さらに、上方から光が差して神界に入り(受霊)、喜びを感じるようになります。


<帰神法>

「帰神法(帰神術)」は、大雑把に言えば、神霊を降ろして神懸りを起こし、何らかの神意を得る方法です。

本田は、「帰神法」を「神界に感合するの道」と表現しています。
そして、本田が、神界より授かった神法によって、その途絶えていた「幽斎」の方法を復活させたと書いています。

記紀では、最初の神懸りは、天之石屋戸の条で、天宇受売が自力で神懸ったもので、この時の神の名は不明です。

また、古事記の仲哀天皇の条、日本書紀の神功皇后紀には、「審神者」、「神主」、「琴師」の3人による形式化した「鎮魂法」が記載されています。

古事記では武内宿禰が、日本書紀では中臣烏賊津使臣(中臣氏の祖)が、「審神者」を務めています。
古事記では、「沙庭にいて神の命を請う」と書かれ、書紀には「審神者」という言葉が使われています。

「審神者」の役割については、「釈日本記」では、「神を審らか(つまびらか)にする者」とシンプルに表現しています。
折口信夫は、「神語を人間の言葉に通訳する役」としますが、これは本質的ではありません。

本田流では、「帰神法」を「有形/無形(顕/幽)」、「自感法/他感/神感」、懸かる神の「正/邪」、「上/中/下」で分け、全部で36法に分けます。

「自感法」は、自力で神界に行く方法ですが、これは自分の意識をなくして他人に対して発話する「神憑り」ではなく、自分の意識を保ったまま神と会話する「脱魂」に当たるようです。
石笛は吹いて、天之御中主神に至るように黙念して行います。

「神感法」は、神の都合でいきなり神憑りが起こるもので、実質的には、行法ではありません。

「他感法」が一般的に言う「帰神法」であり、「神主」が依代となり、「審神者」が石笛を吹いて、記紀の琴師の役を兼任する形で、2人で行います。
「審神者」は、神界から降ろした神霊を「神主」に転霊し、憑霊した神の正邪を判断し、邪神なら祓い、正神なら神託を請います。


具体的な次第は、次の通りです。

まず、「神主」は、「帰神印(受霊の印、中指と親指で輪を作って左右の輪を交差させて親指を接触させる)」を組み、「我霊魂は天之御中主神の御許に至る」と3回黙念します。

一方、「審神者」は、室内を霊力で祓い清め、霊体離脱して神主の身体に入って健康状態や親族先祖の状態を調査します。
そして、「審神者」は、二拍手して、正神にお懸りいただくように祈願します。
特定の神を選ぶことはせず、正神に任せます。

次に、石笛を3回吹いて、心身を浄めます。
そして、「鎮魂印」を組み、霊体離脱して霊魂が神界に行き、神気を自分の身体の上半身にまで下ろします。
これを「霊を引く」と表現します。

次に、目をつむったまま、神気を「神主」に「転霊」します。
この時、神気は光の球に見えます。
そして、「神主」に直接、神が降りることを祈願します。

これを何度も繰り返します。
すると、「神主」の身体に神気が充満し、光が増し、霊動が現れます。

ですが、やがてそれが収まったかと思うと、体が30-50cmほど真上に飛び上がります。
これを、「体を切る」と表現します。
これは一柱の神が懸かった状態で、「審神者」はこの瞬間を直前に感じます。

神が懸かると、審神の問答をして、正邪判定を行います。
これを「口を切る」と表現します。

問答では、過去・現在・未来について聞いたり、その神の功業を聞いたりして、正邪を確かめます。

また、神の「品位(上中下)」や、眷属の「三等(普通・中等・高等)」を知り、確かめます。

懸かる神は、「神主」の知識や修行の程度に依存し、一般に、最初は低い眷属が懸ります。

そして、邪霊なら祓いますが、邪霊が暴れるようなら「霊縛法」を使います。
「霊縛法」には、鎮魂力による方法、「縛る」といった言霊を発する方法、独特の「九字霊縛」など、各種の方法があります。

正神なら神託を請います。

神託が終わると、神に帰っていただき、二拍手し、印を説きます。

以上は、「顕(顕の幽、顕から幽)」の方法ですが、「幽(幽から幽)」の方法では、祝詞、拍手、拝などを行わない方法です。

このように、「帰神法」で、「審神者」は、審神だけでなく、霊魂の操作に関しても、脱魂し、憑依され、憑依させ、憑依を解くという具体に、様々なことを行います。


<本田継承者の鎮魂帰神法>

本田親徳がその霊学、鎮魂帰神法を伝えた弟子の中で、最も重要な人物は、長沢雄楯(1859-1940)です。
長沢は、出口王仁三郎や友清歓真らにそれを伝えたことで知られています。

長沢は、27歳の時に本田の門下となりました。
そして、1991(明治24)年には、稲荷講社を設立し、弟子を育成して鎮魂帰神法を広めました。

長沢は、基本的には本田流の鎮魂帰神法をそのまま継承しましたが、欧米の心霊主義・降霊術を使った説明もした点で異なります。

先に書いたように、1898(明治31)年には、上田喜三郎(後に大本教の出口王仁三郎)に、1918(大正7)年には、友清歓真に、本田霊学、鎮魂帰神法を伝えました。


大本教の資料によれば、出口王仁三郎は、上田喜三郎時代の1888(明治21)年に、丹波で本田親徳と偶然出会い、本田が上田の資質を感じて、諭したそうです。
またその後、王仁三郎が1898(明治31)年に、高熊山の洞窟で修行中、神秘体験で異玉彦(本田の神名)から鎮魂帰神法などを伝授されたそうです。

同じ頃、長沢が行った帰神法の中で、丹波の上田喜三郎を呼ぶように神示があったとされます。
そして、王仁三郎は長沢のもとを訪れ、本田霊学、鎮魂帰神法を学びました。

王仁三郎は、大正9年に、大本教の機関誌「神霊界」で鎮魂帰神法について公表しました。
彼にとっては、「鎮魂法」と「帰神法」は、「鎮魂帰神法」という一体のものです。
また、多くの場合、病気治療や除霊を目的にしたものとして使われました。

ですが、王仁三郎自身は、特に「霊界物語」以降、彼のようなシャーマン的資質の人間以外の多くの人間が、鎮魂帰神法を使うことに対して否定的な姿勢を示しました。


大本教では、心霊学者の浅野和三郎を中心にして、鎮魂帰神法は万人を神人合一に導く方法であると、大いに宣伝しました。
ですが、実際には、低級な憑依霊、守護神が現れるので、それを顕在化して、改心させたり、払ったりすることが目的とされました。

また、浅野は、鎮魂帰神法を、大本教が言う立て替え立て直しを実現させるための方法としました。

浅野は、神智学の人間から、鎮魂帰神法は世界のどこにでもあると指摘されると、大本教の鎮魂帰神法は、正神界の指命のもとに行われているので、世界で唯一正しい方法だと反論しました。


友清は、大本教を訪れた時に、浅野から「鎮魂帰神法」を受けて、天狗が懸かったと審神され、大本教に入信しました。

ですが、翌年には脱退して、静岡の長沢から本田流の正当な「鎮魂帰神法」を学び、同年に「鎮魂帰神の原理及び応用」を、翌年には「鎮魂帰神の極意」を出版して、本田の法を初公開しました。

そして、大本教に対しては、批判、反駁を行いました。
また、友清は、本田亀次という霊媒を使って、大本教本部が所持していた本田親徳の秘文「夢感」を霊視したと主張しました。

*友清歓真に関しては、別ページで取り上げる予定です。