神秘主義哲学の階層論


神秘主義思想にとって、存在や意識の「階層」は、基本となるテーマです。
古今東西の神秘主義哲学の階層に関する思想を大雑把に紹介しつつ、大胆に解釈します。


<形相的な階層論>

ギリシャ哲学を代表するプラトン、アリストテレスらの階層論の特徴は、「形相性(形・本質)」を基準にすることです。
それは、現代人から見れば、人間に至る進化論的な階層とも一致し、また、人間の成長(個体発生)の階層とも一致します。

プラトンがピタゴラス主義から継承した奥義思想である不文の教説によれば、根源的な2原理は、「一/不定の二」、つまり、「限定/無限」です。
この「無限」とは「形相」を持たないものであり、「限定」とは「形相」を作るものです。

プラトンにあっては、階層の最上位の「限定」する存在は「善そのもの」と呼ばれ、最下位の「無限」な存在は神話的に「コーラ(場所、受容器)」と表現されました。

一方、アリストテレスは、階層の最上位の存在は形相が完全に実現した「純粋形相」、最下位は形相を持たない「第一質料」としました。

このように、彼らの階層論は、「形相性」を基準にし、下位はそれを欠いた「質料(素材・無本質)」と考えます。


プラトンは世界を、原型的な、不変の世界である「イデア界」と、それを受け入れて生成する世界である「現象界(感覚界)」、そして、両世界にまたがってこの2つを媒介する「魂」の3つに分けました。

プラトンの「イデア界/魂/現象界」の3段階の階層論は、後世、神秘主義思想の基本である「霊/魂/体」の3分説となります。

プラトンは、さらに、「魂」を、上下の世界との関係から、「知性的/気概的/情念的」という3段階の部分に分けました。

一方、アリストテレスでは、この3段階は、自然学的に「天体・神々/人間/動物」の3階層に対応します。
ただ、彼はその下にも、「植物」、「無生物」を置いて5階層で考えましたが。

先に書いたように、これらの階層論は、進化や個人の成長(個体発生)の方向を、階層の上位と考えることができるものです。
ただ、進化論では動物と植物は分離したもので、植物から動物に進化したわけではありませんが。

また、古代的な「動物」の概念は、感情やイメージなどの内面世界を持つ生物です。


彼らの階層論は、上位の存在を「原型的」、「原因的」、「創造的」なものと考えます。
これは、地上世界は霊的世界を写した世界であると考える、歴史以前の部族文化の世界観を、ある程度、継承しています。

ですが、彼らの「形相」的な階層論の特徴は、最上位の存在が下位の形(本質)の根拠となり、それを秩序づけるものである点です。
そして、実践・修道は、上位存在を認識することで、正しい秩序(形相)を得ることです。

これらは必ずしも普遍的な思想ではなく、彼らに特徴的な部分です。


<上下対称の階層論>

プラトン、アリストテレスの階層論では、上位と下位は形相性の有・無で正反対の性質を持ちます。
ですが、究極的な神秘体験は、実体験からすれば「形」を感じないことが一般的です。

そのような実体験を持っていた新プラトン主義のプロティノスは、プラトン哲学を継承しながらも、最上位の存在(一者)を「無相(無形相)」であるとしました。
ですが、「一者」が下位の秩序の根拠となり、固定する性質を持つ点は変わりません。


プラトン以降のアカデメイアでは、様々な階層論がありましたが、クセノクラテスは「イデア」を「ヌース(霊的知性)」として捉えていました。
それを受けつつ、プロティノスは、「一者/ヌース/魂」という階層を考え、定着させました。

プロティノスは、「一者」から生み出された「ヌース」は、最初は「形相」を欠いた暗い素材的存在ですが、「形相」を超えた「一者」を振り返って認識することで、光として「形相」を受け取り、形付けられると考えました。

プロティノスの最上位の「一者」が「無相」であるなら、その点では、最下位の純粋な「質料」と同じです。
つまり、この上下の極が同じで、この点で階層が対称となっています。

ですが、最上位が「形相」の創造者、根拠であるのに対して、最下位は「形相」を受容者である点で、両者は異なります。


新プラトン主義のイアンブリコスは、「ヌース」を、「存在/生命/知性」という3段階に階層化しました。

これは、プロティノスが考えた、「認識対象/認識作用/認識主体(内容)」を捉えなおしたものです。
ですが、ここには、階層の上下対称性の考え方が潜在しています。

新プラトン主義の大成者であるプロクロスは、それを理論化して、階層の上下対称性を、極だけではなく全体に広げました。

プロクロスは、魂(限定すれば、人間の魂、中でもプラトン言う魂の気概的部分)を階層の中心にします。

そして、アリストテレスの「動物/植物/無生物」の本質を、「知性/生命/存在」として捉えます。
これは、イアンブリコスの「ヌース」の3階層の本質を、下位に折り返した形になっています。

プロクロスの上下対象の階層論は、近代の神秘主義者であるシュタイナーの階層論にも見られます。

シュタイナーにおいては、人間の本質の階層は、「悟性魂(自我)」を中心にします。
そして、上位の「霊人/生命霊/霊我(意識魂)」と、下位の「感覚魂(アストラル体)/エーテル体(生命体)/肉体(物質体)」が対称的な本質を持っています。

シュタイナーにおける実践・修道は、下位の上位への「折返し」です。
下位の存在を意識化することで、順次、上位の存在が生まれます。

グルジェフやケン・ウィルバーにも、これに似た上下の対称性の考え方があります。


<創造的想像力の中間的世界>

プラトン、アリストテレスの階層論は、概念的(理念的)な知性を重視するものであるため、イメージや想像力、象徴をあまり評価しません。
ですが、多くの神秘主義思想、特に魔術的な思想においては象徴的なイメージが重視されますし、啓示的な宗教でも、それらはヴィジョン(幻視)として与えられるものなので重視します。

そのため、神秘プラトン主義でも、魔術に傾倒したポリピュリオスは、予言に関わる神的な想像力を重視しました。
また、啓示宗教であるイスラム教の神秘主義哲学者も、それを重要しました。

ペルシャ人のスフラワルディーは、イデア界に相当する恒星天と、動・植物魂に当たる惑星天の間に、神的・象徴的イメージの世界である「中間世界」を置きます。

つまり、この象徴的なイメージ、創造的想像力の「中間世界」は、通常のイメージや想像力とは別のものなのです。
そして、この位置は、「霊的知性(直観的知性)」の世界の下ではありますが、日常的な概念的思考やイメージの世界の上なのです。

井筒俊彦の意識の階層論でも、「中間世界」は「根源的イメージ」の段階に当たり、これは「言語アラヤ識」と「日常的意識(分節世界)」の間に位置します。


象徴的なイメージ、創造的想像力の段階を、上下対象の階層論に当てはめると、概念的意識の段階を中心にして、その下位のイメージの段階を、上に折り返した場所として考えることができます。
これにぴったりと当てはまるのは、シュタイナーの「アストラル体」を折り返した「生命霊」でしょう。

シュタイナーの階層論では、この段階は「霊視的」認識とも表現され、さらにその上は「霊聴的」、その上は「合一的」認識とされます。

象徴やイメージ(心像)は視覚に限定されませんが、「中間世界」に対応するのは「霊視的」段階でしょう。

視覚的なものより聴覚的なものを上にするのは、密教も同じです。
密教では、聴覚的なマントラも視覚的な尊格の姿形(イメージ)も象徴性を持ちますが、マントラをより根源的なものとします。
これは、マントラの方が視覚的イメージより形相性を脱しているからでしょう。

例えば、密教の代表的な行法の「五現等覚」では、「虚空」から「光源(月輪)」→「放射光(日輪)」→「象徴的な音(種字)」→「象徴的な意味(三摩耶)」→「象徴的な視覚イメージ(仏身)」の順に観想して尊格を現します。
つまり、形象的視覚よりも象徴的意味の直観、さらに聴覚、光の感覚をより根源的と考えます。

もちろん、霊的感覚は、通常の日常的対象の感覚とは違うものなので、ここに書いたのは共感覚的な表現です。


<複数系列の階層論>

階層に複数の系列を立てる階層論があります。

プロクロスは、各階層に「第一者(へー・モナス)」を立て、それが「限定/無限」を生み、その混合で「多者」が生まれると考えました。
これは、各階層に次元の異なる「質料」を認めるもので、各階層に「形相」と「質料」の2系列がある階層論であると考えることができます。

これは、神話的には、各階層に神のカップルを立て、その女神が各階層の素材原理に当たると考えることに対応します。


ペルシャ人のイブン・スィーナー(アヴィセンナ)は、天上に「認識/想像力/素材」の3系列を考えました。
「認識」は「形相」や「霊的知性(知性体)」に、「素材」は「質料」に対応するものであり、「想像力」は彼が独自に新しく天使の系列と解釈して付け加えたものです。
彼は、これによって宗教(天使論)と哲学(知性論)を統合しました。

スフラワルディーやイブン・アラビーが、階層における「中間世界」として考えたものを、イブン・スィーナーは系列として考えて、「知性」と対等なものにしたのです。

この「想像力」の系列の下位の段階は、通常のイメージや想像力、上位の段階は象徴的イメージ(創造的想像力)であると考えることができます。

ちなみに、スフラワルディーは、天上に「認識」と「素材」の2系列を考えました。
それぞれは、別の系列の天使でもあって、後者は「母達の大天使」と呼ばれます。


また、近代の神智学(アディーヤール派神智学協会)は、3つの系列を考えました。
「3重のロゴス」と呼ばれる、「霊我(モナド、意識、神性)/形相(モナド・エッセンス、生命)/質料(力)」の3系列です。
これは、ズルワン=ミトラ神智学系の「アフラ・マズダ/ミトラ/アナーヒター」に相当し、それを継承するものでしょう。


<強度的な階層論>

上下対象の階層論は、「形相性」の点では対称的ですが、「創造性」、「原因性」という点では、これらは上位の特徴であり、上下非対称的です。

これに対して、ストア派による階層論は、「形相性」とは全く異なる、内的な「緊張」を基準とした階層論です。
「緊張」は「力」、「強度」とも表現できます。

ストア派は、各階層の本質である、鉱物の構造、植物の成長、動物の霊魂、人間の知性などを、「形相性」ではなく「緊張」の度合いの違いであると考えました。

「強度」のある上位存在は、「形相」を生み出しますが、ストア派はこれを「種子的ロゴス」と表現しました。

これはプラトンの「イデア」のように超越的な存在ではなく、内在的な存在です。
そして、「ロゴス」という原型は、静的な枠ではなく、多様性を発現させるものです。

密教などのタントリズムや一部のヴェーダーンタ哲学といった、非実体主義、幻影主義的なインド系の思想にも同様の考え方があります。
また、シュタイナーの思想もこれに似ています。


「強度」の階層論は、近現代の哲学では、ベルグソンやドゥルーズに見られます。
ドゥルーズは、ストア派を評価し、プラトンの思想を強度的階層論から解釈しました。
この「強度」の階層を、ベルグソンは「深み」、ドゥルーズは「奥行き」と表現しました。


<微細さの階層論>

「霊/魂/体」の3分説は、インドでは、ヒンドゥー教神智学では、「原因身(コーザル・シャリーラ)/微細身(リンガ・シャリーラ)/粗大身(ストゥーラ・シャリーラ)」の3シャリーラ説が対応します。

仏教では、「法身(ダルマカーヤ)/報身(サンボガカーヤ)/応身(ニルマナカーヤ)」の三身説です。
この3段階は、「極微/微細/粗大」とも表現されます。

このようにインドでは、「微細さ」を基準とした階層論が語られます。

ヒンドゥー教や仏教の哲学の階層論も、上位存在が「原型的」、「原因的」、「創造的」な点ではギリシャ哲学の階層論と同じです。
「微細さ」は、「原型的」、「原因的」、「創造的」なのです。
数学的に言えば、「微分的」です。

ですが、仏教、ヴェーダーンタ哲学、サーンキヤ哲学などでは、最上位の存在は、「形相」を生みはしても、根拠とならず、固定しない性質を持つ傾向があります。
つまり、「形相」を幻影的、非実体的、非本質的に捉える点では、ギリシャ的な形相の階層論と異なります。


<無根拠の階層論と解放論>

上にも少し書いたように、仏教やヴェーダーンタやサーンキヤのようなインド哲学は、最上位の存在(空、ブラフマン、プルシャ)を、生み出された「形相」の「根拠」としませんし、生み出すことに対しても否定的です。

階層の最上位存在を、「無」のような否定的表現にするかどうかでは、重要な問題ではありません。
生み出される「形相」に対して根拠となるか、無根拠なものかが重要です。

キリスト教の否定神学は、神を「無」として表現しますが、被造物を秩序づけるロゴスの根拠となります。
それに対して、神を「無底」と表現したベーメやシェリングの場合には、「無根拠」に近い意味を表現します。


密教はヒンドゥー・タントリズムの場合は、「無根拠」であることを「自由」として捉え、創造を積極的に評価します。

そして、「涅槃性(非煩悩性)」の創造と、「煩悩性」の創造を区別します。
実践・修道としては、「形相性」に対するこだわりを捨てることで、活性化した前者の創造を目指します。
これは、階層論ではなく解放論、救済論です。


<各解放論の関係の解釈>

インドのタントリズムの解放論における「涅槃性」の創造と「煩悩性」の創造の差異は、「強度」を日常的な次元にまでもたらした動的な創造であるかないかの違いです。
つまり、タントリズムでは、「強度」は解放論に関わります。

ですから、タントリズム的な解放の度合いは、単純には、ドゥルーズ的な強度的階層の「奥行き」に関わるものとして解釈することもできるのではないでしょうか。


「強度」の「奥行き」は、上下対象の階層論では、下位の上位への「折返し」に関わると考えられます。
「奥行き」の距離は、階層の高所に見つけることができるでしょう。

下位存在を意識化して「折り返す」ことは、「強度化(動態化)」と関わり、それは、タントリズム的な「解放」にもつながるでしょう。

(2020-12-18)

悪と堕落の捉え方

古今東西の神秘主義思想、秘教が、悪と堕落についてどのように捉えてきたかについて、列記するような形で簡単にまとめます。


<部族文化の悪と堕落>

世界の多くの部族文化の神話には、「失楽園(堕落)」の神話があります。
それらの中には、人間が「言葉」や「社会・文化秩序」を獲得することよって、自然な状態が失われたことを表現しているものが多くあります。

神話では、これと同時に、「死」や「仕事」が発生したとされることもあります。

神話が語るその原因は多様です。

例えば、女が杵や機織りの仕事をしていると、天を突いてしまったので天が上昇して遠ざかった、という神話がアフリカをはじめ世界の諸地方に多く存在します。
これは、「文化」的作業(繰り返しの要素のある)が原因による「失楽園」を表現しているのでしょう。

他にも、神からのメッセージの伝達ミス、聞き間違え、死ぬという思い違い、などの原因で死が発生したという神話も多くみられます。
これらはどれも「言語」や「観念」が関係しています。

「旧約聖書」の「失楽園」の神話は、人間が善悪を知る「智恵」の実を食べたことが原因です。
これも、「言語」、「文化秩序」による「堕落」と同様です。


部族文化では、この「文化秩序」を作っている規則(タブー)を犯すことが「悪」です。
タブーを守ることは人間社会だけの問題ではなくて、自然の秩序・豊穣を保証するのです。

ですから、部族文化の神話における、この意味での「失楽園」と「悪」は、「文化秩序」の獲得という同じ事態に対する反対の価値観(両義性)を表現しています。


<ヘレニズム的な無知として堕落>

エジプトのオシリス神話では、オシリスはセトに騙されて、「等身大の棺」に入ってナイルに流され、体を分割されて死にます。
「等身大の棺」は、「言語」や「イメージ」、あるいは、それらによって構成される「自我像」などの「表象」の象徴でしょう。
つまり、真実とその「表象」を取り違えたことが死の原因なのです。

ヘレニズム時代にエジプトのアレキサンドリアで書かれたヘルメス文書「ポイマンドーレス」にも、似たような神話的思想が継承されています。
神的な原人間である「アントロポス」が、地上の水面に写った自分の像に囚われて地上に「堕落」するのです。
「鏡像」も、「等身大の棺」と同様に「表象」(イメージや言語、自我像)の象徴です。

これらの神話は、旧約や部族文化の「言葉」や「智恵」が「堕落」の原因であるという思想を継承しています。
ですが、これは、「表象」と真実を捉え違うことであり、「智恵」ではなく「無知」であることを表現しています。

ですが、「ポイマンドーレス」は、アントロポス自身も神ヌースの「似像」であると考えます。
そして、アントロポスには「ロゴス」があるのに対して、地上の水面に写った「似像」にはロゴスが存在しないと語ります。
つまり、真実性のある像とない像を区別しています。

ヘルメス主義と同時期のアレキサンドリアでも盛んだったグノーシス主義は、より明確に、「鏡像」と「知(グノーシス)」を欠いた「無知」による「堕落」に関して語ります。

まず、「ヨハネのアポクリュフォン」は、至高神が自分を「取り巻く光の水」の中に自身の「似像」を見て認識したことで、最初の流出による「バルベーロー」を創造します。
つまり、最初の像が、神の自己認識によって生まれたことを表現しています。

また、プトレマイオス派グノーシス主義では、霊的智恵の女性原理である「ソフィア」が、認識できない「深淵」である「原父」を認識しようとして堕落の危機を生みました。
「原父」はロゴスで認識できない存在であるのですが、その認識できないという認識の欠如(無知)によって、像を形成できず、自分自身を形成できなかったのです。
「ソフィア」は、像として認識できない根源的存在を像として認識しようとした「無知」によって堕落したのでしょう。

つまり、ヘルメス主義やグノーシス主義は、「ロゴスを超えた像なき存在」が「ロゴスのある像」を生み出す自己合一=自己対象的な認識段階と、自他分離した自他を対象とした認識で生み出される「ロゴスのない像」の違いを述べているのでしょう。


また、グノーシス主義は、「堕落」が原因になって「悪」が生まれ、宇宙はこの「悪」なる創造主によって作られたと語られます。

つまり、部族文化とは違って、「堕落」と「悪」は同一の原理で捉えられます。
そのため、グノーシス主義は現世否定の思想になってしまいます。


<インド的な無知の堕落>

ヴェーダーンタやサーンキヤといったインド哲学や仏教などでも、「無知」が「堕落(輪廻)」の原因とされます。

やはり、「言語」、「イメージ」、「自我像」を真実と取り違える「無知」であり、それによって執着、渇愛といった煩悩が生まれます。
こいった真実でない「表象」は、「幻影」と表現されます。

そして、「悪」とは、このような認識やそれを説く者に対する敵対者です。

つまり、ここでも、部族文化とは違って、「堕落」と「悪」は同一の原理で捉えられます。
そして、やはり、現世否定の思想になってしまいます。

これらのインド古代期の思想では、宇宙創造や現世、言語的認識を否定的に捉えます。
宇宙創造は「幻影」であり「悪」なのです。
ですから、その宇宙の素材である「根源物質(プラクリティ)」も、宇宙創造の根本原因である「幻影(マーヤー)」も、「悪」です。


ですが、インドでは徐々に現世肯定的な思想への転換が行われ、中世に起こった超宗教・宗派的運動のタントリズムでは、それがはっきりとした形になりました。

宇宙創造は肯定的に捉えられるようになり、否定的存在だったプラクリティに対して、動的な女性原理のシャクティが肯定的存在として重視されるようになりました。

また、タントリズムでは通常の言語とは異なるマントラが重視されました。
これは、単なる静的な表象ではない、動的な象徴的言語で、上記の「ロゴスある像」と「ロゴスのない像」の違いと似ています。

このようにタントリズムでは、固着・凝縮された創造が「悪」となり、それを活性化し、自由な創造が「善」となりました。


<形相の有無、産出力としての善悪>

別項でも書いたように、プラトン、アリストテレス哲学では、「素材的なもの(質料、コーラ)」に対して、「形態的なもの(形相、イデア)」に価値を置き、存在の階層における基準としました。
これは、「質料的なもの」を「悪」としているといっても過言ではありません。

プラトン主義、新プラトン主義では、形相を「光」、質料を「闇」とも表現します。
そして、下位の存在を上位の存在の「影」、「映像」とも表現します。

プラトンにおいては、地上へと輪廻することは、魂の「堕落」であり、イデア界の記憶を忘却することで起こります。

「表象」も「形相」ですが、単純に「形相」の欠如や不正確さを「悪」とすることは、一種の合理主義です。

それに対して、上に紹介したように、グノーシス主義やタントリズムのような神秘主義的思想は少し違った考え方をします。
つまり、「形相」を生む力能、つまり、動的、直観的であることを階層の基準とし、この力能が欠如した固着した形相を悪と考える傾向があります。
上記した、「ロゴスのある像」と「ロゴスのない像」の違いも、力能の有無が本質であると考えることもできます。

プラトンの「イデア」の捉え方にも、この2つの思想への揺れがあります。

「緊張」の度合いを階層の基準とするストア派哲学も、後者の考え方に近いものでしょう。
これは、現代哲学のドゥルーズにまでつながります。


<啓示宗教の悪と堕落>

イラン系の啓示・救済宗教は、「善と悪の戦い」を強調します。
その影響は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の根本的な世界観に、さらには、ヒンドゥー教や仏教、道教などの終末論に及びます。


マズダ教(ゾロアスター教)や初期ズルワン主義では、悪神アーリマンは、原初神が生む二神の一柱です。
ミトラス教では、三世代目の三神の一柱です。
マニ教では、善と悪の原初の二神の一柱です。

悪神の本質は、明確ではありませんが、「光」に対する「闇」として表現されます。
マニ教では、これは「物質性」でもあります。

マズダ教やマニ教では、物質世界は、悪神を閉じ込めるために作られた、「善悪の戦い」の場です。
マニ教は現世否定的ですが、ミトラ教は進化論的で物質世界に積極的な意味を見出します。


イラン系宗教では、細かく見れば、「堕落(堕天)」は3段階で考えられます。
「神(天使)」の堕天(悪神化)、「神的な(天上の)原人間」の堕落(堕天)、「最初の(地上の)人間」の堕落です。

初期ズルワン主義では、悪神アフリマンは原初神ズルワンの「疑惑」により生まれます。

「原人間」の堕落の原因は、マズダ教、ミトラ教では、悪の攻撃や誘惑です。
マニ教では、「原人間」的存在であるアフラ・マズダは、作戦で自分から悪神に食べられます。

「最初の人間」の堕落は、マズダ教では、悪神が創造主であると嘘をつくこと、ミトラ教では誘惑が原因です。


旧約聖書の失楽園は、蛇の誘惑によって善悪を知る「智恵」の実を食べたことが原因です。
キリスト教は、この失楽園の本質を、明確に「罪」とし、蛇を「悪」としました。

ですが、部族文化や神秘主義の伝統では、蛇は無意識的な「智恵」をもたらす不死の存在です。
グノーシス主義のオフィス派は、旧約聖書の蛇を神の使者であり、人間に「智恵」と共に「自由意志」をもたらしたとして、崇拝します。

また、キリスト教圏でも、アダムを礼拝することを拒否して「堕天」したとされるルシファーを、「自由意志」と結び付けて評価する思想が生まれました。
「失楽園」のミルトンやヤコブ・ベーメもその立場です。
人間の「堕落」はその再現となります。

ルネサンス思想家のパラケルススでは、物質世界(地上)は、「堕落」した人間を復帰させるために作られた場です。
これは、イスラム教イスマーイール派でも、シヴァ教カシミール派でも同じです。


<カバラ、魔術の不均衡としての悪>

中世カバラの代表的思想家であるイサク・ルーリアは、創造を、「裁き」という性質を持つ「残光」と、能動的な「直線の光」の2つの原理の光の戦いと考えました。
これは、イラン系宗教の善と悪(光と闇)の戦いのカバラ的再解釈です。

そして、「裁き」の光が凝縮した第5セフィラのゲブラー(厳格)が、第4セフィラのヘセド(慈悲)を拒否します。
それによって、セフィロートである光の容器が破壊され、バラバラになって物質的なアッシャー界に落ちました。
これが「悪」、「堕落」の発生です。

つまり、「厳格」、「裁き」が「悪」と「堕落」の原因であり、これは同時に、「慈悲」との間の「不均衡」が原因なのです。

近代における西洋魔術の初の実践的な結社ゴールデン・ドーンにおいても、セフィロートの力の「不均衡」を「悪」と考えます。


<神智学、人智学>

近代神智学は、東西の過去の神秘主義哲学、秘教的宗教の統合を目指しました。

神智学協会のブラヴァツキー夫人は、諸宗教で語られる「天使の反乱」を、自身の宇宙進化論に基づいて、霊的存在(アグニシュバッタ)が「自由意志」によって人間に受肉することを拒否したことの神話的反映だと解釈しました。

また、「堕天」は、人間に「自由意志」をもたらし、進化させるために人間に受肉した霊的存在(モナド、高級自我)が、一時的に低次の要素に結びついてメンタル体(低位マナス)となってしまったことの神話的反映だとしました。

ルシファー、アザゼル、アグニシュバッタ(アスラ)、アフラ・マズダは、この受肉した霊的存在の各民族での表現であり、「堕天使(悪魔)」であるアーリマン、サタンは、それがメンタル体となったものであると。

近代神智学の特徴は、「悪」や「堕落」の解釈に、進化論に結びつけた受肉の観点を持ち込んだことです。

この神智学の宇宙進化論を再解釈すると、やはり、人間が自我や言語的な「知性」を持ったことの否定的側面であり、それは同時に「自由意志」の発生でもあると言えます。


神智学協会から独立して人智学協会のリーダーとなったルドルフ・シュタイナーも、自身の宇宙進化論に基づいて類似した解釈を行っています。

シュタイナーは「悪」に2つの原理、ルシファーとアーリマンがあると説きます。

天使の「堕天」は、ルシファーが進化から取り残される代わりに自由な存在になったことを反映しています。
そして、「原罪」は、ルシファーが人間のアストラル体の中に住み着いて、自由と感覚的欲望を与え、感覚的世界へと引きずり下したことを反映しています。

ルシファー(デーヴァ)は、人間の魂を幻想に閉じこめますが、その力によって人間は物質界から自由でいられます。
一方、アーリマン(サタン、アスラ)は、人間に物質界を志向させ唯物論を信じ込ませますが、これによって自然観察(科学)が可能となります。

シュタイナーは、この二つの力の均衡を取ることで、人間が進化できると考えます。
大雑把に言えば、非物質的な想像力と物質世界の分析力の均衡が必要ということでしょうか。
彼にとって「悪」は「不均衡」から生じる相対的な存在です。

(2021-01-19)

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創造と進化と帰還


宇宙の「創造」と「進化」、原初の神的存在への「帰一」に関して、神秘主義思想は様々な宇宙論的時間論(宇宙の始まりから終わりまで)として語ってきました。

このプロセスは、「下降」と「上昇」、あるいは、「流出」と「帰還」、「内化」と「進化」など、様々な表現で語られてきました。

また、このプロセスは、一回限りとされる場合もあれば、周期的に繰り返す場合もあり、また、入れ子状の構造になっている場合もあります。

そして、このプロセスは、「質料(素材)」と「形相(形態)」という観点から語られる場合もあれば、「意識原理」と「物質原理」という観点からの場合、あるいは、両者を統合した3つの観点から語られる場合もあります。


<オリエント、ギリシャ、インド>

ゾロアスター教にも見られるように、イラン系宗教の救済神話の宇宙論的時間は、善神が悪神を滅ぼす「直線的」な大時間と、その中で人間が「周期的な堕落と救済」を繰り返す「周期的」な小時間を語ります。
この宇宙観は、東西、後世に大きな影響を与えました。

物質的な宇宙の「創造」は、悪神を閉じ込めるために作られましたが、この「創造」は、先に霊的世界が作られるので、「下降」のプロセスです。
物質的宇宙の「創造」は、天空、水、大地、植物、動物、人間という順で作られました。
この順は、現代の「進化論」に類した価値観と似ています。


バビロニア(カルデア)系のズルワン主義の宇宙的時間は「周期的生滅」を繰り返します。
至高神であるズルワンは、生滅する宇宙と時間を生み出す無限時間神です。

この「周期的」な時間の中にイラン的な救済神話が取り込まれています。
このバビロニアの「周期的生滅」の宇宙観も、東西、後世に大きな影響を与えました。


初期ギリシャ哲学のアナクシマンドロス、ヘラクレイトス、エンペドクレスらの宇宙的時間は、4大元素によって作られた宇宙が「周期的生滅」を繰り返します。
この周期的宇宙論は、バビロニアの影響を受けたものでしょう。

中でもエンペドクレスの宇宙論は、宇宙は悪の原理によって「堕落」=「創造」され、やがて原初の状態に「復帰」することを繰り返すもので、イランとバビロニアの宇宙論の哲学的統合が見られます。


サーンキヤ哲学、ヴェーダーンタ哲学などのインド・バラモン哲学の初期の宇宙論では、宇宙の「創造」は、「ブラフマン」、「プラクリティ(根本物質・自性)」といった原初存在の「開展」過程です。
そしてこれが、「プルシャ(純粋意識・最高我)」や「アートマン(個我)」の「輪廻(堕落)」の原因であり、その状態からの「解脱」が目指されます。
ですが、ここには、宇宙の終焉といった大時間の観念は希薄です。

一方、その後の「ヴィシュヌ・プラーナ」などのヒンドゥー教、及び、「倶舎論」などの部派仏教の宇宙的時間は、そこに、おそらくバビロニア、イランの両方の宇宙論を取り入れました。
インド的な堕落論に「周期的な堕落と救済」、宇宙の「周期的生滅」が組み合わされて、入れ子の「多重周期」になっています。
ヴィシュヌのスケールである大時間においても、ヴィシュヌの睡眠と覚醒に従って宇宙が生滅を繰り返します。


インド密教の最終形である「カーラチャクラ・タントラ」は、ズルワン=ミトラ系の終末論を仏教化した最後の形であり、そこにタントラ的な意識論、霊的身体論、修道論も統合しました。
そのカーラ・チャクラ(時輪)尊は、無限時間神ズルワンの仏教における最終形態です。


<キリスト教、イスラム教>

新プラトン主義哲学は、「一者」からの「流出」とそこへの「帰還」を宇宙論的に語ります。
ですが、これは常に起こっていることであり、大時間での話(宇宙の時間的な始りや終わり)ではありません。

キリスト教の宇宙論的時間は、基本的にはイランの救済神話の大枠を継承した「直線的」な大時間です。
「無」から創造された宇宙の中で、一回かぎりの「堕落」と「復帰」があります。
ですが、受肉した神であるイエス・キリストによる贖罪が、その「折り返し点」になる点が特徴です。

このキリスト教的な救済神話の大時間と新プラトン主義的な哲学を統合したのが、中世のケルト人のスコトス・エリウゲナです。
彼は、存在を超えたという点で「無」である神が、神自身である世界を「創造」し、キリストを「折り返し点」として、最終的に全自然が神に「帰一」する、「下降/上昇」の宇宙的時間を描きました。


イスラム教は、キリスト教を継承しながらも、イエスの神性を否定して、複数の預言者やイマームを立てます。

高度な救済神話を創造した、イスマーイール・タイイブ派では、「復帰」のプロセスを預言者ごとの「段階的な周期」とします。
1つの周期が終わるごとに、「堕落したアダム」が、1段1段と位階を上昇して「復帰」します。
宇宙創造の目的は、人類の天使であるこの堕落した「天上のアダム」の「復帰」であり、人類の「復帰」もこれに連動します。

複数の預言者の周期という点では、ゾロアスター教の影響があるかもしれませんが、順次上昇するという点では異なります。


<進化論以降の近現代>

ブラヴァツキー夫人の神智学の宇宙的時間は、「ヴィシュヌ・プラーナ」の「多重周期」とイラン系救済神話、そして、進化論の発想を組み合わせた複雑なものです。

宇宙は、原初存在(神)から生まれ、最終的にそこに「帰一」します。
大時間では「下降/上昇」から構成される「直線的時間」があり、それぞれの中に入れ子状の「多重周期」の「下降/上昇」の小時間があります。
この「下降/上昇」を、「逆進化/進化」とも表現します。

近代神智学の「進化」は、科学的な進化論を取り入れて霊的に拡張したものです。
人間が物質の体を持つ以前から、それを捨てた以降までを語ります。

ルドルフ・シュタイナーは、ブラヴァツキー夫人の神智学の宇宙論を修正しましたが、その特徴は、意識的な自我(悟性魂)を中心にした階層的な上下の対称性を、歴史的な前後の対称性にまで反映させている点です。


インドのオーロビンド・ゴーシュは、伝統的なインドの宇宙論に進化論を取り込み、絶対者の展開・下降である「内化」と、その内在化した絶対者の発現・解放・上昇としての「進化」の2局面を語りました。
そして、彼はそれを、自身の総合的なヨガ観と結びつけました。

ニュー・エイジ最大の論客であるケン・ウィルバーも、オーロビンドの「内化/進化」と同様の宇宙観を語ります。
そして、彼はそれを、ホロン的なシステム論と統合して表現し、それを東洋的修道論とトランス・パーソナルな心理学に結びつけました。


<質料、形相、意識の下降/上昇>

宇宙論的時間の「創造(下降)/復帰(上昇)」は、ギリシャ系の神秘哲学では、「質料」と「形相」の観点から語られました。

「下降(流出)」は「質料」→「形相」の順でなされ、認識が両者の間を媒介します。
ただ、新プラトン主義では、これは時間的というより、論理的な順かもしれません。

新プラトン主義では、「流出」した下位の「質料」が上位存在を振り返って見ることで「形相」を受け取り、自身をその「似像」として形つくります。

そして、魂の「帰還」も、ヌース(霊的直観)による上位の「形相」の認識を経て、最終的には「形相」を超えたもの(一者)の顕現によって果たされます。


インド・バラモンのサーンキヤ哲学は、「プルシャ(純粋意識・最高我)」と「プラクリティ(根本物質・自性)」の二元論です。
物質原理の「プラクリティ」は「質料」、「形相」の両方の原因となります。
つまり、ギリシャ哲学の「質料」、「形相」の2観点とは違って、「意識」を別に立てます。

重要なのは、一般に言う「精神(認識)」はすべて物質原理「プラクリティ」から生まれることです。
「プルシャ」の働きは、認識者ではなく、純粋な「観察」、「自覚」、「意識」です。
これは、新プラトン主義の「一者」が認識(ヌース)を超えていることと似ています。

ヴェーダーンタ哲学は、本来「ブラフマン」=「アートマン(個我)」の一元論ですが、これは「ブラフマン」の中に、世界とは別に「アートマン」という「意識原理」が立てられているとも言えます。

「意識原理」は、「創造(開展)」された物質原理に自己同一化することで「堕落(輪廻)」します。
ですが、自己自身を見出すことで「解脱」します。

実は、サーンキヤ哲学の「プルシャ」は、インド神話の「プルシャ」(解体死した原人間)を哲学化したものです。
このイラン版が「アパム・ナパート」であり、それを継承したのがミトラ教神話の「アフラマズダ」(光のかけらとして地上に堕ちた原人間)です。

つまり、イランの宗教的救済神話とインド哲学は、同じ「意識原理」の「下降」を異なる表現方法で語っています。


後のタントリズム(密教)では、「意識原理」がシヴァ(仏)、物質原理がシャクティ(仏母・明妃)となります。
タントリズムの場合、物質原理が「意識原理」に復帰・合一させ、活性化させる点で、インドの古典哲学と異なります。

また、ゾクチェンでは、「意識原理」が「心そのもの」と呼ばれ、「心」はそこから生まれたもの(精神)です。
ゾクチェンでは、精神のその活動を、自然に、自由に、「意識原理」の中に終え(自己解脱)させる点で古典哲学やタントリズムとは異なります。


近代の神智学のアディヤール派は、「下降/上昇」を「質料」、「生命(モナド・エッセンス)」、「意識(モナド)」の3つの観点から語ります。
「生命」は「形相」的な原理です。
これは、ギリシャ系哲学とインド系哲学、イラン系神話を統合した形です。

「意識原理」のモナドは、ギリシャ哲学由来の言葉ですが、その本質は、プルシャであり、アフラマズダ(堕ちた光のかけら)です。

科学的には、「意識」は神経系・思考の発達と共に自然に創発する「形相」的存在ですが、神秘主義思想(インド哲学、密教、近代神智学など)では、原初から存在する至高の存在です。
近代神智学では、この「モナド」が人間に下ったことが、「下降」から「上昇」への「折り返し点」となります。


<6側面のモデル化>

以上のような3つの観点から「下降/上昇」を語ると、次のような6つの側面で考えることになります。

1:質料の下降:創造
2:形相の下降:進化
3:意識の下降:受肉
4:意識の上昇:解脱(意識進化)
5:形相の上昇:離脱
6:質料の上昇:吸収

これは、単純に1から6に進む段階ではありません。
また、多段階の階層に由来する多重周期を考えると、全体のプロセスは複雑です。

「質料」の「下降/上昇」は、その「粗大化/微細化」とも表現できます。
「形相」の「下降/上昇」は、認識(反映)の「対象化/合一化」とも表現できます。
「意識」の「下降/上昇」は、その「個体化/脱個体化」とも表現できます。

近代神智学は主に7階層説で考えますが、単純にすると「霊・魂・体」の3階層で考えられます。
これはインドでは「原因・微細・粗大」と表現されます。

以下、近代神智学の6つの観点から見た宇宙論的時間論を、他の神秘主義思想と結びつけながら、当ブログなりに、解釈・モデル化してみましょう。


1の「質料の下降」は、原初の絶対存在から宇宙の素材が生まれる「創造」の第一の側面です。
質料は、「硬い」、「粗大」、「暗い」などと表現される方向に順次作られ、最終的に物質化します。
3階層では、「霊」の質料、「魂」の質料、「体」の質料の「創造」です。


2の「形相の下降」は、「創造」の第2の側面です。
質料の側から見れば、質料が構造化、組織化されるプロセスで、「進化」とも表現できます。

「形相の下降」は、「霊」の質料の形相化、「魂」の質料の形相化、「体」の質料の形相化と進みます。
さらに、例えば、物質世界では、「体」の質料の形相化は、「体」の形相の形相化(物質の構造化、生命の発生)、「魂」の形相の形相化(内面を持つ動物の発生・進化)、「霊」の形相の形相化(霊的認識を持つ存在への成長・進化)と進みます。

一般に、科学では、物質が創発的に自己組織化すると考えますが、神秘主義思想では、上位存在が下位存在の形相の原因になると考えます。
その「形相の下降」には、2種類のあり方があります。

一つは、上位存在が下位存在に「形相」を与えることです。
思考が直接的に物質に影響を与える(偶然性に働きかける)というような、魔術的な方法です。

もう一つは、下位存在が上位存在を認識して受け取る場合です。
この場合、下位存在が上位存在の「似像」になるとも表現されます。


3の「意識の下降」は、近代神智学の言う「モナド」の下降である「受肉」です。
これは、物質世界においては人間における「意識」の発生です。

肉体に受肉したばかりの「意識」は、意識できる範囲が少ないのですが、意識できる範囲を順に下位へ、そして、上位へと広げていきます。
「意識の下降」は「意識化の下降」に続き、そして、「意識化の上昇」が「意識の上昇」を引き起こします。
詳細は、後述します。


4の「意識の上昇」は、3の逆のプロセスで、「解脱」とも表現できます。
これは「意識化」を上位存在へ広げることから始まります。

霊的・直観的なものを「意識化」すると、その「形相(形相の力能)」を物質世界に現実化(下降)することができるようになります。
これは、最初は肉体を通して行います。

ですが、人間が霊的に進化した将来では、直接的に、魔術的に、つまり、考えることでそれを物質界に起こすことができるようになるとされます。
シュタイナーは、これを被造物から創造者になることであると言います。

そして、「意識」は、「体」から、「魂」から、「霊」から解脱していきます。

インド思想の「解脱」による輪廻の終了は、宇宙論的に解釈すれば、この「解脱」段階の進化の個的な先取りとなります。


また、3、4の「意識」の成長の中で、「自由意志」や「個的意識」が育ちます。
キリスト教圏(ミルトン、ベーメなど)や近代神智学は、堕天使ルシファーがこれをもたらしたと考えます。

「意識化」が「上昇」する過程で、この「個的意識」は、「超個的意識」に変容します。


5の「形相の上昇」は、2の「進化」の逆のプロセスで、例えば、「離脱」などと表現できます。

「体」の質料から、「魂」の質料から、「霊」の質料からの離脱と進みます。
言い換えれば、肉体、アストラル体、霊体が順に「完成」し、それを「放棄」することです。

さらに、「体」の質料からの離脱は、「霊」の形相、「魂」の形相、「体」の形相の離脱と進みます。
言い換えれば、肉体からの「霊」の離脱、「魂」の離脱、エーテル体の離脱…です。

密教で仏の三身を獲得することは、従来の仏教の単なる解脱とは違って、「体」や「魂」の段階の「完成」を意味し、宇宙論的に解釈すれば、この「形相の上昇」段階の進化の個的な先取りとなるでしょう。


6の「素材の上昇」は、1の「創造」の逆のプロセスで、例えば、「吸収」などと表現できます。

「体」の質料、「魂」の質料、「霊」の質料の「吸収」と進みます。
つまり、順に下位の質料が上位の質料に微細化、昇華、解消されます。
そして、最終的には、すべてが原初の絶対存在に「帰一」します。

ゾクチェンが「虹の身体」を作って、肉体を昇華・解消させるというのは、単なる肉体の放棄ではなく物質の消滅なので、宇宙論的に解釈すれば、この「素材の上昇」段階の進化の個的な先取りとなります。


<精神の進化>

上記したように、一般に言う「生命」や「認識」、「心」、「精神」などの活動は「形相」に属します。

神秘主義思想では、すべての物質に「精神」を見ます。
鉱物的な「精神(認識)」は暗く、広い、漠然としたものであり、植物、動物、人間と進化するにつれて、それは明るく、狭く、明瞭になります。

動物においては、形象的で、夢のようになります。
人間においては、概念的、対象的な、昼の覚醒した状態のようになります。
ですが、人間は、言語的な認識・行動であっても無意識でできます。

このように、「形相の下降」は、人間の物質界に対する「対象的」な認識に至り、そこで「形相の上昇」へと反転して、霊的・直観的な「合一」的認識に進みます。


<意識の進化>

上記したように、「意識」の働きは、純粋な「観察」、「自覚」です。
「認識」や「思考」などの「精神(心)」の働きに対する「気づき」なので、それを変容させることができます。

上記したように、3の「意識の下降」によって「体」の物質世界に生まれたばかりの「意識」は、「観察」、「意識化」できる範囲が少なく、意識できないものにコントロールされる部分が多くあります。
「意識」は、その範囲を広げることで成長します。

シュタイナーは、この「意識化」の拡張は、順に「覚醒(昼の意識)」、「夢」、「夢のない睡眠」、「昏睡状態」と進みます。
「意識化」を「魂」から「体」へと、より下位へと、下降させるのです。
つまり、下降した「意識」は、その働きである「意識化」を下降させます。

タントリズムにも類似した意識論があり、「覚醒/夢/睡眠」を「生/死後生(中有)/死の瞬間」に対応させて、それらの「意識化」を行います。
また、「昏睡」の代わりに「性的絶頂」を考えることもあります。

ちなみに、プロセス志向心理学では、「夢」や「睡眠」の働きは、「覚醒」している昼にも存在しているとしてその意識化を行いますし、「昏睡」状態に人間とのコミュニケーションも行います。

この意識化によって、下位存在を制御するだけではなく、それを創造的に、自由に活性化させることにもなります。

下位の存在の「意識化」は、下位存在を上位存在に反映することであって、一種の学習です。
これは、下位存在に内在した眠れる上位存在を、覚醒させ、上位のものに再変換することでもあります。

「意識の下降」は、「意識」の肉体や個的精神に対する同一化によって、「個体化」します。
ですが、次の「意識の上昇」では、その同一化を拡張・放棄して「脱個体化」していきます。


4の「意識の上昇」は、まず、「意識化」の拡張を、今後は上位へと行います。

上位領域を「意識化」することで、そこから創造性やインスピレーションを得ることがきるようになります。
神秘主義思想では、物質世界に降りた霊魂が、霊的世界を思い出すことと表現されます。

「意識」や「意識化」の上昇が行われる条件は、思想によって、下位存在の「意識化」であったり「制御」、「放棄」、「活性化」、「調和」、「完成」などであったり様々です。

シュタイナーは、「意識化」の「下降」と「上昇」は、同時に行われるものであると考えました。
つまり、「意識化の下降」に応じて「意識化の上昇」が可能になるのです。
これは、下位のものが上位のものに変容するように体験されます。
そのため、シュタイナーの思想では、上下の存在が対象的な性質を持っています。
これは、新プラトン主義のプロクロスと同じです。

また、密教でも同様に、「覚醒/夢/睡眠」の「意識化」が、仏の三身の獲得につながります。

ゴールデン・ドーンなどの魔術思想では、ある次元における全体的な働きを活性化させ、「調和」を達成することで、上の次元に上昇できると考えました。
タントリズム(密教)のマンダラ的行法においても、類似した考えがあります。

ゾクチェンでは、「意識」が自己自身の「自覚」を持った状態で、様々な「精神」の働きを「意識化」することで、それらの働きを浄化し、消滅させます。
これは、「精神(形相)」の働きをその都度に「完成」させることでしょう。

(2021-03-11)

posted by morfo1 at 13:59Comment(0)通論