瞑想修行法と実践

古今東西の神秘主義思想の瞑想修行法を中心にした実践について、簡単に分類して紹介します。


<瞑想法、夢見の技術の種類>

当ブログ主は、精神技術を大きく「瞑想」と「夢見」に分けて考えています。

簡単に定義すれば、「瞑想」は、心身を意識的にコントロールする精神技術です。

それに対して、「夢見」は、心身のイメージ的な働きを、自然になりゆかせる精神技術です。
「夢見」は夜に見る夢の見方のことだけではありません。


姉妹サイト「世界の瞑想法」では、瞑想法を大きく5つに分けて紹介しています。

「集中する瞑想」、「観察する瞑想」、「イメージする瞑想(観想)」、「気をコントロールする瞑想」、「あるがままの瞑想」です。

「集中する瞑想」は、何らかの対象に集中する瞑想で、仏教の「止(サマタ)」、「ヨガ・スートラ」の第6支以降の「ダラーナ/ディヤーナ/サマディ」などがこれに当たります。

「観察する瞑想」は、対象を正しく観察する瞑想で、仏教の「観(ヴィパッサナー)」、「ジュニャーナ・ヨガ」などがこれに当たります。
ギリシャ哲学のイデアを対象とする「観照(テオリア)」、カバラの数や文字を対象とする瞑想もこれに入れることができます。

「イメージする瞑想」は、イメージをありありと思い描く瞑想で、仏教などでは「観想」と呼ばれます。
密教の「生起次第」、仙道の「存思法」などがこれに当たります。

「気をコントロールする瞑想」は、密教の「究竟次第」、「ハタ・ヨガ」、仙道の「命功」などがこれに当たります。
西洋魔術やカバラでも使います。

「あるがままの瞑想」は、ゾクチェンがこれに当たりますが、ラマナ・マハルシの瞑想なども似ているかもしれません。
現れた心の働きを意識しますが、認識もコントロールも否定もせず、自由にし、最終的には消えるに任せます。

また、この4種とは別に、「気づき」、「完了」というテーマから、各種の瞑想法などを比較した記事も書いています。


また、姉妹サイト「夢見の技術」では、夢見の技術を大きく4つに分けて紹介しています。
「明晰夢」、「白昼明晰夢」、「ドリームワーク」、「演劇夢」です。
いずれも、夢見は、一定の方向性やテーマを設定して、後は心の夢的働きが自然に進行するに任せます。

「明晰夢」は、夜に見る夢を、夢であることを自覚しながら見る方法です。

「白昼明晰夢」は、昼に空想する白昼夢から意識的なコントロールをなくした方法です。
西洋魔術の「アストラル・プロジェクション」のように完全に夢に入り込む形と、「スクライング」のように動画を見るような形があります。
ですが、神秘主義では、見る内容にある種の客観性が求められます。

「ドリームワーク」は、心理療法の様々な方法で、「白昼明晰夢」の一種ですが、そのテーマ設定が自分の内面からの合図に従って行い自身を変えることなどが特徴です。
「フォーカシング」のように漠然とした感覚を対象にしたり、一瞬ふっと通り過ぎる感覚を対象にした「フラート・ワーク」など、様々な方法があります。

「演劇夢」は、数人で役割を分担して即興的に演劇を演じるように夢を実演する方法です。
本来の憑依的な宗教儀式や集団魔術、参入者にとっての秘儀宗教の体験はこれに近いものでしょう。


<現世肯定と現世否定>

神秘主義思想によって、その思想、方法論には大きく2種類のタイプ、傾向があります。
「現世肯定的」なものか、「現世否定的」なものかです。

「現世肯定的」な思想は、心身の活動を活性化し、伸ばし、完成させることを目指します。
一方、「現世否定的」な思想は、それらを抑制し、停止、消滅させることを目指します。
もちろん、様々な中間形態があります。

具体的には、グノーシス主義、マニ教、初期仏教や古典インド哲学などは(これらはどれも時代的に近いのですが)、「現世否定」的です。
一方、ゾクチェン、タンリズムやシャーマニズム系、魔術系思想は、「現世肯定」的です。


大まかに言って、神秘主義思想は、低いレベルの意識状態、肉体的な心身の働きを否定して、高いレベルの意識状態、精神的・霊的な状態を目指します。
あるいは、錯誤や執着、利己的な状態を否定して、それらのない状態を目指します。

その方法として、日常的な、低い、執着のある働きを停止、消滅させる場合と、それらを手がかりにして上昇していく場合があります。
前者は「現世否定的」な方法で、後者は「現世肯定的」な方法です。

これは非日常的な意識状態に上昇する方法の違いであり、その後の日常への戻り方によって、「現世否定的」な思想か「現世肯定的」な思想かの違いが生まれます。


<西方の3つの道>

プラトンからキリスト教神秘主義にかけての西洋系の神秘主義思想には、「3つの道」の系譜があります。
プラトンの「3つの道」を、中期プラトン主義者のアルビノスが継承して少し変更し、さらに、偽ディオニュシオスがそれをキリスト教化しました。

           (現世肯定的 ⇔ 現世否定的)
・プラトン     :愛の道 :弁証法の道:死の道
・アルビノス    :類比の道:上昇の道 :否定の道
・偽ディオニュシオス:象徴神学:肯定神学 :否定神学


プラトンの「3つの道」は、『饗宴篇』などで語られる「愛の道」、『国家篇』などで語られる「弁証法の道」、『ファイドン篇』などで語られる「死の道」です。

「愛の道」は、地上の具体的なもの、例えば、身体の美を見ることから始めて、最終的に美のイデアを認識する道です。

「弁証法の道」は、地上の具体的なものの中のイデアを見ることから始めて、最終的には「善のイデア」を認識する道です。
この2つの道は、具体から抽象へと至る道です。

「死の道」は、禁欲によって肉体性を否定して霊魂を浄化する方法で、オルペウス教団やピタゴラス教団から継承した道です。

後者ほど、現世否定的です。


アルビノスの「3つの道」は、「類比の道」、「上昇の道」、プラトンの『パルメニデス篇』に基づく「否定の道」で、プラトンの「3つの道」に似ています。

「類比の道」は、「太陽」や「光」といったイメージ、象徴を通して、高い存在を目指す道で、感性的なものを利用する点で「愛の道」に似ています。
新プラトン主義のイアンブリコスが傾倒したテウルギー(降神術・神働術)もこれに当たります。

「上昇の道」は、抽象性、普遍性の高い概念、例えば、「善」、「完全性」、「不動」などを瞑想しながら、より高い存在を目指す道です。

「否定の道」は、「善でもなく」、「無性質でもなく」…と否定表現を瞑想しながら、より高い存在を目指す道です。
否定を利用する点で「死の道」と似ています。


偽ディオニュシオスは「3つの道」は、「象徴神学」、「肯定神学」、「否定神学」の道です。

これらは、アルビノスの3つの道とほぼ同じですが、キリスト教的に有神論的に捉え直されます。
ですから、「肯定」される概念も、「否定」される概念も、象徴も、神の属性として考えられます。

「肯定神学」では、例えば、「存在」という属性に関して言えば、「存在するもの」、「存在そのもの」、「存在以前の存在」というように3段階で高めていくのが特徴です。
これは、具体から抽象、そして無形なものへ至る道です。


<東方の4つの道>

仏教やヒンドゥー教などのインド系の実践には4つの道があります。

インドでは、伝統的なバラモンの方法を「寂静の道(ニヴリッティ・マールガ・マールガ)」、密教的なタントリズムの方法を「増進の道(プラヴリッティ・マールガ)」と表現します。
前者は「現世否定的」で、後者は「現世肯定的」です。

また、ラマナ・マハルシは、自身の真我探求(アートマ・ヴィチャーラ)の方法を、「探求の道(ヴィチャーラ・マールガ)」と表現します。

チベットのニンマ派では、部派仏教(声聞乗)を「放棄の道」、大乗顕教(菩薩乗)を「浄化の道」、密教(金剛乗)を「変容の道」、密教のゾクチェンを(任運乗)を「自然解脱の道」と表現します。
後者ほど「現世肯定的」です。

この4つの分類は、インド思想に関する本質的な分類として、仏教にかぎらず適応でき、大まかには時代の進展にも対応します。

 (時代)  (道)   (ヒンドゥー系)  (ヨガ)    (仏教系)
・紀元前 :放棄・寂静の道:バラモン哲学 :ラージャ・ヨガ:部派仏教
・紀元前後:浄化の道   :ヒンドゥー教 :バクティ・ヨガ:大乗顕教
・中世  :変容・増進の道:タントリズム :ハタ・ヨガ  :密教
・中世後期:自然・探求の道:ヴィチャーラ :ニサルガ・ヨガ:ゾクチェン

「放棄の道」、「寂静の道」は、心身の働きを否定的に捉えて抑制し、最終的にその止滅を目指す道です。
バラモン系では、古典的なサーンキヤ派、ヴェーダーンタ派、古典ヨガ派はこれに当たります。
ヨガではラージャ・ヨガが典型的で、仏教の瞑想法では部派仏教的な止観です。

「浄化の道」は、神仏に帰依し、その姿を観想するなどして、自身を浄化する道です。
タントリズムではないヒンドゥー系がこれに当たり、ヨガではバクティ・ヨガが典型的です。

「変容の道」、「増進の道」は、欲望やイメージ、言語の働きを単に否定せず、神仏の次元のそれに変えていく道です。
タントリズムがこれに当たり、ヨガではハタ・ヨガ、密教の瞑想法は二次第(生起次第、究竟次第)として体系化されています。

「自然解脱の道」、「探求の道」は、根源的な意識の自覚を保った状態を保持し続ける道です。
心身の現れに対しては、自然に任せることで、それらが働きを完遂し、消滅するままにする道です。
ヒンドゥー系では、ラマナ・マハルシやナート派系列のニサルガダッタ・マハラジ、仏教系ではゾクチェンやマハームドラー、南宋禅や修験道の一部がこれに当たるのではないでしょうか。
ヨガや瞑想法では、マハラジの言うニサルガ・ヨガやゾクチェンのテクチューが典型的です。


<密教、魔術、カバラの方法>

密教や西洋魔術が行うような魔術的な方法論は、世界的にほぼ共通します。

西方の「3つの道」で当てはめれば「類比の道」、「象徴神学」、東方の「4つの道」に当てはめれば「変容の道」、「増進の道」に当たるでしょう。

これらの実践には、霊的な成長のための修行という側面と、イニシエーション的側面と、除災・増益的な具体的な実利の実現に関わる側面があります。

ユダヤ系神秘主義のカバラは、多様な瞑想を行い、西洋魔術に影響を与えましたが、実利的な実践はほとんど行いません。

道教の場合は、瞑想的な修行法も実利的な魔術もありますが、同じ一つの実践体系を共有していないように思えます。


修行、実利のどちらの実践においても、象徴体系が方法論の基盤となります。
つまり、象徴を心の中に根付かせる修行が基本であり、それを前提として、象徴を利用した実利的実践を行います。

象徴体系は、マクロコスモとミクロコスモス、霊的世界と自然と人間の照応の原理であり、各種の操作の鍵となるものです。
密教の場合は、経典ごとのマンダラが、西洋魔術やカバラの場合は生命の樹(セフィロート)などが、それを表現します。

具体的な行法は、密教では身体、聴覚、視覚に当たる「身口意(身語心)」の「三密」として3つに分類され、これらを組み合わせて象徴を操作します。
「身」は手印、あるいは、坐法、「口」はマントラ、「意」は観想です。
「気のコントロール」や「行為」を「三密」とは別に数えることもあります。

西洋魔術でも、これらに対応するもの(合図、呪文・神名、視覚化など)があります。


修行的な実践において、象徴を根付かせるための方法は、象徴の意味と照応する諸物の瞑想です。
「イメージする瞑想」や「白昼明晰夢」の夢見(アストラル・プロジェクション、パス・ワーキングなど)が中心ですが、「集中」や「観察」の瞑想も必要です。

修行的な実践においては、密教では「空」である諸仏との一体化(自己想起)、西洋魔術では守護霊との一体化が目標となります。

密教では、仏を観想する場合、最後は意図的な操作を捨てます。
「イメージする瞑想」から「白昼明晰夢」に移行すると言っても間違いではないでしょう。

ですが、仏教の基本は「観察する瞑想」なので、これを同時に行って「空」の認識を得る必要があります。

実利的の実践においても、上記の同様の方法による象徴の操作が基本となります。
これによって、内面に対しては意識状態を変容させたり、無意識に司令を送ったりします。
外面に対しては、霊的存在を呼び出し(勧請・喚起)たりします。
また、アストラル光や気をコントロールする技術も必須となります。


<有形と無形、対象化と一体化>

瞑想で集中する、あるいは、認識する場合に、「有形」のものを対象とする場合と、「無形」のものを対象とする場合があります。

「有形」なものには、概念的なものと、イメージ的なものがあります。
「無形」なものは、それらがない、それら以外の場合ですが、「無形」なものがある場合と、何もない場合があります。

また、「有形」のものでも「無形」のものでも、それを「対象化」するだけではなく、「一体化(あるいは、継続的な一点集中)」する場合もあります。


ギリシャ哲学の「テオリア」は、イデアという「有形」なものを対象とします。
ですが、新プラトン主義のプロティノスの語る「一者」は、その先に顕現する「無形」なものであり、最終的にはそれと「一体化」することになります。


古典ヨガの経典「ヨガ・スートラ」では、第6・7支の「ダラーナ/ディヤーナ」で「有形」なものを対象化しながら、第8支の「サマディ」でそれと一体化します。
さらにその後、「有形」なものと一体化する「有想三昧」から、「無形」なものと一体化する「無想三昧」に進めますが、後者は「無形」なものというより、何もない状態に至ります。

ラマナ・マハルシやマハラジ、クリシュナムルティといった現代のインドの聖者達は、古典ヨガが行う「集中する瞑想」を否定します。
「有形」であれ「無形」であれ、対象を持つ瞑想を否定し、純粋な主体を見出そうとしたり、一切の方法や思考を否定します。
前二者は、あえて言えば、「あるがままの瞑想」に近いでしょう。


部派仏教の「集中する瞑想(止、サマタ)」では、まず、「有形」な具体的な事物を対象にし、次に抽象的な内的対象(取相)に移し、それを純化していき(似相)、それと一体化します。
次に、「無形」な対象、対象のない瞑想に至ります(四無色界定)。
「観察する瞑想(観、ヴィパッサナー)」では、「有形」、「無形」の両方の無常性などを対象にして、最終的に、「無形」の涅槃を対象にします。

大乗では、「無形」なもの(空、空虚)に集中、認識、一体化する瞑想を重視しますが、最終的には、それと「有形」なもの(無概念な等引智と概念的な後得智)との一体化を目指します。

密教でも、「有形」なものを観想する「有相瑜伽」と、「無形」なもの(空)を認識する「無相瑜伽」を行います。
そして、「有形」なものを「無形」なものに溶け込ませたり、そこから生み出したりし、最終的に両者を同時に行う「深明不二」に至ります。

ゾクチェンでは、純粋な主体である「無形」なものを自覚したまま、様々な「有形」なものがそこから現れては、そこに消えていくことを観察します。


道教、仙道では、神の姿などを瞑想する「存思」が「有形」な瞑想、タオと一体化する「守一(抱一、坐忘)」が「無形」な瞑想です。


キリスト教の教父哲学の神秘体験は、「魂(花嫁)」が「ロゴス・キリスト(花婿)」を受け入れる(結婚)と表現されますが、これは「有形」なものと「有形」なものの関係です。
ちなみに、教父哲学では、神は認識できないとして、それを「神の闇」とも表現しますが、これは「無形」なものを対象にできないということでしょう。

それに対して、アビラのテレサや十字架のヨハネは、言葉もイメージもない「無形」の「黙想(今テンプテーション)」を行って、「無形」なる神との「結合」(合一と表現すれば異端になるので)を体験します。

また、エックハルトの神秘体験は、「父」として「ロゴス(子)」を生むと表現されますが、これは「無形」なものから「有形」なものが生み出される体験でしょう。

(2021-03-24)

「ゾーストリアノス」と「マルサネース」


一般にグノーシス主義は神話の比重が高いのですが、ナグ・ハマディ文書に含まれる「ゾーストリアノス」、「マルサネース」は、他のグノーシス主義の文書に比べて、神秘哲学的傾向が高い内容を持っていると言われています。
「ゾーストリアノス」は、プロティノスの論駁対象だった文書です。

この両文書は、セツ派系列の文書とされますが、他とは異なる宇宙論(階層論)を持っています。
両文書の階層論は類似していて、「ゾーストリアノス」は11階層、「マルサネース」は13階層からなります。

ただ、両文書とも破損が多く、判読できない部分が多くあります。


<ゾーストリアノス>

「ゾーストリアノス」は、セツ派の文書で、アレキサンドリアで書かれたのではないかと推測されています。
ゾーストリアノスはゾロアスター(ゾーロアストロス)の曾孫に当たるとされる人物で、彼に仮託されているのでしょう。

新プラトン主義を大成したプロティノスが、「グノーシス派に対して」で論駁した対象は、この書であろうと推測されます。
正確に言うと、ナグ・ハマディ版以前のキリスト教化される前のヴァージョンです。

この文書の主役ゾーストリアノスは、「永遠の光の認識(グノーシス)」をもたらす天使に連れられて、天界の諸天を上昇していきます。
各階層には多数の天使がいて、各階層を通り抜ける際に、その都度、多数の洗礼を受けます。
そして、複数の天使から啓示を受けます。

彼は、天使に洗礼を受けた時、「天使の一人になった」と何度も表現しています。
また、「私は形を受け取った。そして、私は私の表現を超えた光を受け取った。私は聖なる霊を受け取った。私は真に存在するようになった」とも書かれています。

つまり、彼は、単に天界上昇をしたり、ヴィジョンを見たり、啓示を受けるだけではなく、明確に神秘的体験を行ったと語っています。


この文書は、宇宙論として、次のように、11の階層を数え、さらに細かく別れます。

11:見えざる霊:一者、三重の力を持つ者
10:バルベーロー(大いなる流出?)のアイオーン
9 :カリュプトス(隠された者)のアイオーン
8 :プロートファネース(最初に現れた者)のアイオーン
7 :三重の男児のアイオーン
6 :アウトゲネース(自ら生じた者)のアイオーン:ソフィア
5 :メタノイア(回心):6階層
4 :パロイケーシス(滞在)
3 :アンテイテユポス(対型)のアイオーン:7階層(惑星天)
2 :空気の大地:造物神の住居
1 :地上:13層構造

「ゾーストリアノス」は、他のグノーシス主義とはかなり異なる宇宙論(階層論)、パンテオンを持っています。

7惑星天までは下から第3階層までで収まります。
そして、「デミウルゴス」は最上天球ではなく、空中にいます。

第4・5階層は「中間世界」、第6階層以上は「プレローマ」に当たるでしょう。
ゾーストリアノスは、最終的に「プロートファネース」のアイオーンまで上昇して、戻ります。

各階層に多数いる天使達はほとんど知られていない名ですが、第6層の「ソフィア」が例外です。


至高存在の「見えざる霊」は、「存在/至福/生命」という「三重の力を持つ者」とされます。
「見えざる霊」は、分割不可能な「一者(ヘナス)」であると同時に、3でもあり、「3つ似像」としてやってくる者です。

「存在」は、それによって「一」であるものであり、それは「観念の観念」です。
「至福」は、それによって「認識」が備わります。
「生命」は、それよって生きることができるものであり、それは「実体」を持たない「存在」の働きです。

また、それぞれには「水」があって、それぞれ「神性/認識/生命力」の水です。

セツ派の他の文書でも「3つの力」については、その内容にゆらぎはあっても語られます。

「3」や「3倍」はグノーシス主義ではよく語られます。
それは、ヘルメス文書の「ヘルメス・トリスメギス(3倍偉大なヘルメス)」や、プラトン主義の「トリアス(三性)」の「存在/叡智/生命」とも平行しています。


第10階層の「バルベーロー」は、「見えざる霊」についての「認識(カタノエーシス)」であり、「見えざる霊」を見ることによって、自分を「見えざる霊」の働きであると知ります。

ですが、「見えざる霊」は「把握できない」存在なので、「バルベーロー」は彼の「似像(エイコーン)」、「模像(エイドーロン)」は持てません。
また、「バルベーロー」は、「見えざる霊」対する 「妬み」と「無知」から下方へ傾きます。


ゾーストリアノスの上昇は、2人のアイオーンによって「プロートファネース」のもとにまで連れて行かれることで頂点を向かえます。
その時、3者は一体となっていて、ゾーストリアノスはそれらすべてと結ばれました。

ゾーストリアノスは、啓示を受けた後、地上に戻り、「セト」の子孫に対して宣教を開始しました。


「ゾーストリアノス」では、宇宙は、「ソフィア」が下方を眺めた結果で生まれます。
ですが、これを「ソフィア」の「過失」とは語られません。
物質世界も一義的に「悪」とは見なされません。
また、惑星的存在にも「アルコーン(支配者)」ではなく「アイオーン(永遠なる者)」という言葉を使います。

ですから、「ゾーストリアノス」には反宇宙論的側面が少なく、グノーシス主義から離れつつあります。


<マルサネース>

「マルサネース」は、セツ派の一派を思われるアルコンタイ派の文書です。

「マルサネース」は、文書の構造においても、その階層論においても、「ゾーストリアノス」と類似しています。
「マルサネース」では、全部で13の封印(洗礼)が語られ、それに対応した13の階層が存在します。

「ゾーストリアノス」との大きな違いは、「見えざる霊」を3階層に分けて2階層が増えていることです。

この一番根源的な上の階層が、「いまだかつて知られざる沈黙者」、あるいは「識別されたことのない者達の発端」とされます。
次が、「見えざる者」です。
最後が、「三重の力を持つ者」です。

また、「バルベーロー」を、「本質/認識/エネルゲイア」という3つの力を持つ者とします。

他の特徴としては、字母論(神秘主義的文字論)や、数論(神秘主義的数論)を述べている点です。

字母論では、7母音を魂の7区分と対応させたり、12宮と有声、無声などを対応させたり、「ヌース」を母音、感覚を半母音、身体を子音に対応させています。

数論では、1から10までの数の象徴的意味を語っています。

「ヨハネのアポクリュフォン」


「ヨハネのアポクリュフォン」は、ナグ・ハマディ文書の中に3つのヴァージョンが含まれる中期のグノーシス主義の文書です。

一般に「セツ派」の文書と分類されますが、エイレナイオスが報告する「バルベーロー派」の神話ともそっくりです。
ヘレニズム化し、キリスト教的要素を取り込んだユダヤ人が著者ではないかと推測されます。

この文書の神話は、救済者である「キリスト」の霊がヨハネに語った啓示です。
ですが、「キリスト」や「フォーステール」の役割は非常に小さく、救済に関わる行為は「見えざる霊」や「ソフィア」、「プロノイア」などが行います。
ですから、キリスト教の要素は途中で付け加えられたものと推測されます。

また、原初的存在からの最初の流出を、自己を客体化・形象化する「認識(思考)」として、次の流出を原初的存在の「認識」と「承認」として描いている点が興味深いものです。
ですが、この認識や思考は、合理的、理性的なものではなく、直観的なものでしょう。


<流出と堕落>

最初に「見えざる霊(万物の父、記述しがたきもの、純粋な光…)」が存在します。

この「父」が自分を取り巻く光の水の中に自分自身の像を認識すると、彼の「エンノイア(思考)」が「プロノイア(摂理)」として彼の前に現れました。
これは、「バルベーロー(大いなる流出?)」であり、「万物に先立つ力」、「光の似像」、「第一の人間」、「処女の霊」です。

「ヨハネのアポクリュフォン」が、原初存在を「見えない」、「記述できない」と否定的に表現する点で、中期プラトン主義のアルビノス的な否定神学の影響が推測されます。

また、流出を、自己を客体化・表象化する「認識(思考)」として描いています。
ここにもプラトン主義の「ヌース」に関する考え方の影響があるのでしょう。

一般に、グノーシス主義では至高存在を「第一の人間」、「処女の霊」と表現しますが、「ヨハネのアポクリュフォン」では、「バルベーロー」に対してこの表現を使います。
この「見えざる霊」と「バルベーロー」は、男性的原理と女性的原理でもありますが、同時に両性具有だとされます。

また、「プロノイア(摂理)」は3種類語られます。
「バルベーロー」としての「プロノイア」以外に、後ででてきますがアイオーンの中の下位の一つとしての「プロノイア」、アルコーンの配下の「プロノイア」です。
これは、中期プラトン主義が3種類の「プロノイア」(恒星天/惑星天/地上)を区別することの影響でしょう。
ただし、完全に同じ意味での対応ではありません。


次に、「バルベーロー」が「見えざる霊」に求め、承認されることで、「プログノーシス(第一の認識)」、「アフタルシア(不滅性)」、「アイオーニア・ゾーエー(永遠の生命)」が与えられました。
ヴァージョンによっては「アレーテイア(真理)」もこれに加えられます。
これらは、女性的原理であり、また、両性具有です。

これらが、「アイオーン(永遠なるもの)」の「5個組」と呼ばれます。
つまり、「プロノイア/バルベーロー/プログノーシス/アフタルシア/アイオーニア・ゾーエー」、もしくは、「プロノイア」の代わりに「アレーテイア」が数えられます。

次に、「バルベーロー」は「見えざる霊」を見つけると光の飛沫として、「モノゲネース(独り子)」、あるいは、「アウトゲネース(自ら生まれたもの)」を生みます。
「見えざる霊」はこれに塗油すると、完全なものになって「キリスト(塗油されたもの)」になりました。

つまり、父・母・子が「光」、「光の似像」、「光の飛沫」とも表現されています。


次に、「キリスト」が「見えざる霊」に求め、承認されることで、「ヌース(叡智)」、「テレーマ(意志)」、「ロゴス(言葉)」が与えられました。
これらは、男性的原理であり、また、両性具有です。

これらは、次のような4組のカップルを形成します。

・プログノーシス(第一の認識)    /モノゲネース(独り子)
・アフタルシア(不滅性)       /ヌース(叡智)
・アイオーニア・ゾーエー(永遠の生命)/テレーマ(意志)
・アレーテイア(真理)        /ロゴス(言葉)

次に、「キリスト」と「アフタルシア」から4つの大いなる光である「フォーステール(光輝くもの)」が、そして、そのそれぞれから3つの存在で、合計12のアイオーンが生まれました。
ここには、「エピノイア(配慮)」、「アダム(完全なる真の人間)」、「知恵(ソフィア)」などが含まれます。

4つの「フォーステール」は、セツ派が考えた4つの時代区分(アダム期、セツ期、原セツ派期、現セツ派期)に対応しているようです。


<ソフィアの過失と世界創造>

そして、最後のアイオーンである「ソフィア」は、自分も認識による似像を作りたいと欲しました。
ですが、カップルの相手を持たず、「見えざる霊」にも「バルベーロー」にも「承認」を得ていませんでした。

このように、「ヨハネのアポクリュフォン」では、「認識」が「承認」と「対性」が結び付けられています。


そして、そのため、「ソフィア」のこの情欲は、「ソフィア」の似像にならず、醜い蛇とライオンの姿になったため、プレローマに外に投げ捨てました。
そして、「ヤルダバオト(無知蒙昧なる神)」と名付け、これが「第一のアルコーン(支配者)」になりました。

そして、「ヤルダバオト」は、12人の天使(オグドアス)、天の7人の王、地下の5人の王など、最終的に365の天使(アルコーン)、そして、宇宙を作りました。

そして、アイオーンの諸存在を知らない「ヤルダバオト」は、「私はねたむ神である。私の他に神はない」と言いました。

これは、旧約でヤーヴェが語る言葉とほぼ同じで、旧約を強烈に揶揄しています。


そして、「ソフィア」は、「ヤルダバオト」の行為を見て後悔しました。
それで、「見えざる霊」は彼女を承認して、彼女に「霊(生命の霊)」を注ぎ、彼女のカップルの相手が「欠乏」を回復させました。
ですが、彼女はプレローマにまでは戻されず、その下の恒星天(第8天)との間の第9天という中間世界に留まりました。


<人間と救済>

そして、アイオーンから「人間(見えざる霊)と人間の子(独り子)」がいるという声が「ソフィア」のところに届きました。
これは「ヤルダバオト」の思いあがりを否定するもので、「ヤルダバオト」もそれを聞きました。

そして、「見えざる霊」が証拠として自分の像を現しましたが、「ヤルダバオト」はそれの下方の水面に移った下側の像だけを見ました。
そして、「ヤルダバオト」とアルコーン達は、その像を真似て、人間「アダム」の魂の体を作りました。
ですが、「アダム」は動けませんでした。

「下方の水面に写った像」というテーマは、ヘルメス文書の「ポイマンドレース」にも見られます。

そして、「ソフィア」は自分がアルコーンに与えた「力」を取り戻したいと考えました。
そして、「アウトゲネース(自ら生まれたもの)」、つまり、「キリスト」と4つの光「フォーステール」を送り、アルコーンに「アダム」へ息(霊)を吹き込むように言いました。
これによって「アダム」は動けるようになりました。

ですが、「アダム」はアルコーンよりも賢かったので、アルコーン達はうらやましく思い、物質世界の底に引きずり降ろしました。
「父」がこれを憐れんで「光のエピノイア(配慮)」あるいは「ゾーエー(生命)」を送り、彼女(それ)は「アダム」の中に隠れました。

そして、「ヤルダバオト」は、「楽園」に「アダム」を閉じ込めました。
「生命の木」はアルコーン達の「模倣の霊」であり、死の実がなりました。

「ソフィア」由来の「霊」、「力」と、「父」由来の「光のエピノイア」や「生命」は、ほぼ同じ存在のようです。
そして、それに対立するのが、「アルコーン」由来の「模倣の霊」です。
この「模倣の霊」という存在を語る点が、「ヨハネのアポクリュフォン」の特徴です。

また、「エピノイア」は「プロノイア」の働きという側面がありますが、「プロノイア」という言葉は「先の思考」という意味、一方、「エピノイア」という言葉は「後からの思考」という意味なので、この対照的から「エピノイア」が使われています。


そして、「ヤルダバオト」は、「アダム」から「力」を取り戻そうとして、「アダム」から知覚を奪いました。
ですが、「光のエピノイア」は、「アダム」の中に隠れました。

それで、「ヤルダバオト」は、彼女を「アダム」の肋骨から取り出そうとしましたが、彼女は逃げました。
それで、彼女を捕まえるために、今後は、彼女の姿をした「女(イブ)」を作りました。

すると、「光のエピノイア」がその中に入りました。
ですが、彼女は、鷲の姿で「アダム」に「善悪を知る木の実」によって「グノーシス」を与えました。
そして、彼は自分の本質であるその母「ソフィア」を知りました。
そのため、「ヤルダバオト」は「アダム」を楽園から追放し、彼らを闇で覆いました。

また、「ヤルダバオト」は「イブ」の中に「光のエピノイア」を見つけたので、彼女を犯しました。
ですが、「プロノイア」がこれを先に察知して、「イブ」から「光のエピノイア」を抜き出していました。
「イブ」から「ヤーヴェ」と「エロイム」が生まれ、これが「カイン」と「アベル」になりました。
彼らには「光のエピノイア(生命の霊)」が欠けていて、代わりに「ヤルダバオト」に由来する「模倣の霊」、つまり、偽の霊が与えられていました。

そして、「ヤルダバオト」は、「アダム」その他の人間に生殖の欲望を与えました。
そのため、「カイン」と「アベル」の子孫の人間にも「模倣の霊」が与えられています。

一方、「アダム」は、息子の「セツ」を生みました。
すると、「プロノイア」が、彼女の「霊(生命の霊)」を自分に似た女の姿で「セツ」の中の「種子(眠れる霊)」のもとに送りました。
これは、アイオーンから「霊」が到来する時の準備のためです。

ですが、「ヤルダバオト」は、「セツ」の子孫に忘却の水を飲ませました。

その後、「ヤルダバオト」は洪水をもたらしましたが、「光のエピノイア」がノアにこれを伝えたので、ノアの子孫だけが助かりました。
そのため、「ヤルダバオト」は、アルコーンの天使達を人間の娘たちのもとに送って子孫を生じさせました。

このように、アイオーンの存在と「ヤルダバオト」は、「光(力・霊・生命)」の奪い合いを行いました。
そして、アダム、セツ、ノアの子孫にはアイオーンに由来する「光のエピノイア」がありますが、カイン、アベル、洪水後のアルコーンと交わって生まれた人間の子孫には「模倣の霊」しかありません。

そして、到来する「プロノイア」の啓示を受け取り、「模倣の霊」に惑わされずに、「生命の霊」に目覚めた人間は、「ソフィア」を形作ることができます。
そして、アルコーンの元に引き上げられ、プレローマは完全な状態になります。