釈迦の思想と「スッタ・ニパータ4-5章」


経典類以外に、釈迦(ゴータマ・シッダールタ)に関する客観的な歴史的記録はなく、釈迦伝のほとんどは、後世に作られた伝説の類であると推測されます。

また、釈迦の思想が記されたのは、釈迦没後数百年たってからですので、それが釈迦その人の思想から、どれくらい変化しているかを分かりません。
ですが、最古層の記録と思われる経典の内容と、その後の変化から推測することはできます。

このページでは、最古層経典と推測される「スッタ・ニパータ4-5章」の思想と、若干のその後の変化について紹介します。


<釈迦の思想と経典>

初期経典(原始仏典)の内容は、釈迦没後すぐに500人の阿羅漢の確認のもとで成立したことになっています。
しかし、これは教団の教説を権威付けるために都合のよい内容ですし、それが事実であるという証拠はありません。

事実だとしても、経典が最初に記されたのは、釈迦没後数百年たってからです。
この間に内容が大きく変わった可能性があります。

その後も、その時代その時代に経典は再編集されたり創作されたりし続けました。
上座部のパーリ経典は、ほぼ5世紀に形が決まりますが、それ以降もまったく書き換えられなかったわけではありません。

原始仏典でも各経典で説かれる内容は異なります。
教団は、これを対機説法のためだと説明しますが、実際には、各教典の成立時期や成立過程が異なることが原因でしょう。

ですから、釈迦の思想を確定的に知ることはできません。
もちろん、釈迦の思想にも、非整合性や時代による変化があって当然です。
それがない、釈迦の思想は知りうる、と言うのは、信仰の立場です。

ですが、文献学的な経典研究によって、最古層の経典のみを先入観なしに読むことで、釈迦の思想に近いものを知ることができると推測できます。

また、その後の仏教思想の変化と逆方向に遡ることで、釈迦の思想を予想することができます。


<スッタ・ニパータ4-5章>

最古層の経典は、韻文経典で、韻律の古さ、引用関係の古さなどから、南伝の原始仏典の小部収録の「スッタ・ニパータ(集経)」に、第4章として収められている「八つの詩句(義足経)」と、第5章として修められている「彼岸に至る道」だと推測されます。
(異説もありますが。)

これらの原典は、釈迦存命時に、弟子が布教時に使った口承経典である可能性もあるようです。
これらの経典は、弟子たちが、樹木の下や洞窟、死体置き場などに寝て、遊行していた、まだサンガとして定住していない頃の思想を反映しています。

韻文ということもあり、韻律に合わせるため、パッチワーク的に構成されたものであり、ジャイナ教などの経典と共通する句もあります。
当時の沙門の多くは、思想を共有している部分があり、広く知られる句を共有して、それらを組み合わせて詩句が作られました。

それでも、これらの経典は、かなり一貫した思想を表現しています。
これらの経典の思想には、後の仏教思想とは根本的に異なる部分があります。


例えば、「教義」、「戒律」、「儀式」などでは悟れないとして、それらを否定しています。
まだ、「教義」も「戒律」も「儀式」もなかったのでしょう。

特に、教義を持たず、論争しないようにと何度も言っています。
また、形而上学的な思考を拒否する姿勢を示しています。

また、初期仏教の基本概念とされる「無常」、「無我」、「縁起」、「輪廻」などの言葉すら出てきません。

例えば、「縁起」については、その思想的な芽生えを見つけることはできますが、いかにして「苦」が生じるかではなく、いかにして「論争」が生じるか、という文脈で分析されます。
このように、教義に執着して論争することを避けることを重視しています。

「法」に関しては、「諸法について執着であると確知すべきである」と何度も語られます。
この言葉は、「私は、これは真実であるとは説かない」、「それゆえに、諸々の論争は超越されたのだ」といった言葉と一緒に説かれます。

ですから「法に執着しないように」という主張は、実体の実在性うんぬんではなく、教義を持つな、論争をするな(他者の教義を否定するな)という文脈で語られます。

「~」が本当の仏説だ、といった論争をしている人が今もたくさんいますが、釈迦の姿勢とは正反対のものでしょう。


また、「再生」に執着するなとは語っても、「輪廻」という言葉は出てこず、転生が存在するとも存在しないとも語りません。

「涅槃」は、あくまでも現世での目標として説いています。
それは、心身の消滅ではなく、煩悩の消滅です。

「欲望の流れを滅する」ということを、比喩的に「激流を渡る」と表現し、同じ意味で「生老死を越える」と表現します。

少なくとも、「輪廻」というテーマについて、説法においてほとんど関心を持っていなかった、と言えるでしょう。


具体的な修行法に関しては書かれていませんが、「常に気をつけているように」と何度も語られます。
「渇愛の滅尽を昼夜に観察しなさい」とも語られます。

「表象作用」や「識別作用」を否定することが繰り返し語られますので、言葉やイメージの対象が存在しないことを認識し、それらに執着しないよう、常に自覚して、放逸を避けるように、ということでしょう。

これは、時間を取って瞑想を行うということではなく、日常の中での常に注意を怠らないようにすべきであるということです。
後に「正念・正知」と呼ばれる行に近いものでしょう。

ですから、上座部のヴィパッサナー瞑想(観)のような、アビダルマ論に基づいた法の識別は説かなかったでしょう。
むしろ、「世を空(スニャータ)であると観察しなさい」と語られます。

釈迦は、概念やイメージのない状態を重視しますので、この点では、当サイトの定義では神秘主義思想となります。


<仏教の成立>

先に書いたように、経典類以外に、釈迦(ゴータマ・シッダールタ)に関する客観的な歴史的記録はなく、仏伝のほとんどは、後世に作られた伝説の類であろうと想像されます。

釈迦の名前の「シッダータ」は「成就」の意味ですので、本名であるかは疑がわれます。
母の名の「マーヤー」は「無明」、息子の名の「ラーフラ」は悪魔の名ですので、これらは事実とは考えにくく、教義的な解釈から後に名付けられたものでしょう。

また、釈迦は王子だったとされます。
ですが、シャカ族の国は、国と言っても実際は、王国ではなく部族共同体だったと推測されます。
ですから、釈迦は、族長の息子だったかもしれませんが、王子ではなかったでしょう。

文化人類学者のピエール・クラストルは、部族社会が「国家に抗する社会」という側面を持っていると言います。
実際、釈迦の思想には、「国家に抗する」思想、つまり、「一」なるものである、権力の一点集中や同一性(実体的思想)を否定する思想があったと言って間違いではないでしょう。


釈迦の死後に、仏教の教義や修行法が徐々に体系化され、それと平行して、修道伝承や成道伝承、説法伝承などの仏伝が創作・再解釈されていったと考えられます。

釈迦死後の思想上の最大の変化の一つは、当時の常識だった転生としての「輪廻」からの解脱を説くようになったことでしょう。

また、釈迦が徐々に神格化されていきました。

釈迦が亡くなった後の状態を完全な涅槃である「無余依涅槃」とし、現世で到達した「有余依涅槃」と区別するようになりました。
前者は、死後存在への関心・理想化であって、釈迦が説かなかったものです。

また、「スッタ・ニパータ」では、釈迦の弟子であっても、悟った人物に対しては「ブッダ」という言葉を使っていました。
ですが、後には、「ブッダ」が釈迦だけを指す言葉になり、悟った弟子に関しては「阿羅漢」と呼び分けをするようになりました。

同時に、釈迦は、他の弟子とは違って、他者を救うという性質が強調されるようになりました。


主要参考文献
・並川孝儀の諸著作
・「スッタ・ニパータ」の翻訳は正田大観の著作

現代物理・現代数学と神秘主義思想のアナロジー2


量子論、量子重力理論、絶対数学などを扱った「現代物理・現代数学と神秘主義思想のアナロジー1」から続くページです。

このページでは、現代物理の宇宙論、現代数学の圏論、諸学の統一と、神秘主義思想の類似性について、思いつくままに書きます。


<宇宙論:始まりと終わり>

現代物理の宇宙論では、宇宙が膨張していることを前提として、宇宙の始まりと終わりに関して多数のモデルが提案されています。
それぞれは、伝統的な宗教・神秘主義の宇宙論と似たところがあります。

ホーキングらの量子宇宙論(無境界仮説)は、「虚時間」から宇宙が生まれたと考えます。
これは、「無」としか表現できないもの、あるいは、「無限時間神(ズルワン)」から宇宙が生まれたという神秘主義思想の宇宙論と似ています。

また、超弦理論の宇宙論では、その原初の虚時空間で、「弦」が回転しながら振動していたと考えますが、これは原初の深淵の海で泳ぐ蛇、という神話のイメージと似ています。

宇宙の終わりについては諸説がありますが、もとの状態にまで収縮する「ビッグクランチ説」は、神秘主義的な宇宙論が説く原初的存在への「帰還」に似ています。

収縮の後、再爆発(ビッグバウンス)を繰り返すとする「サイクリック宇宙論」は、量子重力理論でも提唱されていますが、これは、カルデア系の周期的宇宙論に似ています。

ただ、エントロピーの増大という一方向的な時間が貫いているので、同じことの繰り返しではありません。
超弦理論では、膨張が繰り返される度にその大きさが膨れていき、やがて収縮しなくなるというモデルも提案されています。
これは宇宙が周期ごとに物質次元へと下降する近代神智学の宇宙論と似ています。


<宇宙論:相転移>

ジョージ・ガモフらによって提唱された「ビッグバン説(火の玉宇宙論)」(1984)や、その前段階としてアラン・グース、佐藤勝彦、アンドレイ・リンデらによって提唱された「インフレーション宇宙論」(1980-82)などの膨張宇宙論は、何段階にもわたる物質の「相転移」の歴史を語ります。

「相転移」というのは、例えば、気体が温度(エネルギー)を失うことで、液体になり、固体になるように、物質の状態が変わることです。

これは、神秘主義思想、例えば、新プラトン主義的な「流出論(発出論)」などが語ってきた、多層的な宇宙が創造されるプロセスと似ています。


オリエント・ヨーロッパの宇宙論では、最も階層が低い地上(月下界)は「四大元素」で出来ていて、その上の天球世界は「アイテール」で出来ているとしました。

四大元素の「風」、「水」、「土」は、現代の物理・化学で言えば、気体、液体、固体に当たるでしょう。
そして、「火」は分子の組成が変わる化学変化の状態、「アイテール」は分子が陽イオンと電子に別れたプラズマの状態です。

神秘主義思想は、天球世界より上位の世界の階層についても語りますが、現代宇宙論でも、宇宙の始まりに遡るに従って、エネルギーの高い状態の物質の多数の段階の「相転移」を語ります。

まず、素粒子の状態が、「レプトン/反レプトン」状態と、その前の「ハドロン/反ハドロン」状態。
さらにその前の、クォークの状態である「クォーク・グルーオン・プラズマ」状態。
その前の、4つの基本的な力(電磁気力、弱い相互作用、強い相互作用、重力)が順次統一されていく状態が、「統一力(電弱力)」の状態、その前の「大統一力(電核力)」の状態、その前で最初の「超大統一力」の状態です。


宇宙が指数関数的に膨張する「インフレーション」は、「大統一力」の状態になった後に起こりました。
これが始まる時点では、通常の意味での物質はまだ存在せず、「インフレーション」は「真空エネルギー」によって起こりました(この時の温度は絶対零度です)。

「インフレーション」が終わった後に物質が生まれて、「真空エネルギー」が物質の熱のエネルギーに変換され、いわゆる「火の玉宇宙」の膨張が始まりました。

この宇宙創造が、物質以前の真空エネルギーから物質に至ることは、神秘主義の宇宙創造論で、霊的世界が創造されてから物質世界が創造されたとすることに似ています。
あるいは、無形の質料の創造の後で、それが形相を獲得することに似ています。

また、我々の宇宙の長い歴史の中で、真空の場のエネルギーは不変ですが、物質の熱エネルギーは減少し続けます。
現在の時間は、ちょうど物質エネルギー密度が真空エネルギー密度を下回った時期に当たります。
つまり、主要なエネルギーが、物質から真空へと反転したところなのです。

これは、近代神智学の宇宙論的時間論において、現在がちょうど下降から上昇への折り返しを越えた時点に当たると考えることと似ています。


<善と悪:光と重力>

このテーマでは、さらに強引なアナロジーで考えます。

人を地に貼りつかせる「重力」や、変化を拒む「慣性」は、「束縛」や「不自由」の象徴となりますが、伝統的な世界観では、これらは「悪」の原理です。
ただ、神秘主義思想では、「悪」を「絶対悪」ではなく、条件によってそういう側面を持つという「相対悪」として捉えることが多いのですが。

一方、「光」は、神的、天使的なもの、自由やエネルギーの象徴であり、「善」の原理です。
光は、物理的にも、質量を持たないので直接「重力」の影響を受けず、宇宙最高速で移動し、また、物質から放射されてそのエネルギーを示します。

現代物理の宇宙論では、「重力」は4つの力が未分化だった超大統一力から最初に分離した力です。
そして、その後すぐに、ヒッグズ場によって「慣性」や「質量」が生まれて、物質が「重力」の影響を受けるようになりました。
一方、「光」は「重力」と分かれた大統一力から生まれます。

この最初の力の分離は、原初神から善神(天使)と悪神(堕天使)が別れた神話を思い起こさせます。


また、エントロピック重力理論(エリック・ヴァーリンデ、2010)は、「重力」を「エントロピー」的な現象であると考えます。
物体の位置に関する情報量の変化によって生じるエントロピー的な力なのです。
この理論には批判もありますが、他の研究でも「重力」と「エントロピー」の関連が指示されています。

「エントロピー」とは「乱雑さ」であり、その増大が「熱死」と表現されるように、「死」の原理であり、伝統的価値観では一種の「悪」の原理です。

全体として「エントロピー」が増大することで、局所系の「エントロピー」が減少して構造や生命が生まれるので、「必要悪」のようなものかもしれませんが。

とは言え、同じ「悪」の原理である「重力」と「エントロピー」が、現代物理でも結びつけられるのは不思議です。


<ホログラフィック原理とアカシック・レコード>

フアン・マルダセナの「ホログラフィック原理(ゲージ重力対応、1997)」によれば、ある次元の時空の重力を含む理論が、その一次元低い時空の重力を含まない場の理論と等価(双対)であるとされます。
具体的には、ある3次元空間の物理は、それを取り囲む境界面の重力をふくまない物理と等価なのです。

宇宙の場合は、宇宙のはてである事象的地平面に宇宙内のすべての情報があるということです。

ミトラ教から神智学や人智学に継承された考え方よれば、宇宙の外殻(天球面)にその宇宙の歴史のすべてが記録されています。
これは「アカシック・レコード」と呼ばれる領域で、アストラルライトの形態の世界と形態を超えた世界の境界にあるとされます。

「アカシック・レコード」は過去の情報、ホログラフィー理論では現在の情報ですが、どちらも宇宙を取り囲む平面に全情報があるとする点で、不思議に共通します。


<現代数学とカバラの抽象性>

現代数学は、経験的世界や実証性から離れ、抽象的世界の中で、自由に創造されるものとなりました。
現代数学は、理論の抽象化、一般化を進めることで伝統的数学を包括しますが、この抽象化のはてに、数も量も図形もなくなる世界に至っています。

ほとんど経験世界と無関係に抽象的に創造された数学理論が、後に物理学で使われることがあります。

例えば、非ユークリッド幾何学は、一般相対性理論の定式化に使われました。
虚数はデカルトが実在性を否定して名付けた数ですが、シュレディンガー方程式に使われました。

フォン・ノイマンは、ヒルベルトの無限次元空間を拡張し、量子力学をこの無限次元複素ヒルベルト空間で定式化(1932)しました。
ノイマンは、抽象的な数学空間の中で、粒子性と波動性、ハイゼンベルグの無限行列方程式とシュレディンガーの2階微分方程式を統合したと言えます。


大まかに言って、近代合理主義、近代科学はギリシャ、ヨーロッパ的な思考の枠組みで作られています。
ですが、現代数学、現代物理の多くの創造はユダヤ人によって行われました。
そこには、おそらくユダヤ思想の特徴が反映されているでしょう。

現代数学の抽象性は、ユダヤ神秘主義のカバラの抽象性と似ています。

カバラでは、セフィロートや数、アルファベットを表象として高度に抽象化された意味を、組み合わせたり、入れ替えたり、数値化して計算したりします。
諸象徴を統合して作られたセフィロート体系の構造は、非常に抽象的なもので、経験世界にあるものではなく、経験世界からの一次的な抽象でも生まれません。
ですが、どのような経験世界の事項、事項の関係をも説明することもできますし、魔術を介して経験世界で実理化することもできます。

現代数学は、カントールの無限論(無限に階層があることも論証しました)以来の「無限」の可能性を展開する中で生まれました。
カバラも、「アイン」、「アイン・ソフ」、「アイン・ソフ・オール」という「無限」の階層を前提として展開されます。

これらの特徴の多くは、カバラに固有なものではなく、例えば、密教のマンダラ的体系にもありますが、西洋においてその特徴を最もよく持っていたのはカバラでしょう。


<圏論と諸学の統合>

神智学、哲学、自然科学、数学などの諸分野がそれぞれに分離したのは、ルネサンスより後の時代で、それ以前は、諸学の大統一が当たり前でした。

神智学の大統一は、様々な時代、場所で試みられてきました。
中世インドの「カーラチャクラ・タントラ」や、近代のブラヴァツキー夫人の神智学、ニュー・エイジ時代のケン・ウィルバーの「インテグラル理論」などがそうでしょう。
これらは、それなりに諸学の大統一理論を目指して言いました。

現代数学、現代物理からも、諸学の大統一の動きが生まれています。


量子力学は、古典力学を包括する一般理論であることから、ミクロを対象としていない領域でも、量子力学を取り入れた一般化が研究されています。

「量子認知科学」は、量子論的な数理モデルを用いて心理学などの実験結果を説明します。
人間には、古典的な合理性とは異なる種類の、量子論的な合理性があると考えられています。

他にも、確率変数の値があらかじめ確定していない「量子確率論」、主語と述語がエンタングルメントする(量子のように絡み合う)ことを表現する「量子言語学」などがあります。


また、物理学で理論の大統一が目指されているように、数学でも数学の諸分野の大統一を目指す「ラングランズ・プログラム」が研究されています。
これは物理学の大統一とも関連しています。

一方、数学の諸分野の統一を下から、つまり、数学基礎論として支えているのが「圏論」の発展です。
圏論は、集合論に変わって数学諸分野を基礎づけるだけではなく、科学や哲学などの諸学の基礎論として、諸学を大統一する理論になりつつあります。
上記した諸学の量子化でも圏論が利用されます。

圏論は、量子力学の公理化を行っていて「圏論的量子力学」と呼ばれます。
これは、情報物理学の一形態です。

統一理論の一つでもある「量子情報理論」は、量子情報が宇宙を構成する最も基本的な要素と考えます。
そして、宇宙の物理プロセスを量子コンピュータの量子計算と同じものとみなします。
これは、宇宙を知性と考える神秘主義哲学の考え方と似ています。


圏論は、異なる領域の数学ごと、異なる科学ごとに多元的な圏を扱います。
集合論と違って、圏論は最初から本質的に「マルチバース(多宇宙)」的です。

これは、物理学においては、超弦理論が、多数の異なる物理法則を持った宇宙が存在していると考えるマルチバース説と似ています。
宇宙のインフレーションで発生している無数の泡宇宙のそれぞれで、物理法則(方程式の解)が異なるのではないかと考えるのです(ランドスケープ理論)。

また、これは、チベット仏教の多体系主義とも似ています。
インド密教では、異なるマンダラ宇宙を説く様々な体系の経典が作られ、最後に「カーラチャクラ・タントラ」がすべての諸体系を統一した一つの体系を作りました。
ですが、チベット仏教の各宗派は、諸体系をそれぞれに認めて多体系的統合を行いました。
つまり、チベット仏教は、マルチバース的です。


<圏論の思想>

圏論は、集合論やブルバキ流構造主義とは異なり、実体を前提とせず、世界を出来事の連鎖として捉え、関係の構造のみを扱います。
ですから、哲学的には非実体主義、関係主義、プロセス(出来事)主義の思想です。

その意味では、仏教的な「空」と「縁起」の世界観、特に「空」と「有」と「仮」を対等に見てその関係を扱う天台教学の考え方と似ています。


抽象性の高い数学や論理学は、諸学で使われる共通の学です。
圏論は、「数学の数学」と表現されることもあり、諸学基礎論となるのは、圏論が思考の構造を抽象する、いわば「思考の思考」だからでしょう。

これは、シュタイナーが言う思考自身を対象とした「純粋思考」に似ています。


圏論の基本要素は、「点(対象)」とそれらをつなぐ「矢印(射)」です。
これは、物理学で、ループ量子重力理論が、宇宙の根源を「点(ノード)」と「線(リンク)」で考えることと似ています。
また、「表象(概念、イメージ)」と「連想」からなる思考の基本的な働きとも似ています。

圏論は、圏と圏との間の関係も扱います。
圏がアナロジーを扱うとしたら、これは「アナロジーのアナロジー」であるとも言われます。

圏論では、圏と圏の間の射を「関手」、関手と関手の間の射を「自然変換」と呼びます。
圏論では、圏や射を対象として「高次元圏」をいくらでも考えることができます。
高次元圏論は、より抽象的、一般的で、下位を基礎づけるものとなりえます。
また、高次の圏の概念は、意識の問題に関わるかもしれないと言う人もいます。

圏論の階層性は、神秘主義の万物が照応する象徴体系的宇宙論における階層性と似ています。
象徴体系的宇宙論は、諸領域の知識体系(圏)の事物(対象)の間の照応(射)を語ります。

諸体系(例えば、地上の金属の体系、人間の身体部位の体系、天球の惑星の体系、セフィロートのような観念の体系、神仏のパンテオン的体系など)の間には階層の違いがあって、下位の諸体系の関係は、上位の体系内、体系間の関係の結果とされます。
最上位の根源的な象徴体系は、諸体系間の「アナロジーのアナロジー」を働かせるものであり、それ自身は地上に存在しない、抽象的存在そのものです。

(試論)

現代物理・現代数学と神秘主義思想のアナロジー1


このページでは、現代物理の様々な理論、宇宙論、及び、一部の現代数学と、「永遠の哲学」とも称される神秘主義思想の世界観との類似性をテーマとして、思いつくままにいくつかの事項を扱います。

例えば、両者の間には、古典的な論理の基本法則が否定される、物質的現象の背後が語られる、波動を根源的存在とする、多数の階層性が語られる、非局所的な関係性が語られる、抽象的な関係を扱って諸学を統合する、などの類似性が見られます。

ただ、このページで扱っているのは、あくまでも素朴に感じる大まかな類似性です。
ですが、類似性が生まれる理由を考えれば、両者の成り立ちの枠組に類似性があることを、あげることができるかもしれません。

それは、どれもが非日常的な世界(現代物理なら超ミクロ、超高温、超重力、宇宙的スケール…、現代数学なら経験世界から遠い抽象的世界、神秘主義なら変性意識が体験する世界)の認識によって、日常的世界の認識を拡張して包括するものである、ということです。


このページでは、現代物理の量子力学、量子場理論、量子重力理論、ホログラフィック原理、絶対数学などを扱います。

そして、宇宙論、圏論、諸学の統一を扱う「現代物理・現代数学と神秘主義思想のアナロジー2」に続きます。


<相補性:波動かつ粒子>

古典的な論理の基本には、「同一律」(AはAである)、「矛盾律」(Aは非Aではない)、「排中律」(Aか非Aかのどちらかである)の3つの法則があります。
ですが、神秘主義思想では、これらを否定する論理を使う場合があります。

例えば、大乗仏教の論理であるナーガルジュナのテトラレンマ(四句否定)は、「Aでない」かつ「非Aでない」かつ「Aかつ非Aではない」かつ「Aでもなく非Aでもない、でもない」です。

プロティノス、華厳経には、すべての部分が他を映すという思想がありますが、これは「Aは非Aである」、「A(部分)は全体である」という論理です。

量子力学でも、3つの基本律や分配律をはみ出た論理が使われます。


古典力学では、「粒子性」と「波動性」は、物質の運動における最も基本的な対立概念です。

ですが、アインシュタインは、光量子仮説(1905)で、それまで波動だと思われていた光に、粒子として側面があることを提唱しました。
その後、ド・ブロイは、波動方程式とともに「物質波」(1924)という概念を提案し、光以外の物質も「粒子」と「波動」の両方の性質を持つことを示しました。

ニール・ボーアはこれを、古典力学の矛盾する2つの概念が合い補う「相補性」(1927)として解釈しました。
一方、ヴェルナー・ハイゼンベルグは、古典力学の表現はもはや使えず、どちらでも表現できるという意味で「二重性」として解釈しました。

どちらにせよ、これは「Aであり非Aである」ということになり、古典論理学の基本律が否定されます。


また、ハイゼンベルグは、素粒子の「位置」と「運動量」の(正準共役な)2つの物理量を同時に“測定する”ことはできない(誤差の積が下限を持つ)という「不確定性原理」(1927)を発見しました。
彼は、物質存在そのものについて物理学は語れないと考えて、「不確定性原理」を認識論的に考えました。
この、観測結果以前の物質については語れないというハイゼンベルグの「行列力学」の考え方は、「量子力学」の標準的な考え方になりました。

一方、ボーアは、「不確定性原理」を、2つの物理量が同時に確定した“値を持つ”ことはない、という実在に関する原理として存在論的に考えました。

そして、ボーアは、この2つの(正準共役な)物理量の関係も「相補的」であるとしました。
観測の仕方が、どちらの物理量が実在であるかを決めるのですが、これは「様相解釈(文脈解釈)」と呼ばれます。

「不確定性原理」においても、古典的な実在観、論理は成り立ちません。

そのため、量子力学に対応した形式論理である「量子論理学」や、量子力学に対応した実在観とそれを数学的に表現する「量子集合論」が生まれました。

「量子論理学」は、基本3律は守っていますが、分配律が成り立たない無限多値論理です。
「量子集合論」は、物理量を「量子集合論」の実数に対応させ、観測の文脈に依存せずに定義できるようにしました。


量子力学の世界観・物質観は、西洋近代の合理的なそれでは理解できないため、ボーアもハイゼンベルグも、タオイズムなどの東洋思想の世界観に注目していました。

ボーアは「相補性」を表すシンボルとしてタオ・マークを使っていましたし、「我々は仏陀や老子がかつて(2600年以上も前に)直面した認識論的問題に立ち返り…」と語っています。

ハイゼンベルクは、「過去数十年の間に、日本の物理学者たちが物理学全体の発展に大きく貢献してくることができたのは、東洋哲学(仏教や老荘思想)と量子力学が、根本的に似ているからだと思う」と語っています。
湯川秀樹が老荘思想に傾倒していたことも知られています。

後述するシュレディンガーも、ヴェーダーンタ哲学に傾倒し、「西洋科学には東洋思想の輸血が必要である」と語りました。


<波動関数:粒子と場>

エルヴィン・シュレディンガーがド・ブロイの波動方程式を発展させた「シュレディンガー方程式」(1926)は、量子力学の最も中心となる方程式の一つです。
これは、物質の位置や運動量に変わって「波動関数」の時間変化を表現するもので、物質を粒子ではなく完全に「波動」として表現しています。

そして、マックス・ボルンが、この方程式の波動の絶対値の2乗が表現しているのは、ある状態にあった粒子がその後にどこに移動している可能性があるかを示す量(確率振幅・遷移振幅)であるという「確率解釈」を提唱しました(1926)。

シュレディンガーは、波動関数の波動を、実在する波であると考えていたのですが、ボルンは実在しない計算上のものと考えて、これが標準的な考え方になりました。

ですが、光子を二重スリットを通して干渉パターンを作る実験から、1つの光子が複数の経路を同時に通るにもかかわらず、観測するとそれが一つになることが分かっています。

ですから、「波動関数」の表現する「確率」は、単に、未来に観測される遷移の確率を示すのではなく、従来の存在概念に収まらない存在の仕方そのものを示しているはずです。
観測前の物質は、どこかに「ある」でも「ない」でもなく、粒子という観点から見れば「確率」で表現されるような形で同時に様々な場所に広がって存在しているのです。
ですが、観測するとどこかに局所化されます。

つまり、「量子力学」の考える物質(量子)には2つの状態があります。

一つは、「波動関数」とシュレディンガーの方程式が表現する、観測以前の物質の状態です。
これは、非局所的、連続的、因果的な状態で、多数の確率の波動の「重ね合わせ」(コヒーレント、スーパーポジション)の状態です。
つまり、AかつBかつ…という可能なすべてが同時に起こっていて、互いに影響を与えあっている状態です。

もう一つは、観測(マクロな系との相互作用)によって物理量が一つに確定し、数えられる離散的な粒子になった状態です。
つまり、AまたはBまたは…のいずれかの一つだけが偶然に確定した状態です。
正統派であるコペンハーゲン解釈は、これを観測によって「波動関数」の確率波が非因果的(偶然)に「収束」したと解釈します。
この過程についても、語れません。


この2つの状態は、神秘主義思想が語る、霊的・原因的世界と物質世界との関係と似ています。
例えば、近代神智学の言葉で説明すると、アストラル界やメンタル界には、相反するような多様な思念形態が実在し、物質界に直接的に影響を及ぼしますが、少なくとも物質世界から見れば、どれがどのように現実化するかは偶然的です。

また、仏教の法界と現象界の関係にも似ています。
仏が見る真実は、「縁起」の世界、つまり、一つの必然的な因果関係ではなく、多数の偶然的な相互関係によって成り立つ、「重ね合わせ」に似た世界です。
そして、それは、「有」でも「無」でもない「空」の世界ですが、凡夫の日常では「有」もしくは「無」の世界になります。


<統一場理論:波動としての場>

ポール・ディラックが、電磁場を量子化した(1927)ことが「量子場理論(場の量子論)」の始まりです。
量子場理論は、古典力学では別の実在だった「場(空間の性質)」と「粒子」を、「量子場」として統合しました。
波動関数が表現するのは、「場」の値になりました。

量子場理論では、「場」は、多数の確率の波動が重なってその値が変化する存在です。
「素粒子」は「場」の励起した状態で、確率波の振動が定常化した正弦波になって、局所的な波束と見なせるようになった存在です。
また、物質が存在しない真空状態でも、「場」は一定のエネルギーを持っていて、あらゆる振動数を持つ電磁波が重なり合って存在します。

量子場理論では、場の状態を表現する波動関数としての波と、場の状態が伝わっていく波の2種類の波が存在します。

このように、量子場理論は、存在を波動的な「場」の一元論にしました。


量子場に電磁力以外の3つの力を統一するのが「統一場理論」です。
弱い相互作用を統一したのが「電弱統一理論」、さらに、強い相互作用も大統一するのが「量子色力学」、さらに、重力も超大統一するのが「量子重力理論」です。
(現在では、基本的な4つの力以外にも多数の力が存在すると予想されています。)

量子重力理論の一つである「超弦理論」は、物質の最小構成要素を、従来のように0次元の「点粒子」ではなく、1次元の「弦(ひも)」の振動であると考えます。
もちろん、これらは確率的に広がった存在です。

そして、「素粒子」の違いとして見えているものは、「弦」の振動の違いになります。
「弦」は、単に振動するだけではなく、回転、伸縮、開閉、分割・合体といった運動をします。

また、超弦理論は、時空を10次元、あるいは、11次元で考えるので、4次元時空に存在する「弦」は、内部に余剰次元を持ち、その次元でも振動していて、それが素粒子に多様性の原因となります。

つまり、超弦理論では、存在は、高次元における様々な「弦」の振動なのです。


以上のような現代物理の波動的世界観は、例えば、インドのタントリズム(密教)のそれと似ています。

タントリズムでは、宇宙(霊的世界や物質世界)は周波数の異なる波動(マントラ)でできていて、ヤントラやマンダラの階層はこれを表現します。

日常的な言語は周波数の低い波動であり、マントラの言語はより高い周波数の波動です。
もちろん、これは音声としての空気の波動ではなく、意味の次元の話です。
実践的にも、マントラは音声として発話するレベルと、発話されないレベルがあります。

これは、物理学で、海の波や音のように物質を媒体とする波と、電磁波のような場の波、さらには、波動関数が表現するような確率の波や、超弦理論の剰余次元の波など、波動にも様々な違いがあることと似ています。

また、粒子的現象の世界を生み出す「場」は、密教的な「空」に似ています。
つまり、仏教で言えば、粒子的世界観を残す量子力学の矛盾的な表現は顕教的ですが、波動的な量子場理論は密教的です。


<絶対数学と根>

黒川信重の提唱している「絶対数学」は、量子場理論に適合する新しい数学となる可能性があります。
また、「絶対数学」は、神秘主義思想の考え方とも似ています。

「絶対数学」は、環や群より基本的で、演算を積だけにした「モノイド(単圏)」の数学であり、中でも最も単純な「一元体(1だけの体)」上の数学です。

黒川は、「絶対数学」の「数(絶対数)」は「根」(一元体が根に当たる)を持つ数であり、従来の数学はこの「根」を見逃してきたと書いています。
これは、量子場理論が、古典力学が見逃してきた、「粒子」の「根」である「場」を扱っていることと似ています。

また、「絶対数学」の「点(絶対点)」は広がりを持っていて、これは量子が広がりを持っていることと似ています。
黒川は、「絶対空間論」が量子重力理論の空間を記述する可能性に期待しています。

また、黒川は、「絶対点」がライプニッツの「モナド」に当たるとも書いています。 
中沢新一は、「絶対数学」の数論が、中国華厳宗の法蔵が「華厳五教章」で論じた数論と似たものであると書いています。
「絶対数」や「絶対点」は、華厳教学の理事無碍的な「一」に近いということです。


<量子もつれと縁起>

量子論では、量子同士が相互作用することで「量子もつれ(エンタングルメント)」が生まれると考えます。
もつれた量子同士は、遠距離にあっても、一方が観測などによって確率波が収束して物理量が確定すると、即座にもう一方もそれに対応して物理量が確定します。

「量子もつれ」は、局所性が厳密には成立せず、距離の離れた存在が時間を越えてつながっていることを意味します。

また、量子重力理論によれば、「量子もつれ」が「空間」を創発します。
宇宙は「量子もつれ」によって出来ていて、「量子もつれ」はエントロピーと同様、時間とともに増大し続けます。

「量子もつれ」は、無時間的な相互関係なので、仏教的に表現すれば「縁起」です。
また、神秘主義思想が宇宙全体を一つの生命としてみなすように、宇宙は自身の結びつきを深めていきます。


*宇宙論、圏論、諸学の統一を扱う「現代物理・現代数学と神秘主義思想のアナロジー2」に続きます。